使徒行伝11章 「二つが一つに」

アウトライン 

1A 信仰において 1−18
   1B 問題 − 律法主義 1−3
   2B 解決 − 神の御霊 4−17
      1C 幻 4−9
      2C 御声 10−15
      3C 御言葉 16−17
   3B 結果 − 神の栄光 18
2A 愛によって 19−30
   1B 平和を造る人 19−26
       1C 福音宣教 19−21
       2C 励ましと教え 22−26
   2B 物質の支援 27−30


本文 

 使徒の働き11章を開いてください。ここでのテーマは、「二つが一つに」であります。ユダヤ人の信者と異邦人の信者が一つになり、一つの教会になっていきます。そこから、クリスチャンの間にある一致とは何かを考えてみたいと思います。

1A 信仰において 1−18
 それでは、1節から読んでみたいと思います。

1B 問題 − 律法主義 1−3
 さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。

 この知らせは、私たちが前回学んだ、百人隊長コルネリオのことです。彼とその親戚や友人が、ペテロの話す主のことばを受け入れて、聖霊のバプテスマを受けました。

 そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言った。

 
割礼を受けた者とは、ユダヤ人でイエスをメシヤと信じた人たちのことです。彼らは、異邦人たちが神の救いを受けたことを聞いて、ペテロを非難しています。これは、とてもおかしいことです。イエスの御名を信じる者なら、福音を受け入れたことについて、大いに喜ぶべきことです。なのに、彼らは喜ぶのではなく怒っています。パウロは、教会はキリストのからだであり、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(Tコリント
12:26」と言いました。けれども、今、神の救いについて喜ぶことができない人たちがいて、教会に不和が起こっています。

 このような問題が起こった原因は、ペテロが無割礼の者たちのところにいって、いっしょに食事をした、ということであります。これは、前回学びましたように、神の律法の中には、異邦人と食事をしてはならないという掟はなく、それはユダヤ人たちの律法の解釈でした。伝統であり、習慣だったのです。この習慣が、教会に不和をもたらしてしまったのです。パウロは、ユダヤ人が持っていたさまざまな戒めが、ユダヤ人と異邦人を分けていたことについて、エペソ書において述べています。2章14節からです。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」この二つのものとは、ユダヤ人と異邦人のことです。「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。(2:14-16」ですから、これらの規定をこわされたのがイエス・キリストの十字架であり、十字架のみわざによってユダヤ人と異邦人を一つにするのだ、と言っています。けれども、エルサレムにいたユダヤ人クリスチャンは、まだそのことに気づいていませんでした。

 これは、私たちにも十分に通じる問題です。私たちには、さまざまな異なる習慣や、ある聖書の解釈や、儀式や、背景を持っています。これらを、神のことばのように大切なもののように取り扱うと、教会に不和がもたらされます。ほんとうはクリスチャンとしていっしょに喜ぶべきときに、逆に戒めたり、いっしょに悲しむべきときに、笑っていたりする、ということが起こるのです。けれども、逆に、私たちが、神のことばのみに拠り頼み、聖書だけを物事を判断する規範としているなら、たとえ信じている神学が異なっていても、性格や背景が異なっていても、すばらしい、麗しい一致を見ることができます。ですから、私たちは、「聖書には何と言っているんだろうね。」という問いかけを習慣にしてみると良いでしょう。

2B 解決 − 神の御霊 4−17
 それでは、エルサレムの教会にあった問題について、どのようして解決がもたらされたのでしょうか。4節をご覧ください。そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。

 ペテロは、自分の身に起きたことを順序正しく、正確に説明しました。今から記されていることは、私たちが10章で読んだこととほとんど同じです。私たちは、そこで、ペテロが経験したことは、自分自身から出たものではなく、神の啓示でした。神の御霊がペテロを導かれ、ペテロ自身が克服することのできなかったユダヤ人の習慣を乗り越えることができたのです。

1C 幻 4−9
 「私がヨッパの町で祈っていると、うっとりと夢ごこちになり、幻を見ました。四隅をつり下げられた大きな敷布のような入れ物が天から降りて来て、私のところに届いたのです。その中をよく見ると、地の四つ足の獣、野獣、はうもの、空の鳥などが見えました。そして、『ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。』と言う声を聞きました。しかし私は、『主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。』と言いました。すると、もう一度天から声がして、『神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。』というお答えがありました。

 
神の御霊の導きは、幻から始まりました。ペテロは恍惚状態になって、そのとき敷布のなかに獣がいる幻を見ました。神は、ときに、幻によって私たちに語られることがあります。それと似たものが夢ですが、夢と幻の違いは、夢は眠っているときに見るものである一方、幻はまだ眠っておらず、意識があるときに見るものです。私自身は幻も、また霊的な意味を持つような夢も幻も見たことがありませんが、妻はあるようです。十字架につけられたイエスさまの影を見た、と私に話したことがあります。

2C 御声 10−14
 ただ、幻や夢というのは比喩的であったり、象徴的であったりします。それが何を意味するのか解き明かしが必要になります。そこで、御霊はペテロに、ことばでもって語りかけます。こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家にはいって行きました。その人が私たちに告げたところによると、彼は御使いを見ましたが、御使いは彼の家の中に立って、『ヨッパに使いをやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを話してくれます。』と言ったというのです。

 ペテロが見た幻について、御霊がはっきりと、ためらわずにいっしょに行くように、と命じられました。聖霊は、今日の私たちにも、内なる声によって私たちに語りかけられます。私たちは、その声に聞き従うことによって、神に従うことができます。チャックが、説教の中でこんな話しをしていました。チャックの娘とその息子の会話です。チャックはもう72歳ぐらいのおじいさんですから、お孫さんもいます。だいたい、こんな話です。夜、寝静まったとき、息子がお母さんのところにやって来て、「お母さん、神さまがいるのかどうか、僕には分からない。神がぼくに語ってくれない。」と言いました。お母さんは、「イエスさまを信じている?イエスさまが、自分の罪のために十字架で死んでくださったことを信じている?」息子は、「うん、信じているよ。」と言いました。「ベッドに戻りなさい。」と言いました。また別の日の夜、寝静まったときに、息子がお母さんのところにやってきました。「ぼく、やっぱり、神さまが僕に語ってくださっているのか、分からない。」と言いました。そこでお母さんは、「車庫で、お父さんのゴルフのクラブを振り回して、クラブをこわしてしまったとき、だれから語りかえられなかった?それは神さまが語られたのよ。」と言います。そして、またちょっとしたあら息子がやってきました。「お母さん、ぼく、神さまがたくさん語ってくださっているのがわかったよ。
”God talks awful a lot to me.” 」神は、このように、内なる声によって私たちを導かれるのです。

3C 御言葉 15−17
 けれども、聖霊が私たちを導かれるもっとも大切な方法は、神のみことばを思い出させることです。そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。私はそのとき、主が、「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。」と言われたみことばを思い起こしました。こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。

 
ペテロは、イエスがおっしゃられたことばを思い出すことによって、これは神がなさっておられる現象であると確信するに至りました。御霊は、このように、私たちの実際の場面において、神のみことばを思い起こさせてくださり、そのみことばによって私たちを導かれるのです。ですから、私たちは、日々、この聖書を読んで、ときにみことばを暗記するなどして、みことばを心に蓄える必要があります。

3B 結果 − 神の栄光 18
 人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。

 ユダヤ人信者も、ペテロの説明を聞いて、異邦人にも神は救いを与えてくださることを知ることができました。異邦人が救われるのか、救われないのか、という問題について、教会に一致がもたらされました。信仰の一致がもたらされたのです。自分たちが信じている事柄について、一致が与えられたのです。組織的な一致でもなく、また、建前だけの一致ではありません。自分が個人的に神との関わりを持っていて、その信仰が他の信者と共有できるような一致です。作り出した一致ではなく、生み出された一致と言ったらよいでしょうか。ユダヤ人信者にも、異邦人が救いを得ることができるという信仰が与えられました。

 そして、その結果、彼らが「神をほめたたえた。」とあるところに注目してください。神に栄光が帰されています。教会が一致していないときは、神の栄光が現れていません。なぜなら、互いに自分が正しいと思っており、神ではなく人間が主役になっているからです。けれども、互いに同じ思いをもっているときに、神の御名がほめたたえられます。パウロが言いました。「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。(ローマ15:5-6」ユダヤ人の信者は、神をほめたたえました。

2A 愛によって 19−30
 ただ、私たちが一つになるのは、信仰だけによるのではありません。具体的な奉仕や愛の行為によって結びつきます。19節からは、話の舞台が、アンテオケというイスラエルの北にある町へと移ります。ここにおいて、同じように、ユダヤ人と異邦人が、実際の行動によって一つになっていく出来事を読みます。

1B 平和を造る人 19−26
1C 福音宣教 19−21
 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。

 覚えていますか、ステパノがユダヤ人によって殺されて、それからエルサレムに教会への迫害が起こりました。そのとき、信者たちはエルサレムから逃げていきましたが、8章においては、サマリヤの地域で信者たちが福音を宣べ伝えたことが記されていました。今、サマリヤの地域だけではなく、北上して、海岸地方のフェニキヤ、そして地中海の島であるキプロス、そして現在のトルコに位置するアンティオケにまで広がっていきました。イエスさまが、「地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われたとおりです。けれども、見てください、「ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。」とあります。イエスの証人となっていないのです。彼らもなだ、ユダヤ人の聖書の解釈によって縛られていました。けれども、次からすばらしいことが起こります。

 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。キプロスやクレネ出身のユダヤ人が、ギリシヤ人にも語りかけ始めました。そして宣べ伝えて、大ぜいの人たちが主を信じました。彼らの働きがなければ、使徒行伝はここで終わり、パウロのヨーロッパ宣教もなく、彼らはたんなるユダヤ教の一派になっていたのです。もちろん、はるか東に位置する私たちは、救われていません。このような重要な働きをした人たちなのですが、ただ聖書のなかの一文に記されているだけであり、しかも名前さえ記されていません。パウロは、「私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。(Tコリント12:23)」と言いましたが、この無名の信者が、とても重要な働きをしました。私たちも、自分は大したことはできないと卑下しては決していけません。ほんのちょっとした働きが、神の計画の中でとても大切なのです。

 そして、多くの人が主を信じた経緯を見てください。二つの段階があります。キプロスとクレネから来たユダヤ人は、第一に、ギリシヤ人に語りかけました。ふだんは語りかけることもないような人たちに、語りかけたのです。これが第一歩です。私たちクリスチャンは、開かれた人でなければいけません。まだイエスさまを信じていない周囲の人々に心を開いて、人々が自分に近づくことができるような人でいなければいけません。これは、内気な性格の人や無口な人が、むりに口を開かなければいけない、ということではなく、内気な人も無口な人も、なんらかのかたちで人々が近づいてくることができるのです。この前、私たちのことろに来たラリーは、ほんとうに無口な人でした。アメリカ人というと、しゃべりながら息をしているように、いつも話していますが、彼は空港で会ったときから、ほんとうに何も話しかけませんでした。ぼくが質問をしても、5つの単語を並べるような感じの人です。でも、彼のところには人々が近づいてきます。それは、彼が心を開くからです。メッセージの中で、証しの中で、またEメールの中で、主にあって経験した喜びや、悲しみや、苦しみや、愛などを、彼は包み隠さず話します。だから、彼が6年間務めた聖書学校は、数十人から500人にまで増えたのです。私の知っている卒業生は、みな、ラリーを尊敬し、慕っていました。ですから、心を開き、人々が自分に近づくことができるようにすることが必要です。

 そして、このユダヤ人たちは、第二に、主イエスを宣べ伝えました。宣べ伝えるとは、今までイエス・キリストを信じていなかった人に、イエス・キリストを伝えて、イエスを信じて、罪の赦しを得るように促すことです。これも、すべての人がすることができます。イエスさまを信じてみたいと思っている人に、少し促したり、信じてみることを誘いかけてみることも宣べ伝えることです。こうして、多くの人が主に導かれました。

2C 励ましと教え 22−26
 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。

 この時点で、すでにエルサレムの教会は、異邦人の救いを受け入れていました。それで、この話を聞いて喜び、アンテオケにバルナバを派遣することに決めました。バルナバについては、みなさん覚えてらっしゃるでしょうか。使徒行伝3章の最後のところに最初に出てきましたが、彼はレビ族のユダヤ人であり、自分の所有の畑を売って、その代金を教会に持ってきました。バルナバという名前は、「慰めの子」という意味です。さらに、バルナバは、回心したばかりのパウロが、エルサレムの教会で受け入れられなかったときに、パウロのことを彼らに紹介しました。このように、彼は、ふつう人々が抱いている偏見を乗り越えて、愛の手を差し伸べて、また、対立している人々を結びつるような、平和を造る人でした。イエスは、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)」と言われましたが、まさにそのような人であったと言えるでしょう。

 ところで、アンテオケというのは、当時の世界の三大都市の一つでした。もっとも大きかったのは、もちろんローマです。その次に、エジプトにあるアレキサンドリアが大きい町でした。そして三番目に大きかったのがアンテオケです。この町は、日本で言えば新宿の歌舞伎町のようなものと考えればよろしいでしょう。汚れと不品行にまみれた町でした。そこに主を信じるものがたくさん起こされたのです。コリント人への第一の手紙には、「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(1:28」とありますが、これは町のレベルでもそうだったのでしょう。ここでは、イエスさまを信じる人はまず起こされない、と私たちが思っているようなところで、主は、多くの人を救われます。

 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。

 恵みとは、受けるに値しないものを受けることです。バルナバは、神は、律法を知らない人々にまで救いを提供していることに喜びました。そして、バルナバは、彼らを励ましました。あるいは、勧めた、と言うこともできます。この、勧めることは、イエスさまを信じたばかりの人には、とても必要とされていることです。先ほどは、語りかけて、宣べ伝えました。宣べ伝えて、人々が主に立ち返ったなら、そこでほったらかしにしてはいけないのです。必ず勧めなければいけません。その勧めの内容ですが、心を堅く保って、常に主にとどまっているように、というものです。クリスチャンになって、最初にしなければならないのは、このことです。たいていの人は、イエスさまを信じると、次に自分が何をしなければないか考えます。そのときに、教会が、これこれの奉仕をして、伝道を手伝って、云々と、いろいろな活動をするように促すことは間違っています。イエスさまを信じたあとには、この信仰によってこれから生きていくのだ。どんなことがあっても、私は信じるのだ。イエスさまにしがみついて、決して離れない、という堅い決意を持つことに専念することが必要です。

 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。すでに信者になった人を励ましただけではなく、彼をとおしてさらに多くの人々が主を信じました。バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。

 
バルナバは、ずっとタルソで生活をしていたサウロ、つまりパウロを連れてきます。バルナバは、パウロが、このアンテオケで救われた異邦人へ奉仕をするために、最適の人であると判断しました。タルソは、ギリシヤ文化の色濃い町です。パウロはそこで生まれましたが、彼の両親はベニヤミン族のユダヤ人であり、彼は青年になってからエルサレムで聖書の学びをしました。ですから、聖書についてよく知っていること、またギリシヤ人がどのように考え、行動するかをよく知っている人がパウロであり、バルナバは彼が適任だと考えたのです。結果的に、このパウロがトルコとヨーロッパへ福音を運ぶ宣教者となり、多くの教会が建て上げられて、世界中に福音が広がっていったのです。

 そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。

 主に立ち返って、勧めを受けた信者たちは、今度は教えを受けました。主を信じなさいと促すのが、宣べ伝えであり、主にとどまりなさいと促すのが、勧めでありますが、主を知りなさい、と促すのが教えでしょう。聖書に書かれてあることを教師が説明して、人々が理解できるようにして、そして、自分の信仰をさらに深めていく、というのが教えです。このようにして、アンテオケでは、4つの霊的な奉仕が行なわれました。語りかけること、宣べ伝えること、勧めること、そして教えることです。その結果どうなったかが、次に書かれています。

 弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。


 キリスト者、つまり、クリスチャンという意味になりました。これはクリストスというギリシヤ語と、イアヌスというラテン語が組み合わさったものであり、「キリストのような」という意味です。不信者の人たちが、彼らを見て、そのように呼びました。蔑称して、そう呼んだのですが、なんともすばらしい呼び名です。彼らを見ていると、キリストのようだ、と思ったのです。その当時の記録で、彼らはなんとお互いに愛し合っているのだろうか、と驚いている発言が載っています。ですから、彼らは、神から遠く離れていた異邦人であったのが、悔い改めて、キリストのように変えられたのです。これが、教会の最終的な目的であり、クリスチャンがキリストのようになっていき、神の栄光が現われることが最終的な目的です。

 こうして、一部のユダヤ人やバルナバが、ギリシヤ人に愛をもって接し、奉仕をしたことによって、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つになっていきました。

2B 物質の支援 27−30
 そして今度は逆に、異邦人の信者が、ユダヤ人の兄弟たちに愛の手を差し伸べる場面を読みます。そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。

 当時、預言者は、とくていの教会にとどまるのではなく、教会を巡回して奉仕していました。そして、教えと勧めと慰めのメッセージを与えました。ときに、次の節に書かれているような、近未来の地域的な出来事を予告する働きもします。エルサレムから預言者がやって来たということは、やはり、異邦人を神がお救いになるのだという信仰を、エルサレムにいる教会の人々が与えられていることを示しています。

 その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。


 このアガポは、使徒の働きのずっとあとにも登場します。パウロがこれからどうなるか、エルサレムで大変な目にあうことを予告しました。ここでは、世界中のききんを預言しました。ところで、聖書では、偽預言者がいるから、預言をきちんと吟味しなさい、と教えられていますが、その吟味の仕方は、その預言がそのとおりになっているかどうか、というものです。そのとおりにならなければ偽預言者なのですが、アガポは、このテストに合格しています。

 そして、次がとても大切な箇所です。そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。

 彼らは、経済的に逼迫していたエルサレムにある教会に、救援物資をすぐに送りました。このアンテオケにいる信者たちは、おそらくそのほとんどが、エルサレムにさえ行ったことがないでしょう。まだ見たこともない兄弟たちに、彼らは愛の手を差し伸べています。使徒ヨハネは、「ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(Tヨハネ3:18)」と言いましたが、困っているときに助けることによって、彼らはキリストの愛を示しました。

 けれども、このようにして彼らは一つになっていったのです。一致とは、愛による結びつきです。ユダヤ人は霊的な奉仕を異邦人にしてあげて、異邦人は物質的な奉仕をユダヤ人に対して行ないました。その愛の結びつきが、信仰の一致とともに彼らを一つにしました。私たちが一つになる、一致するというのも同じことです。私たちはそれぞれ異なる性格をもち、背景が異なり、年齢、性別など、いろいろな違いがあります。けれども、主とつながっていることによって与えられる信仰が一つになっているのであれば、また、互いに愛し合っているのであれば、そこには麗しい御霊の一致があり、神の栄光が反映されているのです。



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