コリント人への手紙第二3章 「御霊の務め」

アウトライン

1A 心の推薦状 1−3
2A 新しい契約 4−18
  1B 生かす御霊 4−11
    1C 神からの資格 4−6
    2C モーセよりもすぐれた栄光 7−11
   B 自由を与える御霊 12−18
      C 心のおおい 12−15
      C 主の似姿 16−18

本文

 コリント人への手紙第二3章を開いてください。ここでのテーマは、「御霊の務め」です。

 私たちは前回、パウロが、トロアスで不安をかかえながらも、主が福音の門戸を開いてくださったことを思い出したところを読みました。パウロは、自分はキリストに捕えられた者として描きながら、キリストの勝利の行進に加えられた者として描いています。自分が苦しみをおい、弱くなっていても、キリストの行進に加えられているゆえ、人が永遠のいのちを持つことを自分たちの目で見ることができる、その幸いについて話しました。このようなすばらしい任務を担っているのですが、その務めのすばらしさを、ここ3章において語っています。それは御霊の務めであり、人にいのちを与え、自由を与えるところの務めであるとしています。

1A 心の推薦状 1−3
 それでは1節をご覧ください。私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。

 当時の教会において、各地にある教会を巡る預言者や伝道者は、推薦状をもって行きました。偽使徒や偽預言者、そして偽教師がはびこっており、私欲のために宣教の働きをしている人たちがいました。そこで初代教会では、推薦状を託すという習慣があったのです。パウロも、自分の手紙を持っていく人を、受け取る教会の人たちが受け入れるように、推薦しています。例えば、ローマ書16章において、ローマ人への手紙を女執事フィベが携えていくことになりましたが、彼女を「あなたがたに推薦します。どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎してください。」と推薦しています。そこで、パウロは今、コリントの人たちに、私も推薦状を持っていく必要があるのでしょうか、と聞いているのです。パウロが信頼のおける奉仕者であることを確かめるために、推薦状は必要なのだろうか、と質問しています。


 そこでパウロは答えます。私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

 パウロは、コリントの人たち自身が推薦状であるとたとえています。コリントにいる人たちは、パウロの奉仕によって、御霊によって新たに生まれ、罪の赦しときよめを体験し、心の一新を経験しました。何も知らない他人であるかのように紙の推薦状は必要ではないではないですか。あなたがた自身が変えられたのです。そして、そのあなたがたが、私があなたがたの使徒であることを推薦できるのです、と言っています。


 これほどすぐれた推薦は、他にはありません。人々の人生を180度変える働きの中に、パウロは入っているのです。人々を、罪からの救いへと至らしめ、永遠のいのちを持つようにさせるところの務めです。自分がこれらの力を持っているのではなく、生ける神の御霊がこれらのことを行なってくださっています。自分は、キリストの勝利の行列に加えられた捕虜のようなもの。自分ではなく、神がこれらのことを行なってくださるのです。けれども、ものすごい栄光ある務めです。

2A 新しい契約 4−18
1B 生かす御霊 4−11
 そこでパウロは次のように言います。

1C 神からの資格 4−6

 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

 
自分がこれらのすばらしいことを行なっているのではない、私たちのうちにこの務めにふさわしい資格はない、と言っています。その資格はあくまでも神からのものであり、神によって始まり、神によって成り、神に至る働きであります。

 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

 パウロはこれから、この栄光ある働きは、「新しい契約」の務めであることを話します。古い契約における務めと、今の新しい契約を対比していきます。そして、新しい契約に仕えることが、いかにすぐれているかについて論じていきます。


2C モーセよりもすぐれた栄光 7−11
 ここ(6節)に「文字は殺し、御霊は生かすからです。」とありますが、この文字とは律法のことです。パウロはこう言います。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

 
パウロは今、古い契約における務めについて説明しています。シナイ山において、モーセは神と顔と顔を合わせて語りました。そのようにして40日間、主とともにおり、そのときに主がモーセに律法を授けられました。モーセは、二枚の石の板をたずさえて、シナイ山から降りていきました。けれども、モーセの顔は、主とともにずっと時間を過ごしていたので、神の栄光を放って、輝いていたのです。そこでイスラエルの民は、モーセがあまりにも輝いてまぶしかったので、それではあなたに近づくことができないではないか、とモーセに訴えました。そこでモーセは、自分の顔におおいをかけて、それでイスラエルの民に律法を与えたのです。この出来事に現われているように、律法を与える務めは、栄光あるもの、すばらしいものでした。


 事実、イスラエルの民は神の栄光を見ることができました。主がシナイ山に現われてくださったとき、黒雲と稲妻、角笛の音など、ものすごい姿で現われてくださいました。彼らは、主の声を聞くことができました。主が彼らに、そこまで近づいて、個人的に関わろうとしてくださったのです。何か遠くにいて、無関心さを装うのではなく、彼らの神、彼らの主となろうとしておられました。イスラエルは、このシナイ山に到着する前にも、エジプトにおける10の災い、分かれる紅海、そして荒野における天からのマナを食べ、岩からの水を飲むことができました。そして、主は幕屋を造ることを命じられ、いつも彼らの間に住まわれることをお決めになりました。

 しかし、この古い契約には、一つの問題があったのです。それは、イスラエルの民は、主なる神と個人的に、人格的に交わったことがない、と言うことです。近くにいるけれども、交わっていない。これは大きな違いですね。十戒が初めて与えられたとき、イスラエルの民はモーセに、「主が私たちにそのまま語りかけないようにしてください。」と訴えました。そして、「主の仰せられることはみな、行ないます。」と言ったのです。彼らに与えられた律法は、生ける神が語られることばとしてではなく、石の上の文字にしか過ぎなかったのです。心は神から離れたまま、その文字を行なおうとすることは、罪ある人間には決してできないことです。そこで彼らは、モーセがシナイ山から降りてこようとしていたときには、すでに第一と第二の戒めを破り、金の子牛を造って、その周りで戯れていました。そこで死がもたらされます。戒めを破ったことによって死がもたらされるので、律法は、ここに書かれているとおり「死の務め」なのです。

 けれども、モーセの律法が与えられてから700年以上たったときに、預言者エレミヤが、新しい契約を主が与えるという約束を語りました。「その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。…彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。…わたしはわたしの律法を彼らの中におき、彼らの心にこれを書きしるす。(エレミヤ31:31-33

 律法が、もはや石の板の上ではなく、一人一人の心の中に書き記されます。言いかえれば、生ける神が、個人的に人格的に、私たちに語り聞かせてくださる、ということです。これは、御霊が私たちのうちに住まわれることによって可能となり、神はただ近しい方だけではなく、事実、友のように交わってくださる方になったのです。


 ですから、この時点で、書かれた文字を守り行なうという作業は終わりました。聖書はあるのですが、御霊の油注ぎを受けているので、これを信じることだけでよくなったのです。神が語られて、自分はそれを信じます。人格的、個人的に語られるので、その信仰はそのまま行ないとして現われ、私たちはすでに、自分たちで神のおきてを達成するところから出てくることができたのです。そこでパウロは、モーセの務めは栄光あるものであったが、今や、さらにすぐれた新しい契約に仕える者となっているのである、と言っているのです。

 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。


 モーセの律法は、人を罪に定めました。けれども、御霊の務めは、人を義と認めさせます。義と認められる、ということは、単に罪が赦されるということだけではありません。罪が赦されるばかりか、神がお持ちになっているすべての祝福と栄光を、受けるに値するほど正しくされる、ということであります。ですから、私たちは、天においてキリストの共同相続人であり、神のすべてを私たちも相続するようになったのです。


 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。

 これは、たとえるならば、燦燦と輝く太陽の光線の中にある、ろうそくのともしびと言えるでしょう。ともしびの光は、太陽の光によってかき消されてしまいます。古い契約と新しい契約もこれと同じです。たしかに古い契約にも栄光はありました。けれども、新しい契約が与えられた今、その栄光はないもののようにされたのです。

 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

 古い契約は、イエスさまが十字架の上で死なれて、血を流されたところで、消え去りました。律法の役目は、人をキリストに導くところで終えました。一時的であったのです。そして、新しい契約のもとで、人々は永遠に主とともにいることができます。


2B 自由を与える御霊 12−18
 このように新しい契約は、栄光に富む古い契約よりも、さらにすぐれた栄光ある契約なのです。けれども、この契約が有効になった今も、古い契約の中にまだいるかのように生きている人たちがいました。パウロはその、まだ心が鈍くされている人たちのことについて話します。

1C 心のおおい 12−15
 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。

 そうですね、当時の人々は、とくにユダヤ人は、モーセの存在はきわめて大きいものでした。そのモーセよりも、さらにすぐれた務めを持っていると言っているわけですから、きわめて大胆に語っているわけです。

 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。


 モーセの顔は、いつまでも光り輝いていたわけではありません。輝く顔を人々に見せないためにおおいをかけたのですが、消えうせるときも、人々に見えないようにおおいを掛けていたようです。

 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。

 パウロはここで、モーセが顔におおいをしていたように、イスラエルの人々も、心の中におおいをしていると言っています。律法と預言は、キリストにおいて実現することになっていたし、実際、実現しました。キリストを見れば、この方こそ律法の完成であり、預言の成就であることを知ることができます。けれども、キリスト抜きにシナゴーグの中で朗読している律法は、人々の心を変えることはありません。御霊によらなければ、この律法を自分のものとはできないのです。


 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

 
パウロが生きていた新約の時代になっても、まだ旧約の時代にいるかのように生きていたイスラエル人が大ぜいいました。周りは新約でも、自分の心の中では旧約であったのです。今だ、神のことばを文字として捉え、それを守り行なおうとしています。それゆえ、自分のうちに死をもたらすことになります。これがイスラエルの姿でしたが、パウロがこのことをコリントの教会に語っているところを見ると、教会の中でも、このような状態になっていたような感じがします。


 私たちキリスト教会も、彼らの過ちに陥ることはないでしょうか?確かに立場としては、キリストの死とよみがえりを信じて、神の交わりの中に入れられました。けれども、実際には、書かれた文字に仕えるようなことをしていないでしょうか。生ける神との人格的な交わりをしません。そして、書かれてある聖書のことばを行おうとします。神ご自身が私たちに、みことばをとおして語りかけてくださり、私たちはただそれに応答していけばよいだけなのに、自分で神のみことばを行なおうとするクリスチャン生活を送ってしまいます。けれども、それでは、モーセの書が朗読されるときに、心におおいが掛かっているイスラエル人と同じようになってしまいます。私たちの問題は、みことばを行なうことができない、ということではありません。そうではなく、神を信じることができていない、ということなのです。神に全面的に信頼していないので、自分の生活に神が介入されることを恐れているので、それで神ご自身からも距離を離して、それでみことばを行なおうとしてしまうのです。おおいが掛かった状態です。

2C 主の似姿 16−18
 それでは、このおおいが取り除けられる方法を見てみましょう。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

 人が主に向くなら、…主に向くことによっておおいが取りのかれます。自分自身ではなく主ご自身に目を注ぐこと、これが、古い契約から新しい契約の中にはいるスタート地点なのです。主イエスさまのすばらしさを眺める。キリストが自分にどのように関わってくださっているかを、祈りの中で考える。主に向いて、そして、この自分を主の前に明け渡すときに、主が私たちを変えて行ってくださいます。

 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

 
主イエス・キリストは、今、御霊によって私たちと交わってくださいます。霊による交わり、これがすべてです。霊とは、精神よりももっと深いレベルの領域であります。私たちは、教会生活で、社会的欲求、心理的欲求を満たすことができるかもしれませんが、それでは主との交わりをしていることになりません。自分がクリスチャンらしくふるまっても、主と交わることはできません。もっと深いレベルで、錨を海のなかに降ろすようにして、信仰によって主のみことばを聞くことが必要です。そして、この霊による主との交わりのみが、私たちを変えてくれる原動力となるのです。


 そして「自由がある」とありますが、これは文脈からは律法からの自由と言うことになるでしょう。文字に仕える営みから解放され、ただ主を信じていく歩みに変えられます。

 そして次に、有名な聖句があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 顔のおおいが取り除けられると、まず、鏡のように主の栄光を反映させることになります。主のほうを向いているときに、自分は鏡のようになり、その栄光を反映します。主と同じかたちに姿を変えられていきます。私たちは、よく、「似たもの同士」ということばを使いますが、夫婦が似てきたり、ペットとその主人が似てくる、などとも言われますね。それは、自分がその人をいつも見つづけているからです。見ていると、その見ているもののようになってくるのです。ですから、私たちがイエスさまのほうを向いていると、イエスさまのようになっていく、イエスさまに似てくるのです。


 そして、それが栄光から栄光へと変えられてきます。モーセの栄光は、消えて行く栄光でした。けれども、御霊の栄光は、そのときの栄光だけではなく、さらに一歩進んで、また栄光が与えられるようになるのです。ですから、私たちは日々、新しい主との交わりをすることができます。今、自分が見ているイエスさまは最高なお方でしょう。イエス・キリストはすばらしい方で、これ以上のものはない、と思われるかもしれません。けれども、さらに年月がたち、イエスさまがもっと輝きをまして私たちに現われてくださり、自分はさらなる栄光を見るのです。ですから栄光から栄光なのです。

 そして最後に、これは、御霊なる主の働きであるとして、パウロは3章をしめくくっています。パウロは一貫して、主イエス・キリストに関わっていくとは、御霊による働きであると話しています。私たちに何かあるかのように、文字に仕える生活をするのではなく、神から与えられた御霊によって、主ご自身に従っていく生活を歩みます。律法はすでに、私たちの心の板に書き記されました。神のみことばを行なう、ではなくて、神ご自身の声を聞いてください。新しい契約の中にいるように、生きてみましょう。


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