ペテロの手紙第二1章 「主イエスの知識」

アウトライン

1A 神のとしての御力 1−11
   1B 栄光と徳 1−4
   2B 信仰から愛へ 5−11
2A イエスの来臨 12−21
   1B 地上の幕屋 12−15
   2B さらに確かな預言 16−21

本文

 ペテロの手紙第二1章を学んでいきたいと思います。ここのテーマは、「主イエスの知識」です。

1A 神のとしての御力 1−11
1B 栄光と徳 1−4
 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。

 ペテロは、自分のことを「しもべ」と呼んでいます。ギリシヤ語では「デゥーロス」ローマ時代の下級奴隷のことです。すべての権利を主人であるイエス・キリストに明け渡しています。そして、「私たちの神である救い主であるイエス・キリストの義」とあります。私たちの義ではなく、父なる神がキリストによってお示しになった義を通して、私たちは救われました。

 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

 手紙におけるあいさつ、「恵みと平安」という言葉があります。そしてペテロの第二の手紙の特徴は、「主イエスを知る」ということばにあります。次の節にも、「私たちが知ったことによって」とあります。そして、この手紙の終わり、3章18節にて「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」とあります。主イエスを知ることによる霊的成長、これがペテロの第二の手紙のテーマです。

 ペテロの第一の手紙では、ローマによる迫害をクリスチャンが受けることを思って、義のために苦しむことはすばらしいことである、決して罪のために苦しむことがないように、という勧めがありました。ペテロがこの手紙を書いているとき、彼はこれから殉教しようとしていたのですが、「偽教師」に気をつけなさい、という警告をしています。2章に偽教師について詳しく書かれていますが、この手紙の最後で、3章17節ですが、「よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことのならないようにしなさい。」と締めくくっています。第一の手紙では、外部からの苦しみについて取り扱われていましたが、第二の手紙では、教会の中から、内部からの悪について取り扱われています。この動きに気をつけなさい、と勧めているわけです。

 こうした偽教師、主を否定するようなことを言い、人から金をだましとり、また不品行を行なわせるような者たちが教会の中から出てくるのですが、ペテロはそのことを語るときに、ただ彼らに気をつけなさいと命じただけでなく、「イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」と勧めています。霊的な成長が、偽教師、悪、罪、つまずきから自分を守る最大の武器だ、ということです。

 私たちはとかく、「どのようにして自分は罪を犯さないでいることができるか」について、その手段を考えます。例えば、ある方は、インターネットのポルノのサイトを見てしまったが、このようなことをもうしないために、どうすればよいか、セキュリティーをもっと上げるべきか、などいろいろ考えたが、結局、自分の霊を強めることがもっとも大事だ、という結論を出されていました。主イエス・キリストの恵みと知識によって成長することこそが、私たちがつまずかないための安全装置であるということです。ペテロは第二の手紙の1章において、この霊的成長の勧めを行なっています。

 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。

 私たちが、新しいいのちの中に歩むため、また敬虔に生きるための方法と、その力は、「ご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知る」ことによってもたらされます。主イエスを知ることこそが、敬虔に生きるための神の御力が与えられる唯一の道です。コロサイ書には、「このキリストのうちに、知恵の知識との宝がすべて隠されているのです。(2:3)」と書かれています。多くの人が、神からの力を得るために、何か他の新しい方法や、新しい啓示を求めます。ある人は、預言者からの預言が与えられるためにそのような集会に通い、ある人は、笑い転げて自分を発散させるような集会に通いますが、キリストを知ることで十分であり、完全なのです。この方にこそ、いのちと敬虔のために神の御力が隠されています。

 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

 聖書には、神の約束が数多くあります。その聖書の言葉を、私たちは自分のものとして受け入れることができます。ペテロは第一の手紙において、私たちに、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。(1:4)」と言いました。また、イエス・キリストが現われてくださる、つまり再臨してくださることについての約束も語りました。私たちはこれらの約束を自分のものとして受け止めることによって、世の欲がもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかるようになります。

2B 信仰から愛へ 5−11
 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

 ここに書かれていることは、一言でいえば、「成長する」ということです。ペテロは、「あらゆる努力をして」と言っています。これは「勤勉になって」とも言うことができます。私たちの霊的歩みが、一定のところにとどまるのではなく、一歩一歩前進していかなければいけない、ということです。

 「信仰には徳を」と初めにあります。イエスさまを信じます、という告白をしただけでとどまるのではなく、それより一歩先に成熟に向かって進まなければいけません。そこで、「徳には知識を」とあります。イエス・キリストを個人的に、体験的に知っていくこと、神のみことばを通して知っていくことをしていかなければいけません。そして、「知識には自制を」とあります。知識を得ることで行き過ぎにならないように、自制が必要です。そして自制しながら知識を得ていく過程で、「忍耐」が加えられます。それから、「忍耐には敬虔を」とあります。ただ我慢するだけでなく、その中で神の後性質が自分のうちに形づくられていくようになります。そして、「敬虔には兄弟愛を」とあります。敬虔であるということは、自分自身だけの問題ではなく、人に向けられる愛となって現われなければいけません。そして、「兄弟愛には愛を」とあります。兄弟愛は感情のレベルのものであり、相互関係で成り立っていますが、そこからさらに一歩踏み出て、霊的な深い愛へと昇華させます。

 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。

 イエス・キリストを知ったその目的は、「実を結ぶこと」です。イエスさまが、ヨハネによる福音書15章において、イエスさまがぶどうの木であり、私たちが枝である。そこから多くの実が結ばれるのを、父なる神が望んでおられる。実を結ばなければ、枝は投げ捨てられるが、実を結べば、父の栄光が与えられる、とあります。

 私たちの生活から実が結ばれるようになるためには、どうすればよいのでしょうか?それが、今書かれていた、「信仰から徳へ」「徳から知識へ」「知識から忍耐へ」「忍耐から敬虔へ」「敬虔から兄弟愛へ」「兄弟愛から愛へ」という鍛錬を繰り返せばよいのです。

 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。

 もし実を結ばせないなら、その人は、「近視眼」つまり、救われていない人と変わらないことを話しています。これでは、自分たちの罪がきよめられたとしても、意味がありません。私たちは、成長しなければ、後退しなければいけません。「現状維持」という言葉は、クリスチャンの霊的歩みの中ではあり得ないのです。

 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。

 私たちは、キリストにあって選ばれ、召されました。けれども、その選びは、自分のうちから実が結ばれていることによって初めて確かめられるものです。ですから、ペテロは、選ばれていることを確かなものとするために、ますます熱心になりなさいと勧めています。あなたがたは選ばれているのですから、救われいるかいないのかわからないようにするのではなく、はっきりと分かるようにしなさい、と命じています。

 このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。

 天国に入ることについて、私たちはどのような意識を持っているでしょうか?「私は罪を犯しているから、かろうじて救われるかもしれない。」という意識でしょうか?しばしば、イエス・キリストが天国への切符のように語られますが、ペテロはここで、「豊かに加えられる」と言っています。永遠の御国の中に入る希望は、私たちが選びを確かにしていくなかで、豊かになっていくのです。天国への戸が大きく開かれるのを、私たちは確信することができます。

2A イエスの来臨 12−21
1B 地上の幕屋 12−15
 ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。

 ペテロは、この手紙を読むであろう信徒たちが、もうすでに知っていることを話しています。もう知っていることなのに、なぜ繰り返す必要があるのか?それは、「思い起こさせようと」しているからです。しばしば、クリスチャンは、ある人の説教を聞いているときに、「また同じことを話している」と思って過小評価します。けれども、私たちはいつも、同じことを聞いて、そして自分自身を評価して、正さなければいけないところを正すことを行なっていかなければいけないのです。10月上旬に、カルバリーチャペルの牧者会議が東京で行なわれました。アメリカからやってきた牧者たちは、ただ聖書から、カルバリーチャペルの特徴について語りました。それは、私は今まで何回も聞いてきたことです。けれども、耳にたこができるほど聞いているはずなのに、新しく主から語られることがあり、慰めを得たり、チャレンジを受けたりします。同じことによって、私たちの心が奮い立つ必要があるのです。

 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。

 地上の幕屋」とは、人間の肉体のことです。パウロが、肉体を「地上の幕屋」とし、復活のからだを「神の建物」として語っている部分があります。私たちの肉体は神に造られたすばらしい機能がたくさんありますが、けれども病気になったり、衰えたりする不便さを持っています。けれども、新しく与えられる体は、天国に住むために造られるものであり、朽ちることがありません。

 それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。

 ペテロは今、おそらく第一の手紙で「バビロン」と呼ばれたローマにいるのではないかと思われます。彼はイエスさまから、「しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(ヨハネ21:18)」と預言されました。今、ペテロは殉教しようとしています。自分が幕屋を脱ぐその前に、信者たちにこの手紙をしたためているのです。

 また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。

 ペテロが死んだ後も、いつまでもクリスチャンが霊的成長の中に生きてほしいと願い、この手紙を書いています。教会における働きは、多くの場合、その指導者が死んでしまうことにより、その勢いがなくなったり、なくなってしまいます。けれども、指導者ではなく、指導者によって教えられたことを守りつづけるなら、そこからまた新しく運動が始まります。ペテロはそのことを願っています。

2B さらに確かな預言 16−21
 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。

 ペテロは第一の手紙で、「イエス・キリストの現われ」について教えました。主が再び戻って来られることについてです。ペテロは、このことは作り話ではないと強く訴えかけています。その理由として、自分自身が、主の威光を目撃しているからです。

 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

 覚えていますね、ペテロとヨハネとヤコブがイエスさまに呼ばれて、いっしょに高い山に上りました。そこでイエスさまは、その姿が変わり、クリーニング屋でもできないような、白さをもった衣に変わり、光り輝いておられました。そして、そこにモーセとエリヤがいて、これからエルサレムに向かうことを語り合っていました。そして父なる神の声があったのです。「これがわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」と。これは、後に来られるイエス・キリストの威光のごく一部であったわけです。ペテロはこれを目撃しており、決して作り話ではないことを強調しています。

 また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。

 ここに驚くべき言葉が書かれています。「確かな預言のみことば」ではなく「さらに確かな預言のみことば」となっています。ペテロは、自分が目撃したことよりも、預言がさらに確かであると言っています。普通は、目撃していることほど、確かなものはありません。証人の証言が裁判において有効にされるように、ペテロの証言も非常に確かなものです。

 しかし、それよりもさらに確かであると言えるのはなぜか?それは、あまりにも正確に、完全に成就している預言があるからです。マタイによる福音書を読まれてください。マタイ伝は、「預言者を通して言われたことが、成就するためであった。」という言い回しが数多く出てきます。イエスさまの誕生の場所、その系図、宣教、十字架、復活など、約二千年前に来られた来臨によって、実に三百以上の預言が成就したと言われています。そして今、私たちには、イエスの再臨について、千五百以上の預言があると言われています。これらを一つ一つ紐解いて、これら預言のみことばに思いを馳せる必要があるのです。そこで次の節があります。

 夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。

 「夜明け」というのは、主が再び戻ってきてくださることです。今は夜明け前であり、主が来られる前夜であると言えます。このことばを、心の中でともしびとして目を留めておくとよい、ということであります。ワーシップに、「みことばに心留めて、主の再臨を待ち望む」とあります。

 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

 今話した、イエスさまが来られたときの預言の成就についてですが、それらがみな、比喩的に解釈する必要がなく、書かれてあることをそのまま読み取ることができるものでした。過去にユダヤ人は、メシヤがどのような方であるかについて分からないでいました。預言には、栄光に輝く力強いメシヤの姿と、卑しく、苦しみを受けるメシヤの姿のどちらもが書かれているからです。あるラビは、二人のメシヤがいるとまで言いました。そこでユダヤ人は、受難のメシヤは比喩的に解釈して、栄光のメシヤの預言をそのまま受け止めました。したがって、イエスさまが初めに来られたときに、この方をそのまま受け入れることができなかったのです。へりくだって、目立つことがなく、しもべとしての生き方をイエスさまが行なわれていたからです。

 私たちが、再臨のイエスさまについて預言を調べるときに、その言葉の隠された意味などを調べる必要はまったくありません。書かれてあるとおりのことを、そのまま受け入れていれさえすれば良いのです。

 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

 ペテロは、手紙のこの個所以外にも、預言が聖霊に動かされた人によって書かれていることを話しています。例えば、使徒行伝1章です。「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。・・・『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』『その職は、ほかの人に取らせよ。』(16、20節)」ダビデが語ったときに、それは聖霊が彼を動かしておられた、ということです。ダビデ自身も、聖霊が自分を通して語らせておられることを話しています。第二サムエル23章2節です。「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」イエスさまも、ダビデについて同じことをお語りになっています。マルコ伝12章36節です。「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』」このように、預言は聖霊に動かされた人によって書かれており、人間の思いによって書かれたものではありません。

 そして、みなさんも知っておられるでしょうが、有名な聖句テモテ第二3章16節があります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」一言でいえば、「聖書は神のことば」です。当たり前のように聞こえますが、しかし、ペテロは、「これらのことを思い起こさせたい」と言っています。預言のみことばに心を留め、そしてキリストの知識にあってさらに成長します。自分はこの地点で満足だではなく、敬虔に達しているなら知識を、知識に達しているなら自制を、というように、前に前に向かって進むときに、私たちがクリスチャンであることの存在意義が発揮されるのです。


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