アウトライン
1A 喜びへの働きかけ 1−11
1B パウロの決心 1−2
2B 愛の確認 3−11
1C 悲しみの手紙 3−7
2C 勧め 8−11
2A 勝利に連なる者 12−17
1B トロアスでの不安 12−13
2B 閉ざされない福音の戸 14−17
本文
コリント人への手紙第二2章を開いてください。コリント第二2章のテーマは、「悲しみの中で」です。
私たちは前回の学びで、コリント人への手紙第二は「奉仕者の心」というテーマが貫かれていることを学びました。コリントの教会には、いろいろな問題がありました。そこでパウロは、その問題に対処するために、第一の手紙を書きました。彼は分裂について取り扱いました。また教会の中の不品行、偶像礼拝を行なっている者たち、主の晩餐における無秩序、御霊の賜物の乱用、そして復活はないという偽りの教えについても取り扱いました。これらの問題を取り扱ったとき、パウロの語調はとても強くなっていました。パウロは彼らを叱責していたのです。けれども、その手紙には、コリントにいる人々のことをキリストにあって愛していたので、そのような手紙を出したのです。そこで第二の手紙には、パウロが第一の手紙を出したわけと、コリント人たちに対する慰めのことばが書かれています。第一の手紙によって、コリントの教会には悲しみが満ちていました。けれども、この第二の手紙によって、彼らとの間に喜びを取り戻したかったのです。
1A 喜びへの働きかけ 1−11
1B パウロの決心 1−2
そこで次のように書かれています。1節です。そこで私は、あなたがたを悲しませることになるような訪問は二度とくり返すまいと決心したのです。もし私があなたがたを悲しませているのなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょうか。
パウロがここで話している「私が悲しませているその人」とは、コリント人への手紙第一に登場する、近親相姦を犯していた兄弟のことです。コリント書第一の5章で、パウロは、父の妻を妻にしている者がいることが、知れ渡っていると言いました。それを恥ずかしいことと思うどころか、誇り高ぶっているではないですか、と言っています。そしてパウロは、この罪を教会から取り除きなさい、その悪い人を信者たちの交わりから引き離しなさい、と言ったのです。そのパウロの厳しい処置に、コリントの人たちが従ったようです。そして、実際にこの兄弟を交わりからはずしました。そのときに、大きな悲しみが教会の中に入ってきたのです。最も悲しんでいるのは、罪を犯していた本人です。彼は、あまりにもの悲しみでつぶされそうになっていました。そこでパウロは今、この悲しみから立ち上がって、喜びの中に導き入れたいと願っているのです。
2B 愛の確認 3−11
そしてパウロは、自分が第一の手紙を書いた意図を彼らに弁明しています。
1C 悲しみの手紙 3−7
あのような手紙を書いたのは、私が行くときには、私に喜びを与えてくれるはずの人たちから悲しみを与えられたくないからでした。それは、私の喜びがあなたがたすべての喜びであることを、あなたがたすべてについて確信しているからです。
パウロが願っていたのは、第一の手紙によってコリントにいる人たちが罪を悲しんで、悔い改め、そして究極的には本当の喜びを手に入れて欲しいと願ったからでした。罪をそのままにすることによって、たとえ笑いがあってもそれは表面的なものです。教会に罪があれば、その礼拝に心が入らなくなり、口先だけの形式的な礼拝になります。罪を取り除かなければいけません。しかし、それはとても辛い作業です。からだに出来た腫瘍を取り除くとき、もちろん古代であれば麻酔はありませんから、激痛が走ります。そしてその痛みは容易におさまるものではありません。しかし、それを通らずして、真の喜びはありません。罪を悲しんで、悔い改め、そして神のあわれみにすがるとき、神は私たちを愛をもって受け入れ、「あなたの罪は赦されました。あなたは罪からきよめられました。」とおっしゃってくださいます。ダビデが、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人。(詩篇32:1-2)」と言ったように、神の赦しによって、はじめて私たちに解放と喜びが湧き出てくるのです。ですから、パウロが書いた第一の手紙は、究極的にはコリントにいる人たちが喜びを自分たちのものにしてほしい、という意図があったのです。
私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。
第一の手紙は、その文面だけを見たら、パウロは怒っているように見えます。けれども、パウロは怒っていませんでした。涙でくしゃくしゃになっていた顔で、悲しみながら、手紙を筆記してもらっていたのです。手紙というのは、その人の口調までを聞き取ることができないので、意思伝達をすることが難しいことがありますね。同じように、私たちは、神さまが自分に対して怒っているように感じるときがあります。神さまのことばを読むときに、神は怒っており、自分に罰を与える方であるかのように読むときがあります。例えば、創世記3章において、罪を犯したアダムを探して、神は、「あなたは、どこにいるのか。」と言われました。そのとき、怒っている神を思い浮かべてしまうのですが、涙を流している心痛める父のような叫びだったのではないでしょうか。パウロも、自分があのような手紙を書いたのは、涙がぼろぼろ出て、鼻水も垂れているようなところで書いたのですよ、ということを伝えているのです。
もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度・・というのは言い過ぎにならないためですが、・・あなたがた全部を悲しませたのです。
罪を犯した人がいたときに、それは牧会者であるパウロの問題だけではなく、教会全体の問題であったおパウロは話しています。一部が苦しめばからだ全体が苦しむ、とパウロは以前言いましたが、今、罪を犯している人がいるとき、それはあなたがた全部を悲しませたことになるのですよ、と言っているのです。そしてパウロは、罪を犯した本人についてのアドバイスを与えます。
その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
この罪を犯した人は、交わりからはずされてしまいました。ものすごい罪意識に苛(さいな)まされ、押しつぶされてしまいそうになっているかもしれない。そうなる前に彼を受け入れて、慰めて、抱擁して、交わりの中に入れて、彼の回復を祝おうではないですか、と言っているのです。
2C 勧め 8−11
そしてパウロはコリントにいる人たちに、指示を出します。そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。私が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。
コリントの中にいる一部の人々によって、パウロの信用は引き落とされました。そこで以前のように、牧会者としてコリント人たちに接することができないのかもしれない、と思いました。そこで彼は、コリントの人たちがまだ自分の命じることに従ってくれるかを確認したかったのです。「その悪い人を、あなたがたのうちから取り除きなさい。」とパウロが言ったとき、彼らが従ってくれるか、それとも彼らがパウロから離れてしまうかの選択がありました。コリントの人たちは、従ってくれました。
もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。
キリストの御前で赦す、というのは、神がパウロに、神の権威をゆだねられたからです。イエスさまが使徒たちに言われました。「あまたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたのだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。(ヨハネ20:23)」奉仕者というのは、このような存在です。例えば、私のところにだれかが自分の罪を言い表しに来た人がいるとします。私がヨハネの第一の手紙1章9節を示して、「罪を言い表したら、神は真実で正しい方だから、あなたの罪を赦して、すべての不義からきよめてくださいます。」というみことばを読ませます。そして、神さまに罪の告白の祈りをするとします。そうしたら、私には権威があるのです。神の言われたことに従って、「あなたの罪は赦されました。」と宣言する権威があるのです。その人のうちにはなんら、力とか権威というものはありません。しかし、その人を用いることを神がお定めになっており、その人を通してご自分が働かれることを決めておられるのです。今、みなさんが私のメッセージを聞いて、「なんて、小生意気な若造だ。」とは思われていないと思います。それは、神がこの者をお用いになって、私ではなく神が何を語っておられるのかを、みなさんが聞こうとしているからなのです。しかし、それはメッセージのときだけではありません。ミニストリー全体において、神の器を通して、自分が神にどのように従わなければいけないかを考えていきます。パウロは、コリントの人たちのために、キリストの御前で赦しました。
そしてパウロは、この罪の出来事について、こうまとめます。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。
罪のために悲しむことは大切なことであり、必要なことです。しかしそのときに、悲しみから悔い改めへ、悔い改めから罪の赦しへ向かわなければ、その悲しい感情を利用して、サタンはその人の信仰をだいなしにしようとします。「お前は、神なんかに赦されるわけがない。お前は捨てられた者だ。」などの囁きが大きくなり、教会に決して戻れなくなり、信仰さえも捨ててしまう可能性があるからです。ですから、サタンの策略の中にはいらないように、今、その罪を犯した人を受け入れて、赦し、そして迎え入れなさい、と命じているのです。
2A 勝利に連なる者 12−17
こうしてパウロは、この悲しみの中で彼らに喜びをもたらすように手助けしました。そこでパウロは次に、コリントの人たちがどのように第一の手紙を受け取るのか、気がきでならなかったその不安な状態を分かち合います。
1B トロアスでの不安 12−13
私が、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いてくださいましたが、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。
パウロは、エペソからトロアスへと向かいました。小アジヤの北東にある町で、マケドニヤ地方の隣にある町です。そこでテトスを待っていましたが、彼はついに来ませんでした。自分は続けて、このトロアスの町で福音を宣べ伝えて、実際に福音を聞き入れる人々、反対する人々が現われていました。けれども、パウロの心はしおれており、不安と焦燥感でいっぱいになっており、コリントの教会の問題のことが自分にのしかかっていたのです。彼はテトスが来なかったことでがっくりしてしまい、そのままマケドニヤに行ったのです。パウロが、このような精神的状態でいたことは、ある意味で私たちの慰めになります。なぜなら、私たちもこのような落ち込み、不安、混乱を経験するからです。私たちは、そのような状態になっているクリスチャンを見て、「元気だしなよ。主にあって感謝しよう。」と答えてしまいがちです。その答えは正しいのですが、タイミングが間違っています。その元気は、落ち込んでいる人自身が、聖霊に導びかれ、その人自身が主に目を向ける必要があるからです。時間が必要なのです。私たちは、自動販売機にコインを入れて、すぐにジュースの缶が出てくるような考えを持つ傾向があります。しかし、現実には、主との交わり、主とともに時間を過ごす、この時間が必要であり、それで初めて主に目を向ける余裕ができるようになるのです。
2B 閉ざされない福音の戸 14−17
そこで次をご覧ください。しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
パウロは、「しかし」ということばから始めています。対比です。トロアスにいたときは、心が弱くなっており、不安でした。しかし、神に感謝します、と言っています。それは、トロアスにおいて、自分が弱くなっていても主が福音の門を開いていてくださったのです。そのことを考えて、パウロは、主にある勝利者であるとの自覚を取り戻します。ここに勝利の行列に加えられる、とあります。これは、ローマがよく戦争で敵に打ち勝ち、ローマの町を凱旋して歩いていた行列のことを指しています。凱旋するときに、自分たちが征服した民を引き連れて、勝利を自国の人々に披露するのです。そのときに、香をたいて、そのかおりを放ちながら行進するのですが、そのためパウロは、「キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」と言っています。
ところで、この行進において、パウロはキリストを何にたとえて、自分を何にたとえているのでしょうか?キリストがこの戦いの勝利者として例え、自分はキリストに降伏して、捕えられた捕虜としてたとえているのです。キリストの勝利の行列に加えられているのですが、ともに勝利を祝う同士としてではなく、敗北して、捕虜となった者として加えられているのです。パウロは、自分をキリストに降伏した者、キリストに明け渡した者として描いています。降参したのですから、それは惨めなように思えますが、実は、勝利の行列の中に加えられているように、キリストの勝利を自分も見ていくことができる、という特権にあずかっているのです。これが、クリスチャンの姿であります。私たちはキリストにつながれた者、キリストに捕えられた者です。したがって、それは自分が砕かれていく痛みを伴った歩みであると同時に、キリストの勝利を見ていくことができる歩みなのです。自分が一番弱まっているときに、主が力強く働いておられるのを見ます。自分がだめだと思っているときに、キリストがその奉仕を祝福してくださっているのを見ます。キリストに捕えられた敗北者ですが、けれども、キリストの勝利の行進の中で歩いているのです。
そしてキリストの知識のかおりを放つ、と書いてありますが、そのことについてパウロは続けて語っています。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。
キリストの福音を宣べ伝えるときに、救いが起こり、また拒む者が起こります。福音を信じた者は、永遠のいのちを持ちますが、拒んだ者は永遠の滅びに至ります。彼は、滅びる人々に対しても、かぐわしいかおりであると言っています。私たちはとかく、イエスさまを信じる人たちが多ければ多いほど、キリストを示していると思いますが、この個所を読むとそうではなさそうです。イエスさまは言われました。「狭い門から入りなさい。」私たちがキリストの知識のかおりを放つとき、その福音に応答する人たちが出てくると同時に、反対する人たちも出てくるのです。福音を語るときに、救いに至る狭い門から入る人たちと、滅びにいたる広い門をくぐる人たちに分けてしまいます。そのため、神がお働きになっているときに、反対者も多く現われるのです。
このような人の運命を分けてしまうような働きをしていることを思って、パウロは次のようにいいます。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。
答えは、だれもいません。永遠のいのちを与え、また永遠の滅びに定めるような務めにあずかっているのですが、その務めにふさわしい人はひとりもいません。自分は単に、神の器にしかすぎません。パウロがここで言うように、キリストの勝利の行列の中で歩いている捕虜にしか過ぎません。その捕えられた姿において、キリストがご自分の権威によって、みわざを成し遂げられます。
これが奉仕者の姿なのですが、パウロはこの自分と、自分の信用を傷つける偽教師たちと比べています。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
偽教師たちは神のみことばをだいなしにしている一方、自分は神の御前でキリストにあって、真心から語っていると言っています。奉仕者には、この真心が必要になります。人間的な思惑によって動き、人間を中心とした奉仕ではなく、神によって、神の御前でキリストにあって語るという奉仕が必要になります。だから奉仕者は、難しいことを考えているよりも、主にあって素直に受け答えしていることが問われます。そして、実質的な働きは、自分によるものではなく、主ご自身がなさっているところに立っていなければいけません。パウロは、今、トロアスにいたときの不安から、主に目を向けて、神によって、神の御前でキリストにあって語るその真心を取り戻しました。純真さ、素直さです。そして、このような悲しみの中にいても、なお成し遂げられているキリストのみわざに目を留めました。
これが理想の教会の姿です。主ご自身に素直に受け答えする奉仕者。そして、その奉仕者の務めをねぎらい、従っていく信徒たち。奉仕者と信徒の喜びのために協力し、ともに喜び、ともに悲しんでくれる人。この組み合わせによって、主のみわざが前進します。
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