1A 主の現われ 1−8
1B みことばを宣べ伝える 1−5
2B 義なる栄冠 6−8
2A ともにおられる主 9−22
1B 悪のわざからの救い 9−18
1C パウロを離れる同労者 9−15
2C みことばを宣べ伝える力 16−18
2B あいさつ 19−22
本文
テモテへの手紙第二4章を開いてください。この学びで、テモテへの手紙が終わります。前回私たちは、「終わりの時に備えて」という題で、3章を学びました。終わりの時には困難になり、見かけは敬虔であるけれども、その実を否定する人たちがたくさん出てきます。けれども、私たちは、パウロのような良い霊的な模範に従い、また聖書によって教えられた確信に、とどまっているように勧められています。そして4章に入ります。
1A 主の現われ 1−8
1B みことばを宣べ伝える 1−5
神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
パウロは、「神の御前で」と言っています。また、「生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で」と言っています。これからパウロは、神の御前で、テモテやその他の奉仕者たち、またすべてのクリスチャンが、キリストの審判の前に立つことを話します。キリストが再び来られ、私たちを天に引き上げてから行なわれるのは、キリストのさばきです。私たちがこの地上で行なったことに対して、主は報いを与えられます。コリント人への手紙第二5章10節にて、こう書いてあります。「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」キリストのさばきの座は、罪に定められるさばきではありません。これはすでに、キリストの十字架によって、私たちの罪はさばかれているからです。私たちが信仰によって、またキリストに愛によって行なったわざに対して、報酬が与えられるときです。パウロは、このキリストの現われのことを思って、テモテにおごそかに命じています。
パウロはまた、キリストの現われだけではなく、「その御国を思って」と言っています。パウロは今、自分が天の御国の中に入ろうとしていることを知っているからです。実はこの章は、聖書に記録されているパウロの言葉の中で、最後のものです。彼は間もなく、皇帝ネロによって、死刑に処せられます。しかし、彼は死をまったく恐れていません。むしろ彼が恐れているのは、神の審判です。自分が神によって、どのような審判を受けるのか、これが一番気になっているのです。今、御国に入るのを目の前にして、御国が現実のものとして彼に迫ってきています。そこでテモテに、「御国を思って」と言っているのです。
そしてテモテにただ命令しているのではなく、「おごそかに」命じています。自分が今行なっていることが、すべて神の前に明らかにされており、すべての行ないが神の御前で精算されることを思いつつ、今命じています。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
「みことば」を宣べ伝えます。何かとても良い話を人々に話すのではなく、神のみことばを伝えます。これが、牧者、また伝道者に与えられた、神からの務めです。この務めによって、神に報いが与えられます。そしてこの「宣べ伝える」というのは、王からその国の民に布告が出たとき、それを伝え、宣言することが、「宣べ伝える」であります。したがって、みことばを権威をもって、宣言することが「みことばを宣べ伝えなさい」ということです。「私はこう思います」「私はああ感じます」というような、自分の意見や感想を伝える場ではなく、みことばに確信をもって、権威をもって伝えるのが牧者の務めです。
そして、「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」とパウロは言っています。時節が良ければ、福音のことばを語るのは、たやすいことです。けれども、終わりの時、困難な時代になっているとき、福音の真理を語ることは、不利益をこうむります。こんな時にも、確信をもってみことばを伝えていくことができるのか、が私たちに問われてきます。
パウロは、「寛容を尽くし」と言っていますが、みことばを語れば、それに反対する人々も出てきます。自分から離れる人々も出てきます。しかし、自分に悪いことをする人たちに対して怒らずに、復讐を主に任せて、愛をもってみことばを語っていく必要があります。そして、「絶えず教えながら」とあります。聖書の教えを伝えることは、非常に大切です。教えるとは、聖書に何が書かれているか、その理解を与えることです。この前も話しましたが、聖書から何かを教えるのと、聖書を教えるのとでは、大きな違いがあります。聖書のことばそのものが、ご聖霊によって人々をキリストの似姿へと変えてゆきます。
そして、「責め、戒め、また勧めなさい」とあります。責めるのは、その人が犯している罪や過ちを明らかにすることです。主イエスさまは、「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(ヨハネ16:8)」と言われました。ご聖霊が、私たちに罪を示してくださいます。悪魔は私たちに罪定めをします。しかし、ご聖霊は、私たちをキリストの十字架に現われている、神のあわれみに向かって走らせます。今、自分が感じている罪意識が、聖霊から来たものなのか、それとも悪魔から来たものなのかを判断するのは、今、その罪意識によってキリストへと導かれているのか、それともキリストから自分が離れているようになっているかを調べればわかることです。ですから、牧者は、教えながら人を責めなければいけません。また、「戒め」なければいけません。これは、これから犯してしまうかもしれない過ちや罪を犯さないように、あらかじめ警告や訓戒を与えることです。そして「勧める」のは、人が行なわなければいけないと分かっていることを、行いへと促すことです。これが牧者また宣教者に与えられている務めですが、ある人がこう言いました。説教者の務めは、「自分は問題ないと思ってくつろいでいる人たちを悩ますべきである。そして、すでに問題を持っていて苦しんでいる人を慰め、励ますべきである。」であるとのことです。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
パウロは前の章で、終わりの時代には、人々がこのようになると言って、初めに「自分を愛する者」ということを言いました。牧者の務めが、神の権威をもってみことばを宣べ伝え、また健全な教えを教えて、責めて、戒め、そして勧めるのであれば、そこには自分を否み、自分の道を捨てて、神の道を選び取ることが、聞く人々に責任として課せられます。しかし、このようなことをいやがる人々がたくさん出てきます。自分を愛するために、自分のあり方を変えたくないと思うので、そのような牧者の教会の中には、いたくなくなります。そして、神が油注がれた教師ではなく、自分たちにとって都合の良いことを語ってもらう教師たちを寄せ集めます。私たちはこの時代において、人々がたくさん集まっているから、祝福されていると思うことは間違いです!そして、自分に都合の良いことを聞きたい人たちは、真理ではなく空想話にそれて行きます。
しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
神の審判を恐れるのではなく、人の歓心を気にするような教師ではなく、あなたはこうしなさい、とパウロは今、テモテに命じています。一つは、「どのような場合にも慎み」です。これは、主イエス・キリストの教えの中に、自分自身を置くということです。また、自分に与えられた領域をわきまえて、その中にとどまることです。人々の歓心や興味に引き寄せられて、自分に与えられた事柄以上のものを行なおうとするとき、慎み深さがなくなってしまいます。そして「困難に耐え」ます。3章に書かれていたように、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者は必ず迫害にあいます。この困難を避けるのではなく、耐えなさいとパウロは命じています。そして「伝道者として働き」です。牧者であっても、信者にみことばを教えているときでも、自分が失われた魂を救うことばを語るということを忘れてはいけません。つねに伝道者でいることが大切です。
そして「自分の務めを十分に果たしなさい」とあります。50パーセント務めを果たしたから、そこまでで良いでしょう、ではありません。十分に果たさなければいけません。これはちょうど、たくさんに魚が釣れているのに、「まあ、ここまでで良いでしょう。」と言って、中断してしまうようなものです。牧者、伝道者、またその他の働き人に絶対必要なのは、神の召命です。神に呼ばれたから、今、自分はここにいて、こういうことを行なっているという確信です。この神の召命の中にいるときに、私たちは、明らかに、神がここで何を行なわれているかを知ることができます。そして、神のみわざを自分の目で見ることができます。そこで自分がその務めを十分に全うして、神の御国の広がりを見ていく必要があります。
2B 義なる栄冠 6−8
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
パウロは今、自分が死刑に処せられることを、二つの表現で言い表わしています。一つは、「注ぎの供え物」です。これは、旧約時代の幕屋、あるいは神殿における、いけにえの儀式について知らないと理解できません。牛や羊の全焼のいけにえをささげるときに、穀物のささげ物とともに、ぶどう酒による注ぎのささげ物を祭壇に注ぎます。パウロは、これから死ぬことは、この注ぎのささげ物なのだ、と言っているのです。ローマ書12章の初めには、私たちが、神の聖なる、生ける供え物として、自分のからだをささげてくださいという、パウロの勧めがありますが、神の供え物として生きてきたパウロは、死ぬときも神の供え物として死にます。
そして、「世を去る時」とありますが、ここの元々の意味は、テントの杭抜きです。コリント人への手紙第二5章には、私たちのからだが、幕屋であるというたとえがされています。地上のからだは幕屋あるいはテントであり、天から与えられる新しいからだが神の建物であると、パウロは言っています。そこで、この肉体から離れるときとして、今、テントの杭を抜くときと表現しているのです。すばらしいですね、パウロは、死ぬ間際になって、自分を神へささげる者、また、御国に入る者という意識の中で生きることができていたのです。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
パウロには後悔がありません。主に与えられた務めを全うしていることを、自分の良心の中で確信していることができていたからです。彼は再び、自分を二つの方法で表現しています。初めは、「勇敢に戦い」とあるとおり、キリスト・イエスにある兵士です。信仰には、それを保つための戦いがあります。これは単に、口でイエスが主であると言い続けることや、知的に救いの教理について知っていることではありません。福音を福音として、自分を生かしているものとして、純粋に保っているかどうかであります。パウロは、この戦いを勇敢に戦い抜いたことを確信していました。次に、オリンピックの競走選手にたとえています。「走るべき道のりを走り終え」と言っています。パウロがピリピ人に手紙を書いたときは、「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(3:13-14)」と言いました。まだ完全にされているのではなく、一心に走っている、と自分のことを表現しましたが、今、死ぬ間際になって、「私は走り抜きました」と言っています。私たちがこのように、良心の責めを持たないで、大胆に、自分に与えられた務めを全うしていると言えるでしょうか?
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
私たちが、主によって天に引き上げられるとき、または死んでから天の御国に入るときに用意されているのは、パウロがここで語っている「栄冠」であります。ギリシヤ語には、「栄冠」を表す二つの言葉がありますが、一つは「王冠」です。王の冠です。もう一つは、オリンピックの選手がかぶる冠であり、勝利者への冠です。ここでパウロが使っているのは、勝利者への冠のほうです。そして、この冠は「義の冠」であるとあります。なぜなら、正しい審判者である神が、自分が行なったことを正しくさばいて、評価してくださるからです。ですから、私たちが神の審判を気にするか、それとも人の判断を気にするかの選択が与えられています。
そしてこれは、使徒パウロだけに与えられる冠ではありません。「主の現われを慕っている者」すべてに、授けられる冠です。ここから、いかに主イエス・キリストが戻って来てくださるという、再臨の希望が大切であるかを知ることができます。主の再臨を待ち望むことは、私たちに、神から与えられた務めを果たす、その忠実さを与えてくれます。主が戻られたときに、自分が思慮深いしもべであるか、そうでないか評価されるからです。また聖潔も与えられます。主が来られたときに、自分は恥ずかしいことをしたいとは思いません。
2A ともにおられる主 9−22
1B 悪のわざからの救い 9−18
1C パウロを離れる同労者 9−15
あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。
パウロに死期が近づいています。信仰の息子であり、いつまでも忠実であったテモテに、自分の最後の時をともにいてほしいとパウロは願っています。
デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。
パウロの同行者には、忠実ではなかった者たちがいました。その一人が、デマスです。彼は初め、パウロから「同労者」であると呼ばれました。ピレモンへの手紙24節には、「私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。」とあります。けれども、時が経ち、コロサイ人への手紙では、「愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。(4:14)」とあります。同労者と呼ばれず、ただ「デマス」とだけ呼ばれています。そして、ここテモテへの手紙では、「今の世を愛し、私を捨てて、テサロニケに行ってしまいました」と言っているのです。とても悲しいですね。初めは良かったのですが、最後まで走りぬくことができなかったのです。今日のメッセージの題名は、「最後まで走りぬく」としても良かったかもしれません。自分の務めを全うさせ、神の御前で恥じることがないように生きることが大切です。初めが良くても、最後が悪ければ、それまでの行程がみな悪くなってしまいます。
そして、クレンケスはパウロがガラテヤ地方に送ったようです。「テトス」は、次の手紙の受取人でもありますが、彼はテモテと同じように、問題のある教会に送られて、牧会をした人であります。今は、現代のユーゴスラビアでありダルマテヤに遣わされています。
ルカだけは私とともにおります。ルカは、知っていますね、ルカによる福音書と使徒行伝を記した人物です。彼は、パウロがヨーロッパ宣教旅行を開始させたときから同行していた人物でした。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。
マルコは、もちろんマルコによる福音書の著者であり、また、バルナバのいとこです。パウロとバルナバが宣教旅行にでかけたとき、彼らに同行したのがマルコでした。彼は途中でその働きを投げ出して、エルサレムに戻ってしまいました。そこで次に宣教旅行に行こうとしていたとき、マルコを同行させるかどうかで、パウロとバルナバの間で激しい論争が起こりました。パウロは、途中で離れたマルコをいっしょに連れて行くことはできない、と言ったのです。けれども今、パウロは、「彼は私の務めのために役に立つからです。」と言っています。マルコは、途中で不忠実であったかもしれないけれども、主に再び用いられる器となっています。
私はテキコをエペソに遣わしました。
テモテがエペソからローマにいるパウロに会うことができるようにするため、パウロはテキコを変わりにエペソでの牧会に当たらせるよう、エペソに遣わしています。
あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。
パウロはとても実際的です。トロアスでパウロはおそらく、何らかの危険が押し迫って、自分の持ち物をカルポの家に置いて、移動したようです。上着を置いていったので、テモテがエペソからローマに行く途中、その上着を持ってきてくれるよう頼んでいます。これから冬になります。ですから、自分を暖めるものが必要です。それから、書物、特に羊皮紙の物を持ってくるよう頼んでいます。パウロはたとえ短い期間であっても、書物を読むことを欠かすことがなかったようです。死ぬ直前まで、彼は神のみことばを学ぶ学徒でありました。
銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。
彼はおそらく、テモテへの手紙第一に登場した、信仰を捨ててしまったアレキサンデルかもしえrません(1テモテ1:20)。違った教えを教え、パウロに激しく反対しました。彼も不忠実なしもべの一人です。
2C みことばを宣べ伝える力 16−18
私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。
パウロが皇帝ネロの前で、弁明をしたときに、彼を支持する人がなんと一人もいませんでした。パウロの同労者たちは、彼を見捨ててしまっていました。けれども、パウロは、彼らが神によってさばかれることがないように、祈っています。審判者である神の御前で、これはさばかれる材料となてしまいますが、しかし、パウロはそれから免れるようにと、罪の赦しのための祈りをささげています。
しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。
パウロに主が現われてくださったのは、この弁明のときの前に、二回ありました。一つは、コリントの町にいるときです。彼は、ヨーロッパへの宣教旅行を始めて、ピリピの町に行き、そこでむち打ちにあいました。テサロニケの町に行ったときは、ユダヤ人による扇動と騒ぎがありました。逃げるようにしてアテネに行ったときは、パウロの宣教のことばを信じた人はわずかでした。そして、コリントにいました。そこでも迫害がありました。このように、パウロは、自分がヨーロッパへの宣教に召されていることを、疑ってしまうような、がっかりするような状況の中にいたのです。「私はたしかに、マケドニヤ人に助けてください、と言われてヨーロッパに来たが、迫害の手を免れて逃げているだけではないか。本当に主は私がここにいることを望んでいるのだろうか。」と思ったに違いありません。このような暗黒の時に、主は幻によって、パウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。(使徒18:9−10)」と言われました。そこでパウロは力づいて、一年半そこに腰をすえて、神のみことばを教えました。
もう一つ、主がパウロとともにいた時は、エルサレムにおいてです。パウロはもちろん、同胞のユダヤ人に対する熱い思いがありました。彼らの救いのためには、自分が神に呪われたものとなっても良い、とまで思ったのです。そして、多くの弟子たちの反対のもと、それでも聖霊に示されているとのことでエルサレムに行き、神殿にいるときに、ユダヤ人たちがパウロが異邦人を神殿に連れてきていると思って、彼をなぶり殺しにしようとしました。ローマの千人隊長が彼を助け出しましたが、パウロはユダヤ人たちに、ヘブル語で救いの証しをしたのです。彼らはずっと聞き入っていました。しかし、「主が、行きなさい、わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす、と言われました。」と行ったときに、ユダヤ人たちが声を張り上げて、「この者を除け」と叫びました。そして、パウロは牢獄に連れて行かれ、それからずっとローマに行くまで、囚人となっていました。彼がどれだけ後悔したでしょうか。あの時に、「異邦人」という言葉を使うべきではなったのではないか。また、ユダヤ人を説得させようとしたのは、自分の勝手な思い込みではなかったのか、などなど、くやしがって、自分に失望していたかもしれません。けれども、主が夜に彼のそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。(使徒23:11)」と言われたのです。
このように、パウロの人生の中で、もっとも暗黒のときに、主がそばに立って、彼をさらに宣教の働きへと励ましを与えてくださったのです。私たちも同じです。私たちが、主から与えられた務めを行なっているときに、この暗闇を通ります。たった一人ぼっちになっているような時があります。自分が今まで行なったきたことが、果たして有益であったのかと疑いたくなるような時があります。しかし、そのような一人になってしまったときにこそ、主がともにおられ、そしてその時にしか聞くことのできない、主の明確なことばを聞くことができるのです。
それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。
パウロは、このローマにて、ローマ人の皇帝ネロに、福音を宣べ伝えようとしているのです。みことばを最後まで語り続けるその力が、主がともにおられることによって与えられました。
主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。
ここでの「悪のわざ」とは、殺されることではありません。パウロにとって、死はまったく妨げになっていませんでした。悪のわざとは、自分の働きを妨げる悪魔のしわざでありましょう。クリスチャンにとって、死よりも恐ろしいものがあります。罪であったり、また主の御名を汚してしまうような、不名誉なことを行なうことです。しかし、こうしたものから主は救い出してくださって、無事に天の御国に救い入れてくださいます。
2B あいさつ 19−22
そしてパウロの最後の挨拶があります。プリスカとアクラによろしく。また、オネシポロの家族によろしく。
どちらも、パウロの最大の助け手でした。プリスカとアクラは、以前はパウロの助け手でしたが、今はエペソにいるテモテを助けていました。オネシポロは、ローマの牢にいるパウロを捜し出してくれた人です。
エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。
トロピモが病気にかかっています。使徒行伝には、パウロによって不思議や奇蹟が行なわれ、多くの人がいやされていく場面がありますが、しかし、これは御霊のみこころによって行なわれたものです。いつも、必ずいやされるということではありません。病気が完全になくなるのは、主が再び来られて、新しいからだが与えられる時です。
何とかして、冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。
冬になると、地中海には航行する船がなくなります。海が荒れるからです。ですから、遅すぎないように、冬になる前に来てくださいと頼んでいます。
主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。
最後の手紙のしめくくりです。主がともにおられるように、そして恵みがあるように、です。こうしてテモテへの手紙を読み終えましたが、主にあってその務めを全うすることの大切さを学びました。最後の時に、来るべき御国を思って、主から正しいさばきを受けるのだから、人ではなく主を恐れて、みことばを語らなければいけません。また、そのために一人になるようなことがあっても、主は決して私たちを見捨てず、ともにおられることを、自ら証ししてくださいます。
「聖書の学び 新約」に戻る
HOME