1A 神の愛とキリストの忍耐 2:13−3:5
1B 初めからの選び 13−17
2B 悪者からの救出 1−5
2A たゆまない善行 6−18
1B しまりのない歩み 6−15
1C 使徒たちの模範 6−11
2C 兄弟への戒め 12−15
2B 絶え間ない平和 16−18
本文
テサロニケ人への手紙第二2章を開いてください。今日は、2章の後半部分13節から学び、3章の最後までを学びます。テサロニケ人への手紙の最終回となりました。ここでのテーマは、「パウロたちの言い伝え」です。
1A 神の愛とキリストの忍耐 2:13−3:5
1B 初めからの選び 13−17
それではさっそく、2章13節をごらんください。しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。
パウロは「しかし」という言葉から始めていますが、これはもちろん、2章の初めからの話の続きになっています。パウロは、テサロニケの教会に、主の日がすでに来ているという教え、またうわさが入ってきていることを知りました。主の日とは、神の御怒りが地上に現われるときであり、パウロは第一の手紙で、その患難から救われることをテサロニケの人たちに話していました。けれども、テサロニケの人たちは、その激しい迫害と苦しみの中にいて、すでに神からの大患難が来ている、と考えてしまったのです。
そこでパウロは、主の日が来るときには、必ずその前に起こることがあることを教えました。それは背教と、反キリストの現われです。反キリストが現われて、神殿の中に座を設け、我こそが神であると宣言し、彼にひれ伏さない者はみな殺すようにします。このことが起こらない限り、主の日はまだ来ていません。そして、この反キリストは、悪魔の権威を帯びてやって来るので、あらゆる偽りと欺きをもって人々をだまします。福音の真理を受け入れなかった人々は、これらの惑わしを信じるようになり、反キリストとともに彼らもさばかれるようになります。
このように、恐ろしいさばきが神によってもたらされるのですが、パウロはテサロニケの人たちには、「神が、あなたがたを初めから救いにお選びになったのです」と言って、彼らを慰め、励ましているのです。クリスチャンたちが、この恐ろしい主の日を経験しなければならない、というのは、謂れのない噂であり、パウロたちが宣べ伝えている福音にもとづくものではありません。だれでもキリストのうちにある者は、必ず、キリストによって神の怒りから救われるのです。
テサロニケ人への手紙を読むと、終末のことを教会が取り扱うときにしばしば起こる、あやまった考えや行動が、実は初代教会のときにも起こっていたことに気づきます。3章5節以降には、何の仕事もしないで、おせっかいばかりしている者がいることをパウロが指摘していますが、主イエスが戻って来られるから、自分が今行なっていることをやめてしまう人が、必ず出てきます。そして、この2章で取り扱われているように、大患難がクリスチャンへの懲らしめやさばきであるかのように語りかけ、神への畏れではなく、恐怖心を植付けさせるメッセージをする人たちもいます。しかし、パウロは今、主の再臨が近いからこそ、自分が救われていることに確信を抱き、その救いの保証の中に堅くとどまることを教えているのです。
パウロは、彼らが救われていることを教えるために、神が初めから彼らを選ばれていることを教えています。これほど、ほっとすることはないでしょう。自分が神を選んでいるのなら、自分の意欲次第で神から離れることは容易です。けれども、天地万物が創造される前から、神はキリストにあって、私たちを傷のない者、汚れのない者として私たちを選ばれました。そして、私たちが福音の真理を信じたのも、自分が泥沼の中をかきわけて、隠された宝を見つけたのではなく、「御霊による聖め」つまり、神なる御霊が特別に私たちを選び別けられたから、信仰にいたることができたのです。信じなければいけないのですが、しかし、それは自分の意欲によってではなく、神の選びによったのです。
ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。
神が私たちを選ばれたら、神は次に私たちを召し出されます。私たちが福音を信じたのです。そして、それは主イエス・キリストの栄光を得るためですが、それは主が再び来られるときに、私たちが主と似たような栄光の姿に変えられるときに与えられます。
ここで、「私たちの福音によって」とパウロは言っていますね。「私たちの」と付け足しているのは、他に福音と呼ばれる教えが彼らの回りに飛び交っていたからです。けれども、パウロたちがイエス・キリストの使徒であり、その使徒の権威を認めることによって、初めてこの福音が自分のものとなったのです。これは現代の私たちクリスチャンにも当てはまります。「福音」と呼ばれるさまざまな教えが私たちの周りにもありますが、私たちはあくまでも、新旧約聖書66巻を最高権威、信仰と生活の唯一の基準として生きているわけです。使徒たちが権威にしていたものを権威とし、また、使徒たち自身のことばを神からのものとして絶対的真理として受け入れているのです。他にもいろいろな経典があるかもしれませんが、私たちは、テサロニケの人たちと同じように、使徒たちが宣べ伝えた福音によって救われたのです。
そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。
「堅く立ちなさい」という勧めは、第一テサロニケの3章においても語られていました。私たちクリスチャンの務め、とくに終わりの時を意識して生きるときに勧めは、「堅く立つ」ということです。主イエス・キリストのうちに堅く立ち、主の中に根ざし、立てられていきます。
そしてここに、「私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝え」とあります。パウロたちが実際にテサロニケの人たちに語ったことば、そしてパウロたちからの書簡であります。パウロたちが、主から啓示を受けて、また主から権威を授けられました。この福音の真理は、すでに完成したものであり、これ以上付け足されるものではありません。したがって、その他の人々は、パウロたちのことばを言い伝える、また受け継いでいくという仕事が与えられています。
これはとても大切な点です。というのは、キリスト教会は、何か新しい発見、新しい動き、新しい云々と、新しいものを求めて、歩き回る傾向があるからです。今、自分が持っている真理では物足りないものであるかのように、他の何かを求めています。しかし、これ以上新しい啓示も、真理も存在せず、ただ使徒たちが分け与えた福音が、真理のすべてであり、私たちはそれを継承する者たちであります。過去の先輩の信仰者たちが残した遺産も大事にしながら、使徒に与えられたことばと行ないを、私たちは言い伝えとして守っていくのです。パウロは、主が間もなく来られることに際し、テサロニケの人たち、また私たちがしなければならないのは、言い伝えを守ることであると言っています。
どうか、私たちの主イエス・キリストであり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。
パウロは、苦しみの中にいるテサロニケの信者たちの心が慰められ、がっかりしないで強められるよう祈っています。そのために必要なのは、ここで書かれているとおり、主イエスと父なる神ご自身からの愛と恵みであります。主が私たちを愛してくださいました。そして、恵みをお与えになりました。ここに初めて、私たちは究極の永遠の慰めを見出すことができ、すばらしい望みを得ることができます。実に主が来られることは、恐ろしいことでは決してなく、その正反対であり、永遠の慰めが与えられる出来事なのです。
そしてこの慰めと望みを知った者が初めて、押し出されるようにして、良いわざとことばとに進むことができるようになります。この順番を間違えないでください。良い行ないとことばが優先するのではなく、愛と恵み、そして慰めと希望が優先するのです。これらがあって、初めてキリストにある善い行ないをしていくことができます。
2B 悪者からの救出 1−5
そしてパウロは、彼らの祈りを要請します。終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。
パウロは他の手紙でもそうですが、主のみことばが広まるように、またあがめられるように祈ってほしいと願い出ています。神のみことばは、イザヤ書55章11節に書かれているように、「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」であります。けれどもこの約束は、人々の祈りをともなって実現していくことが、パウロの祈りの要請から理解できます。ですから、どうか祈ってください、私のためにも。みことばが広まり、みことばがあがめられるよう、祈っていただけるとありがたいです。
また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。
パウロは今コリントの町にいますが、彼の使徒職に挑みかかる者たち、パウロの教えにはむかう者たちがいました。このような者たちから守られるように祈ってほしいと言っています。
けれども、パウロはすぐ、自分のことから離れて、テサロニケの人たちを励ますことばに戻しています。しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。テサロニケの人たちにも、さまざまな悪意をもった教師たちがやって来ているでしょうが、主は真実なかたであるから、彼らを悪い者、悪魔から守られると信じています。
私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。
パウロはテサロニケ人への手紙第一で、とくに5章の中に、さまざまな勧めをしました。「いつも喜んでいなさい。」「絶えず祈りなさい。」「いつも感謝しなさい。」などですね。これらを彼らが実行してくれるとパウロは主にあって確信しています。そして6節から、さらにもう一つの命令を付け加えます。
どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。
彼らを再び、神の愛へと心が導かれるように祈っています。これが、私たちのための祈りであることを覚えましょう。神は私たちを愛しておられます。神が味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。どのようなものも、キリストにある神の愛から切り離すものはありません。この神の切り離せない愛の中にいるときに、私たちは苦しみの中にいても耐え忍ぶことができるのです。そしてもちろん、「キリストにある忍耐」とは、キリストが間もなくもどってきてくださるところにある忍耐です。
2A たゆまない善行 6−18
1B しまりのない歩み 6−15
1C 使徒たちの模範 6−11
兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。
パウロは、これまでにも増して、主イエス・キリストご自身の権威をもって、訓戒を与えます。それは、締まりのない歩み方をしている兄弟たちから離れなさい、という命令です。「締まりのない歩み方」というのは、義務を怠っている人たちという意味ですが、具体的には仕事をせずに、他のクリスチャンのたちの与えられる物で生きている者たちのことです。苦しみの中にいるクリスチャンたちが血と汗を流して得たその財産にあぐらをかいていた者たちがいました。
これは、先ほど説明しましたように、主が間もなく来られるのだから何も仕事をしなくてもよいと考える者たちがいた、ということです。事実、このようなことが今日の教会でも起こっています!主が来られるからと言って、長期的な視野に立たなければやっていけない伝道活動や、教会堂建設などを止めてしまったり、ここにかかれているとおり、仕事までやめて、主の再臨を待つ人までいます。これは、完全に主の再臨、また携挙のことを履き違えているのです。主の再臨を思うことは、今読んできたように、神の愛と恵みを知ることそのものであり、永遠の慰めとすばらしい望みが与えられる類のものなのです。その神のすばらしさが原動力となり、信者が愛と慈善の行為へと駆り立てられるのが、主が戻って来られるという真理がもたらす実なのです。
パウロはここで再び「言い伝え」と言っていますが、それはいったいどういうものだったのでしょうか。次をごらんください。どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。
パウロたちが使徒として、また福音宣教者として、物質的報酬を得る権利を持っていました。けれども、彼らは労苦しながら働きました。それは、彼らはことばだけではなく、その生き方によっても、後代の信者たちが受け継ぐべき言い伝えを残さなければならなかったからです。キリスト者がどのように生きるべきかを、彼らのことばだけではなく、彼らの行ないを見て、それに倣うことができるようにしなければならかったのです。ですから、私たちはクリスチャンとしての指針を、使徒たちの生き方の中に見出すことができます。イエスさまご自身は私たちの信仰の対象ですが、このキリストのうちにあって生きるとはどのようなことであるのかは、私たちは使徒たちを見ると理解することができるのです。ここでは、自分で働くことがキリスト者としての生き方として示されています。
私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。
パウロが話している締まりのない者とは、仕事を一生懸命探しても見つからずにいる人のことではありません。働く気がない人のことです。そのような者は食べる権利はない、とはっきり言っています。
ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。
おそらく、このような締まりのない人たちは、自分たちがいかにも霊的で、信仰的であるかのようにふるまっていたかもしれません。仕事をしていることが何か汚れた、霊的に劣ったもののように考え、地道に主にあって奉仕をしている人たちを斜めに見ながら、持論を展開させていたような人であったかもしれません。いずれにしても、彼らは「おせっかい」ばかりをしていました。
2C 兄弟への戒め 12−15
こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。
パウロは再び、これが主イエス・キリストご自身による命令であることを強調しています。締まりのない歩み方は、主ご自身に真っ向から反抗しているのです。
しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。
私たちが親切心で、人を助けているときに、それが利用されると、本当にがっかりして、もう助けるべきなのか悩むときがあります。しかし、パウロは、本当に事欠いている人、困っている人たちがいるのだから、たゆむことなく善を行ないなさいと勧めています。テモテへの手紙にはいると、やもめを助けるときに、本当のやもめを助けなさいという勧めをしていますが、私たちは、だれが本当に事欠いているのか、困っているのか、助けを必要としているのかを見分けなければいけません。助けたら、その人が自立への道を進むのではない場合、自活への道を歩まない場合、私たちは援助を控えるべきなのです。なぜなら、主イエスご自身が、私たちが自分の働いたお金で生活するように命じておられるからです。
兄弟たちよ。もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。
先ほど「離れなさい」という命令がありましたが、それは具体的には、その人を具体的に指名して、故意に意図的に交際をしないようにする、教会の交わりの中には入れない、という措置を取るということです。このような行為は、教会の秩序のためでもありますが、それ以上に、その人が罪を悔い改めるために必要なことなのです。
その人を本当に愛し、その人が回復するためには、自分で自分のしていることの結果を刈り取らなければいけないときがあります。その結果がいかに惨めであるか、恥ずかしいことであるかを知ることによって初めて、回復する機会が与えられます。イエスさまがたとえで話された、放蕩息子のようにです。神の家族から一旦離して、ぶたのえさのいなご豆を食べたいと思わせるところまでさせなければいけないことがあるのです。
このような人たちに対して私たちが陥りやすい過ちは、その人に話しかけてしまうことです。何とか説得すれば回復するかもしれない。こちらがやさしさを示せば、回復するかもしれない。教会はいろいろな人たちを受け入れるところだから、という合言葉をもって、接しようとします。けれども、完全に相手にしないことが必要なときがあるのです。これは、異端の教えを持ち込む人にも言えるし、分裂を引き起こす人にも言えることです。
かなり前のことになりますが、ある掲示板で、一人の人がどこかの聖書個所について質問する書き込みがありました。私はその人がリンクさせているウェブサイトの入ったところ、異端の団体に属する人であることが分かりました。そこで私は、その人の書いていることに、どこが間違っているのか、誤っているのかを短く説明し、異端であるから一切相手にしないように、避けるようにと書き込みました。すると他のクリスチャンが、「別に、大切な贖いの教えについて語っているからいいじゃないの。相手が何であろうと私には益があるのだから。」とおっしゃっていましたが、けれども私は、いっさい相手にしないように、というローマ16章のパウロのことばを引用しました。もしそのまま対話を続けていたら、とんでもない方向に行ったことでしょう。このような対処が、教会の中にも必要なのです。
2B 絶え間ない平和 16−18
そしてパウロは最後に祈りとあいさつのことばを残します。どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
平和を祈る祈りです。これは第一の手紙5章23節でもそうでした、主の再臨は、平和の主の再臨であります。この方を待ち望むとき、私たちのあらゆる生活の領域において平和が与えられます。
パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。
パウロは口述筆記をさせて、自分の手紙を書いていましたが、このようにして最後に自筆で挨拶を書きます。パウロの手紙であるといって出回っている手紙があったからです。このサインで、本当にパウロからのものであることが分かります。
どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。
最後の挨拶は、主ご自身の恵みです。これがすべてであり、クリスチャン生活の源です。こうして、テサロニケの手紙を読み終えましたが、結局はパウロたちの言い伝えを守ること、これに尽きます。そこから離れるときに、周囲の教えの風に吹き回されてしまいます。主の恵みと愛からすべてをはじめて、そして現在ある苦しみに対処し、耐え忍び、主が来られることを思って、慰めと希望を得ます。この中で、良い行ないをことばに進むのですが、こうした営みは実に地味です。けれども、地味なのです!クリスチャンはこうした地味な歩みをする者であり、パウロたちの信仰の継承者であります。
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