アウトライン
1A 義のための苦しみ 1−4
2A 熱心な祈り 5−20
1B 霊の武器 5−11
2B 神のみこころ 12−19
3A 神の復讐 20−25
本文
使徒の働き12章を開いてください。ここでのテーマは、「天の御国のかぎ」です。「天の御国のかぎ」という言葉はこの章には出てきませんが、イエスさまがペテロに、次のように語られました。「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(マタイ16:18-19)」つまり、教会に天の御国かぎが与えられて、暗やみの力であるハデスは、これに決して打ち勝つことは出来ない、と言うことです。私たちは、イエスさまが言われたこのことの意味を、具体的に12章において見出すことができます。
1A 義のための苦しみ 1−4
そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
ステパノの殉教に続いて、使徒の一人であるヤコブが殺されました。そして今、ペテロも殺されそうになっています。私たちは、前回、11章において、新しい教会が建て上げられた箇所を読みました。アンテオケにおいて、異邦人を多くの信者として持つ教会が出来ました。そして、預言者アガボによって、世界中にききんが訪れることが預言されました。そこで、アンテオケの教会は、もともと経済的に困窮していたユダヤ地方の教会に、援助物資を送ることに決めました。このように、エルサレムにある教会は、自分たちのところに飢饉という天災が降りかかったのですが、この同じ時期に、教会の重要な指導者も殺されてしまう、という危機に陥ります。
この迫害の手を伸ばした男はヘロデ王です。フルネームでは、ヘロデ・アグリッパ1世です。彼は、イエスさまが誕生されていたときにイスラエルを治めていたヘロデ大王の孫であり、また、バプテスマのヨハネの首をはねたヘロデ・アンテパスの息子でした。彼は、金を浪費し、放蕩していたどうしようもない男でしたが、あるきっかけで、ユダヤ地方の王になりました。そして、彼は、政治家に付きもののご機嫌取りをしようと思い、ユダヤ人によって目の上のたんこぶであった教会を迫害しました。素性も、動機も、悪に満ちていた男です。ヤコブを殺したあと、ペテロを殺そうとしていますが、種なしのパンの祭りの間は死刑は執行してはいけなかったので、牢獄に入れています。この殺されたヤコブは、主を愛し、主に従う敬虔な人でした。彼は、使徒ヨハネの兄弟であり、イエスさまとともに宣教の旅を最後までいっしょにいた人物でした。それだけではなく、イエスは、とくべつに奇跡的な出来事を行われるとき、ペテロとヨハネとこのヤコブだけを連れて来て、彼らにだけ見せられることもされていました。ですから、イエスに非常に近かった弟子のひとりです。ヤコブに対し、イエスは、「あなたはわたしの杯を飲みはします。(マタイ20:23)」と言われましたが、イエスが死なれたように、ヤコブは殉教しました。
私たちは、なぜヤコブのような神の人が、悪人であるヘロデの手によって殺されたのか理解できません。一見、これは、教会が敵の手によって牛耳られているようであり、教会が世の力に対して無力であるように感じます。けれども、それは、教会の性質を思い出すことによって解決されます。教会とは、目に見える人々の集まりである一方で、目に見えない霊的世界との接点の場であるからです。つまり、私たちは、この肉体だけではなく、魂もあり、世の力は魂に対しては、指一本ふれることができません。イエスは、弟子たちに次のように言われました。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4-5)」ですから、ヘロデは、ヤコブのからだを殺しましたが、ヤコブのたましいは生きており、ヤコブは、天において大いなる報いと慰めを受けています。一方、ヘロデは、自分のたましいがゲヘナに投げ込まれるという滅びを刈り取りとることになるでしょう。このように、教会は、目に見えない世界の中で、圧倒的な勝利を得ているのです。そして、私たちは、聖書に啓示されている目に見えない霊的な事柄に、目を注ぐ必要があります。永遠のいのち、聖霊の満たし、天国、復活、主の再臨など、みなさんの心の中でどれだけ明確になっているでしょうか。パウロは私たちに、「あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを求めなさい。(コロサイ3:2)」と言いましたが、これが、クリスチャンがこの世に勝利して生きていく秘訣です。
2A 熱心な祈り 5−20
そして、話は、牢獄の中にいるペテロに移ります。
1B 霊の武器 5−11
こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
この「閉じ込められていた」の後に、「しかし」という言葉がギリシヤ語にはあります。ペテロは牢に閉じ込められていましたが、神への祈りは閉じ込められていませんでした。目に見えない事柄に目を注ぐときに必要なのは、神に祈りをささげることです。祈りによって、霊的事柄に直接的に取り組むことができます。聖書では祈りは、霊の武器の一つであると考えられています。エペソ書6章では、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(6:11-12)」と書いてあります。また、コリント人への第二の手紙では、「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。 (コリント第二10:4)」と書いてあります。
ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
ふつう、囚人は、片方の手が鎖につながれていますが、ここでは両手がつながれていたようです。そして、この二人の兵士のほかに、戸口にひとりの兵士がいて、また、外側の戸にもう一人の兵士がいました。合計4人です。そして、他に三組の兵士がいて、夜の間、交代制でペテロを監視していました。物理的には、やるだけのことをやる、という感じです。
すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。鎖も、牢屋も、御使いにとっては何の効力も果たしませんでした。そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
2B 神のみこころ 12−19
こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
マルコとは、マルコの福音書の著者のことです。マルコは、イエスさまが地上におられたころ、12、3歳ぐらいの少年でした。そして、弟子たちがイエスさまと旅をしているときに、ついて歩き回っていました。マルコの福音書には、他の福音書にはない記事が挿入されています。イエスさまが捕らえられるときに、弟子たちがイエスを見捨てて、逃げてしまいましたが、こう書いてあります。「ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(マルコ14:51-52)」これは、マルコ本人ではないかと言われていますが、いま、マルコのお母さんの家で、大ぜいの人が集まって祈っていました。
彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
ちょっとせっかちな女中ですね。門を開けてから、奥に駆け込めばよいのに、…。でも、彼女は、自分たちの祈りが聞かれたと思っておおはしゃぎだったのです。他の人の対応を見てください。彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。なんと、彼らは、自分たちが祈っていることが聞かれているのに、聞かれたことを信じていませんでした。しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。非常に驚いています。こうして見ると、彼らは信仰をもって祈っていなかったのではないか、と思わされます。
けれども、ここに、祈りの本質が現われています。祈りというのは、神さまの考えておられることを変えてもらうようにお願いすることではない、と言うことです。神さまがテレビを見ておられて、私たちが、何回も、大きな声で、「私たちの言うことを聞いてください!」と叫んで、神さまが重い腰をあげて祈りを聞いてあげる、という類いのものではありません。神はもともと、ご自分がなさろうとしていることがあります。ここでの場合は、ペテロを救い出すということを考えておられたのです。けれども、神は、教会の人々に、またペテロ自身にそのことを分からせるために、教会の人々に祈る思いを与えられました。彼らの祈りに注目してください。5節に戻りますと、「神に熱心に祈り続けていた。」とあります。神に対して祈っていました。ただ単に、ペテロが救い出されることに焦点を当てたのではなく、神ご自身の性質、神のみわざ、神のみことば、神の臨在、神の真理など、神ご自身の中に自分自身をささげたのです。ペテロとヨハネがサドカイ派に捕らえられて釈放されてから、教会に戻って報告したときに、彼らがどのように祈ったかを思い出してください。「私たちを助けてください!」ではなく、「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人は騒ぎ立ち』(4:24,25参照)」云々と祈っています。一方、状況が変わることだけを願った人として、私はエジプトの王パロを思い起こしますが、「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。(出エジプト8:8)」と言いましたが、祈りが聞かれると、心をかたくなにしました。
ですから、神さまのみこころを知っていくこと、神のみわざを、神のみわざとして認めることができるようになることが、祈りの目的です。祈らない人は、神が何をしてくださっているのか見ることができないし、知ることもできないのです。もし祈っていなかったら、ペテロが御使いに腹をつつかれても、何も気づかなかったかもしれません。現に、そこにいた不信者である兵士たちは、御使いがいることを何も知ることができなかったのです。そして、良く考えるとすごいことは、夢かもしれないと思っているペテロは、この御使いの言うことに聞き従っていることです。「くつをはきなさい」と言ったら、彼はくつをはきました。御使いが、「私についてきなさい。」と言ったら、彼は付いていきました。何も理解できていないのに、その声に聞き従った、というところに、祈りの答えがあります。神のなさろうとしていることに心を開いて、神のみわざが成し遂げられるようにするのです。
しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください。」と言って、ほかの所へ出て行った。
このヤコブは、もちろんヨハネの兄弟のヤコブではありません。彼は、イエスの半兄弟であるヤコブです。マリヤの胎内に、聖霊によってイエスさまが身ごもりましたが、マリヤは、そのあとヨセフとの間に何人かの息子や娘を産みました。その一人がヤコブですが、イエスが地上におられるときは、イエスがキリストであると信じていませんでした。けれども、復活の主をヤコブは見て、イエスを信じるようになったのです。そして、エルサレムの教会のなかで指導的な役割を果たすようになっていきました。彼が、ヤコブの手紙の著者であります。そして、ペテロは、ほかのところに来ました。これは、もちろん、殺害の手から逃れるためです。ペテロは、使徒行伝15章を除いては、これからの使徒行伝の話には登場しなくなります。もちろん、彼は主に用いられつづけていった器でありましたが、著者のルカは、イエスさまの約束である、「地の果てにまで、わたしの証人となります。」ということばに注目していました。このみことばがどのように成就していくのかを書き記すことが、彼の役目でした。そこで、これからは、小アジアとヨーロッパに福音を伝えるパウロに焦点を当てることになります。
さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在した。
ローマの法律では、番兵は、囚人を逃がしてしまったら、その囚人に課せられているのと同じ刑罰を受けなければいけないことになっていました。そのため、彼らは殺されました。けれども、ペテロが逃げていってしまったことによって、主を信じたとか、神のみわざに驚いたとか、そのような記述は一つもありません。ですから、やはり、祈るのは、神の働きを知って、認めることができるようにすると言うことができるのです。
3A 神の復讐 20−25
さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。
ツロとシドンは、カイザリヤの北にある町です。
そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。
歴史家のヨセフスによると、ヘロデはこのとき、銀で造られた王服をまとっていたと言われています。それが日差しで輝いて、人々が、「神の声だ。」と言いました。すると、ヘロデは腹痛が起こって倒れてしまいました。その5日後に死んでしまった、と記しています。けれども、聖書は、別の側面を教えています。
するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。
ヘロデを倒したのは、天使でした。神に栄光を帰さなかったヘロデに対する神のさばきが下ったのです。
そして次の箇所をご覧ください。主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。
ここが大事です。ヘロデ王は、教会の働きをやめさせようとしました。けれども、神のみこころを彼は止めることができませんでした。ヘロデによってヤコブが殉教し、またペテロが投獄され、また、背後には経済的困窮もあります。このように、教会が、窮地に立たされていても、主のみことばは盛んになり、広まっていったのです。教会は天の御国のかぎを持っています。暗やみの力は、決して教会を踏みにじることはできません。それは、教会が物理的に存在していたからだけではなく、霊的な権威を持っているからです。パウロは言いました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」また、こうも言いました。「私が弱いときこそ、私は強いのです。(Uコリント12:10)」私たちは小さな群れであり、ふつうの人たちが集まり、なんら外界に対して力を持っていないように見えますが、神は、この集まりにも、世界の支配者でさえ砕くことのできない霊的権威を与えてくださっています。
任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。
この任務とは、救援物資を送る任務です。アンテオケから遣わされて、エルサレムに行き、そして、またアンテオケに戻りました。13章からアンテオケを拠点とする宣教活動を読むことができます。
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