使徒行伝1章 「聖霊の働き」

 

アウトライン

はじめに 1−2
1A 聖霊の約束 3−14
   1B 命令 「待っていなさい」 3−8
   2B 完成 「またおいでになります」 9−11
   3B 従順 「祈りに専念していた」 12−14
2A 人間の働き 15−26
   1B 神のみことば 15−22
   2B 祈り 23−26

本文

 それでは、使徒行伝1章をお開きください。ここでのテーマは、「聖霊の働き」です。それでは、さっそく1節と2節をご覧ください。

はじめに 1−2
 テオピロよ。私は前の書で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。

 使徒行伝の著者は、ルカです。この書き出しを見ると、この使徒行伝がルカの福音書の続きである事が分かります。ルカの福音書1章の、書き出しの部分にはこう書かれています。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。(1:1-3」この福音書が書かれている相手はテオピロという人物であり、そしてこの使徒行伝1章1−2節でも、テオピロになっています。そしてここでルカは、「前の書で」と言っていますが、それがルカの福音書であり、使徒行伝はその続きの書、あるいは後の書になっています。

 そして面白いのは、前の書においては、「イエスが行ない始め、教え始められたすべてことについて書」いた、と言っているところです。行ない始め、教え始められたのであって、まだ終わっていないのです。イエスの宣教の働きは、天に上げられた後も聖霊によって続いています。ですから、この書物の題名が、「使徒行伝」とか「使徒の働き」となっていますが、本質的には、「イエス・キリストの働き」となります。イエスさまが、聖霊によって、使徒たちの中で働いておられるのです。そして、私たちの中でも働かれます。使徒行伝は、イエスさまが生きて働かれたのが福音書の時代だけではなく、むしろ、聖霊によってさらに大きく、今の信徒たちにも生きて働いてくださることを示しているのです。そして、どのようにすれば、このすばらしいみわざの中に入っていくことができるのかを、私たちは使徒行伝の中で学びたいのです。イエスさまが今も生き生きと働いておられる中に自分たちもいるのには、どうすればよいかを学びます。

1A 聖霊の約束 3−14
 この前書きが終わって、ルカは本文に書き記しますが、3節から14節までは、ルカの福音書の最後の部分と重なります。イエスさまが、聖霊の約束を与えられて天に昇られる箇所は、ルカの福音書の最後のところにも書かれていました。

1B 命令 「待っていなさい」 3−8
 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

 イエスさまは、復活したあとに、40日の間この地上におられました。そして、多くの弟子たちに現われて、ご自分が生きていることを示されました。そのときにお語りになっていた話題は、神の国です。それは、キリストを王とするすべてが回復された世界であり、弟子たちはこのことを熱望してイエスさまとともに歩んでいました。イエスが十字架につけられたことによって、その期待はもろくも壊されてしまいましたが、今また、イエスはこの希望について、神の国についてお語りになっていたのです。

 けれども、イエスは次に不思議なことを言われます。この神の国の約束が実現する前に、他の約束があると言うのです。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

 わたしから聞いた父の約束とは、聖霊のバプテスマを受ける約束であり、旧約聖書では、ヨエル書2章にある約束です。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。(2:28-29」この約束がまず実現するから、あなたがたは待っていなさい、と命じておられます。ところで、この水のバプテスマと聖霊のバプテスマが区別されて出てきますが、バプテスマとは「浸される」という意味があります。水に満たされて、全身水だらけになれば、「水のバプテスマ」です。そして、聖霊に浸される。自分がみな聖霊のものとなってしまう、そのような状態を「聖霊のバプテスマ」と言います。この聖霊のバプテスマを受けた弟子たちをとおして、イエスはご自分の働きを続けられます。

 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

 この弟子たちの質問は、とても正しい質問であり、また同じに間違った質問であります。とても正しい質問であるというのは、イエスが復活されてからずっと、神の国について語っておられらからです。だから、神の国が今来るのか、いつなのですか、と質問しているのです。そして、間違った質問であるのは、彼らは、自分たちで集まってイエスに聞きに来ていることです。神の国を立てるのは、自分たちの働きであり、これからイエスとともに、神の国の建設に取り掛かるのだ、と思ったのでしょう。イエスが十字架につけられる前から、彼らは、このことで議論していました。だれが、イエスの御座の右に着くことができるか、論じ合っていたのです。しかし、私たちは、弟子たちのこのような姿勢のために、彼らはつまずいて、イエスを見捨てる失敗をしてしまったことを知っています。神の国が立てられるのは、人間が率先して行なうことではなく、完全に神の働きになるのです。

 そこで、イエスがお語りになります。イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」とっても大切な言葉が出てきました。「権威」です。神の国については、父なる神がご自分の権威をもって定めておられるのすが、聖霊が臨まれる約束のおいても同じことが言えます。福音宣教においても、それは神の権威で行なわれることであり、神ご自身が実現されることであり、私たち人間が集まって、計画して、自分たちの思いや考えで実行していることではないのです。聖霊に満たされるとは、権威が自分ではなくてご聖霊のものになっていることを意味しています。聖霊が強く促してくださり、聖霊に導かれて、聖霊に語られ、聖霊に知恵を与えられ、自分の思いも願いも意欲もみな、ご聖霊に吸い込まれてしまう、そういう状態が聖霊のバプテスマであります。ペテロに語られたイエスさまのことばを思い出してください。「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(ヨハネ21:18」自分で歩きたい所を歩くのではなく、行きたくない所に連れて行くこと、これが聖霊の働きであり、聖霊なる神が主権を持っておられるのです。

 そして次を見てください。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 この節は、使徒行伝全体のテーマになっているし、またアウトラインにもなっています。テーマは、今も話しましたが、聖霊のみわざです。私たちではなくて、「聖霊があなたがたの上に臨まれる」となっており、聖霊が主役となっております。そして、ご聖霊の私たちへの関わり方ですが、「あなたがたの“上に”」となっています。聖霊の内側における働きではなく、外側からの働きです。私たちはイエス・キリストを自分の救い主また主として信じるとき、御霊によって新たに生まれます。私たちにうちに宿ってくださり、そして私たちを教え、導き、励まし、みことばを理解させ、みことばを思い出させて下さいます。また、この聖霊の働きによって、主のかたちへと変えられていきます。すばらしい働きです。けれども、ここでの聖霊の働きは違います。そうした内側における働きではなく、私たちの外側から与えられる働きです。

 例えば、自動車で、自分の知らない道を走っていると想定しましょう。そして、友だちが車を前に走らせて、道案内をしてくれています。自動車にはハンドルがあるし、ブレーキがあるし、ギアがあります。これらを使って車を走らせるわけですが、自分の前を走ってくれるナビゲーターとしての車に付いていかなければいけません。もちろん、ナビゲーターの車に、「こっち行って。あっち行って。」と言うことはできず、ただただ、ナビゲーターをしてくれている前の車のいいなりになって、進んで行かなければいけません。これが外側からの聖霊の働きです。自分ではなく、聖霊が私たちを導いている働きです。そして、自分が運転する車は、内側における聖霊の働きであり、私たちが、みことばを読んだり、祈ったりするときに、私たちを助けてくれる役目を果たしてくださいます。

 そして、聖霊が上に臨まれた結果、彼らはイエスの証人となります。聖霊の主な働きは、イエス・キリストの栄光を証しすることであり、その証言によって人が信仰に導かれることであります。内側における聖霊の働きによって、私たち自身がイエスを深く知り、イエスを愛し、イエスがどのようにすぐれた方なのかを知っていくことができますが、上から臨む聖霊の働きは、外側に向かっています。私たちを通して、周りの人々がイエスを知るようになり、イエスを愛し、イエスに従うようにさせます。ですから、聖霊のバプテスマは、イエスの宣教命令を守るためには、絶対に必要な関係なのです。聖霊とのこのような関係があって始めて、私たちだけではなく、他の人々がイエスを知るようになります。

 そして、どのようにイエスの証人になっていくかについても、イエスが語っておられます。エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てにまで及びます。エルサレムは、今彼らがいるところですね。そして、イエスが十字架につけられたところであり、イエスを憎むユダヤ人たちもたくさんいるところです。彼らは、ユダヤ人を恐れて、戸を閉めて部屋の中にいました。なのに、まずエルサレムからイエスの証人となるというのです。さらに、ユダヤとサマリヤですが、サマリヤはユダヤ人が通りもしなかったところであり、彼らが嫌っていたサマリヤ人のいるところであります。そして、地の果てですが、ここに実は異邦人も含まれることが後でわかってくるようになります。イエスは、「あらゆる国々の人々を弟子としなさい。」と言われましたが、異邦人に対してもイエスの証人になるわけであり、ユダヤ人にとって、異邦人に救いを伝えるなど考えもしないことでした。こうして見ると、彼らが願ってもいないこと、考えてもいないことにしたがって、聖霊が導かれるのです。事実、彼らがエルサレムからユダヤとサマリヤに福音を伝えるきっかけは、ステパノの殉教でした。迫害を恐れて、彼らはエルサレムから逃げたのです。また、地の果てに福音を伝えるきっかけは、教会を激しく迫害していたパウロよるものでした。エルサレムにいる兄弟たちは、パウロが回心したことが信じられなくて、彼を迎え入れなかったのです。

 そして最後に、使徒行伝のアウトラインですが、3つに分ける事もできるし、2つに分けることもできます。3つに分けるときは、1つ目がエルサレム、2つ目がユダヤ・サマリヤ、そして3つ目が、地の果てです。エルサレムにおける活動が2章から7章までであり、ユダヤ・サマリヤ地方における福音伝道が8章から12章までであり、地の果てにいたる宣教は13章から最後までです。2つに分けるときは、エルサレムとユダヤ・サマリヤにおける活動を一つにします。ここでは主にペテロが中心となって活動しています。ペテロは、ユダヤ人に福音を伝える使徒です。そして、13章以降は、パウロが中心になっており、彼は異邦人に福音を伝える使徒であります。

2B 完成 「またおいでになります」 9−11
 それでは9章をご覧ください。こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 ここにいるふたりの人、おそらく御使いでしょうが、彼らはイエスが再び来られる約束をなさいました。まったく同じ有様でおいでになります。ある人々は、イエス・キリストの再臨は心の中の問題だ、また、神の国は、地上では実現しない。天国だけのものだと言いますが、どちらも間違いです。イエスは、目に見える形で、同じ有様で天から来られます。そして、ここオリーブ山に再び立つことになるのです。ゼカリヤ14章4節には、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。」とあります。ですから、まとめますと、イエスは、弟子たちに神の国のことを語られました。それは、弟子たちが働きかけて実現するのではなく、イエスさまが再び来られることによって実現します。けれども、再臨の前に、聖霊の働きがあります。福音を全世界に伝えるという働きがあり、その聖霊の働きが終わったら、イエスは天から地上に来られて、神の国を立てられるのです。だから、私たちクリスチャンは、この二つの真理をいつも心に留めていなければなりません。一つは、聖霊に満たされることです。自分ではなく聖霊が主役となって、福音が伝えられます。もう一つは、神の国を待ち望むことです。イエスが、すぐに来られることを待ち焦がれて、神の国に希望を置きます。

3B 従順 「祈りに専念していた」 12−14
 こうしてイエスに聖霊の約束を与えられたあと、彼らはイエスの命令を守って、エルサレムで待っていました。次を見てください。そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 彼らは祈っていました。いっしょに祈ることで、父の約束を待ちました。そこには11人の弟子たちとイエスの肉の家族たちがいました。次の節を読むと、他の弟子たちもいました。肉の家族がいることは興味深いです。彼らは、イエスが復活される前は、イエスを信じていませんでした。けれども、そのよみがえりを見て、この方がキリストであることを知ったのです。

2A 人間の働き 15−26
1B 神のみことば 15−22
 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。

 ペテロは、持ち前のリーダーであることは、前回のヨハネの福音書21章でも学びました。「私は漁に行く。」と言ったら、他の弟子たちも付いて行きました。ここでも、ペテロが率先して立ち上がっています。

 「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

 ペテロは、イスカリオテのユダについて語り始めましたが、そのときに彼は聖書のことばを持ち出してきました。これは、私たちにとって、とても大切な真理です。聖書のことばにより頼んで、自分の判断をしないということはとても大切です。ペテロはその正しいを行ないました。そして、聖書のことばについて、彼は2つのことを話しています。一つは、聖霊が人を通して預言されたということです。聖書は人によって書かれたのではなく、神が人を動かして書かれた、神のことばであります。聖書はすべて神の霊感によって書かれました。そして、もう一つは、聖書のことばは、成就しなければならない、と言ったことです。聖書のことばには誤りがなく、いつも正しいのです。聖書は、誤りのない神のことばです。

 ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。)

 このことが起こったのは、聖書の預言がありました。実は詩篇には、こう書いてあるのです。「彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。」また、「その職は、ほかの人に取らせよ。」

 この聖書のことばに従って、ペテロは以下の判断を下します。

 ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」

 復活の証人を、ユダの他に立てなければいけない、ということです。聖書を見ると、つねに12の単位で統治が行なわれています。例えば、イスラエルの部族は12で構成されていました。だから、ここでも、ペテロは聖書的に行動しようとしています。

2B 祈り 23−26
 ペテロは、聖書にもとづくだけではなく、祈りもしています。そこで、彼らは、バルサバと呼ばれ別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。

 このくじびきについて、批判をする人々がいますが、私はそうは思いません。なぜなら、くじびきは主に命じられて、イスラエルが何か一つを選択するための手段として使われていたからです。例えば、約束の地にはいったとき、相続の割り当てをくじで決めました。

 このように、ペテロは、実に思慮のある、正しい行動をしました。聖書にもとづいて使徒職の選出をし、その選出のさいは祈ってみこころを求めました。けれども、とんでもない事実がこの使徒行伝の後で発見されます。神が選んでおられた使徒は、マッテヤではなくパウロであったことです。このパウロが、ユダに代わる使徒であり、彼によって地の果てまでイエスことが証言されました。ペテロは正しいことをしたのですが、ただ一つ欠けていたものがあったのです。聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマを受けていないと、このようなことが起こります。人間的には、非常に理にかなった、正しいことが行なわれました。内側では12人の使徒がおり、整えられていました。けれども、外側に対しては何の影響力もなかったのです。

 私たちもこうなっていないでしょうか。聖書的に正しいことをしています。内側では整えられます。けれども、外に対する影響力がない、みな内側にこもっているのです。2章から、聖霊に満たされた使徒たちの活動が始まります。ペテロは同じように、聖書のことばを使いながらキリストを力強くあかしし、また、教会では熱心な祈りがささげられ、原則はなにも変わっていないのです。けれども、彼らが聖霊に満たされるとき、それは自分が考えて、自分が願って、自分のしたいことをするというよりも、言い方が悪いですが、聖霊に自分が牛耳られて、乗っ取られて、とりつかれて行なわれているのです。このような、外側からの聖霊との関係を持つときに、初めて私たちは、外側へ向かい、効果的な福音宣教、実が残る宣教をすることができます。

 だから、大切なのは、何かをすることではなく、聖霊との関係を持つことです。自分が、今まで自分のしたいようにしていたけれども、今度は聖霊がなされたいままにします。聖霊を求めることは、自分に死に、神が生きて働かれることを受け入れることです。これはとても簡単なことであって、また難しいことであります。私たちがイエスさまを信じるのは、とても簡単なことですが、自分の理性が邪魔をしてなかなか信じられなかったようにです。けれども、私たちはまた同じような決断をしなければいけません。ただ、聖霊を受けることを祈り、祈ったら、聖霊を受けたことを信じて感謝するのです。イエスは言われました。「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:13」お祈りしましょう。