ヨハネの手紙第三 「真実な行ない」

アウトライン

1A 愛されるガイオ 1−8
   1B 兄弟たちからの証言 1−4
   2B 兄弟へのもてなし 5−8
2A 悪い例 9−15
   1B かしらになりたがる者 9−12
   2B 顔を会わせての会話 13−15

本文

 ヨハネの手紙3章を開いてください。ここでのテーマは、「真実の行ない」です。この手紙は、前回の第二の手紙ととても似ています。教会の指導者、あるいは奉仕者に宛てた個人的な手紙です。そして、第三の手紙に出てくる言い回しは、その多くが第二の手紙にも出てきたものです。早速、内容に入りましょう。

1A 愛されるガイオ 1−8
1B 兄弟たちからの証言 1−4
 長老から、愛するガイオへ。

 第二の手紙と同じように、ヨハネは自分のことを「長老」と呼んでいます。おそらく、教会の中でヨハネは、「長老」という呼び名によって呼ばれていたかもしれません。そして相手は、「ガイオ」という人物です。ガイオという名前は、新約聖書に数多く出てきます。たとえば、使徒行伝20章4節に、パウロの宣教旅行に同行していた者に、ガイオという名前があります。けれども、おそらくはその時代にたくさん使われていた名前であると考えられます。彼が「愛する」とヨハネから呼ばれています。そして、

 私はあなたをほんとうに愛しています。

 と言っています。この表現も、第二の手紙で出てきました。真理のうちに愛している、ということです。神の真理を共有しているものとして、ほんとうに愛している、ということです。

 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

 これは、あいさつもかねた祈りです。私たちが普段、「お元気でいてください」というのと似ており、幸いを得て、また健康でいてください、という意味です。むろん、クリスチャンはいろいろな試練があり、貧しさがあり、それが喜ばしいものとして受け入れなさいという勧めはあるのですが、けれども、そのような中にあっても、やはり、良い環境の中にいることを願うのはもちろん何も悪いことではありません。私たちの魂が幸いなように、他の面でも幸いを得ることを祈ります。そして特にガイオは、これから読んでいくと分かるように、人々をもてなす家主であります。そうした人が繁栄することは、自分を求めることではなく、キリストを求めることです。

 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。

 兄弟たちがやって来ては」というのは前回と同じように、巡回預言者や伝道者のことです。初代教会においては、旅をして教会の家々を巡る人々がいました。彼らがガイオの家に行き、そしてヨハネがいる教会にも来て、ガイオのことを話してくれています。その話が、「真理に歩んでいる」というものです。真理を知っており、またその中に生きていることを知り、ヨハネは喜んでいます。

 私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。

 この表現も、第二の手紙の中に出てきました。真理の中に歩むことを聞くことほど、牧者としての喜びはありません。そして、ヨハネは、「私の子どもたちが」と言っています。ヨハネを通して、ガイオがキリストに導かれ、また訓練を受けたのでしょう。ですから、その喜びはこの上もなく大きいものです。

2B 兄弟へのもてなし 5−8
 そして、第三の手紙の本題、中身に入っていきます。愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。

 ガイオが行なっていたことは、その巡回預言者たちのもてなしでした。当時の宿泊事情は、前回も話しましたように、劣悪です。その泊まっているところで、不品行が行なわれていたりと、クリスチャンには泊まれるようなものではありませんでした。ですから、他のクリスチャンがその旅人をもてなすことは、現代以上に必然的なことだったのです。その旅人をもてなしていたことで、彼は彼らを愛していたのです。思い出せますか、ヨハネは第一の手紙で、「口先だけでなく、真実な行ないをもって愛しなさい。」と勧めていました。それを行なっていたのです。

 彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。

 巡回預言者たちは、教会の集まりの中で、ガイオが本当によくもてなしていることを公表していました。「神にふさわしいやり方で送り出す」とありますが、彼らが主のしもべであって、高く敬ってもてなす、ということであります。ヘブル書13章にも、旅人をもてなしなさいという勧めの中で、昔の人が旅人だと思って、御使いをもてなしていた、という記述があります。

 ちょうど、私たちはカルバリーチャペルの宣教会議から戻ってきたところですが、その会議に参加する前は、コスタメサの教会の人々を訪問していました。ホストファミリーを宣教担当牧師にお願いしていたのですが、申し出て来てくださったご夫婦がいました。お二人の家に泊まりましたが、1920年代に建てられた、アンティークな造りの改築されたばかりの家でした。そこには、お客さんが泊まることができる部屋があり、その部屋用のバスルームもあります。「これは宣教師の人たちが快適に泊まれるようにした部屋で、あなたたちが公式の始めての利用者です。」とおっしゃっていました。いたるところに、細かい配慮がなされていました。お話を聞いていると、教会のさまざまなところで奉仕をなされてきた方であり、神の事柄について、興奮しながら語っている愛のあるご夫婦でした。与えることしか考えておらず、プライムリブの夕食をはじめ、本やカセットテープや、また最後には現金までいただきました。まさに、ここに出てくるガイオさんのような存在です。お二人は、将来的にアクラとプリスキラのような働きが出来ればうれしい、とおっしゃっていましたが、これから聖書を教える奉仕の準備をご主人がなされるようなので、そうなるのではないかと思います。

 彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。

 御名のために出て行った」というのは、自分のため、私欲のためということではありません。主の名によって出て行き、そして「異邦人からは何も受けていません」とあります。これは、不信者の人たちから、自分の宣教や奉仕のお金をもらっていない、ということです。

 教会の中で、例えば、未信者の人が礼拝に出席し、そこで献金袋を回せば、献金をしなければいけないと思ってしまいます。そこで、「この献金は、信者が行なうもので、未信者の方々は一切、行なわなくて構いません。」と言わなければいけません。私の両親はまだイエスさまを信じていませんが、教会に通い始めました。聖書の教えを聞いているのだから、報酬として与えなければいけないと思って、私に質問をします。どうやって、与えればいいのかと。でも、これは本当ならば、クリスチャンになった人が持っているべき態度ですね。働き人が報酬を受けるのは当然であるとパウロが言っているからです。でも、クリスチャンではない限り、その必要はないのです。

 教会とビジネスを絡めて、そこで教会運営に宛がうことがあります。それはこの聖書の言葉に照らすと、ふさわしくないことですね。あくまでも、クリスチャンたちの愛の行為としてささげるものによって、宣教師や牧師、伝道師が支えられるべきです。

 ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。

 これは大事な言葉ですね。働いているのは宣教師や牧師、伝道師だけではありません。その人たちのために祈り、ささげているのであれば、その人は共に働いている人なのです。そのようなプライドというか、自覚を持って良いですね。そうすれば、単にお金をあげるということではなく、本当に自分が主の働きの中にいるのだ、という良いプライドが持てます。マタイ10章42節には、「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」とあります。

2A 悪い例 9−15
1B かしらになりたがる者 9−12
 私は教会に対して少しばかり書き送ったのですが、彼らの中でかしらになりたがっているデオテレペスが、私たちの言うことを聞き入れません。

 ガイオが良い評判を持っており、良い模範を示していたのに対して、ここには反面教師にしなければいけない人物の名が挙げられています。「デオテレペス」です。「私は教会に対して少しばかり書き送った」また、「私たちの言うことを聞き入れません」とありますが、当時、いや今も、使徒たちが言っていること、書いていることが、権威でした。信者たちが日々集まって、使徒たちの教えを堅く守った、と使徒行伝に書かれていますが、使徒たちがキリストから権威を与えられて、その語る言葉が神の言葉であるという権威を持っていました。しかし、デオテレペスは、その権威を公然と無視したのです。

 無視したのは、「かしらになりたがっている」からです。このような人物で思い出すのが、イスラエルが荒野をさまよっているときに、モーセとアロンに詰め寄った「コラ」です。覚えていますか、民数記16章の話です。彼は、幕屋のところで奉仕をして、しかも聖所の中の祭具を運ぶところのケハテ族でした。そしてモーセとアロンが、人々の上に立っていることを非難してこう言いました。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。(16:3)」もっともらしい意見のように聞こえますね。なさに平等社会、民主主義というところでしょうか?けれども、ここに欺瞞があります。ローマ13章には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(1節)」とあります。権威を神からのものとして尊重し、また尊敬することが必要であり、これを無視することは、平等意識ではなく、高慢なのです。そこでモーセがコラにこう言いました。「レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。(16:7)」実際は、コラが一番になりたくて、コラがかしらになりたいと思っているから、平等主義を掲げてきたのです。

 自分が通っている教会で、その指導者を、主によって立てられている人と思うことができなければ、その人は他の教会を探したほうが良いでしょう。主にあってその人に従うことがなければ、それは自分がそこで一番になりたいと思っていることの証拠なのです。

 それで、私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです。彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです。

 意地悪いことをののしり」とありますが、今の言葉で言えば「中傷」です。主によって立てられた人の悪いことを言い、それによって自分の地位を確保しようとするものです。私は、頻繁に、同じことが書かれているメールを受け取ります。それは、自分がカルバリーチャペル・コスタメサの教会で、酷い扱いを受けた、この牧師は詐欺師であるがチャック牧師は何も対処していない、という内容のものです。これを、hotmailのアドレスをその都度変えて、宣教師たちやカルバリー関係者に送りつけてきます。この人がやりたいことは、「私を認めて欲しい」なのです。自分を認めてもらいたいために、教会の指導者をののしる言葉を書いています。

 さらに、デオテレペスは、その巡回預言者たちを受け入れません。受け入れないどころか、受け入れようとする教会の人たちを邪魔して、教会から追い出してしまっています。これは、彼が自分で教会をコントロールしたいからです。他の奉仕者たちの存在を脅威に感じ、自分の地位を揺るがすような分子をすべて取り除きたいという被害妄想を抱きます。

 思い出していただきたいのですが、第二の手紙には、偽預言者には挨拶もしてはいけない、とありました。イエスが人となって来られたことを否定する者は反キリストであるから、絶対に家に入れてはいけないし、あいさつもしてはいけないとヨハネは警告しました。こうしたキリスト教の本質にかかわる大切な部分において、私たちはよく気をつけていなければいけませんが、やみくもに、相手を警戒することは、それは自分がお山の大将になりたい、自分の支配をゆるがせられたくないと思っているからです。しかしイエスさまは、「異邦人は支配者として威張っているが、あなたがたは仕える者となりなさい」ということを言われました。私たちは支配する者ではなく、仕える者です。

 愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。

 悪を行なう者を反面教師として、善を行なう者を模範としていきなさい、ということです。私たちは悪い話も、また良い話も聞きますが、悪い話を聞いたときは、自分がそうならないように気をつけ、良い話には自分も参考にして、模範にします。

 善を行なう者は神から出た者であり、悪を行なう者は神を見たことのない者です。

 神を知っている、神を見ているというものは、自ずとそこから良い行ないが出てきます。善を行なっているのは、神から出ているからであり、悪を行なっているのは神に出会っていないということです。私たちは、神との交わりから、必ず行ないが生まれます。生まれていなかったら、それは神との交わりの中にいなかった、ということです。神との交わりは、神の命令を守ることであり、そこで神を知っていることがわかります。

 デメテリオはみなの人からも、また真理そのものからも証言されています。私たちも証言します。私たちの証言が真実であることは、あなたも知っているところです。

 デオテレペスではなく、「デメテリオ」です。彼は善を行なっている良い模範です。そしてそのことは、人々の評判だけでなく、「真理そのものからも証言されている」とあります。神のみことばからも、彼の行ないが真実であると認められるのです。そして使徒たちの証言もあります。それが「真実であることは、あなたも知っている」とありますが、使徒たちの証言は、神により、聖霊により人々に証しされます。このようにヨハネは、複数の証言を集めています。

 私たちもだれが真実な行ないをしているのかは、その人のうちにある確信、また神のみことばに照らして、そして他の人々が内的な確信によって、そのとおりだと認めることができる類のものです。人からの良い評判だけでも、真理とは違うことがあったら、それは偽りです。人気があるからと言って、それが正しいとは限りません。

2B 顔を会わせての会話 13−15
 最後の挨拶です、あなたに書き送りたいことがたくさんありましたが、筆と墨でしたくはありません。間もなくあなたに会いたいと思います。そして顔を合わせて話し合いましょう。

 筆と墨ではなく、直接会いたいという思いは、第二の手紙においても書かれていました。真理にあって愛し合っている者同士が、ともに交わりたいという願いです。

 平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たちひとりひとりによろしく言ってください。

 「平安」は、私たちの間に必要な要素ですね。対立的なものでもなく、形式的なものでもなく、その間に平安が必要です。また、「友人たち」とありますが、私たちはクリスチャンの間で、「友人」と呼べる人たちがいるでしょうか?仲間、というか、自分が信頼して話をすることが出来る人たち、これは大切ですね。仕事仲間ではなく、奉仕を抜きにしても共に付き合えるような仲間が私たちには必要です。ヨハネも友人がたくさんいました。

 これで第三の手紙が終わりましたが、第二の手紙との違いは、第二の手紙が真理、またキリストの教えに重きがおかれていたのに対し、第三は、実際の真実な行ないに重きが置かれていました。私たちは、真理を大切にして、共有して、そしてなおかつ、真実な行ないをしていく、その仲になっていきたいものです。


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