使徒行伝2章 「教会の誕生」
アウトライン
教会の性質
1A 源泉 − 聖霊の満たし 1−13
1B 他国のことば 1−4
2B 人々の驚き 5−13
2A 中心 − イエス・キリストの証し 14−39
1B 神の約束 14−21
2B キリストのみわざ 22−36
1C 説教 22−36
1D 導入 − 十字架刑 22−23
2D 内容 − よみがえり 24−32
3D 結論 − 主キリストとされたイエス 33−36
2C 招き 37−39
3A 活動 − いっしょに集まること 40−47
本文
使徒行伝2章を開いてください。ここでのテーマは「教会の誕生」です。私たちは、前回、「聖霊の働き」という題で使徒行伝1章を学びました。イエス・キリストは、復活されてから天に昇られましたが、その働きは聖霊によって依然として続きます。イエスは弟子たちに、父なる神の約束があるから、エルサレムで待っていなさいと命じられました。そして、こう言われました。1章8節です。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」この約束は、使徒行伝2章から始まって、最後の章に至って実現されます。実に、この使徒行伝という書物は、このイエスのみことばがいかに実現されていくかの記録の書なのです。
2章においては、集まっている弟子たちの上に聖霊が降られる記事を読みます。それから、使徒ペテロの説教によって多くの人々がイエスを信じ、教会が始まりました。この2章に、教会が誕生した出来事が描かれているのです。ですから、私たちは、この2章を読むことによって、教会とは何かを知ることができます。教会が教会ならしめる3つ特徴が、この章に書かれています。3つの特徴があります。
1A 源泉 − 聖霊の満たし 1−13
まず一つ目は、教会は、人々が聖霊の満たしを受けるところです。教会は、聖霊の満たしを受けるところです。1節から13節において、そのことが書かれています。
1B 他国のことば 1−4
1節をご覧ください。五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
このように、キリストの弟子たちが聖霊に満たされました。時は、五旬節の日です。五旬節とは、ユダヤ人が守っていた例年の三大祭りの一つであります。旧約聖書に記されていますが、特にレビ記23章にあります。まず4月の初めに過越の祭りがあります。そしてその50日後に五旬節、あるいはペンテコステがあり、10月の初めに仮庵の祭りというのがあります。この3つの祭りには、ユダヤ人成年男子はエルサレムに来て、神を礼拝することが聖書の中で義務付けられています。そして、この五旬節は、年の初めての収穫を主にささげて感謝する祭りです。冬に種が蒔かれた作物は、この時期に実を結ばせます。その最初の収穫を主にささげます。この五旬節の日に、人々がイエスを信じて洗礼を受けました。ですから、魂の収穫の日ともなったのです。
そして、彼らが聖霊に満たされたとき、不思議な現象が起こりました。激しい風のような音が聞こえ、炎の舌のようなものがひとりひとりの上にとどまり、彼らは他国のことばで話し出したのです。聖書では、このことばを「異言」と呼んでいます。話している本人も、その言葉を理解することはできません。聖霊が、その舌を動かす神経を支配して、本人の理解できない言葉を語らせるのです。使徒行伝においては、聖霊に満たされて異言を語る人々がこの他に何回か登場します。そして、それは今にまで続いています。クリスチャンで異言を語る人は数多くいます。けれども、異言を語ることが聖霊に満たされる証拠とはなりません。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。(コリント第一13:1)」とパウロは言いました。聖霊の満たし、あるいは聖霊のバプテスマを受けた証拠は、1章8節にありましたようにイエスの証人となっていることです。ですから、異言を話さなくても、聖霊に満たされることはできます。
けれども、異言を語るという中に、聖霊に満たされるとはどういうことかが如実に表れています。それは、自分の知性を超えた力が自分を支配することです。聖霊に満たされていないときは、私たちは、聖書に書かれている命令を自分の肉の力で行なおうとします。自分で考えて、自分の努力でなんとか神のみことばを行なおうとします。けれども、それができない自分を発見して、葛藤を経験するのです。一方、聖霊に満たされると、舵取りは自分ではなく聖霊ご自身になります。何を語るべきかも、聖霊が促してくださいます。何を行なうべきかも、聖霊が語ってくださいます。自分が考えていることを行なうのではなく、聖霊がお考えになっていることをことごとく行なうようになってきます。
ですから、他国の言葉で弟子たちが語りはじめたところに、聖霊に満たされることの特徴がよく表れています。ですから、教会は、集まっている一人一人が聖霊に満たされるところであります。自分たちが考えた計画に基づいて教会が運営されていくのではなく、キリストの御霊が主権を握られて、キリストがかしらとなって、キリストが力強く導かれるところであります。パウロは、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)」と言いました。
2B 人々の驚き 5−13
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
先ほど説明したように、五旬節には世界中からユダヤ人がエルサレムに集まっています。ですから、そこに集まって来たユダヤ人はいろいろな国語を話していました。驚きあきれてしまいましたが、それもそのはずです。弟子たちは、自分たちの理解できない言語を語っていただけではなく、そこにいる人々に理解できるちゃんとした人間の言葉を語っていたからです。
彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」
ここで列挙されているものだけでも15種類の言語が語られていたようです。そして、さらに驚くべきことは、その言葉で神のみわざを語っていたことです。神をほめたたえていました。すばらしいと思いませんか。自分が制御していないから、その話していることが良くないことではないかと不安になるかもしれません。けれども、神を賛美していました。異言の賜物は、このように、神に祈り、神を賛美するために与えられた賜物です。けれども、たとえ異言を話せなくても、聖霊に満たされることの祝福は変わりません。それは、自分の生活や行動が、いつも、神をほめたたえ、神に感謝し、神に栄光を帰しているようなものになっている、ということです。主のみわざに圧倒され、神をほめたたえずにはいられなくなるようになります。自分の心から、主への感謝と賛美があふれ出るようになります。
人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言ったしかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。
2A 中心 − イエス・キリストの証し 14−39
この「甘いぶどう酒に酔っているのだ。」という発言に反応して、ペテロが次から説教をします。そこで、教会の特徴の二番目である、「イエス・キリストの証し」について学んでいきます。14節から39節までに書かれています。教会の1つ目の特徴は、「集まっている人々が聖霊に満たされる」ことでした。2つめの特徴は、「イエス・キリストの証し」です。イエス・キリストという方が中心になり、イエス・キリストがつねに宣べ伝えられているところが教会です。
1B 神の約束 14−21
そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
ペテロは、人々の、「これはいったいどうしたことか。」という質問に対し、「こういうことです。」という返答をしています。ここで起こっている出来事は、酒に酔っているのではなく、旧約の預言の成就であると言っています。預言者ヨエルと言うことが次のように言いました。
神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。
これは、終わりの時についての預言です。ヨエルという人は、だいたい紀元前800年ごろに生きていた預言者です。南北に分裂したイスラエルのうちの南ユダ国にいました。彼が生きていたときに、とてつもないいなごの大軍が襲ってくる災害があったようです。彼はその出来事から、神さまに、この世の終わりはこのようになることを告げられました。いなごのような大軍がイスラエルを攻めるというのです。けれども、イスラエルの人々は悔い改めて、主に立ち返るので、彼らは救い出され、終わりの日には祝福を受けることが預言されています。その中で、この終わりの日に、聖霊が人々に注がれる預言があり、ペテロが引用した部分はその箇所でした。イエス・キリストが再び来られる前に、聖霊が注がれるという預言です。ですから、私たちは、今は終わりの時であり、主イエスは間もなく来られることを信じて生きなければいけません。また、その前に注がれる聖霊を自分も受けるように願って、祈らなければいけません。
2B キリストのみわざ 22−36
こうしてペテロは、今起こっている現象を聖書から説明したあと、イエス・キリストについて語ります。22節から36節まで語りますが、主イエス・キリストがどのような方か、またどのようなことをなさったのかを語ります。教会はそういうところです。牧師の説教、信徒たちの会話、地域の人々への伝道、これらすべてが、イエス・キリストを中心にしたものでなければならず、他の事柄が中心になってはいけません。教会は、イエスを証しするために存在しています。
1C 説教 22−36
1D 導入 − 十字架刑 22−23
イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
ここには、イエスについて、3つの事柄が書かれています。1つ目は、イエスはナザレ人であったということです。実在する人間でした。ペテロの説教を聴いているユダヤ人は、このイエスについてよく知っていました。彼は確かに、神話や作り話の中で出てくる人物ではなく、歴史の中に実在した人物だったのです。これはとても大切なことです。私たち日本人の宗教観は、自分の心に安寧が与えられれば、どの宗教でもいい、という考えがあるからです。たとえそれが偽物であっても、心が休まればいいではないか、と言います。けれども、偽物であれば、私たちは単に麻薬をやって気持ち良くなっているのと同じことになってしまいます。科学が多くの観察可能な証拠によって証明されるように、私たちの信仰も客観的な事実に基づいていなければいけません。ですから、イエスは実在する歴史的人物だったのです。
そして、2つ目は、イエスは、多くの不思議なわざと奇蹟を行なわれて、ご自分が神であることを証明なさったことです。神にしかできないわざを行なわれて、ご自分が肉体を宿している神であることを主張されたのです。そして、3つ目は、イエスが十字架につけられたことです。このことが、「神の定めた計画と神の予知とによって」と書かれていることに注目してください。あの十字架刑はたしかに、ユダヤ人指導者のねたみと、ローマ帝国の不正な裁判に基づく、人間が侵した過ちでした。けれども、実は、この出来事は、父なる神が永遠の昔から、私たち人間を罪から救われる方法としてお定めになっていたのです。旧約聖書には、イエスの十字架についての預言が数多くあります。その代表的な預言は詩篇22編とイザヤ書53章です。
2D 内容 − よみがえり 24−32
そして次にペテロは、イエスのよみがえりについて語ります。24節から32節にまで及びますが、イエス・キリストの復活は、福音の核になるメッセージです。イエスが死者の中からよみがえられた、という事実が福音であります。
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。ダビデはこの方について、こう言っています。「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」
これは、詩篇16篇からの引用です。ダビデが書きました。ですから、ここに出てくる「私」は、ダビデ自身であるように読んでしまいます。けれども、ペテロはそうではない、と言っています。次を読んでください。
兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。」と語ったのです。
今の詩篇16編の箇所で、肉体を朽ち果てないままにしておかれない、という部分がありましたが、もしこれがダビデ自身であったなら、彼は今生きていなければいけません。でも、あなた方が知っているとおり、彼の墓はあるではありませんか、と言っているのです。ですから、ここは、ダビデの子孫としてお生まれるとキリストについての預言だったのです。そして、体は朽ち果てない、というのは、キリストの復活の預言でした。
神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
そうです、ペテロも他の弟子たちもみな、よみがえったイエスを自分たちの目ではっきりと見ました。また、自分たちの手でそのからだを触り、幽霊や幻ではないことも知りました。イエスはよみがえったのです。
3D 結論 − 主キリストとされたイエス 33−36
ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
イエスは復活されてから、天に昇られました。その後に、父なる神から聖霊をお受けになって、それを今、弟子たちにお注ぎになったのです。ですから、先ほど、天から、激しい風のような音がして、炎のような分かれた舌がとどまったとありましたが、それは天におられるイエスが行なったことだったのです。
ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。「主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」
イエスは今、天におられる神の右の座に座っておられます。そして、ペテロは次に、結論を話します。
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。
ペテロは言いました。あのイエスは、実は主ご自身でありキリストであったのだ。そのキリストである方をあなたがたは、こともあろうに、十字架につけて殺したのだ、と言っています。聞いていた人々のほとんどが、過越の祭りにも参加して、イエスが十字架につけられた場面を見ていたことでしょう。そこで、イエスが十字架につけられるのを喜んだり、同意していたりしていたのでしょう。ペテロは、そのことの罪をはっきりと指摘しました。けれども、これは、彼らだけのことではありません。聖書にははっきりと、「あなたがたの罪によって、イエスは死なれたのです。」と告げています。みなさんが、イエスを十字架につけたのです。私が、地球でたった一人生きている人間であったとしても、それでも、イエスは十字架につけられたのです。それは、私は罪人だからです。あなたは罪を犯したのです、とペテロははっきりと告げました。
2C 招き 37−39
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
聴いていた人々は、心を刺されました。自分が罪人であることを自覚しました。それで、「どうすればよいでしょうか。」と尋ねています。
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」ペテロの答えは、悔い改めなさい、ということです。悔い改めるとは、自分の生きるべき方向を変えるということです。自分を中心にして生きていた生活から、神を中心にして、神にささげて、神により頼む生活に変えるということです。そして、悔い改めると罪の赦しが与えられます。悔い改めない者に罪の赦しはありません。「私はそんなに悪いことやっていませんよ。」と言っている人には、罪の赦しはありません。けれども、「主よ、私は罪人です。私はあなたに罪を犯しました。」と自分の責任を認め、へりくだる人には、神は豊かに赦してくださいます。そして、賜物として聖霊が与えられます。先ほどの、聖霊に満たされる約束のことです。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。
ここを読むと、聖霊の満たしの約束は、当時の信者たちだけにあたえられていた約束ではなく、すべて主がお召しになる人々、つまり、私たちにも実現する約束であることが分かります。私たちも、この約束を受け取らなければいけません。
3A 活動 − いっしょに集まること 40−47
このように、ペテロの説教はイエス・キリストを中心にしたものでした。教会は、イエス・キリストがを中心になっているところです。そして、3つ目について学びます。教会の特徴の3つ目について話します。それは、「いっしょに集まる活動をする」ということです。クリスチャンになって、自分ひとりで信仰を持つことはできません。神は、いっしょに集まってともに活動を行なうように命じておられます。けれども、もちろん、ただ集まれば良いというものではありません。教会の活動として主要な事柄が次から記されています。
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
ペテロは、信じたばかりに人に多くの勧めのことばを語りました。新しくイエスさまを信じた人には、多くの勧めが必要です。これからどうやって生きていけば良いか、その指針となる勧めのことばを聞く必要があります。
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
教会の活動として、まず最初に行なわれたのは、この水のバプテスマです。イエスを信じて、心に受け入れた人は、バプテスマにあずかって、自分の信仰を公に表明します。水のバプテスマは、自分がキリストとともに死んで、キリストとともによみがえったことを象徴しています。古い自分は死にました。過ぎ去りました。そして、新しく造られました。新しいいのちを持っており、そのいのちにあって、キリストとともに歩む生活が始まりました。そうしたことを象徴する儀式が洗礼です。
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
これは、教会が定期的に行なうべき4種類の活動であります。1つ目は、使徒の教えを堅く守ることです。使徒の教えとは、まさしく聖書であります。新約聖書は使徒たちによって書かれ、その言葉は旧約聖書に基づいています。したがって、聖書の教えを堅く守ることが教会の活動の中心であり、毎週の礼拝において、また家庭集会において、私たちは聖書の教えを聞かなければいけません。
そして、2つ目は、交わりをすることです。これは、単に集まって、おしゃべりをすることではありません。交わりのギリシヤ語はコイノニアです。これは一つになることを意味しています。ひとりが苦しめば、みなも苦しみ、ひとりが喜べば、みなも喜びます。ですから、私たちはいっしょに集まって、そのような、いたわり合い、励まし合う関係を築くのです。
そして、3つ目は、パンを裂くことです。これは、聖餐式とも主の晩餐とも呼ばれています。主イエスが、十字架につけられる直前の夜に、過越の祭りの食事を弟子たちともに取られました。そのとき、パンを裂いて、「これは、わたしのからだです。取って食べなさい。」と言われました。そして、ぶどう酒の杯を取って、「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの血の契約です。多くの人の罪を赦すために流されます。」と言われました。このように、私たちは定期的に、パンを裂いて、主が私たちの罪のために死なれたことを思い出すのです。
そして、4つ目は祈りです。祈りは、個人的なクリスチャン生活の原動力だけではなく、教会の原動力でもあります。教会におけるすべての願い事を主に知っていただく必要があります。私たちは自分ばかりのことではなく、教会の牧師のため、またお互いのためにいつも祈っていかなければいけません。ですから、祈りも定期的な教会の活動です。ですから、聖書の教えを聞く、交わりをする、パンを裂く、祈るということが、教会の定期的な活動になります。
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
これは、必ずしも教会が行なわなければいけないというものでありません。なぜなら、この財産共有によって、あとでエルサレムの教会にいろいろな問題が起こっているからです。でも、お互いの必要のために、愛をもって自分の財産を分かち合うことは、教会においてすべきことでしょう。「口だけではなく、真実と行ないをもって愛し合おうではありませんか。」と使徒ヨハネは言いました。
そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。
すばらしいですね。彼らは毎日集まっていました。喜びをもってともに食事をし、神を賛美していました。どんな活動をしていても、その特徴は愛でなければいけません。イエスは言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」愛が、教会のもっとも大きな特徴となっていなければいけません。
そして最後に、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。とあります。
救われる人々が仲間に加えられるのです。愛があるところに、人が来て、キリストが生きておられることを知ることができるのです。ですから、結局のところ、教会とはキリストの愛が満ちているところ、と定義することができるでしょう。教会は建物ではありません。また、組織でもありません。信者が集まって、キリストの愛があるところ、それが教会です。お祈りしましょう。