アウトライン
1A 開かれた心 1−4
2A 悔い改め 5−16
1B 慰め 5−7
2B 神のみこころ 8−12
3B 全幅の信頼 13−16
本文
コリント人への手紙第二7章を開いてください。ここでのテーマは「喜ばしい悲しみ」であります。「喜ばしい悲しみ」なんて、何か矛盾するように聞こえます。喜びの反対語が悲しみなのですから、喜ぶときは喜ぶ、悲しむことは喜びとは違う、と思います。けれども、パウロはこの章において、自分でもちょっと矛盾していると気づきながらも、面白い点に注目していますので、じっくり読んで行きましょう。
1A 開かれた心 1−4
愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。
これは本当は、6章の中に入れれば良かったかもしれないような個所です。パウロが6章の最後で引用している旧約聖書のことばに書かれてある約束を、「このような約束」と言っています。6章の17節をご覧ください。「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。(6:17-18)」彼らと分離せよ、汚れたものに触れないようにせよ、と主が命じておられますが、その命令を守り行なった約束として、「そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる」とおっしゃっています。これが一つ目の約束で、二つ目は、「わたしはあなたがたの父となる」です。そして三つ目は、「あなたがたはわたしの息子、娘となる。」であります。この三つが、パウロが7章一節で話している、「このような約束」であります。
このような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめましょう、とパウロは勧めています。肉の汚れ、というのは不品行などのことでしょう。そして霊の汚れというのは偶像礼拝などでしょう。私たちは恵みの下にいるのだから、潔めについては、主がすべてのことをしてくださる、と思いがちです。けれども、この個所を読むかぎり、自分が果たすべき責任もあることが分かります。私たちは、キリストの血によって、すべての罪からきよめられていることを知らなければいけません。そして、キリストにあって、神の御前で、傷も汚れもない者として立っています。このように、立場的には、完全に聖められた者とされているのですが、それを体験していこうというのが、パウロがここで勧めていることです。私たちが近づきすぎている肉の汚れはないでしょうか。男性ならポルノ、女性ならショッピング、他にも貪欲などいろいろなものがあります。そして偶像礼拝のように、異教の儀式や事柄に関わっていないか。また、自分の心のさみしさを満たすために、他の人をアイドル化していることもあり得るでしょう。これらからのものから離れて、聖きを全うしようではありませんか、とパウロは言っています。
そして、聖きを全うするとき、神を恐れかしこみながら、とあります。神に対する健全な恐れが必要です。尊敬とか服従とかが重んじられないこの時代にあって、愛の神、親しみやすい神を受け入れる人々は大ぜいいます。けれども、神の威厳や権威がないがしろにされる傾向があります。けれども、このどちらも聖書には書かれているのです。パウロは、私たちが、「アバ、父よ」と言う御霊をいただいた、と言いましたが、アバは幼い子どもが父を呼ぶときの呼称です。そして「父よ」というのは、威厳ある父のことです。このどちらもが大切であります。けれども、「恐れ」というとき間違ってしまうのが、罰を与えられるのではないか、という恐れと混同してしまうことです。私たちキリスト・イエスにあるものは、決して罪に定められることはありません。ですから、罰を受ける、害を受けるという恐れを持つ必要はまったくありませんし、持ってはいけません。そうではなく、逆に、汚れの中に入ることによって、神の心を痛みつけることへの恐れです。こんなにも愛してくださっている神を、僕はこんなことをしていることで傷つけてはいないか、という恐れを持たなければいけません。
そしてパウロはコリント人たちに呼びかけます。私たちに対して心を開いてください。私たちは、だれにも不正をしたことがなく、だれをもそこなったことがなく、だれからも利をむさぼったことがありません。
先週、6章で、パウロがコリント人に、「あなたは自分たちで心を窮屈にしているのです。」と言っていましたが、またここで、心を開くようにお願いしています。パウロたちは、コリント人たちに対して、何ら心を閉ざすようなこと、不信感や疑惑は持っていないのです。けれども、コリント人たちのほうが、距離をはなしてしまいました。ですから、「私たちに対して心を開いてください。」と言っています。そして、パウロたちは、今まで不正もしたことがなく、そこなったことがない、利をむさぼったことがない、と言っています。そこなったことがない、というのは、誤った道に導いてしまっていない、ということです。これが、神のしもべの姿です。パウロたちは、人々に奉仕をするために働いています。人々に仕え、助け、必要を満たすために働いています。その逆ではありません。信者からお金を無心したりしたことはありません。逆に自分たちで働いて、彼らに何の負担もかけていなかったのです。これが神のしもべの姿です。
責めるためにこう言うのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。
不正をしたこともなく、そこなったことも、利をむさぼることもしなかった、と言われたら、なにか責められているように聞こえるかもしれません。けれども、パウロにはそんな気持ちはさらさらありません。あなたがたは、私たちの心のうちにある、と言っています。それだけパウロは彼らを慕っており、愛しており、心情的にも結びついていました。
私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。
コリント人たちのおかげによって、パウロは大きな慰めを得ている、そして苦しみの中にいても喜びに満ちあふれている、と言っています。これはどういうことなのでしょうか?パウロがコリント人から受けた慰めとは何なのでしょうか。それが次から書いています。
2A 悔い改め 5−16
1B 慰め 5−7
マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
パウロは再び、トロアスにいたこときのことを思い出しています。トロアスでは福音の戸が開かれていましたが、コリント教会にあった問題のことで、気が沈んでいました。コリントにテトスを送ったのですが、彼がなかなか戻ってきません。そこでマケドニヤに向かいました。そのときの心理的状態を、パウロは今、ここに書いています。少しの安らぎもなく、外には戦い、うちには恐れがあった、と言っています。今日の私たちクリスチャンの問題は、いつも喜び、感謝し、笑っているクリスチャンの理想像を作り上げていることです。昔は、悲しんでいて暗い顔つきをしているのが霊的であると考えられていたそうです。でも今はその反対に、喜んで明るい雰囲気でいることが霊的であるようです。ですから、落ち込んでいる人を見ると、あたかもその人が罪を犯しているかのような反応をします。
しかし、もしその人が罪を犯しているなら、パウロはここで罪を犯しているのです。パウロは気落ちしていました。不安になっていました。それは何のためなのでしょうか。コリントの人たちをあまりにもかわいかったからです。コリントの人たちがどうなっているか、気がきでなりませんでした。彼らとの間にあった太い信頼関係がこれからどうなっていくのか、気がきでならなかったのです。もしここで、何にも感じないないで、動じない人がいれば、私はその人こそ、牧会者として、あるいはクリスチャンとしてふわさしくないと思います。愛しているがゆえに、自分自身は弱くなっているのです。人間には、悲しみと不安と落ち込みという現実の生活があります。それを避けるのではなく、むしろ通りぬけてこそ、本当の喜びが与えられると私は信じます。
しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。
パウロは、落ち込みをとおして神を深く知ることができました。神の慰めを知ることができたのです。私たちの痛みは無駄には終わりません。神の慰めという、神のご性質を知ることができるのです。そして、その慰めはテトスが来てくれたことによって与えられました。私はこの気持ちがよく分かります。自分が藁をもすがるような思いで待っていた人が来てくれることによって、大いに慰められるのです。
ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。
パウロを慰められた状態から喜びの状態に移してくれたのが、コリント人たちの反応でした。彼らは、パウロが戒めたこと、叱責したことに対して、無関心ではいませんでした。彼らはそれを真剣に受けとめて、自分たちの罪を悲しんで、悔い改めたのです。このことを知って、パウロはとてもうれしかったのです。
2B 神のみこころ 8−12
そして次から、この章の核心部分に入ります。あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。
パウロは、コリントの教会に手紙を何通か書きました。その一つが、コリント人への手紙第一なのですが、それは戒めと叱責の手紙でした。コリントの教会にあった、数々の問題をパウロは対処しなければいけませんでした。先ほど出てきた霊肉の汚れの中にコリントの人たちがいました。けれども、彼らはそのことについて悲しむどころか、むしろ誇ってさえいました。そこで、パウロは、厳しく問いたださなければいけなかったのです。そこで彼は手紙を出しました。その反応が悲しみでした。パウロは、コリントの人たちが悲しんでいるのを見て、「ほんとうにあの手紙が彼らのために益になっていたのか。」と悔いてしまっていました。けれども、今回、テトスが訪問したことによって、コリントの人たちは悲しんで悔い改めていることを知りました。それで彼らにもたらした悲しみは良いものだったのだ、ということが分かり、今はとても喜んでいるのです。手紙を出したときは、この手紙について悔いていたけれども、今は悔いていない、と言っています。
あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
ここに、二種類の悲しみが書かれています。世の悲しみと、神のみこころに添った悲しみです。世の悲しみは一生涯の悔いを残します。神のみこころに添った悲しみは、悔い改めを生じさせ、救いを、わきあがる喜びをもたらします。世の悲しみは死をもたらしますが、神による悲しみは命をもたらします。同じ悲しみですが、まったく異なる方向へと人々を導きます。その違いをもたらすのは、ここに書いてある「悔い改め」です。この悔い改めを知っているか知らないかで、罪や悪いことを行なっている者の将来が左右されるのです。
悔い改めるという元々の意味は、「思いを変える」ということです。進んでいる方向を変えることです。自分勝手な、自分中心の歩みを変更させて、神が望まれるところに歩みはじめることを意味します。ですから、悔い改めるのは、感情的な事柄よりもむしろ意思的な事柄なのです。罪について悲しみますが、悲しむことが目的なのではなく、罪を捨てて、正しい道に進むことが目的であります。ある人がこう言いました。「悔い改めを一言で言うと、『やめなさい!』ということです。」お酒をやめられない。ああ、お酒をやめられない、どうしよう〜、と悲しむのは悔い改めではないのです。きっぱり止めてしまうのが悔い改めです。とても単純なことであり、ある意味で簡単なことであります。このような話しを聞きました。ある牧師のところに一人の教会員が来ました。「たばこを吸うことは罪ですか。」牧師は、「汝は、たばこ吸うなかれ。」とは書いていないからね〜、と言いました。「けれども、止めたいのかい?」と聞いて、「はい。」とその教会員は答えました。あらっ、君のシャツのポケットにたばこの箱らしきものがあるね〜、と言って、それを取り上げました。そして、「君の車のところに連れて行きたまえ。」と言いました。すると車には、何十箱のたばこがあるではないですか。牧師はそれらをすべて没収しました。そして言いました。「ほら、止められたでしょ?」その人は、それからずっとタバコを吸っていないそうです。でも、たばこを吸っている人を見ると、やはりすいたいという思いが出てくるそうです。でも、止めることができました。その喜びは大きいものでしょう。
ですから、悔い改めることについて、私たちは事を複雑にしてはいけません。そして、もう一つ大切なのは、悔い改めは、自分がその罪を行なったという責任を認めることです。「私が、その罪を犯しました。」と認めるのです。多くの人は、自分がしてしまったことについて、その結末について悲しみますが、その原因については悲しみません。不正を働き、逮捕されて牢獄に入れられたことは悲しんでも、不正を働いたそのものについては悔いていません。けれども、悔い改めは、自分が犯したことを、自分のせいにすることろから始まります。周りにいる人たちの責任にしていては、いつまでも悲しんだままなのです。
コリントの人たちは悲しんで悔い改めました。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。
悲しみの中で、彼らは神さまに立ちかえりました。彼らが行なったことは、まず弁明です。これは、何が問題であるかを明らかにすることです。問題をあやふやにしないではっきりさせることです。次に憤りです。自分たちがしてしまったことに対して、憤りを持ちます。罪に対する憤りを持ちます。そして恐れです。神に対する恐れを持ちます。そして慕う心です。これは主のみこころを求めるために、主を慕う心です。それから、熱意です。主とともに歩みたいという熱意です。これらをとおして、コリント人は潔白であること、主の前に良心がとがめられないことを証明しました。
ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは悪を行なった人のためでもなく、その被害者のためでもなくて、私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるためであったのです。
私たちの間で何か問題が起きると、私たちはとかく、それを当事者だけの問題としてしまいがちです。けれども、そのような問題を未然に防ぐことができなかった、あるいは、その問題に意図的に目を当てなかったことについて考えなければいけません。ある人の問題は全体の問題です。そこで、パウロがあの手紙を書いたのは、あなたたちが主に対してこれだけ熱心になるためであったのです、と言っています。
3B 全幅の信頼 13−16
こういうわけですから、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らぎを与えられたからです。
テトスがコリントに行ったとき、コリントの人たちはテトスを暖かく迎えました。そして、彼にも、おそらくは自分たちの悔いた心を明かしたに違いありません。クリスチャンとしてすべきことを行なっているコリント人たちの姿を見て、テトスの心も慰められたのです。パウロだけではなくテトスも喜んでいました。
私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずに済みました。というのは、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスに対して誇ったことも真実となったからです。
このパウロの気持ちがよく伝わってきます。パウロは、コリントの人たちのことが好きだったので、結構テトスに誇っていました。けれども、もしコリント人がそのほめことばに適わなかったら、パウロが恥をみます。けれども、実際にそのとおりだったので、助かった、面子を保つことができた、と言っているのです。
彼は、あなたがたがみなよく言うことを聞き、恐れおののいて、自分を迎えてくれたことを思い出して、あなたがたへの愛情をますます深めています。
神の事柄について、コリントの人たちは健全な恐れを持っていました。恐れおののいてテトスを迎えた、とあります。権威と秩序があるところに、愛情が生まれます。すべての人が神の前に平等である。なぜ牧師なんかいるのだ、という反抗的な思いを持っているところには、愛情が生まれません。一人一人が孤立していきます。神のみことばを大事にして、そのみことばにしたがって権威を重んじるところに、互いへの愛情が生まれてくるのです。
私は、あなたがたに全幅の信頼を寄せることができるのを喜んでいます。
パウロはここで、1章から今まで語っていたことのまとめを書いています。全幅の信頼を寄せることができ喜んでいる、ことをコリント人たちに伝えたかったのです。この思いに駆り立てられて、パウロは、1章からここまで書き上げました。言いたいこと、伝えたいことを書くことができたので、次に別の話題に移ることができています。
このようにして、パウロはコリントにいる人たちと信頼の関係を保つことができました。そして、その関係を保つために、彼らの罪を責めるという痛いところを通らなければいけませんでした。彼らのことがとても好きだったので、できればその罪を問いただしたくありません。そのままにしたいです。けれども、その罪を取り除かねば、本当の喜びは手に入れることはできなのです。神のみこころにかなった悲しみがまず、必要なのです。ソロモンがこう言いました。「憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(箴言27:6)」愛するがゆえに、傷をつけることがあります。もちろん、悲しみがともないますが、それを神にあってこらえ、悲しみ、自分の過ちを見つけることができれば幸いです。自分が間違っていた、と認めることが一番難しいのですが、それができれば、その先には罪の赦しと、赦されたことによる喜びがあります。この喜びこそが、いのちを与え、救いに至らせる喜びです。悲しむことを恐れず、真実に自分自身を見つめてみましょう。
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