1A 滅びをもたらす異端 1−9
1B 贖い主の否定 1−3
2B 怠りのないさばき 4−9
1C 昔 4−6
2C 義人の救い 7−9
2A 理性のない動物 10−22
1B 大言壮語において 10−17
1C そしり 10−12
2C だましごと 13−17
2B 誘惑において 18−22
1C 肉の奴隷 18−19
2C さらに悪い状態 20−22
本文
ペテロの第二の手紙2章を学びます。ここでのテーマは、ずばり「偽教師」です。私たちは前回、主イエス・キリストの知識において成長することの大切さについて学びました。つまずいて、罪に陥ることのないために、私たちは今いるところの立ち止まることなく、一歩一歩、霊的に前進していく必要性を学びました。信仰があるなら徳を加え、徳には知識、知識には自制、自制には忍耐、忍耐には敬虔、敬虔には兄弟愛、そして兄弟愛には愛を加えます。こうすることによって、自分たちを迷わす無節操な者たちが現われても、誘惑に屈することなく、堅く立っていることができるというものです。
そして前回はまた、イエス・キリストの来臨の預言が確かなことについて学びました。その預言は、私的解釈を施してはならず、聖霊によって動かされた人によって書かれたものであることを学びました。そこで2章の1節に続きます。
1A 滅びをもたらす異端 1−9
1B 贖い主の否定 1−3
しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。
聖霊によって動かされた聖なる預言者がいた一方で、自分勝手に、自分の思いによって語る偽預言者もまた、イスラエルの中にいました。偽預言者については、エレミヤ書を読むとよく分かります。エレミヤが生きていた時代は、霊的に完全に堕落してしまった時であり、ただバビロンをとおして神のさばきに服する神のメッセージがあるのみでした。ところが、「主の御告げ ― わたしがバビロン王のくびきを打ち砕くからだ。(28:4)」というような預言を行なう者たちがいました。自分の国が敵によって滅ぼされるなど、だれも聞きたくないメッセージですが、バビロンが打ち砕かれるとか、また「平和」と言っているメッセージは、もちろん人気があります。自分たちが砕かれ、へりくだり、悔い改めなければいけないときに、「あなたがたは大丈夫だ」というメッセージを送ることによって、偽りの保証を与えたのです。そこでエレミヤ書には、主ご自身がこう言われているところがあります。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。(14:14)」これが偽預言者の姿です。
そしてこのような偽預言者の存在は昔のことだけではなく、今の教会時代の中でも現われることをペテロは警告しています。「あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります」と彼は言いました。「あなたがたの中にも」が味噌です。私たちは、にせ教師というものは、正統的な教会の中からは起こりえないだろうと考え、「〜派」というひとつの教派・教団の中にいれば大丈夫だと思ってしまいます。けれども、そうした見方は、新約聖書の見方と正反対です。使徒たちの手紙が書かれたのは、あらゆる異端が教会の中に忍び込んでいたからで、それらを警戒し、また誤った教えを正すために書いていることが多いからです。にせ教師は、私たちの中、つまり教会の中から出てくるものであることを知らなければいけません。
彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。
異端について、「滅びをもたらす」と言っていますが、異端の教えが入り込むと教会は滅び、あるいは多くの傷を負います。それを修復させるには多くの期間が必要です。そして、異端は、「ひそかに」持ち込まれます。どのにせ預言者も、だれ一人として、「わたしたちはにせ預言者です」とは言わないのです。むしろ、私たちこそ正しいことを話していると豪語します。ひそかに持ち込まれるわけで、その教えは80パーセント、90パーセント正しいのですが、残りの10パーセントが間違っている場合がほとんどです。もし100パーセント間違っていたら、私たちはだまされないのですが、わずかしか間違っていないから、教会の中にも入り込んできます。
そして異端とは、「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」ところに特徴があります。自分たちを買い取ってくださった、とあるのですから、「救われている」とされている人々によって異端が持ち込まれます。かつては救霊のために用いられた偉大な伝道者でさえ、不可知論者になったり、また行ないにおいて主を否定するようなことを行なうことが起こります。
異端は、イエス・キリストご自身と、その働きを否定します。使徒の書簡の中で、とくにヨハネは、イエスが肉体を持って現われたことを告白するのは神の霊であり、そうでないのは反キリストであると言いました。独り子としての神が、肉体を取って現われたのがイエス・キリストです。また、キリストの十字架による贖いについて、「十字架を信じるだけでは不完全だ。バプテスマを受けなければ救われない。」と言う異端もあります。キリストが完成されたことを否定する異端です。ですから、私たちが目に留めなければいけないのは、主ご自身でありそのご性質と働きです。主をしっかりと知っていれば、異端が忍び込んできても、すぐに見分けることができます。
そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。
偽教師というのは、多くの者がその教師に付いて来るというのが特徴です。たくさんの人がその教師の教会に集まってくる。その人はキリスト教会の中で活躍している。だから、彼は神の器なのだ、と結論すけるのは間違っています。むしろ終わりの時には、多くの者が真理から離れて、作り話に耳を傾け、好き勝手に教師を集める、とテモテへの手紙の中で預言されていますから、偽教師にはたくさんの人が集まってくるのです。
そして偽教師が行なったことによって、例えば不信者の人から、「だからキリスト教というものは、いかがわしい。クリスチャンも変だ。」などのそしりを受けます。真理の道がそしられるのです。
また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
異端というと有名なのは、エホバの証人やモルモン教、また統一協会でしょうが、けれどもそのような組織的な異端、また教理的な異端だけが異端なのではありません。「貪欲で、作り事のことばをもってあなたを食い物にする」とありますが、へつらいの言葉をならべて、あなたから金を取っていきます。「私たちはこのような主の働きをしていますが、あなたも献金によって参加すれば、これだけの祝福があるでしょう。今献金しましょう。」という手紙が届いたとします。こういった働きの中で、実際にそのような働きを行なっておらず、作り話をしてあなたからお金を巻き上げようとすることもあるのです。
そして、「彼らに対するさばきが怠りなく行なわれている」と書かれていますが、偽教師は今は繁栄しているように見えるかもしれないけれども、必ず滅びに至り、さばかれることをペテロは強調しています。そこで、昔行なわれた神のさばきについて、いくつか例を出します。
2B 怠りのないさばき 4−9
1C 昔 4−6
神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。
一つ目の例は、おそらく天地創造まえに行なわれたであろう、天使に対するさばきです。天使の中でも最高級の天使であったルシファーが高慢になり、神に逆らいました。彼は他の天使を引き寄せて手下にしましたが、神によってさばかれました。そこで、「空中」と呼ばれるところに、この天使、あるいは悪魔が存在します。手下であろうと思われる他の天使は、ここに書かれてあるとおり、多くの者が、地獄あるいは、「暗やみの穴の中」に閉じ込められています。ここはいわゆる「ゲヘナ」とは異なります。ゲヘナは、神の最後の審判が行なわれたときに、永遠に火と硫黄によって焼かれるところの、最終的な罰を受ける場所です。けれども、他の個所では「底知れぬ所」とも呼ばれているところに、天使たちは閉じ込められました。黙示録9章を読むと、大患難の時に、底知れぬ所からいなごのようなものが地上に出てくるとありますが、彼らが暗闇に閉じ込められていた天使たちです。悪魔自身も、主が地上に再臨されてから、千年間、底知れぬところで鎖につながれます。
また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。
二つ目の例は、ノアの時代の世界です。ノアの時代は、人々は悪いことばかりを計り、堕落していたと創世記に書かれています。主はノアに目を留められて、そこで箱舟を造るように命じられました。その造った期間は120年であろうと考えられます。その間、ノアは人々に、義を宣べ伝えていました。おそらくは洪水が来るから、あなたがたも悔い改めて、箱舟の中にはいろうと説いていたのでしょう。けれどもノアの家族8人以外はみな、全世界の人々は洪水の中で滅ぼされました。
また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。
三つ目の例はソドムとゴモラです。ソドムとゴモラでは、ユダの手紙によると、ホモセクシュアル、同性愛が堂々と行なわれていたことがわかります。ロトの家に来た二人の御使いに対し、「おれらは、あいつらを知りたいのだ。」とロトに詰め寄っているソドムの者たちがいましたが、それはまさしく、男性の姿であった御使いたちを陵辱したかったからです。そのために、火と硫黄がその町に降り注ぎました。
2C 義人の救い 7−9
そしてロト自身はと言いますと、彼はその二人の御使いによってソドムの町を、二人の娘とまた妻といっしょに出て行きました。妻は後ろをふりむいたために塩の柱となりましたが、ロトと二人の娘は出て行くことがでました。そこでペテロは、ロトがどうして救われたのかを次に話しています。
また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
ロトは初め、ソドムの町の近くに住み、次にソドムの町の中に住み、ついにソドムの町で役人を行なっていました。悪に引き寄せられていたのですが、彼自身の心は主から離れていませんでした。彼が、ソドムの人々が行なう同性愛やその他もろもろの不法な行ないを見聞きして、悩み、心を痛めていました。今、私たち自身が、創造主を知らないで、不品行をおおっぴろげに見せている日本国の中に住んでいますが、ロトのように心をいため、悩んでいます。けれども主は決して、心を痛める人々をそのままにしておかれません。必ず不義と不正に対して、怠りないさばきを行なわれます。
これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。
ロトがソドムの町を出てから、ソドムの町は滅ぼされました。同じように、信仰によって義と認められ、新しいいのちが与えられた者たちは、地上に下る神の怒り、すなわち大患難を通らずに済むことができます。具体的には、主イエスが天から下って来られて、私たちは空中に引き上げられ、それから地上に大患難が襲います。
2A 理性のない動物 10−22
このように、怠りないさばきが必ず偽教師たちに下るのですが、ペテロはさらに、偽教師たちの堕落した姿を描いていきます。
1B 大言壮語において 10−17
1C そしり 10−12
汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。
ソドムの者たちのように偽教師たちは情欲を燃やし、肉に従って歩みますが、さらに彼らは権威を侮ります。そして、非常に横柄で、栄誉ある人たちを恐れることがありません。ユダの手紙には、別の言葉で次のように書かれています。「彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のために人をへつらって人をほめます。(16節)」私たちは、貪欲な者、またへつらう者に注意すると同時に、横柄な者にも警戒すべきです。これが教師がいかがわしくなる徴候です。
それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。
御使いが主の御前でそしらないことについては、ユダの手紙にある、ミカエルと悪魔の論争の中で見ることができます。二人は、死んだモーセの体のことで論争していましたが、相手をののしり、さばくようなことをせず、「主があなたがたを責められるように。」と言いました(9節)。大天使でるミカエルでさえ、悪魔をののしらなかったのです。
今日のキリスト教会の中で、ここペテロの第二の手紙2章に書かれてあるような不穏な動きがあります。それは、「信仰によって命じれば、そのとおりになる。」という考えであり、動きです。彼らは信仰によって言ったその言葉が実体化して、物事がその通りに動くと言うのですが、悪魔に対しても、「サタンよ、おまえは地獄行きが定められている。」などなど、サタンに対して直接、責める言葉を語りかけるようなことが行なわれます。しかし、ミカエルでさえサタンに対してそのようなことをののしらなかったのです。
ローマ人への手紙13章に、「上からの権威はすべて神からのものです」という言葉があります。これは地上における権威もそうですが、空中における権威、すなわち悪魔についても言えます。悪魔でさえ、神からの許しがなければ私たちを誘惑することはできないのです。こうしたもろもろの権威がありますが、私たちは絶えず、あらゆる権威の下に自分を置くことを学ばなければいけません。たとえそれが悪いものであっても、神に服することによって拒み、決して自分自身に権威が属していると考えてはならないのです。偽教師の特徴は、権威を侮ることです。
ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。
偽教師のことを、理性のない動物、ただ欲望のままに生きる存在としてたとえています。
2C だましごと 13−17
彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。
偽教師は、そしるだけでなく、「だましごと」を行ないます。人をだまして、誘惑の中に、罪の中に引き込むのです。ここで、「あなたがたといっしょに宴席に連なる」と書いてあることに注目してください。ユダの手紙には、「愛餐のしみ」とあります。つまり、いわゆる「クリスチャンの交わり」の中に、このような者たちが積極的に活動しているということです。
その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。
「淫行に満ちて」いるというのは、霊的にでもあり、また文字通りに取れます。交わりの中に女性がいたら、すべてが将来性的交渉を持つ候補者となっているということです。そして、「心の定まらない者たちを誘惑し」というのは、まだしっかりと信仰の上に立っておらず、すぐに罪を犯しやすい弱い人たちのことです。こうした人たちを罪の中に引き込みます。
彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。
バラムはどのようなことで、不義の報酬を愛したのでしょうか?民数記を読むと、彼は、イスラエルをのろいたいバラク王によって雇われたことがわかります。はるばるユーフラテス河畔にいるバラムのところまで、死海のすぐそばのモアブから、使いがやって来ました。バラクは神からイスラエルをのろってはいけない、と命じられていたのに、使いが持ってきた大金を見て、それでその依頼を承諾したのです。
しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。
バラムのろばが、人間の声でものを語ることによって、自分が行なっている気違いざたを知らされました。けれども、偽教師はバラムよりもさらに悪いです。バラムのように、自分の罪がとがめられていないからです。
この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。
イエスさまからはいのちの水が湧き出ます。けれども、偽教師のことばには、いのちもなにもなく、突風で吹き払われる霧のように、実体のないものです。そして彼らの行き先は、「真っ暗なやみ」、つまり地獄です。地獄は福音書で、「外の暗やみ」と呼ばれています。鍾乳洞など洞窟に入って、そこで一度電灯が消されたことがあります。わずか数秒の間でしたが、自分の目の前で手を振っても、何一つその動きを見ることができませんでした。これこそ、真っ暗闇なのですが、地獄はそのようなところです。
2B 誘惑において 18−22
1C 肉の奴隷 18−19
彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。
偽教師の特徴は、人々に罪を犯させるように誘惑すること、肉欲と好色を行なわせるところにあります。「自由を約束している」と言っていますから、フリーセックスのようなものと、宗教的なものをミックスさせることも行なうでしょう。「愛の家族」そして「ファミリー」と呼ばれている団体がアメリカにあり、日本にもありますが、彼らは信者での間の性的交渉が霊的交わりの一貫として教えています。また、ある“正統”と言われている教会では、牧師がカウンセリングの時に、女性の胸や性器をさわったり、実際にその人と性的交渉も行なうことも聞いています。自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。
人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。
これは非常に大切な教えです。肉欲のとりこになっているときに、自分は自由であると思います。確かに、神の権威からは自由になっているでしょう。しかし、肉欲の奴隷となっており、征服された奴隷であるのです。ローマ6章には、「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(16節)」とあります。
2C さらに悪い状態 20−22
ここまでは偽教師についてでしたが、次の残りの3節は、偽教師だけでなく、偽教師の誘惑によって信じる前の行ないに戻った人たちのことについて書いてあります。
主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。
1章で、イエス・キリストを知ることによって、いのちと敬虔についての神の力が与えられたと書かれていましたが、再び世の汚れに戻ったならば、イエスを知った初めの時よりも、状態がもっと悪いものとなります。
義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。
「知る」ということには責任がともないます。知らずに行なったことは、軽いむちで済むが、知っていて行なえば、その罰はひどいということを、主ご自身がお語りになったことがあります。
彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。
自分の吐いた物、つまりもうすでに離れた肉欲や汚れの中に戻るということです。そしてきよめられたのに、再び汚れの中に戻るということです。
こうして、気をつけなければいけないこととして、偽教師について学びました。私たちは1章で学んだように、気をつけていれば、決してつまずくことはありません。罪を犯しても、へりくだって、真剣に悔い改めれば、立ち直ることができます。そして心を注意して見張り、肉の欲を遠ざけて、悪魔の攻撃に抵抗していれば、私たちは安全です。けれども、ヘブル書でも学んだように、私たちの心をかたくなにして、不信仰になり、そこでことさらに罪を犯していて、それで自分は救われていると安心できるような聖書のことばは、どこにもないことを知る必要があります。あなたがたの中から、偽教師が現われ出るとありますから、これは私たち自身の課題でもあります。心の武装をしていましょう。
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