コリント人への手紙第二6章 「神の恵みをむだに受けない」

アウトライン

1A 神の救いにおいて 1−10
   1B 今という時 1−2
   2B 神のしもべの生き方 3−10
      1C 状況(〜にあって) 3−5
      2C 動機(〜によって) 6−8a
      3C 結果(〜として) 8b−10
2A 神の聖めにおいて 11−18
   1B 開かれた心 11−13
   2B 汚れからの聖別 14−18
      1C つり合わないくびき 14−16a
      2C 神の子ども 16b−18

本文

 コリント人への手紙第二6章を開いてください。ここのテーマは、「神の恵みをむだに受けない」です。

 私たちは前回、パウロたちが、自分たちのことをキリストの使節であると述べているところを学びました。5章20節をご覧ください。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は罪の知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」ここには、とてもすばらしいメッセージが隠されています。神は、私たちを怒って、責めることなく、むしろ、その責めをご自分の御子に負わせた、というメッセージです。もうすでに、罪に対するさばきを下されたので、神は今、私たちを、両手を広げて待っておられます。「もう仲直りをしました。わたしのところに来てください!」というメッセージです。そして、この仲直りのために、ものすごいことをなさいました。まったく罪を持たない方が、全人類のすべての罪を犯した者として数えられたです。罪による罰、暗やみ、さばき、恐怖、地獄、断絶、これらあらゆる神の呪いを、イエスさまは十字架において受けられました。

 そして、もう一つ驚くべきことは、罪を犯す私たちが、キリストと同じように正しいと認められることにあります。「私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」と書かれていますね。これは、受けなければいけない罰を受けなくても済むようになったことだけではありません。キリストの正しさを自分のものにするという祝福です。イエスさまにある祝福を、私たちはみな受けることができるのです。神の子どもとされたこと。神の国に入ることができること。キリストとの共同相続人になること。復活して、栄光の姿に変えられること。キリストがお持ちになっているこの祝福と財産を、私たちも手に入れることができるのです。それは、キリストの義が、私たちのものとされたからです。

 罪のない方を罪ある者と数え、罪ある者を義なる者として数えることは、一見とても不公平なことです。罪ある者が罰を受けて、義なる者が祝福されることが正しいです。けれども、この不公平に見えるようなことを、神が私たちを愛するがゆえに、行なってくださいました。神の愛と恵みは、とてつもなく深く、広く、高いのです。

1A 神の救いにおいて 1−10
 そこ6章1節に入ります。

1B 今という時 1−2
 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

 
パウロは、コリントにいる人たちに懇願しています。あなたは、これほどまでに神に愛され、大きな恵みをいただいているのだから、これをむだに受けないでください、とお願いしています。むだに受ける、とはどういうことでしょうか。「むだ」というのは、むなしくなる、中身がなくなってしまう、実が残らない、と言いかえることができます。神さまのとてつもない恵みに圧倒されて、神に感謝と賛美をささげて、自分自身を主におささげするように導かれるのが、神の恵みを受けることであります。むだに受けるとは、そのような応答をしない、ということであります。


 コリントの教会には、一つの大きな問題がありました。それは、偽りの教えを教える偽使徒と偽教師がいたことです。彼らが、使徒パウロのことを悪く言い、彼の信用を引き落としました。そして、パウロとは異なるメッセージを、コリントにいる人たちに教えていました。おそらくコリントの人たちの多くは、彼らに対して全幅の信頼を寄せていたわけではないでしょうが、それでも、影響を受けてしまっていたようです。その結果起こったのは、パウロに対する信頼が薄くなったということです。パウロはそこで、少なくとも1年半腰を据えて、みことばを教えていました。パウロを通して人々がイエスを信じ、教会が建てられました。だから、彼らにとってパウロという存在は非常に大きく、父親的な存在でもあったのです。

 しかし、その信頼が偽使徒たちによって引き落とされて、パウロから心理的に距離を離すようになってしまったようです。そこで、パウロは、この手紙の冒頭からずっと、自分が正統であることを弁明しなければなりませんでした。そして今、神の和解のメッセージを伝えました。けれども、このように心理的に距離を離してしまっているために、このすばらしい神の恵みの知らせを、そのまま受け取らないでいる人々がいたわけです。そのメッセージはすばらしいのだが、けれども、自分は引き下がっておこう、という拒否感があったのでしょう。しかし、パウロは、和解のメッセージというのは、子どもがお父さんに向かって走って、その胸の中に飛び込んでいくように、素直に、純粋に聞き入れなければいけないものであると、ここで訴えているのです。あるいは、神の恵みの中に私たちを取り入れようとされる、御霊の促しを拒まないで、その流れに乗るということです。


 そこでパウロは、イザヤ書を引用してこう言います。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

 ここでのキーワードは、「今」です。今、この恵みを受け取り、今、この救いを自分のものにしてください、という呼びかけです。イザヤ書の他の個所には、このようにも書かれています。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
(55:6)」神には、人々が恵みの福音を聞くことができる時を設けてくださり、その時をつかみとってください、とパウロは懇願しています。

 パウロがエルサレムでユダヤ人に殺されそうになり、それからカイザリヤにて、牢屋の中に入れられていたことを覚えているでしょうか。そのときのローマ総督の一人に、ペリクスという人がいました。彼は、当時ナザレ派と呼ばれていた、使徒たちの教えと説教にかなり興味を持っていました。そこで、彼は拘置しているパウロを呼び出しては、その道について聞いていました。けれども、パウロは、正義と節制とやがて来る審判について論じました。そこで、ペリクスは、恐れを感じて、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言いました。おりを見て、と言ったのですが、このおりは二度と来ませんでした。ペリクスはこの二年後に罷免されて、あやゆく死刑にまでなりそうだったのです。このように、神の良き知らせ、恵みの福音には、時があります。聖霊が私たちの心を動かされる時があります。「この知識は後で自分の役に立つように取っておこう。」と言うようなことは、恵みの福音については通用しないのです。(私はしばしば、インターネットで、「この情報は役に立つ!」と思ってダウンロードするのですが、結局読まず仕舞のときが多いです。その時に読まなければ、いつまでも読むことはない。同じことが、福音にも言えるのです。)


2B 神のしもべの生き方 3−10
 このように神の和解のメッセージ、神が私たちに、仲直りをしますよお、というメッセージは、あまりにもすばらしいので、すぐに受け入れるような即時的な性質を持っています。パウロたちは、この福音を語り伝える務めを担っていました。そこで彼らは、次のような心得を持っていました。

 私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

 つまずきを与えないために、あらゆることにおいて、どんなことにも気をつけていました。福音の輝きをくもらせないために、最善の努力を行ないました。


1C 状況(〜にあって) 3−5
 そしてパウロは、自分たちが通ったさまざまな困難について話し始めます。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、

 ここまでは、パウロたちが置かれていた状況について述べられています。英語においては、とても明瞭に書かれています。
”in”つまり、「〜の中で」とか、「何々において」と書かれています。パウロたちは、福音を語っているときに、非常な忍耐を強いられるときがありました。悩みがありました。苦しみがありました。嘆くときがありました。そして物理的にも迫害がありました。むち打たれ、入獄され、暴動に巻き込まれ、労役も強いられ、徹夜をしなければいけないときがあり、そして食を断たねばならないときがありました。

2C 動機(〜によって) 6−8a
 私たちがその一つ一つの状況の中にいるとき、どのような反応をするでしょうか。私であれば、怒ったり、憤ったりするでしょう。イスラエルの民の面前で怒りを露にしたモーセのようになってしまうと思います。あるいは、意気消沈すると思います。やる気がなくなって、福音伝道への情熱が失せてしまうと思います。もしそうなると、人々につまずきを与えてしまうのです。順風満帆のときは、人に優しく声をかけることができるかもしれませんが、逆風が吹くと、そうはいかないのです。しかし、パウロたちは違いました。続けて読みます。

 また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、


 これらはみな、パウロたちの姿勢について書かれています。今ちょうど述べた状況の中で、どのような姿勢を持っていたかについて話しています。英語ですと、
”by”です。「〜によって」と言いかえることができます。ですから、今パウロが述べた一つ一つの状況の中で、一つ一つの姿勢や態度を当てはめることができるのです。例えば、むち打たれるときのことを考えてみましょう。むち打たれるとき、パウロは罵ることなく、純潔を保っていました。むち打たれるとき、知識を持ち思慮深くありました。むち打たれるとき、我慢できなくなり、怒り散らすのではなく、寛容でありました。むち打たれるとき、聖霊に満たされていました。むち打たれるとき、偽りのない愛を持っていました。むち打たれるとき、真理を曲げたりすることはなく、真理のことばを保ちました。むち打たれるとき、神の力によって支えられていました。むち打たれるとき、正しくふるまいました。悩みのとき、苦しみのとき、入獄のとき、暴動のとき、すべての状況に、これらすべての態度を当てはめることができます。

 このように読んでいくと、私なんか失格者ではないかと思います。けれども、希望のことばがあります。それは、パウロは何回も何回も、この第二の手紙の中で、この資格は自分自身から出たものではなく、神からのものであると言っているからです。土の器に宝があり、測り知れない神の力が働くのです。私たちが弱いときにこそ、キリストの復活の力が完全に働き、私たちは強くなることができるのです。自分ができないと思っているときに、御霊が私たちを引き上げてくださいます。大事なのは、神のかたちであるキリストの栄光を仰ぎ見ることです。神が用意してくださった、目で見たことのないもの、耳で聞いたことのないものを見て、聞くことです。今、読んだ、5章の最後にある和解のメッセージだけを読んでも、私たちははりさけんばかりに、喜び叫ぶことができます。私たちが泣いても、わめいても、嘆いても、苦しくても、悲しくても、それらを主の前で、主とともに行ない、主の御霊の中で時間を過ごすことが大切なのです。

 また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

 パウロたちは、ある人々からはほめられていましたが、多くのそしりを受けていました。悪評もありましたが好評もありました。人々のいろいろな評価の中で、今、列挙した純潔と知識、偽りのない愛と聖霊、真理のことばと神の力を示し続けたのです。


3C 結果(〜として) 8b−10
 そして、次に再び、前置詞が変わります。今度は、”as”つまり、「〜として」と書いてあります。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

 パウロが今まで話してきた、困難な状況の中で、純潔という態度を示していたので、その結果としてどのような姿になっていたのかを、今ここで説明しています。人々が、パウロという奴は人をだましていると言っていても、実は真実であったことが証明されます。人には目立つような、人に見せびらかすような活動はしていないのですが、その実は多くの人々の間で知られています。そして、パウロは死んだかと思われたことがありましたが、今、事実、この手紙を口頭筆記させているのです。そして、むち打たれたりしても、決して殺されはしませんでした。悲しみがありましたが、それでも喜びが心の中からあふれました。パウロは貧しいようでしたが、多くの人々が彼らの働きにより霊的祝福を受けました。そして、持っていないようでも、蓋を開けるとあらゆるものを持っていることが証明されました。


 これは、すべてのクリスチャンのパターンとも言えます。4章で同じような表現が出てきました。四方八方苦しめられているが窮することはない、途方にくれているが行きづまることはない、そして、イエスの死をこの身に帯びているが、イエスのいのちが明らかにされるためである、と言っています。キリストの死と復活の姿にあやかるのが、クリスチャンの生活です。私たちはキリストに結ばれた者であります。私たちのうちにキリストがおり、またキリストのうちに私たちがいます。このように切っても切り離せない関係を持っています。それゆえ、キリストが歩まれた道を、自分が好む好まざるにかかわらず、自分も通っていくのです。私たちが苦しんでいるとき、イエスさまは私たちを慰めることができます。それは、イエスさま自身が、十字架への道において、すべての苦しみを通られたからです。

2A 神の聖めにおいて 11−18
 そしてパウロは、愛情のこもった言葉で、コリント人たちに語りかけます。

1B 開かれた心 11−13
 コリントの人たち。私たちはあなたがたに包み隠すことなく話しました。私たちの心は広く開かれています。

この、「コリントの人たち。」というところに、パウロの声が聞こえてこないのが残念です。親友が心を開いて声をかけるような、心のこもった呼びかけであったに違いありません。そして、「私たちの心は広く開かれています。」と言っています。このような牧会者を持っているコリントの人たちは、さぞかし幸せだったでしょう。教会の活動を、効率よく、スムーズに運営させるには、牧師は心を開かないほうが得です。会社で働いている者のように、もくもくと自分のしなければいけないことだけをしていたほうが、自分が傷つかずにいることができますから楽です。しかし、パウロは、そのような、雇われ牧師のような態度を取りませんでした。自分が養う羊たちの痛みを共感して、共有しようとしています。ともに痛み、ともに苦しみ、ともに泣き、ともに喜び、ともに励まされ、ともに主を賛美する、このような心の開かれた態度を貫いたのです。


 あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。

パウロは、コリント人に、とても厳しい、叱りつけるような手紙を以前に書きました。コリント人への手紙第一を読みますと、パウロは、彼らの肉の行ないを戒めて、叱っています。けれども、コリントの人たちはそれを、権威ある者に支配されている、指示されている、操作を受けていると感じたのです。けれども、それは彼らが勝手に、パウロたちに対して心を閉ざしていたからです。もし彼らも心を開けば、それはパウロの深い愛情のこもったことばに聞こえるはずなのです。私たちがイエスさまのみことばを聞くこともそうですね。例えば、イエスさまが、湖の中におぼれそうになっているペテロを引き上げたとき、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われましたが、それは、なにか馬鹿にしているような、責めているような声に聞こえるかもしれません。あるいは、微笑んで、ユーモアを交えておっしゃっている声に聞こえるかもしれません。これは、私たちの心次第なのです。心が主に大きく開かれているとき、私たちは、主のみことばが愛と恵みに満ちたものとして聞くことができます。開かれていないときに、さばかれているように聞こえるのです。


2B 汚れからの聖別 14−18
 こうしてパウロは、「心を大きく開いてください」と言っているのは、彼が、コリントの人たちが触れられたくない問題を話そうとしているからです。また、パウロ自身もできれば触れたくない問題を話そうとしているからです。お互いに深入りしたくはないのだけれども、問題解決に向けて触れなければいけない話題に触れます。それは、教会の中にいる偽使徒と偽教師の存在のことです。パウロは、この人たちのことを直接的に、「偽使徒である」とか「偽教師である」と言っていません。彼らの正体は、この手紙の最後のほうで明らかにしています。この時点では、「不信者」と呼んでいます。

1C つり合わないくびき 14−16a
 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。

ベリアルとは、悪魔のことです。

信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

パウロはここで、婉曲的に、教会の中にいる偽使徒や偽教師たちと交わってはいけない、と言っています。彼らがどんなに、みことばを使って彼らに語りかけていたとしても、彼らは福音を信じていない不信者である。したがって、彼らとともに、霊的な深いところを共有できるようなことは決してできない、と言おうとしています。例えば私が、エホバの証人の人たちと、伝道活動をともに行なおうとすることでしょう。彼らは聖書を神のことばであると強く信じています。また、偶像礼拝をひどく嫌います。また、とても道徳的な、潔癖な生活を歩んでいます。イエスさまは、一応、神の子であると言っています。イエスさまを信じることによって、救われることも信じています。同じものを信じているようですね。だから、私は彼らとともに祈り、ともに伝道活動に協力することはできるでしょうか。いいえ、できません。彼らが信じているイエスさまは、私たちのとは異なります。彼らのイエスさまは、父なる神によって創造された人です。しかし、私たちが信じているイエスさまは、父なる神のふところに永遠の昔からおられる神ご自身であり、創造主であります。彼らが使っている「信仰」という言葉と、私たちが使っている信仰とは異なります。彼らは、一生懸命、自分自身をイエスさまにささげること、つまり献身が信仰であると思っています。だからあのような伝道活動をして、その活動によって信仰を保っていると思っています。しかし私たちは、一方的な神の救いのみわざを受け入れることが信仰だと思っています。救いに必要なことは、神がキリストにあってすべて行なってくださった。私たちがすることは、それを受け入れることである、とします。このように、言っている事は似ていても、信者と不信者という大きな溝があるのです。表面的に似通っていても、私たちは決して交わることはできません。


 けれども、こういうことを聞くと、私たちクリスチャンは、不信者の人たちとつき合いを持つことはできないのか、と思ってしまいます。事実、私たちクリスチャンは、クリスチャンになる前に持っていた友人関係の多くを切ってしまうという統計があります。本当にこれで良いのでしょうか?ここで、「交わり」という言葉の理解が必要になります。交わりというのは、一つのものを分かち合う、自分の持っているものを分け与える、と言う意味があります。当時の食事が、この概念を明確に現わしています。同じ一つのパンをちぎって、それぞれが自分の腹に入れます。同じパンが、それぞれの体内に入っていることによって、神秘的に一つにされているのです。これが交わりであります。だから、私たちクリスチャンは、どんどん交わることができるし、また交われなければいけません。なぜなら、キリストを分かち合うからです。それぞれのうちに生きているキリストを分かち合うことによって、私たちが互いに一つであり、互いにキリストにあって建て上げられていきます。

 でも、私たちは、不信者の人たちと知り合いになったり、友人関係になることは、彼らと交わっていることにはならないのです。むしろ、そのような関係を持たないことのほうが、大胆に言わせていただきますと、、彼らと交わっていることになるのです。例えば、今自分は、職場にいるある人のことを考えています。「私は、不信者の人とは関係ない。自分は教会の人たちとだけ、付き合っていればよいのだ。」と考えます。しかし、それは、キリストが、その職場にいる同僚のために死んでくださった、ということを否定しているに他なりません。イエスさまが、その人のために死んでくださったことを思えば、自ずと、自分の心の中に祈りが生まれます。私の隣にいるあの人が、キリストの愛に触れますように、という小さな、静かな祈りが生まれるはずです。もちろん仕事中に伝道をしなくてもいい、いや、してはいけないのですが、その人に対するキリストの愛が与えられるはずです。しかし、「私は関係ない。」と思ったとき、それはまさに、不信仰から来たものであります。「あの人にはキリストは必要ない。あの人はあの人の生き方、自分は自分の生き方。」という、不信者の考えを自分も共有することになるのです。

 ある方の手記をここに引用させていただきます。この方は、信仰が後退しているときに未信者の人と結婚しました。今は、奮い立って神に立ち返り、キリストに従う毎日を生きておられる方です。この方は果たして、不信者の人と交わっているのかと言うと、大きな間違いです。彼はこのように言っています。「ぼくは、妻を心から愛しているのですが、(時々自分でも、不思議に思う程の強い愛です)今度のことで、ぼくは神によってこの妻に出会い、妻を愛することが、まったく主の御心にかなったことであり、まさに主の御計画であることを、さらに強く確信することとなりました。ちょっとオーバーかも知れませんが、神によって、妻を愛する賜物(彼女の心の傷をいやすための愛)を与えられているように信じるのです。」未信者の奥さまが通られた、幼少の頃からの辛い出来事を、イエスさまにあってともに悲しみ、泣いておられるそうです。こうしてこの方は、妻をとおしてキリストと交わっておられるのです。

 ですから、不信者と交わりをしないというのは、徹底して、不信仰から来た価値観や考えを共有しない、と言いかえることができるでしょう。キリストは、この世を救うためにこの世に来られた方です。ですから、私たちは自ずと、未信者の方々の中に入っていき、キリストのことを思うようになります。

2C 神の子ども 16b−18
 不信者との交わりをしないというのは、否定的に聞こえてしまうかもしれませんが、実はとても積極的な行為であります。パウロは次に、自分を不信者から離れさせることによって得ることができる祝福について述べています。

神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。

 
つまり、私たちのからだのことです。私たちのうちに、御霊が住んでおられます。

神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。」

これは命令です。この命令を守ることによる約束が次に書かれています。

 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。

汚れから出て行くことによって、神と自分との関係に、父と子、父と娘の関係ができます。つまり、親子関係にある愛情ある、親密な深い関係を持つことができるのです。私たちは神のことを、「天の父」と呼びます。けれども、本当に自分のお父さんのように、何でも願って、何でも自分の言うことを聞いてもらって、そして、全幅の信頼をもって御声を聞いているでしょうか。私は、できていないなあと思います。けれども、そのような関係を持つためには、あのダビデのように主を恋い慕い、いつも主のことを思い、いつもイエスさまに聞き、イエスさまの中にいて、自分ではなくキリストの視点で物事を考えることが必要です。そのときには、徹底的に、不信者が抱いている思いを退けなければいけません。徹底的に退けて、かつ、キリストを思うのです。パウロは、生きるのも死ぬのも、キリストと言いました。罪を知らないこの方が、私の罪のために罪人とされました。そして、罪あるこの私が、キリストのような正しい人とされました。この方を慕わずにはいられません。そして、イエスさまを見上げてあゆむときに、自分の思いの中に入ってくる不信仰を退け、そこから分離して、そしてさらに、父なる神との交わりを深めるのです。



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