使徒行伝10章 「新たな一歩」


アウトライン

1A 神の働きかけ 1−23
   1B 祈りと施し (忠実さ) 1−8
   2B 3回の幻 (神の主権) 9−16
   3B 御霊の語りかけ (信仰) 17−23
2A 人の応答 24−48
   1B 神の啓示 (思いの一新) 24−33
   2B イエス・キリストの福音 (恵み) 34−43
   3B 聖霊のバプテスマ (祝福) 44−48

本文

 使徒の働き10章をお開きください。ここでのテーマは、「新たな一歩」です。それでは本文を読みましょう。

1A 神の働きかけ 1−23
 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。

 
ここでコルネリオという異邦人が、ヨッパにいるペテロを招くように御使いによって命じられています。

 私たちは前回、神が今、ユダヤ人の歴史の中でまったく新しいこと、画期的なことを行なわれようとしていることを学びました。それは、神がイスラエルに約束してくださった祝福が、異邦人にも与えられるという計画です。神が契約を結ばれたのは、イスラエル民族に対してであり、その栄光はイスラエル人に現われ、律法も、礼拝もみな、彼らに与えられました。そして、異邦人は、自分たちがユダヤ教に改宗するかして、間接的に神を知ることしかありませんでした。けれども、神は、イエス・キリストを通して、異邦人が直接ご自分のところに引き寄せることをお考えになりました。このことを神は、イエスをキリストと信じるユダヤ人たちに啓示して、彼らが異邦人にも同じ福音を宣べ伝えさせようとされています。このことは神が突然、前触もなくお示しになったことではありませんでした。福音書を読みますと、イエスが弟子たちに、この計画について布石を置いておられたことを知ります。例えば、イエスは百人隊長のしもべの病を直されたとき、その百人隊長の信仰に驚いて、こう言われました。「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。(マタイ8:11)」異邦人も神の国に入ることができる、ということです。また、イエスは復活されたあとに、弟子たちにこう命じられました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ29:19)

 けれども、イエスをメシヤとして信じたユダヤ人は、このように言われてもどうしても受け入れられず、聞いても悟ることができませんでした。それは、彼らが何百年にも渡って教えられてきた伝統があったのです。律法の中に、イスラエルは他の民族と区別された聖なる民であることが宣言されています。その区別をするために、神は、イスラエル人が食べることのできるきよい動物と、そうではない汚れた動物があることを示されました。したがって、汚れたものから離れることによって、その聖さを保つことが命じられていました。けれども、ユダヤ人は、この掟を守るだけでなく、神が命じてもおられないものまでも、汚れていると見ていました。それは、割礼を受けていない異邦人は汚れている、だから彼らには決して触れてはいけない。彼らが多く住んでいる土地には行くべきではない。もし行くのなら、はいているサンダルのちりを取り払って、自分自身も水の洗いできよめなければいけない、と言うように、自分たちを限りなく異邦人から引き離していたのです。

 そこで神は、ユダヤ人の信者にご自分の計画を示すために、とてつもない画期的なことを行なわれました。その始まりが9章です。クリスチャンをとことん憎み、教会の迫害者であったサウロを、福音宣教者に変えてしまわれました。このサウロは、イエスの御名を異邦人の前に運ぶ選びの器として召されました。そして今読んでいる10章も、この画期的な出来事になります。神の御使いや、天からの幻、御霊の語りかけなどの、はっきりとした、確かな、そして著しい神の働きかけによってこの計画を、教会の指導者ペテロと、敬虔な異邦人コルネリオに知らせるのです。そして、ペテロが、異邦人に福音を宣べ伝える新しい一歩を踏ませようと促されます。私たち日本人も、ユダヤ人と同じように、自分が大事にしている伝統や、心情、価値観などを持っています。そして、ペテロたちのように、イエスさまを信じても、そうした固定概念にとらわれて御霊が導かれるように歩まないのです。現状維持を保つことに専念し、変化に富んだクリスチャン生活を、流れのない、よどんだ川のようにしてしまいます。けれども、そうした私たちに対して、神は、新しい一歩を踏ませようと働きかけられるのです。その働きかけにどのように対応すればよいのか、また、対応したらどのようなすばらしい祝福が待っているかを、この10章から学ぶことができます。

1B 祈りと施し (忠実さ) 1−8
 神はまず、コルネリオに働きかけました。私たちが今読んだ、1節から8節までにそれが記されていました。彼はローマ軍の拠点地の一つであるカイザリヤで、100人の兵隊を統率する百人隊長です。コルネルオは、異邦人でありながらも、自分が置かれている状況の中で、忠実に神に仕えようとしていました。ユダヤ人のように、はっきりとした啓示を受けていませんでしたが、自分の知っていることについては、それを守り行なっていたのです。たとえば、神を恐れて、悪をさけていました。おそらく、他の異邦人のように偶像礼拝はしていなかったでしょう。また、祈りをいつもささげていました。さらに、彼は、神がイスラエルを祝福する者を祝福されることを知っていたのでしょう、ユダヤ人の貧しい人たちに施しをしていたのです。ですから、限られた知識の中でも、その知識に対して責任を取っていたのです。ですから、御使いがここで、「あなたの祈りと施しは、神の前に覚えられています。」と言っているのです。ですから、私たちが、神の働きかけを受けることのできる条件の一つは、「今、自分が知っていることに対して忠実になっているか。」と言うことです。「私はこれからクリスチャンとして、どうやっていけばよいか悩んでしまいます。神の御心は何でしょうか。」と言う人が大勢います。そのとき私は、「それでは、もう神の御心だと知っていることについては、それに聞き従っていますか。」と聞きます。そうすると、自分に都合の良い部分だけを聞いて、そうではない部分は聞いていないことが多いのです。まず、自分の知っていることに立ち戻って下さい。そしてそこから前進してください。そうすれば、、コルネリオに対するように、神が必ず私たちに働きかけてくださいます。

2B 3回の幻 (神の主権) 9−16
 そして9節からペテロへの神の働きかけを見ることができます。

 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時頃であった。すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。

 
この夢ごこちとは、恍惚状態のことを言います。

 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。」


 これは、実に矛盾した発言ですね。主よ、と呼びかけているかぎり、「はい、わかりました。」と答えなければいけませんね。でもペテロは、「それはできません。」と言っています。

 
「私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。

 一回だけではなく、三回もありました。つまり、ペテロは三度、「主よ、それはできません。」と言ったことになります。


 ペテロは、ここでかなり反抗的になっています。主を心から愛し、主に従っているペテロが、神の言われることを公然と拒否しました。こんな発言をさせたのは何なのでしょうか。肉です。ペテロは、ユダヤ人としてその習慣の中で培ってきた肉が、このようなことを言わせました。自分の生涯の中で身についた価値観や習慣、また感情もすべてひっくるめて肉ですが、これは、ものすごく強い力を持っています。神からの命令や忠告をいっさい聞かず、「いや、私はそんなことをしません。」と言ってしまう力を持っています。普段は、私たちは、このことに気づきません。けれども、何か特定の出来事が起こったり、特定の状況の中に入るときに、ここのペテロのように肉が飛び出してくるのです。私たちは、自分のうちにある肉を克服できないかぎり、決して神のみわざの中に入っていくことはできません。

 でも、ペテロはこれを克服します。その理由は、次の神の言葉でした。「神がきよめたものを、きよくないと言ってはならない。」神が、という神の主権をペテロが、その全生涯の中で受け入れていたので、自分の肉を克服することができたのです。神の主権を認めるということは、神はご自分のなさりたいことをことごとく行なう権利があるし、それはみな正しいことであると受け入れることです。神に対して、「私はあなたのこの部分は気に入っていますので、受け入れます。けれども、あの部分は自分の思いでやっていきます。」と言うのではなく、「私はいろいろ考えや志はありますが、あなたの意思に反するのであれば、私の考えを退けます。」と言える決断をしているかどうかです。この決断ができている人は、ペテロのように時に神に反抗してしまうことがありますが、自分は反抗していることを知ることができ、自分が間違っていることを認めることができます。自分が生きていく道を助けてくれる存在として神を信じるのではなく、神が主であり王であり、その神の中に生きていくことが必要なのです。


3B 御霊の語りかけ (信仰) 17−23
  そして、神はさらにペテロに働きかけられます。

 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。

 使徒の働きの中には、「思い惑っている」とか、「驚き怪しむ」という言いまわしが多く出てきますが、聖霊が働かれるとき、私たちは、自分の思いをはるかに超えた出来事を見ていくようになります。これは人間が行なったことではなく、神の働きだと言えるようなことが起こるのです。ですから、驚きます。


 そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」


 御霊が彼に語られています。ためらわずに、いっしょに行きなさいと促しておられます。


 そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。

 
こうして、ペテロは、御霊が語られたことに逆らわずに出ていきました。この時点で、ペテロは、今起こっていることを理解できていません。けれども、信仰をもって踏み出したのです。御霊が語られている、という理由で踏み出しました。

 私たちがクリスチャン生活を歩むときに必要なのが、この信仰の一歩です。私たちには決して理解できないことでも、神はそれを行ないなさいと命じられるときがあります。私たちは、今の快適な現状にとどまりたいのですが、その快適な領域から踏み出さなければいけないのです。現状にとどまれば、自分の理解の中だけの生活を送る事になります。そうすると、理解はあるのですが、いのちがなくなります。形においては存在しても、中にいのちがない生活を送らざるを得なくなるのです。けれども、信仰によって一歩踏み出すときに、新たな道を私たちは見い出すことができます。ですから、信仰の一歩を踏み出すことは、いのちに満ち溢れたクリスチャン生活を送るには絶対に欠かせないことなのです。

2A 人の応答 24−48
1B 神の啓示 (思いの一新) 24−33
 その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。

 コルネリオが、御使いのことばをほんとうに真剣に受けとめたことが、ここから分かります。親族全員、友人たちを呼び集めています。

 
ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」と言った。

 人がある人をとても敬うときに、よく犯してしまう過ちがここに記されています。コルネリオはひれ伏して拝んでしまいました。私もときどき、「○×先生」とか「○×牧師先生」とか、いろいろな名称で呼ばれますが、私は自分が、単なる若い兄ちゃんであることを知っています。ただ、神のみことばを語る者にそのような尊敬を払っていると言ういうことは、その人が神のみことばを真剣に受けとめている証拠でもあります。コルネリオは、ペテロを伏し拝む間違いを犯してはしましたが、後で、「
主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。(33節)」と言っています。神のみことばに対し、ほんとうに真剣だったのです。

 それから、コルネリオとことばをかわしながら家にはいり、多くの人が集まっているのを見て、彼らにこう言った。

 
ここで、何気なく「家にはいり」と書かれていますが、これはペテロの全生涯の中において、一大事の出来事でした。家の中に入る一歩が、大きく切り立つ岩をよじのぼるようなものであったでしょう。けれども、ペテロは入りました。そして次のように言っています。

 
「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。」

 ここでペテロが言っている、「律法にかなわない。」という日本語訳には語弊があります。聖書には、そのような律法は存在しないからです。ですから、ここでは、「私たちユダヤ人の習慣にはかなわないことです。」と訳した方が良いでしょう。異邦人の家の中に入ったり、食事をすることは、ユダヤ人には絶対にできないことでした。想像することすらできなかった、恐ろしいことだったのです。しかし、ペテロは、この自分の強い思いを捨てて、神が与えてくださった啓示に従ったのです。つまり、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならない、と言うことを示してくださり、その啓示を受け入れました。


 このことを聖書は、「心の一新」と呼んでいます。使徒パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2」と言いました。私たちには、今まで身に着けきた価値観、思考回路、習慣、心情などがあります。けれども、それらが聖書のことばに対立していることを発見したとき、私たちは、意識的にその価値観を捨てて、神のみことばを身に着ける必要があるのです。これはちょうど、コンピューターのようです。私たちの思いというコンピューターには、さまざななデータが蓄積されています。その一つ一つを削除して捨ててしまわない限り、新しいデータを保存することはできません。古いデータを削除して、新しいデータを保存するという営みをすることによって、私たちは神の新鮮なみわざの中に入っていくことができます。

 「それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」

 すばらしいですね、語られるみことばを、全面的に受け入れます、一人の人間の意見ではなく、神のことばとして絶対的な真理として受け入れます、と言っています。コリネリオが、「主がお命じになったこと」と言っていることに注目してください。聖書のことばを、自分が従うべき命令として受けとめているのです。聖書を聞くとき、それを理解することに満足するのではなく、理解したことによって支配されることに満足する態度です。新約聖書に登場する百人隊長は、その信仰のすばらしさが記されていますが、おそらく、「命令」という意味を、あるいは、ことばにある権威をよく知っていたからだと思われます。


2B イエス・キリストの福音 (恵み) 34−43
 このコルネリオのことば、つまり、主のみことばを聞くために呼んだことを聞いて、ペテロはようやく、事の全容が理解できました。天からのふろしきの意味も今、理解できたのです。

 そこでペテロは、口を開いてこういった。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」

 ペテロは、異邦人も、同じイエス・キリストの福音を聞く必要があることが分かりました。彼がユダヤ人に語っていた同じメッセージを、異邦人にも語るべきであることを悟ったのです。異邦人にとって、神は遠く離れた存在でした。それは外国の神であり、自分たちはその祝福を受けることはできない、と思っていました。しかし、今、ユダヤ人に語られるのとまったく同じように語られます。同じ福音を、自分のものとして受け入れる権利があることを知ります。パウロは、「
しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。(エペソ2:13」と言いました。ユダヤ人に与えられた、神からのすばらしい祝福は、キリストにあって私たちのものとなりました。だれか一部の人たちだけのものではなく、私たち個人が楽しめるものになったのです。

 そして次から、ペテロは福音を語ります。

 あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。

 よくご存知です、とありますが、バプテスマのヨハネとイエスの宣教活動のことは、あまりにも大きな影響力を持っていました。だれも、そのことについて知らない人はいませんでした。


 それは、ナザレのイエスのことです。

 
使徒たちが語っていた福音は、イエス・キリストという人物とその行ないそのものでありました。さまざまな宗教は、人が幸福になるための思想、手段、考えなどを提供します。けれども、聖書では、福音は思想でもなく考えでもなく、イエス・キリスト本人であると唱えています。イエス・キリストが、真理であり、道であり、いのちなのです。この方に出会うことで、真理のすべてを、道のすべてを、いのちのすべてを知ることになります。

 
神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。

 イエスさまの生涯が端的に語られています。聖霊が注がれ、良いわざをなし、また悪霊を追い出されました。

 
人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。

 
イエスの、十字架と復活について述べています。

 
しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。

 イエスが復活されて、ご自分を現わされたのは弟子たちに対してだけでした。墓で番をしていたローマ兵たちは、イエスを見ることなく、御使いを見て気絶して倒れてしまいました。


 イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。


 このイエスが裁き主です。今まで人間が行なった事について、すべてを清算される方です。


 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。


 さばきだけではなく、罪の赦しもイエスにあって備えられています。

 このように、実に端的で、単純で、ごく基本的なことだけをペテロは伝えています。ペテロは、異邦人にこの福音をどのように分かりやすく伝えればよいのか、その術を知りません。また、ここであまり使いなれないギリシヤ語を使っていたのかもしれません。ただ、たんたんとイエス・キリストについての事実を伝えました。

3B 聖霊のバプテスマ (祝福) 44−48
 ところが、驚くべき出来事が起こりました。

 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。

 ペテロの説教をさえぎるようにして、聖霊が彼らの上に下ったのです。


 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。


 割礼を受けている、というのはユダヤ人信者のことを指しています。異邦人が、しかも無割礼のままで、自分たちと同じように聖霊を受けているのを見て驚いています。


 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。


 聖霊を受けるときに、このようによく異言をともないます。異言とは、自分では理解することのできないことばを語ることです。それを理解できる人は、ここに書かれてあるように、神を賛美している言葉であることに気づきます。それはともかく、異邦人がそのままの姿で、聖霊を受けているというのが、ここでの驚くべきことです。彼らは聖霊を受けるために、何の準備もしていません。とくべつな聖書の学びを受けたのでもなく、何時間も祈ったわけではありません。ただ、ペテロの口から出る神のみことばを、信仰をもって聞いていたからです。パウロがガラテヤ人の手紙で、このように言っています。「
あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(3:2)」神の祝福は、私たちの努力で受けるものではなく、みことばを単純に信じることによって与えられます。


 そこでペテロはこう言った。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。

 バプテスマを受けるということは、彼らが救いにあずかったことを認証するものです。したがって、ペテロは異邦人も救いにあずかったことをここで認めています。こうして、異邦人への福音宣教が、神からの命令であることを教会が認めるようになりました。この出来事によって、私たちも福音を持っているのです。だから画期的な出来事なのです。


 けれども、このような神のすばらしい働きが前進するためには、私たちの固定概念が壊される必要があります。この新鮮な御霊の働きを私たちが受け入れるには、「主よ。それはできません。」と言わせる私たちの肉が処理されなければいけません。それは、神がなさることを全面的に受け入れる決断をしていることによってできます。また、理解できなくても信仰によって一歩前に踏み出ることによってできます。そして、古い考えを捨てて、新しい神からの命令を受け入れることによって実現するのです。みなさんも、この一歩を踏み出せるでしょうか。それとも、「まあ、今日はここまでにして、また来週から1週間が始まるのだから。」となるでしょうか。それはみな、一人一人の決断にゆだねられています。主は、ひとりひとりを御霊に導き、ご自分のみわざの中に入れたいと願っています。