アウトライン
1A キリストの来臨の約束 1−13
1B あざける者 1−4
2B ノアの洪水 5−9
3B 天の万象の崩壊 10−13
2A パウロの手紙 14−18
本文
ペテロの手紙第二3章を学びます。ここでのテーマは「主の忍耐」です。ペテロの第二の手紙のテーマは、「主イエス・キリストの恵みと知識によって成長し、また無節操な者の誘惑に引き寄せられずに、堅実さを失わない。」であります。前回学んだ2章では、あなたがたの間から偽教師が出てくるとペテロは警告しました。人々が主を否定するような異端を持ち込み、人々を食い物にして、また罪を犯させるようにします。こうした者たちへのさばきが怠りなくされる、とペテロは預言しました。
1A キリストの来臨の約束 1−13
1B あざける者 1−4
そこでこう言っています。愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。
ペテロが手紙を書いたのは、二回目です。一回目はもちろん、ペテロの第一の手紙です。この二つの手紙は、今まで彼が信徒たちに教えていたことと同じであったのですが、けれども、記憶を呼び覚まさせたいと思って、書いています。それは、「純真な心」あるいは、誠実な心を奮い立たせるためです。
それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。
ペテロが思い起こさせようとしているのは、聖なる預言者、つまり旧約聖書に書かれている預言と、また主であり救い主であるイエス・キリストについて、使徒たちが語ったことでありました。つまり新約聖書のことです。どちらも、聖霊によって動かされた人々が書いたものであり、聖書はすべて神の霊感によるものであります。
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
旧約聖書の中に啓示され、新約聖書の中で補強された預言のテーマは、「キリストの来臨」です。二千年前にキリストがこの地上に現われてくださいましたが、再び来られることが聖書のいたるところに約束されています。けれども、終わりの日に「あざける者ども」が出てくると、ペテロは予告しています。まだキリストは来ないではないか。あなたがたは、「主がすぐに来る」と言っているが、朝には日が出て、夕方には沈み、世界も地球もこれまでと全然変わらないではないか、とあざける人が出てくる、ということです。
このようなあざける者は、日本いや世界では、もう当たり前にされているのではないでしょうか?そうです、進化論、もっと厳密に言うと、「斉一説」です。斉一説とは、今、自然が成り立っているように、はるか昔も同じように徐々に自然の生態が変化しているだけで、これからもまたずっと同じである、という考えです。けれども、聖書の記述によると、ノアの時代に洪水があって、天地に異変が起こっていることを記録しています。しかし、ほとんどの人は、日々の生活をしていて、この日常の生活がいつまでも続くと思い込んでいます。
そうした、「いつまでもこの世界は同じ」という哲学を持っていますと、人々は、今の世界にあるもので自分を満たそうとします。今ある家、財産、才能、男女関係、家族関係など、目に見えるものがすべてであると思います。ここに、「自分たちの欲望に従って生活」している、と書かれているとおりです。しかし、聖書では、これら目に見えるものが過ぎ去ると預言されています。イエスさまは、「天地は過ぎ去るが、わたしのことばは決して過ぎ去らない」と言われましたが、そのことを侮るのです。
2B ノアの洪水 5−9
こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
ここの「こう言い張る」彼らとありますが、ここは「故意に忘れようとしている」といい直すことができます。自分では知っているけれども、預言のことばを受け入れたくないために、故意に忘れているということです。それはノアの時代にあった創世記の記述です。「天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て」とありますが、一日目に、神が光を造られました。そして二日目に大空が造られましたが、大空は水と水の間に造られたと書かれています。その下のほうの水が一部のところに集まって、乾いたところができました。それが「地」と呼ばれます。したがって、神のことばによって地が水から出て、水によって成り立っていました。ところが、ノアの時代に、同じ水によって人々がノア八人を除いてすべて滅びました。
現代の科学においても、斉一説をくつがえす証拠はたくさん集められています。例えば、化石になったマンモスの胃に消化されていない草があったり、何か突然、大異変が起こった跡がたくさん残されています。世界中に、何らかのかたちで大洪水が起こったとする神話や資料が残されており、以前の生態系が水によって一度破壊されたことを物語っているのです。だから、「これからも、同じようにこの地球はつづく」と考えることは間違っています。あざける人々は、こういうことを知りながら故意に忘れようとしているのです。
しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
ノアとその家族が箱舟から出てきたときに、主は、「わたしは、もう決して、大洪水によって人々を滅ぼすことはしない。」と約束してくださいました。そして今日にいたるまで、洪水によって全人類が滅んだということはありません。しかし、聖書には数多く、火による神のさばきがあることが預言されています。詩篇50篇3節です。「われらの神は来て、黙ってはおられない。御前には食い尽くす火があり、その回りには激しいあらしがある。」イザヤ66章15節です。「見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。」そしてマラキ4章1節には、こうあります。「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。」そして新約聖書にも、かつてテサロニケの手紙第二1章を学んだときに、「主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(7−9節)」火によって、不敬虔な人々がさばきに会います。
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
これは、キリストの再臨について理解するために、鍵となる言葉です。キリストが来られた時に、すでに終わりの日は始まっていました。ヘブル書1章2節には、神は、終わりの時には、御子によってお語りになったとあります。そして使徒行伝2章では、聖霊が弟子たちに注がれたとき、ペテロが、ヨエルの預言を引用して、終わりの日にすべての者に霊が注がれる、と言っています。したがって、その時からすでに、主が間もなく戻って来られるという信仰があったのであり、その信仰が約二千年も続いてきたわけです。
そこで、「もう二千年も経っているのだから、あの再臨の約束というのは実は比喩的なものだったのだよ。エルサレムが滅ぼされたときに、主はもう来られたのだよ。」とか、または、「イエスさまが心の中の王さまになってくださったことで、もう再臨したのさ。」という意見や考えが出てきています。すぐに主が来られるというと、「そんなこと言って、もう何百年も経っているではないか!」と怒り出す人までいます。
その人たちが知らないのは、キリストが現われて、また聖霊が与えられ教会が誕生したとき以来、私たちは「恵みの日」という、特別な時代に入れられていることです。イエスさまはイスラエルの失われた羊のために来られたのですが、ユダヤ人がメシヤを受け入れるのを拒んだために、招待していなかった者たち、すなわち異邦人たちを神の御国に招き入れることをし始めてくださいました。このような、御霊によってキリストのからだとされる人々が出てきてから、神の預言の時計は、一時的にストップされているような状況が続いているのです。そこで、主にとっては、千年は一日のようであるというペテロの言葉につながります。たとえ千年経っても、間もなく来られるという主の約束が無効になったのではない。主にとっては、ペテロがヨエルの預言を引用したときと、今2002年は1日や2日の時間にしか感じておられないのです。
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
主がユダヤ人だけでなく異邦人にも救いを与える恵みの時代は、主が教会のために戻ってきてくださる携挙の時に終わります。(大患難時代のときも異邦人は救われますが、今の時代のように、キリストのからだとしてではありません。)主の来臨が遅れているように見えるのは、それを遅らせているのではなく、人々が悔い改めに導かれるように、主が忍耐深く待っておられるからです。これはクリスチャンだけでなく、未信者の救いもあります。主は今にでも来ようとされています。けれども、主はひとりでも滅んでほしくないと願って、忍耐深くあられるのです。エゼキエル33章1節には、「わたしは誓って言う。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。」とあります。
3B 天の万象の崩壊 10−13
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
「主の日」とありますが、聖書では「主の日」は、日曜日ではなく、神の怒りが地上に下る日のことを指しています。この日が盗人のように来ることは、主イエスご自身が教えられ、またパウロがテサロニケ人への手紙で語り、ペテロもここで語っています。主の日がやって来て、その影響によって天変地異が起こります。
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
肉欲にしたがって生きる人が、キリストの来臨をあざけることを先ほど読みましたが、逆に主の再臨を待ち望む人々は、聖い、敬虔な生き方をするように導かれます。なぜなら、この世にあるものはみな過ぎ去るからです。今、自分が持っているものにしがみつけば、それを失ったときのショックはさぞかし大きいことでしょう。自分の上に泥棒がはいり、財産を奪われたらショックですが、天も地も火によって燃やされるときのショックは、比較にならないほど、形容しがたいショックでしょう。黙示録には、大患難のときに災いを受けている人々の苦しみが書かれています。
ですから、私たちはこの世にあるものに執着してはいけないことを知ります。財産があることは罪でもなく、悪いことでもありません。けれども、今、これら財産がなくなっても良いという思いによって生きる、つまり、今のいのちではあく、永遠のいのちのために生きることができます。これから、我が家計はどうなるのだろうと考えずに、聖霊に導かれたら、信仰の第一歩を踏み出す勇気も与えられるのです。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
神の日が来るのを早めることができると、ここには書いてあります。すごいことですね。これは、「主よ、来てください」と待ち望みながら祈ることであり、それに呼応して、聖い、敬虔な生き方をすることでもあります。
そして、天の万象が焼け溶けてしまうとありますが、イエスさまが地上に来られて神の国が、この地上に立てられます。その統治は千年間続きます。それから底知れぬところで鎖につながれていた悪魔が解き放たれて、多くの者が神に反抗します。神はそれを阻まれて、それから黙示録にこう書いてあります。「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。(20:11)」今の天地が跡形もなくなってしまいます。原子の単位も溶解してしまうのではないかと思われます。白い大きなさばきの御座の後に、黙示録21章1節に、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」とあります。そこで次の節に続きます。
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
全く新しい天と地が造られるとき、そこには「正義」があります。黙示録21、22章に、そこの様子が描かれていますが、「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決してはいれない。(21:27)」と書かれており、正義が宿っている場所であることがわかります。だから、私たちは今の生活も、神の都に入る聖徒として歩まなければいけない、ということです。
2A パウロの手紙 14−18
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
「しみや傷」という言葉は、ペテロの手紙にて三回出てきました。一度目は、イエスさまが流された血が、しみも傷もない小羊のような尊い血、という部分で出てきました。二度目は、偽教師らが、しみや傷であると呼ばれています。「しみや傷」とは、いけにえのための動物にある欠陥のことです。生まれつきの欠陥は、「しみ」と呼ばれ、生後に加えられた傷は「傷」と呼ばれます。主が現われるときに、このようなものがなく、平安をもって出られるようにしなさい、とペテロは励ましています。1章にて、「選ばれていることを確かなものにしなさい」との勧めがありましたが、それと同じです。主の御国にはいるときに、はいれるのかどうかと恐れるのではなく、そのまま大胆に入ることができるようにしていなさい、と勧めています。
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。
「主の忍耐」とは、先ほどペテロが話した、主が忍耐されて、すべての人が悔い改めに導かれるようにしている、ということです。主が来られることを待ち望むときに、またこの世で起こっていることの悲惨さを見るときに、「主よ、あなたはなぜ罰してくださらないのですか。主よ、はやく来てください。」と祈りたくなります。しかし主は、ソドムの町に正しい人がたとえ10人しかいなくとも、その全部を許すような、忍耐深いお方です。この忍耐があるから、人々が悔い改めへと導かれるのです。主を待ち望み、かつ主が忍耐されていることを感謝して、聖い、敬虔な生き方をしていくことに励みます。
それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。
ペテロとパウロ。この二人は、前者が主にユダヤ人に対しての使徒であったのに対し、パウロは異邦人に対しての使徒でした。多くの人が、ペテロが教会の柱であり、パウロが自称使徒であるという中傷を行なっていました。しかし、ペテロがパウロの手紙を推していることによって、パウロの宣教は、エルサレムにおける教会とその教えを同じくしていたのです。
またペテロがパウロを「同労者」と言わずに、「兄弟」と言っていることに注目してください。彼らは、奉仕をしている仲間である前に、愛する兄弟でありました。たとえ奉仕をしていなかったとしても、ペテロとパウロは兄弟として愛し合っていたことでしょう。ミニストリーをするときの仲間は、このようであるべきです。ミニストリーがなくなっても、その人との間に信頼関係があるのかを自問してみると良いと思います。
その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
パウロの手紙は、パウロ自身が、曲解する者たちに対して警告しています。パウロは神の恵みと、信仰による義を強調したために、「罪が増し加わるところに、恵みがあふれる」という言葉を曲解して、罪の中にいても許されると考える者たちがいたことでしょう。パウロは罪の中に生きることなど、「絶対にありません」と言って、完全否定しています。ペテロも、そのような恵みを放縦に変えるような者たちがいることを指摘しています。
愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。
ペテロの手紙のまとめの文に入りました。二つのテーマがこの手紙にありますが、一つは、「よく気をつけ」ることです。無節操な者たちが出てくること、また2章では偽教師が現われること、また、キリストの来臨をあざける者が出てくることを語りました。こうしたことを、実際に出てくる前にあらかじめ知っておきなさい、とペテロは勧めています。
これは私がクリスチャンになる前ですが、大学一年生のときのことです。ミッション系の大学でしたが、キリスト教概論の初めの授業にて、三大異端と言われている、エホバの証人、統一協会、モルモン教のことについて、先生が教えてくれました。名前は聞いたことがありましたが、先生はそこで教えられていること、教義を黒板に書いて説明してくれました。日本はマスコミでも、どこでも、輸血拒否とか、合同結婚とか、社会問題について取り扱っても、そこで教えられていることをフォーカスすることはまれですね。けれども、その部分を教えてくれました。それが4月のことですが、9月か10月でしょうか、私があるサークルの紹介として、駅前で誘われて、マンションの一室に入りました。とても雰囲気の良い部屋でした。そして、ビデオを見ようと言うことでしたが、そこにはまたもや優しそうな教授の人が、何か説明しています。そしてそこに出てきたものが、キリスト教概論で宗教主任の先生が教えてくれた、統一協会の教えそのものだったのです。そこで私はすぐに、逃げ出すことができました。
同じようなことをペテロは、第二の手紙で行なおうとしています。偽教師が現われて、主を否定して、人を食い物にし、人を誘惑すること。キリストの来臨をあざける者たちが出てくること。恵みを放縦に変える者が出てくることなど、まえもって知っておけば、あとで引き込まれなくて済みます。
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。
私たちが、怪しいものに巻き込まれない最大の防御は、本物を知ることです。悪霊の働きを知ることよりも、聖霊との関係を知ること。悪魔のことを知るのは大事だが、神ご自身のことを知ること。そして何よりも、主である救い主であるイエス・キリストの恵みを知ることが大事です。それにおいて成長するときに、私たちは平安をもって、主の現われのときに、御前に出ることができるのです。
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