悔いのない悔い改め 2000/12/05

「あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:8-10)」

今週の日曜日は、コリント書第二7章を学びました。ここは、パウロが以前出した手紙に対して、コリントの信者たちが、積極的に応答してくれたことについて、パウロが喜んでいるところの個所です。パウロは、以前の手紙で、彼らの間にある罪を明らかにして、それを取り除くように強く促しました。そこで彼らは、自分たちがほおっておいた教会の問題を、涙をもって取り組みました。愛する者の罪を明らかにすることは、とても辛いことです。けれども、愛しているからこそ、私たちは、罪を犯している人が立ち直ってほしいと願います。箴言には、「憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。(27:6)」と書いてあります。

さて、上の聖書個所には、単なる「悔い」と「悔い改め」の違いがはっきりと出ています。その違いは、第一に、前者が感情的な反応であり、後者が意思的な行為であることです。悔いは、自分がしてしまったことを悲しみますが、それを止めようとはしません。けれども、悔い改めは、きっぱりと自分の罪を捨て去る決断をします。例えば、ある人がアルコール依存症で、帰宅時に通りかかる酒屋でどうしてもお酒を買ってしまうとします。その酒屋の前を通りかかるたびに、「主よ、どうか私がその中に入ることがありませんように、お願いします。」と心の中に祈りますが、買って飲んでしまい、後悔します。けれども、帰宅時に、その酒屋がない他の道を通ればどうでしょうか?…これが、言うなれば悔い改めです。自分を罪に陥れてしまうつまずきの石から、自ら遠ざかることです。

悔いと悔い改めの違いの第二点は、前者が、罪を犯したことによる結末について悲しんでいるのに対して、後者が、罪を犯したこと原因、つまり自分自身を悲しみ、罪を犯した責任を認めることです。刑務所に入っている多くは、自分が牢屋に入っていることを悲しんでいるかもしれないけれども、犯罪を行なったことを悔いてはいないでしょう。同じように、私たちは、ふりかかる災いについては嘆き悲しむかもしれませんが、それを自分のせいであると認めることは難しいです。けれども、素直に単純に、「私が悪かった。」と認めることが、解放への第一歩です。

悔い改めには、必ず罪の赦しがともないます。「幸いなことよ」とダビデが詩篇に書きましたが、罪赦されたことによって、心から喜びが湧き起こります。自分が犯した罪については、憎みはしますが、罪責感で悩むことはなくなります。被害者に対して償いをしなければならないかもしれませんが、それでも、その喜びが自分から取り去られることはありません。ハレルヤ!


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