くれない族 2000/12/10
「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。
(2コリント8:1‐4)」
本日は、コリント書第二8章を学びました。パウロは、エルサレムにいる貧しい聖徒たちのために、自分の巡った宣教地において醵金を募りました。上に書かれてあるとおり、マケドニヤの諸教会では、激しい困難の中にいて、極度の貧しさの中にあったのにもかかわらず、あふれ出る喜びをもって、献金をしました。パウロはこれを「神の恵み」と呼んでいます。けれども、「恵み」というと、私たちは受け取るものであることをしばしば考えがちです。祝福を受け取るときに、恵まれる、というように使っています。けれども、この聖書個所では明らかに、分け与えることやささげることが恵みとして数えられています。
しかし、彼らにとって、分け与えることは、「聖徒たちをささえる交わりの恵み」にあずかることでした。マケドニヤの諸教会の人たちは、聖徒たちと交わることがいかに祝福に満ちたものであるかをよく知っていたのです。私たちも交わりを好み、交わりを求めて人と接触しますが、聖書で語られているコイノニア(交わり)は、分け与えるところの交わりです。人から何かを受け取ることを期待して接触するのではなく、人に与えることを期待して接触することが、「交わり」であります。人に仕えられるのではなく、むしろ人に仕えます。励まされるだけではなく、励ますことを期待して他の信者と接します。このように、自分の持っているものを人に分け与えるときに、その人との一体が生まれて、そして、その交わりが何物にもまさる喜びをもたらすのです。それが、パウロがここで語っているところの「神の恵み」なのです。
かつて、ある方が、「くれない族」という題名でコメントをお書きになりました。教会の人々が、これこれをしてくれない、という思いはあっても、何々してあげるという思いは出てこないのか、という問いかけをされていましたが、まさにその通りです。私たちが、分け与えるところにあるこの上もない交わりの至福を、もっともっと体験してみたいものです。
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