負い目  2001/01/28

「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント12:7-9)

本日はコリント人への手紙第二12章を学びました。上の聖句は、私が昔からとても好きだった御言葉です。けれども、今回のメッセージの準備で、自分がこの御言葉を避けるように動いていたことも分かりました。私はこの個所から、クリスチャンとしての霊的資質について二つのことを学びました。

1.天にある栄光、あるいはイエス・キリストの栄光をしっかりと見ている人が、みことばをしっかりと説き明かすことができ、キリストとの歩みを堅固にすることができる。
2.と同時に、キリスト者は、キリストの十字架と復活の道を歩むように、神によって低められる、ということです。

私は、聖書の学びをとおして、とっても変えられました。聖書は霊的な書物であり、ご聖霊がみことばを明らかにしてくださることにより、神の栄光、ご計画、その御働きを知ることができました。ペテロが言うところの、「言葉に言い尽くせぬ喜び」とは、まさにこの事であると私は思いました。みことばには、天における栄光、すなわちイエス・キリストご自身の栄光が、はっきりと示されています。この栄光を信仰によって見るときに、勇気が与えられ、困難も忍ぶ力が与えられ、聖霊と、喜びと平和に満たされます。

ところが、この栄光を見るというのは、自動的に、自分の身を低くしていくという道を歩むことになります。私たちはキリストに結ばれた者です。キリストが御父のふところにおられるところから、肉の姿を取り、へりくだられて、死に至るまで従順であられたように、私たちの人生にも、それぞれに、キリストの死とよみがえりにあやかる道を備えられます。ですから、神は、私たちを絶えず、下へ下へと押し込まれる人生を歩むようにされます。

この部分において、私は避けるようにしていたことに気づきました。私は、聖書の啓示に感動して、それに呼応するように、自分の思いの中で、身勝手なサクセス・ストーリーを作っています(これをパウロが「高ぶり」と呼んでいます)。けれども、その物語をぶち壊すような「とげ」が、いろいろな形で与えられました。あるときには、自分自身の罪の結果であったり、またある時には、「この人さえいてくれなければ、自分の人生計画はうまくいくのに。」と思われるような、煙ったい人だったりします。だから、三度どころか何回も、「取り去ってください」と主にお願いします。けれども、取り去られません。かわりに、自分が弱くされて、弱くされた結果見えてくる、神の恵みがありました。成功していたら見えなかったであろう神の真実が見えました。

弱いのは避けたいです。けれども、イエスさまは、私を愛する愛から、あえてへりくださせる道を与えてくださっているのだと思います。


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