アウトライン
1A 困難な時代 1−9
1B 自分を愛する者 1−4
2B 真理にそむく者 5−9
2A 敬虔に生きる 10−17
1B 模範 10−13
2B 聖書 14−17
本文
テモテへの手紙第二3章を開いてください。ここでのテーマは、「終わりの時に備えて」です。それでは、さっそく1節を読みましょう。
1A 困難な時代 1−9
1B 自分を愛する者 1−5
終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
1章の学びのときに、テモテへの第二の手紙が書かれた背景をお話しましたが、パウロのもとから多くの同労者が離れてゆき、違った教えを言い広めている者たちがたくさんいました。教会は、イエス・キリストの真理ではなく、まったく違う土台の上に建てられていました。これを「背教」と呼びますが、パウロはこのような状況の中で、それでも信仰を保っていく、信仰の戦いについて語っています。
そしてこの背教の時代について詳しく話しているのが、この章です。パウロはこれを「困難な時代」と呼んでいます。ここで使われている「困難」のギリシヤ語は、マタイ伝8章28節にある「狂暴」という言葉と同じです。ガリラヤ湖の向こう岸に、ガダラ人が住む地にイエスが来られましたが、そこでイエスに会いに出てきたのが、悪霊につかれたふたりの者です。墓からやって来ました。「らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった」とあります。
終わりの時は、悪魔や悪霊が猛威を奮うときであります。テモテへの手紙第一にも、後の時代には、ある人たちが惑わす霊と悪霊の教えとに心が奪われる、とパウロは言っています(4:1)。この時代は単に、悪いことが起こっているときではありません。悪霊がはびこり、世界で起こっている事柄が、まさに悪霊的な様相を呈します。
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、
パウロは今、終わりの時にこれらの悪霊のしわざに振りまわされて、どのような人々が増えてくるかを説明しています。ここで大事なのは、5節ですが、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです」というところです。彼らは、神とか教会とか何も関心のない、非常に世的で、世俗的な人たちのことではありません。「見えるところは敬虔」とあるように、宗教的な人たちであります。ですから、今、読んでいることは、教会の外で起こっていることだけではなく、教会の中で起こっていることでもあるのです。
パウロは一つ目に、「自分を愛する者」と言っています。これが、すべての悪の始まりです。自分を愛しているから、金を愛したり、大言壮語する者になったりします。イエスは言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34)」また、こうも言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』…『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコ12:30-31)」神を愛して、そして自分自身のように隣人を愛して、そして自分は神と隣人に仕える、というのが、クリスチャンの生き方です。自分ではなく神、自分ではなくキリスト、がクリスチャン信仰の土台になっています。
しかし、これを否定する教えが、教会の中にはびこっています。それは「自分を愛せよ」という教えです。自分が大切にされていない、自分がこんなことをされている、自分が、自分が・・・と「自分」が大切にされることが、もっとも大事な価値観となっています。このような人たちは、たいてい「神は愛です」という言葉を使います。そして、自分のわがままをすべて神によって許してもらい、神ではなく自分自身が神としてふるまう、そんなことが今、最高の価値観とされています。これを別の言い方をすれば、「ヒューマニズム」です。人間至上主義であり、神至上主義に真っ向から対立しているのです。
福音は、私たちがキリストとともに十字架につけられ死に、キリストとよみがえったことにより、新しいいのちにある歩みをするという面で、魅力があり、力があります。イエスが、「真理があなたを自由にします。」と言われたように、真理が語られるときに、人は、これまでどうしようもなくなっていた罪の問題を、根こそぎ取り除く力が与えられるのです。ところが、このことを否定し、むしろ、この真理のことばを、「あなたは、そのようにして、人をさばいている。どんでもない牧師だ、教師だ!」と糾弾し、攻撃するのです。真理のみことばに対して、徹底抗戦で臨みます。これが、「自分を愛しなさい」という教えの真相であり、終わりの時にはびこる悪霊の教えであるのです。
そして次に、「金を愛する者」とあります。クリスチャンは、金を管理し、支配する立場にいます。金に支配されては決していけません。金に支配されるとき、ここで書かれている「金を愛する者」となります。そして、「大言壮語する者」です。これは文字通り、自分が持っていないものを持っているかのようにふるまい、宣伝する人です。宗教においても、いろいろなことをさせて、その後に来る約束を提供するけれども、決してその約束が実現しません。これが大言壮語です。そして、「不遜な者」です。この原語の元々の意味は、「度を超して輝く」です。私たちは、それぞれ神の恵みによって、信仰によって、置かれている領域があります。その置かれているところにいとどまるとき、私たちから主の栄光が反映されるのですが、その領域を越えて、自分があたかも神に用いられているかのようにふるまうのであれば、ここで言う「不遜な者」です。そして、「神をけがす者」です。冒涜です。神の権威に公然と立ち向かいます。
そして次に、「両親に従わない者」とありますが、十戒において、神を愛するための四つの戒めが語られた後、すぐ現われるのが、「父と母を敬いなさい」です。子にとって両親は、神を表すための代理人です。子は両親に従うことによって、神に従うことができます。終わりの時には、両親に従わない者が大ぜい出てきます。そして、「感謝することを知らない者」「汚れた者になり」とありますが、両親に育てられたことを感謝することをせず、思いが悪意で汚染されています。
情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、
「情け知らずの者」とありますが、これが「自然の愛情を持っていない者」と言い換えることができます。「愛」という言葉には、いろいろなギリシヤ語がありますが、例えば、エロス、フィレオ、そしてアガペです。そしてここでは、家族に対する愛が使われています。この愛がないのが、ここでの「情け知らず」です。そして「和解しない者」は、本当に和解しない者の意味です。絶対に人を赦さない者、徹底的に敵意を示す者であります。次に「そしる者」ですが、これは悪魔や悪霊を呼ぶ時に使われる言葉でもあります。告発者、とも言い換えられます。根拠がなく人を責め立てる者です。「節制がない者」も文字通り節制がない者、「粗暴な者」は、穏やかという言葉の反対語になっています。「善を好まない者」とは、人が苦しんでいるときに、「おわかいそうに」と声をかけるかもしれませんが、その苦しみを和らげるようなことはしない者です。善を行なうことを好みません。
そして「裏切る者」「向こう見ずな者」ですが、その通りです。「慢心する者」の原語は「煙」が元々の意味になっています。つまり、煙が立つように高慢が目立つ様を表しています。そして最後に、「神よりも快楽を愛する者」です。先ほどから「愛」という言葉が使われていますね。自分を愛する者、金を愛する者、そして神よりも快楽を愛する者です。
見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。
ここで大事な言葉が二つあります。先ほども説明したことですが、一つは、「見えるところは敬虔」であるということです。一見、敬虔であり、霊的であるように受けとめられます。例えば、「神は愛です。」という言葉を使います。または、「弱い者を助けなさい」という言葉も使うでしょう。「赦しなさい」「さばいてはいけません」こう言った、柔らかな言葉を使うかもしれません。しかし、もう一つは、「その実を否定する」のです。神が私たちを愛しているのは、私たちが罪の縄目から解き放たれるためであり、私たちが聖なる者として歩み、御子に似た者として変えられるためです。神の愛に満たされて、自分が神の愛のうちに生き、その愛を他の人々に分け与えていく、これが神の愛の目的であり、私たちに対する戒めは「互いに愛し合いなさい」なのです。しかし、罪のうちにとどまっていることを、「神は愛です」という布切れでおおい、その人を罪から悔い改める機会を奪ってことすらしています。これが「その実を否定する」ことであります。宗教的なこと、霊的なことは語られているのですが、そこに力がないのです。実が結ばれないのです。
2B 真理にそむく者 6−9
パウロは、そのような人たちの例を語ります。こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。
当時のギリシヤ社会の中で、高貴な女たちをつかまえて、性的関係を持つ者たちがいたそうですが、宗教者たちの中に、「教師」と呼ばれている者たちの中に、そのようなことを行なっている者たちがいたようです。しかし、これは過去だけの話ではありません。現に、この日本でも、またアメリカでも起こっていることです。今は、悪霊が猛威をふるっている時、困難な時なのです。
その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。
ここも大事な言葉です。「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることはできない」です。多くの集会に通い、キリスト教の活動で忙しくし、たくさんの本を読んでいるのに、それでも、自分が抱えている問題を解決するのに、これらの活動が何ら貢献していない、ということがあります。むしろ、そのように多くを宗教活動に費やしているために、心や魂が疲弊して、罪の生活の中に入り込んでしまう人たちもいます。これは、それらの活動が、「真理」にしたがって行なわれていないことに原因があります。自分の気持ちや、精神的、心理的必要を満たしているのかもしれませんが、霊的必要を満たしていないことがあるのです。
また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。
ヤンネとヤンブレとは、モーセがアロンとともにエジプトのパロのところに行き、さまざまな不思議と奇蹟を行なったときに登場した、魔術師たちです。二人の名前は出エジプト記に出てきませんが、パウロが他の文献でその名前を知ったのでしょう。この時の話を思い出すと、モーセとアロンは、イスラエルの神がおられることをパロに示すために、パロの前で、アロンの杖を蛇に変えました。ところがヤンネとヤンブレが、同じように杖を蛇に変えました。そこでパロの心はかたくなになりました。そして、モーセとアロンは、その杖を使って、今度はナイル川を血に変えました。ところが、この呪法師たちも同じことをして、パロの心はかたくなになりました。このようにして、神の証しを打ち消して、モーセが語った神のことばを、無きものにしようとしたのです。
言い換えれば、このような人々は、偽まがいのものを行ない、代替物をこしらえることによって、真理に逆らいます。私たちは、統一協会が偽りであることは、すぐに分かります。彼らは聖書を知らず、多くの異教的な行為を行なっているからです。しかし、キリスト教会と呼ばれているところで、いわゆる正しいことが90%行なわれ、10%だけが、微妙にずれているとき、私たちはそれを見分けることが難しくなります。そして、その中で傷ついた人々は、10%だけを捨てるのではなく、残りの90%の良いものも、捨ててしまうことがあります。これが悪魔の仕業であり、私たちが気をつけなければいけないのは、繰り返しますが、「見えるところの敬虔さ」なのです。
でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりのばあいのように、すべての人にはっきりわかるからです。
エジプトの二人の呪法師は、アロンが出したぶよを出すことができませんでした。そして、ついに、モーセがまき散らした、かまどのすすによって、彼らの全身毛が剃られた、つるつるの肌に膿が出来て、彼らは倒れてしまいました。同じように、偽まがいのことを行なっている者たちは、いつかはっきりと、すべての人にわかるようになります。
2A 敬虔に生きる 10−17
ここまでが、終わりの時の困難な時代の描写でありましたが、私たちは、これらのものを避けて、守られるためには、どのようなことをしなければいけないのでしょうか。終わりの時の困難にあって、私たちは何を焦点に当てていれば良いのでしょうか?
1B 模範 10−13
しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。
私たちが焦点を当てていくべき、第一の事柄は、霊的指導者の模範です。パウロは、「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(1コリント11:1)」と言ったことがありますが、キリストに見ならっている人たちを、自分を指導する人としてみなしていくことが大切です。具体的には、どのような人でしょうか?パウロは、「私の教え」と初めに言っています。パウロが直接受けた、主イエス・キリストの啓示がありました。パウロが教えるところの、福音の真理、キリストの奥義を、包み隠さず大胆に伝えていることが必要です。健全な教えであるかどうかが、判断されなければいけません。
次に、「行動」です。パウロは単に、教えただけではなく、その教えにしたがってどのように生きればよいかを、生活を通して示しました。例えば、彼は、自分の手で働きました。私は、カルバリーチャペルで、このような尊敬すべき指導者を見る恵みにあずかりました。例えば、ほとんど人に名前が知られていない牧師が、受け取った電子メールの祈りの課題を、丹念に祈りつづけている話を聞いたり、とにかく、自分を主張せずに、祈りとみことばに専念している姿を見、私は見ならうべきたくさんの模範に出会ったことを、神に感謝しています。「行動」が判断材料です。
そして、「計画」です。これは「目的」と言い換えたほうが良いと思います。パウロが決意していたこと、立てていた志は非常に強く、はっきりとしていました。福音を異邦人に伝え、しかも、まだみことばが伝えられていないところに行き、宣べ伝えました。その結果、あの三回の宣教旅行の道のりになりました。そして「信仰」です。私たちが目的を持っているだけでは、宣教は進展しません。パウロは、主によって行くべきところが語られ、また何が起こるか分からないけれども、主を信頼して、前に進みました。マケドニヤから助けを求められた人が夜に現われたときに、彼はコリントまで行くことを知っていたでしょうか?いいえ、知らないけれども、信仰をもって踏み出すことが必要なのです。そして「寛容」です。これは、何かを許容するという意味ではありません。何か悪いことをされたときに、仕返しをせず耐える、という意味です。英語ですと、longsufferingです。パウロは、仕返ししようと思えば、いくらでもたくさんできましたが、そのようなことは決してしませんでした。そして、「愛」ですね。パウロは、ローマ9章において、肉の同胞であるユダヤ人のためなら、自分が神に呪われたものとさえなってよい、とまで祈っています。これほど強烈な愛を、パウロは持っていました。そして「忍耐」です。これは困難な中にいても、希望を捨てないでいる状態です。パウロが、その模範でした。
何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。
パウロは、ほんとうにひどい迫害にあってきました。ルステラにいたときは、石打ちにあい、弟子たちは死んでしまったのかと思ったほどでした。テモテもその光景を見ていたかもしれません。しかし、主がパウロを救い出してくださいました。
確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
これは私たちがみな、知らなければいけない約束です。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思ったら、必ず迫害があります。イエスさまも約束されました。「世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」迫害のことを語るのは気がひけますし、また、私もできるなら、迫害にあいたくありません。けれども、これが真理のことばであり、知らなければいけない真理です。
しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。
2B 聖書 14−17
こうして、見らなうべき指導者についてパウロは語りましたが、この終わりの困難な時にあって、私たちがしっかりとしがみついているべきものが、もう一つあります。それは「聖書」です。
けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。
テモテは、母と祖母から幼いときから、聖書を教えられていました。そこで確信したところにとどまっていなさい、とパウロは勧めています。幼いことから、聖書のことばに親しんできた人は、本当に幸いだと思います。テモテのように、決して、そこから離れることはできないからです。また、私たち大人になってから、聖書を読んだ人たちも、初めに聞いた聖書のことば、また確信に至らせた教えがあると思います。そこにとどまることが、今、必要です。
聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書を読めば、他のだれに教えられなくとも、キリスト・イエスに対する信仰による救いへと、読んでいる人は導かれるようになっています。もし、その他の読み方をしているのであれば、その人は、何か他のものを信じていたり、自分の考えを聖書に押し付けているからでしょう。聖書を聖書として、書かれてあることを、幼子のようにすなおに受け止め、明らかにされたものを受け取っていくときに、その人は救いへと導かれていきます。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
非常に大切な、聖書のことばが出てきました。パウロは、聖書そのものが教えることに、こんなにも自信を持っていたのは、それがすべて、神の霊感によるものであることを知っていたからです。聖書は神の息が吹き込まれたことばです。もちろん、人がそれを書いたのですが、それを書くときに聖霊が動かしてくださり、書かれたものは神のことばであり、誤りがありません。ですから、私は、聖書を教える時は、権威をもって教えます。これは、だれかの意見ではなく、神のことばであり、絶対真理だからです。パウロはテサロニケの人たちに言いました。「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているからです。(1テサロニケ2:13)」
そして、聖書は神のことばであるので、有益なことが4つあります。一つは「教え」です。これは、神の正しさを教え、何が正しいのかを教えるものです。そして、「戒め」があります。私たちは、聖書に耳を傾けると、神の正しさを知るようになり、そこで自分が神の基準を満たしていないことを知ります。神が正しく、自分が正しくないのです。どの部分が正しくないのかが示されますが、それが「戒め」です。そして、「矯正」があります。聖書を学んでいる中で、自分の欠けたところ、足りないところを知ったら、その自分のあり方を、神のあり方に変えます。方向転換です。そして最後に、「義の訓練」です。これは、いかに、神の正しさの中に生きていくべきか、いかにその基準の中に自分を保っていくかについてです。ですから、聖書は、その性質から、対決型で書かれています。自分の今のあり方を捨てて、神のあり方を受け入れていくことが、聖書が書かれた目的です。今、カウンセリングが多く行なわれていますが、聖書を学ぶことそのものが、私たちにカンセリングを与えます。
そして、パウロは最後に、それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。と言っています。私たちが良い働きをするために必要なのは、ハンドブックでもなく、だれかのアドバイスでもなく、聖書そのものです。神のみことばが、私たちを整え、良い働きをするにふさわしいものとしてくれます。みことばによって、私たちは霊的に成長します。霊的に成熟すると、この困難な時にも、何が良い物であるかを見きわめることができます。私たちを、悪魔の欺きから救い出してくれるのは、聖書の学びであり、また霊的な模範です。