使徒行伝13章 「地の果てまでの救い」


アウトライン 

1A 聖霊による派遣 1−12
   1B 発祥 − キリストのからだ 1−3
   2B 結果 − 御力の現われ 4−12
2A みことばによる宣教 13−52
   1B 約束の福音 13−41
      1C 聖書全体 13−15
      2C 救い主イエス 16−41
         1D 預言 16−25
         2D よみがえり 26−37
         3D 罪の赦し 38−41
   2B ねたみ (地の塩) 42−52


本文 

 使徒行伝13章を開いてください。ここでのテーマは、「地の果てまでの救い」です。私たちのうちにおられる聖霊は、まだ福音を聞いていない人々に福音を伝えるように導かれることについて学びます。

1A 聖霊による派遣 1−12
 13章は、12章の最後の節から始まります。任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。

 
前回学びましたように、今、主のことばを宣べ伝える教会の拠点が、エルサレムからアンテオケに移っています。もちろんエルサレムにおいても、主のみわざは行なわれていたのですが、使徒行伝の著者であるルカは、イエスさまのことばに注目して、この書物を書いています。つまり、「聖霊がくだると、あなたがたは、地の果てにまで、わたしの証人となります。」ということばです。このみことばがどのように実現されていったのかをルカは記しています。

1B 発祥 − キリストのからだ 1−3
 そこで、聖霊は、アンテオケにいるバルナバとサウロを、ほかの地域で福音を宣べ伝えるように命令されます。さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。

 ここは、とても大切な箇所です。バルナバとサウロが福音を宣べ伝えに出ていくとき、教会から遣わされましたが、これは、すべてのクリスチャンに当てはまる原則です。パウロは、コリント人への第一の手紙12章において、こう言っています。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(
12:13」私たちがイエスさまを信じたら、そのときに聖霊によって新たに生まれます。聖霊によって新たに生まれると、私たちは同時に、キリストのからだである教会の一部になります。ですから、クリスチャンとして生きることと、教会生活をすることは、切っても切り離せないのです。私たちがクリスチャンになったときには、自分の住まいは変わったんですね。今、住んでいる自分の家から、信者たちが集っている教会へと住まいは変わりました。私たちは神の家族であり、キリストにあって兄弟姉妹となったのです。したがって、私たちは、ここから遣わされて、それぞれの場所に出て行きます。バルナバとバウロは、アンテオケの教会から遣わされて、出て行きました。

 また、この箇所には、教会とはどのような場所であるのか、その教会の特徴について描かれています。1節には、アンテオケの教会に集っている人々の名前が列挙されていますが、彼らは、異なる人種の集まりであり、生まれも育ちも異なります。バルナバは、キプロス出身のレビ族のユダヤ人です。ニゲルと呼ばれるシメオンは、黒人です。クレネ人ルキオは、アフリカ出身の人物です。そして、マナエンですが、彼はなんとヘロデ王の乳兄弟であり、王室の人が集っています。それから、サウロですが、彼はベニヤミン族のユダヤ人、パリサイ派、サンヘドリンの一員でした。彼らを結び付ているのは、だたキリストだけなのです。他には共通点がありません。教会は、こうであるべきなのです。キリスト以外に、お互いに結びつきをもっていない、というのが教会の理想です。キリストのゆえに、私たちはお互いを受け入れ合い、キリストにあって語り合い、キリストにあって献金をささげ、キリストにあって祈り合います。キリストと自分自身との間に、他の人や物が入り込んではならないのです。

 そして、この集まっている人々は、預言者であり教師であると書かれています。つまり、彼らには賜物が与えられている、とくに指導的な賜物が与えられている、ということです。エペソ書4章には、「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。(11節)」とあります。教会には、このような賜物が与えられます。ですから、ただ信者が集まればそこが教会なのではなく、神のみことばを教える教師、また、教会を管理する長老の存在が必要です。この教会では、私が牧師教師の務めを果たしていますが、このようにしてメッセージを聞くことによって、神が自分に何を語ってくださり、そして、遣わされる場所でどのようにして生きていけば良いのかの指針が与えられるのです。

 そして、彼らが主を礼拝して、断食していた、というところにも注目してください。教会の存在目的は、主を礼拝する事です。礼拝とは、自分の存在すべてを神に明け渡して、王の前にひれ伏すように、神にひれ伏すことであります。ですから、私たちは心を整えて、黙祷し、祈り、また、神を賛美します。歌をうたうことは、ただ歌っているのではありません。そこに書かれている歌詞の意味をよく考えて、心から歌います。そのうちに、この世のものが過ぎ去って、主ご自身が今ここにおられる、つまり臨在しておられることを意識できます。そして、神のみことばを聞き、また、献金をささげて主を礼拝するのです。献金をささげるのは、自分が礼拝しているのは、単に知的なことや精神的なことではなく、生活そのものであることを表わすためです。ですから、彼らは礼拝していました。

 そして、二人は聖霊の御声を聞いたのです。ですから、教会において、私たちは、神が自分に何を語っておられるかを知ることができ、その御声を聞いて、外に出ることができます。

2B 結果 − 御力の現われ 4−12
 こうして彼らは遣わされました。4節を読みましょう。ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。キプロス島はバルナバの出身地です。ですから、どこに何があるかよく分かっていたでしょう。サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神のことばを宣べ始めた。彼らはヨハネを助手として連れていた。

 
彼らがまず行なったことは、ユダヤ人の会堂、つまりシナゴーグでみことばを宣べ伝えたことです。パウロは教師のラビとしての資格を持っていたので、そこで語ることができました。これから、彼らは、他の地域に行くときに、まずシナゴーグにいき、ユダヤ人と、ユダヤ教への異邦人改宗者に語りました。

 島全体を巡回して、パポスまで行ったところ、にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。この男は地方総督セルギオ・パウロのもとにいた。この総督は賢明な人であって、バルナバとサウロを招いて、神のことばを聞きたいと思っていた。

 
ローマ帝国の地方総督は異邦人であったにも関わらず、神のことばを聞きたいと思っています。おそらく、自分の周りの宗教には真実はないと思い、ユダヤ教に本物があるかもしれないと思っていたのでしょう。それで、ユダヤ人のバルイエスを近くに引き寄せたものと思われます。

 ところが、魔術師エルマ(エルマという名を訳すと魔術師)は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。

 ここから、サウロの名前がパウロになります。サウロはヘブル語の名前ですがパウロがギリシヤ語です。ここからユダヤ人への宣教から異邦人への宣教に移り変わっていくことに気づきます。

 そして、聖霊に満たされて、こう言います。ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。バルイエスは、「イエスの子」という名前ですが、パウロは、「悪魔の子」と言っています。見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。」と言った。するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。なんと、目が見えなくなっています。この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰にはいった。

 神のみことばを聞いていて、深く考えていたセルギオ・パウロでしたが、この出来事を見て信仰を持つように導かれました。
私たちが、ここから学ぶことができるのは、聖霊に遣わされることによって、神の力が現われるということです。私たちは、学問のような知識を人々に伝えるのはではなく、人々の人生を180度変えてしまう神の力を伝えています。パウロは、コリント人への第一の手紙でこう語っています。「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(2:4」グレッグ・ローリーという伝道者は、「キリスト教の最大の証拠は、変えられた人生です。」と言いました。私たちは、神の力を伝えています。

2A みことばの宣教 13−52
 そして、次に、場所がキプロス島から、トルコ本土へと移ります。

1B 約束の福音 13−41
1C 聖書全体 13−15
 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。

 キプロス島から、トルコの海岸に面するペルガへ行きました。ここで、「パウロの一行」となっていることに注目してください。今までバルナバとパウロが二人で行動しているときは、「バルナバとサウロ」となっていましたが、宣教旅行をしているうちに、バウロが導いていくようになりました。これは、パウロが異邦人への使徒として召されていることや、異邦人へ伝道する賜物があったからに他なりません。バルナバが、形にとらわれてないことは大切ですね。「私はエルサレムから遣わされた者なのだから、私が指揮を取ります。」みたいなようなことは言いませんでした。柔軟性があったのです。そして、ここでマルコがエルサレムに戻っていることに注意してください。おそらく、これは、ペルガという地域が、マラリヤが蔓延していた場所であったからと考えられています。二人はペルガをすぐに離れて内陸へと向かいますがマラリヤを避けるためだったのでしょう。ガラテヤ人の手紙で、パウロが病気にかかっていたような言及がありますが、もしかしたらマラリヤにかかってしまったのかもしれません。いずれにせよ、マルコが帰ってしまいました。これは、二人の宣教旅行にとって大きな痛手でした。宣教とはチームで行ないます。自分の都合で離れることが許されないことが多々あります。

 しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。

 
このアンテオケとは、聖霊によって遣わされたアンテオケとは異なる町です。ピシデヤのアンテオケとは、今のトルコの内陸にある町です。そこで、ふたたび会堂にはいって、伝道をしようとしています。

 律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。「兄弟たち。あなたがたのうちどなたか、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。」そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。


 シナゴーグでは、律法と預言書のそれぞれからの朗読がありました。律法と預言者で聖書全体を意味しています。パウロは、奨励のことばを語るために立ち上がりましたが、次からのパウロのメッセージは、旧約聖書の引用で満ちあふれています。パウロが、何か真新しい教えをしているのではなく、イエス・キリストの福音が、旧約聖書に記されている約束の実現であることが分かります。イエスは復活されてから、ご自分のついてのことを聖書全体からお話しになりました。旧約聖書全体に、イエス・キリストの福音が記されています。

2C 救い主イエス 16−41
 それでは実際のパウロの説教を聞いてみましょう。

1D 預言 16−25
 そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。聞いている人々は、ユダヤ人と、神を恐れてかしこむ異邦人の人々です。この民イスラエルの神は、私たちの先祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。そして約40年間、荒野で彼らを養われました。それからカナンの地で、7つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。これが、約450年間のことです。

 
パウロは、イスラエルの歴史から話し始めています。ユダヤ人にとって、自分たちの歴史はとても大切なものでした。その歴史に神が深く関わっておられたからです。私たちクリスチャンにとっても、イスラエルの歴史はとても大切です。その歴史は、神が人間の中で生きておられることを証しし、また、神と人間がどのような関係を持つべきなのかを教えてくれます。

 その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。それから彼らが王をほしがったので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間お与えになりました。それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。」神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。

 パウロは、イスラエルの歴史について語るのを、ダビデの登場で終わらせています。なぜなら、ダビデ王に対してメシヤの約束が与えられているからです。この約束の救い主がイエスであることを、ここから語り始めます。そして、イエスについて、聖書の預言がことごとく成就していったことを論じていきます。ここから私たちが知ることができるのは、イエスは、出現が前もって預言されていた、ということです。他の宗教の教祖を考えてください。仏陀やモハメットは、その誕生前に、だれも彼らについて記録している者はいません。ですから、仏教もイスラム教も、人間から出てきた宗教ということができます。けれども、メシヤについては、何千年も前から預言されており、その預言の数は2000ぐらいに及びます。イエスが初めに来られたときは、
300以上の預言が成就しました。ですから、イエスさまは、神から遣わされた方、ということができます。そして、キリスト教は神から出てきたもの、人間が創り出したものではないことがわかります。

 この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。「あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」

 福音書の最初には、みなバプテスマのヨハネのことが紹介されています。彼はとても大切な人物です。みなさんが旧約聖書を読み進めて、そのまま新約聖書の福音書を読んでいくと、新約聖書が旧約聖書の続きであることに気づきます。なぜなら、旧約聖書の最後の書物マラキ書には、主が来られる前に、主の道を整える使者が送られることが述べられており、新約聖書の最初の書物である福音書には、そのとおりにバプテスマのヨハネが現れた、と書いてあるからです。バプテスマのヨハネは、旧約から新約の、いわば橋渡し的な役目を果しているのです。

2D よみがえり 26−37
 兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。

 パウロは、「約束のメシヤが来られたのですよ。あなたがたは、メシヤであるイエスによって救われるのですよ!」と訴えかけています。

 エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。

 ユダヤ人たちは、自分たちが待ち望んでいたメシヤを歓迎するどころか、殺してしまいました。非常に皮肉めいています。多くの人が、こうした理由で、イエスが十字架につけられたことに疑問を持ち、聖書を投げ捨ててしまいます。「イエスは神の子なのに、自分自身を救えなかったのか。」「イエスは、自分を虐げているだけだ。」「神の計画は、失敗に終わったのだ。」などなど、この十字架でつまずいてしまうのです。けれども、パウロは、はっきりと、神の深い御旨を宣言しています。「その預言を成就させてしまいました。」「イエスについて書いてあることを全部成し終えた」と言っています。神は、メシヤが殺されることをも予め知っておられ、ご自分の計画の中で定めておられたのです。それは、イザヤ書53章によると、「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。(5)」のです。全人類の罪の贖いのために、この出来事を許されたのです。

 しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。

 
この「しかし」が大事ですね。イエスは十字架の上で死に、葬られた。しかし、死者の中からよみがえった。ここに福音があります。良い知らせがあります。

 イエスは、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、幾日もお現われになりました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。私たちは、神が先祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。
メシヤの復活も、十字架とならんで聖書に預言されています。神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書いてあるとおりです。

 イエスが死者の中からよみがえられたことによって、イエスが神の御子であることが公に示されました(ローマ1:4)。

 神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、「わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。」というように言われていました。ですから、ほかの所でこう言っておられます。「あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。」

 
イエスの復活は、朽ちないからだを着たという復活です。いつかまた老いて、おとろえて、機能しなくなるからだではなく、永遠に神の栄光に輝くからだを持って復活されました。ですから、イエスは今も生きており、私たちは、死んだ方ではなく生きている方を信じています。

 ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。

 
ダビデに与えられた約束や詩篇のなかにある預言は、ダビデ本人のものに対してではないことを付記しています。ダビデは死にました。だから、これはダビデのことを話しているのではなく、ダビデの子孫であるメシヤのことを話している。イエスがそのメシヤなのだ、と言うことです。

3D 罪の赦し 38−41
 パウロはこうして、聖書の預言とその成就について話したあと、結論を話しています。ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。

 パウロがここまで話していたのは、聞いている人々が罪の赦しを得るためです。救いと言うのは、罪からの救いのことです。肉体の苦しみからの救い、経済的な苦境からの救い、人間関係の小競り合いからの救いでもありません。罪からの救いです。罪というのは、神に対して犯すものです。人に対して悪いことをすることは罪でありますが、根本的には、神がこうしなさい、と言われていることに違反することが罪です。この罪によって、私たちは神から離れてしまいました。イザヤは言いました。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(
59:1-2」けれども、イエスが私たちの罪のために、代わりに罪の罰を受けてくださったので、イエスを信じる者は罪が赦されます。ですから、罪の赦しが救いであります。

 ただ、聖書では、罪の赦し以上の祝福を約束してくださっています。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。ここの「解放」という言葉は、「義と認められる」というのが直訳です。ですから、「モーセの律法によっては義と認められなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって義と認められます。」となります。義と認められる、とは、一言で言えば無罪放免になる、と言うことです。神が、私たちは罪人なのにも関わらず、まったく罪を犯したことのない者のようにみなしてくださることです。ただイエスさまを信じるだけで、そのように認められます。すばらしい福音ですね。ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。」パウロは、この福音を受け入れないことに対する警告を最後にしています。どんなに説明しても、とうてい信じられないと言っています。そうなんです、この福音はあまりにもおいしい話、都合の良い話に聞こえてしまうのです。信じるだけで、罪が赦されて、正しいと認められる。ですから、真面目な人、自分がさほど悪い人間だと思っていない人は、受け入れることができません。事実、ユダヤ人は、律法の行ないによって救われようとしたので、多くの人が受け入れませんでした。けれども、自分が罪人である、神に対してとんでもない罪を犯した、と思っている人は、これがどんなにすばらしい、良い知らせかを知ることができます。

 この福音を、私たちは伝えるように召されています。周りの人々に、そして、さらに遠くにいる人々に伝えるように召されているのです。

2B ねたみ (地の塩) 42−52
 ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。パウロの説教によって、多くの人が救われました。次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。

 
ユダヤ人たちがねたみました。ねたんでいる、ということは、彼らの心に、この福音のメッセージが伝わっていることの何よりもの証拠です。もし、伝わっていなければ、無関心でいるか、眠っているかしているはずです。そこで、パウロは、ユダヤ人がねたんでほしいと願っていたほどでした。ローマ書11章において、「何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
11:14」とまで言っています。ですから、福音は、人々に反応を引き起こさせるようなメッセージなのです。私たちは、人々に福音を語るときに、それが宗教の一つや哲学の一つであるような印象を持たせてはいけません。そうではなく、その人の生き方そのものが問われているメッセージであることを、分からせなければいけません。新のメッセージは、反応を引き起こさせるのです。

 そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」

 パウロはこれからも、ユダヤ人が福音を拒むことによって異邦人に福音を伝える、という方法を取りつづけます。福音はもともとイスラエルのものでしたが、神の不思議なご計画のなかで、異邦人へと及んでいます。

 異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。こうして
、主のみことばは、この地方全体に広まった。

 すばらしいですね、信仰に入ることさえも、神によって定められたいました。永遠のいのちに定められていた、とあります。私たちが主イエスさまを信じているのは、私たちの願いや努力によるのではなく、神ご自身が私たちを選んでくださったからです。

 ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。

 
足のちりを払い落とす行為は、「私たちには責任がない。」ということです。福音を伝えないうちは、伝えないほうに責任があります。ですから、パウロは、「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(Tコリント9:16)」と言いました。ここから福音宣教は、伝えればいい、というものではなく、伝えなければいけないものであることがわかります。自分のなかだけに押し込めているものではなく、他の人々に広めていく性質のものである事が分かります。イエスは、「聖霊を受けると、地の果てにまでわたしの証人となります。」と言われました。私たちは、外に出ていくように遣わされているのです。ここ、教会から遣わされています。ですから、教会での礼拝は真剣です。神の御声を聞くために、心も思いもそして財産も主におささげします。そして、指導者の賜物が用いられて、聖霊が私たちに語りかけてくださり、自分たちが何をすべきかを伝えられるのです。

 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 すばらしいですね。福音を受け入れた人々の特徴は、喜びと聖霊の満たしです。私たちは、人々を悲しみから喜びにかえ、恐れから平安に変え、憂いから希望に満ち溢れさせるようにし、弱き者が強くされる、この福音をたずさえています。



「聖書の学び 新約」に戻る
HOME