使徒の働き20章 「走るべき自分の行程」

アウトライン

1A 旅路の中で 1−16
   1B 健全な判断 1−6
   2B 愛の奉仕 7−12
   3B 独りの祈り 13−16
2A 最後のことばにおいて 17−38
   1B 生きる 17−25
   2B 知らせる 26−31
   3B ゆだねる 32−38


本文

 使徒の働き20章をお開きください。ここでのメッセージ題は、「走るべき自分の行程」です。私たちクリスチャンは、この人生にはっきりとした目的を持って生きており、その人生はその目標に向けて走る競走であると聖書に書かれていますが、私たちはこの20章から、パウロの活動をとおしてそのことを学ぶことができます。

1A 旅路の中で 1−16
1B 健全な判断 1−6
 騒ぎが治まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した。

 この騒ぎとは、19章に記されている、エペソの劇場における騒ぎのことです。パウロの宣教によって、大ぜいの人が偶像から生ける神に立ち返りました。そのため、エペソで祭られているアルテミスの神殿の模型が売れなくなり、銀細工人のデメテリオという人が、騒ぎを引き起こしました。けれども、それは町の書記役の説得によって静まりました。そこで、パウロは以前、エルサレムに行ってから、ローマに行かなければいけないと心に決めていたので、それを実行します。

 そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た。

 
このギリシヤまでの旅は一年ぐらいかかったのですが、著者であるルカは、この一節で済ませてしまっています。他のパウロの手紙には、この間の出来事が記されていますが、ルカは、とくにその記録を残そうとしていないようです。ルカは、この書物を書いた目的があるからです。おぼえていますか、イエスさまは、「聖霊があなたがたの上に臨まれると、地の果てにまで、わたしの証人となります。」と弟子たちに言われましたが、そのみことばが、どのように実現されたのかを記すことをルカは念頭に置いていました。ですから、次回お話しする21章から最後の28章を費やして、パウロがどのようにして、地の果てであるローマに行くことができたかを詳しく描いているのです。神は、地の果てにまで福音をたずさえる器としてパウロをお選びになっていました。

 このようにして、パウロには、歩むべきはっきりとした行程がありました。そして、これがクリスチャン生活であります。何をすれば良いかよく分からない、と悩むのはクリスチャンではありません。神は、一人一人を、ご自分の栄光のために必ずお用いになるのです。けれども、私たちは最初から、すべて神のご計画を知ることはできません。しかしながら、私たちには、どのようにして生きていくべきか、生き方の指針というものが与えられており、その指針にしたがって歩んでいれば、神が、その目的地まで連れて行ってくださるのです。パウロもギリシヤにまで来て、すぐにローマに行くのではなく、エルサレムに戻ってから行くというように、地理的には右往左往しているように見えるのですが、クリスチャンとしての生き方の指針に乗っ取って生きていたので、神のご計画のなかで、着実に目的地へと向かうことができました。その指針を、私たちはパウロの生き方から学ぶことができます。

 パウロはここで三か月を過ごしたが、そこからシリヤに向けて船出しようというときに、彼に対するユダヤ人の陰謀があったため、彼はマケドニヤを経て帰ることにした。

 
パウロは、ユダヤ人の陰謀があるので、予定変更をして陸地を選びました。シリヤへの船に乗っているとき、夜にユダヤ人がパウロを海へ放り投げて、彼を死なせることが予測されたからです。このように、パウロは、自分の身の危険を守りました。当たり前に聞こえるかもしれませんが、あとで彼は、「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは惜しいとは思いません。」と言っています。彼は、死ぬことを何一つ恐れていませんでした。けれども、無意味に命を落とすようなことはしなかったのです。パウロは、エペソ人への手紙で、「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。(5:15-16)」と言いました。私たちクリスチャンは、与えられた機会と時間を、主のために最大限に用いる賢い生き方をすることが求められています。神によって与えられた判断力や分析力を用いて、知恵をもって生きなければいけません。

 プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモは、パウロに同行していたが、彼らは先発して、トロアスで私たちを待っていた。

 同行していた人々の名前が列挙されています。ベレヤ人、テサロニケ人、デルベ人、アジア人がいますが、これらはみな、パウロの働きによって結ばれた実です。福音のことは何も知らずに生きていた人々が、パウロの説教によって主イエスを信じ、救いにあずかり、成長し、今はパウロとともに奉仕しています。

 種なしパンの祝いが過ぎてから、私たちはピリピから船出し、五日かかってトロアスで彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。


 ピリピにおいて、著者であるルカが再び同行したようです。おぼえていますか、パウロが幻を、このトロアスという町で見ました。マケドニア人が、「私たちを助けてください。」とパウロに言ったのです。それからヨーロッパ宣教旅行が始まりましたが、そのときに主語が、「私たちは」に変わったのです。そして、ピリピを離れてから、「彼らは」と変わったので、ルカは、ピリピに滞在しつづけたと考えられます。今、また、パウロの一向に加わっています。そして、トロアスで7日間滞在したとありますが、おそらく、次の船を待っていたのでしょう。

B 愛の奉仕 7−12
 週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。

 
週の初めの日、つまり日曜日に人々が集まっています。パンを裂くとは、もちろん聖餐式のことです。イエスさまが、「わたしをおぼえて、これを行ないなさい。」と言われました。この個所を根拠にして、多くの人は、安息日が土曜日から日曜日に変わったのだから、教会は日曜日に礼拝をして、安息しなければならない、と教えます。けれども、この週の初めの日とは、今の土曜日の晩のことです。ユダヤ人は、日没から新しい日が始まります。ですから、もちろん、日曜日の朝に集まることは、教会が五旬節という日曜日に誕生したこと、また、イエスさまが日曜日によみがえられたことを記念しているので、とても良いことです。けれども、日曜日が安息日ではありません。いずれにせよ、次の日にトロアスを出なければいけないので、パウロは、時間を惜しんで、主のみことばを夜中まで教えたのです。ここで、パウロは、ゆっくり寝ることもできました。しかし、彼の心は、そこにいる兄弟姉妹たちへの愛で満たされ、少しでもたくさん、彼らが主のみことばを聞くことができるようにと思ったのです。私たちはどうでしょうか。兄弟姉妹の必要を満たすことを優先するような生活をしているでしょうか?そのような愛で満たされているでしょうか?教会の奉仕は、割り当てられたお仕事ではなく、仲間の必要を満たしたいという愛から出る奉仕なのです。

 私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。

 
ユテコは、パウロの説教中に眠り込んでしまいました。無理かなぬことです。熱気が三階にあがっていて、暖かくなっていたのでしょう。夜中まで話が続いています。でも、落ちたら死んでしまっていました。

 パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります。」と言った。そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した。人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。


 この青年は生き返りました。この奇蹟は目覚しいものであり、それゆえにルカがこの出来事を記したのであろうと思われます。これは、主がパウロとともにおられたことを示す証拠です。けれども、この奇蹟そのものが大事なのではなく、奇蹟によって、「ひとかたならず慰められた」と言う、人々へのミニストリーが大事だったのです。奇蹟が起これば、それが自動的にすばらしいことではありません。奇蹟はあくまでもその目的があり、それは人々への愛の奉仕です。私がカルバリーチャペルにいたときに、聖霊の働きをお迎えする集会がありました。そこに行くと、静かに、秩序をもって、聖霊の賜物が用いられています。そして、その賜物が強調されるのではなく、そこで人々が悔い改め、心がいやされ、主から慰めを受けることが中心になっており、愛がもっとも優れたものです、と言ったパウロのことばどおりのものでした。ですから、奇蹟であっても、また施しをするのであっても、また、このように説教をするときであっても、それはあくまでも、人々の霊的な必要を満たすための道具でしかありません。パウロは、聖霊に与えられた奇蹟の賜物を、このように人を慰めるかたちも用いました。

B 独りの祈り 13−16
 さて、私たちは先に船に乗り込んで、アソスに向けて出帆した。そしてアソスでパウロを船に乗せることにしていた。パウロが、自分は陸路をとるつもりで、そう決めておいたからである。こうして、パウロはアソスで私たちと落ち合い、私たちは彼を船に乗せてミテレネに着いた。

 パウロは独りで陸路を取りました。実は陸路のほうが海よりも短い距離なので、到着する時間はたいそう変わりません。パウロが独りだけで陸路を取った理由は、何でしょうか。おそらく、彼は独りで深く考え、祈りたかったのだろうと思います。パウロはあとで、エペソの長老たちに、こう言います。「聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。」パウロは、エルサレムへ向かうあいだ、ご聖霊によって、苦しみがまっていることを知らされていたのです。その心構えをするためにも独りになりたかったのでしょう。今、エルサレムへ急いでいます。パウロは、陸路を取るという方法で、独りで祈る時を持ったのです。私たちも、この独りの時が必要です。主との交わり、また主のみこころを知るのに、独りになって神から教えられ、示される必要があります。

 そこから出帆して、翌日キヨスの沖に達し、次の日サモスに立ち寄り、その翌日ミレトに着いた。それはパウロが、アジヤで時間を取られないようにと、エペソには寄港しないで行くことに決めていたからである。彼は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたい、と旅路を急いでいたのである。

 
パウロが、エルサレムに行く目的の一つに、エルサレムの貧しい兄弟たちに献金を持っていくことでした。それは他の手紙の中に書かれています。そして、ユダヤ人は年に一度、ユダヤ人の三大祭りの一つに参加することが義務づけられていたので、パウロは五旬節に参加しようと思っていたのです。ミレト、というところに着きましたが、エペソから比較的近い町です。けれども、次の船便に間に合わせるには、エペソまで行く時間がなかったのです。


2A 最後のことばにおいて 17−38
 けれども、パウロは、エペソにいる長老たちをミレトに来てくれるように頼みました。

1B 生きる 17−25
 パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。

 長老たち、とありますが、彼らは教会の霊的指導者です。新約聖書には、指導的な働きをする人として、監督、牧師、長老、執事などを列挙していますが、監督と牧師と長老は、基本的に同じ人のことを指しています。霊的な事柄において指導的な働きをする人が、監督や牧師、あるいは長老と呼ばれます。そして、執事は教会の会計など、物質的なことを管理する働きをする人であります。ここでは、霊的指導者である長老たちが呼ばれました。

 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。

 パウロは、彼らのことをよく知っていました。「よくご存知です。」と言っています。彼らとパウロの間には、とても親密な関係がありました。そこでパウロは、自分の気持ちについて包み隠さず、友として語り始めます。それは、自分自身の生き方についての話しでした。「どんなふうにあなたがたを過ごして来たか」と言っています。

 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。

 パウロの生き方の特徴は、主に仕える生活でした。主に仕えるのですから、主人に何を命じられているかをはっきりと知っていることが先決です。むやみやたらに、自分が考えることをやっても、主人が命じていないことをしていたら無意味なのです。けれども、パウロは知っていました。福音を宣べ伝え、兄弟たちにみことばを教えなさい、と命じられていたのです。皆さんは、主から何の命令を受けているか知っているでしょうか。そして、パウロは、この奉仕を謙遜の限りを尽くして、涙をもって行なった、と言っています。パウロは、主の命令に従うと、必ず反対が起こりました。そのときに、反対者に反発することもできるし、また、その宣教をやめにしてしまうことは実に簡単にできたはずです。しかし、パウロは主に命じられた、という理由だけで、みことばを語り続けたのです。これが謙遜です。自分の意気込みによって主に従おうとすれば、怒りが込み上げるか、あるいは、逃避するかのどちらかしかありません。反対や困難があるからです。けれども、そこで、神の御前に出て、そこで泣いて祈り、神の慰めを受け、キリストから力をいただき、そこからまた奉仕を続けることができます。これが、謙遜の限りを尽くして主に仕えることです。

 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

 パウロは、バランスをもった奉仕を行なっていました。まず、人々の前でも、家々でも教えた、と言っていますが、個人的に聖書を教えるのと、大ぜいの前で教えることのどちらも大切であることを知っていたのです。自分で聖書を読んで個人的に学ぶことは大切であり、また、牧師のメッセージを生の声で聞くことも大切です。そして、パウロは、ユダヤ人にもギリシヤ人にも語りました。自分はこのグループのほうが好きだから、この人たちに教えます、ということはしなかったのです。必要なときに、誰に対しても教えました。そして、悔い改めと信仰をはっきりと主張しています。この前、お話しましたように、悔い改めは、何に対して悔い改めるのかが大切です。これからの生き方を変えます、と言っても、神に対してならば何も生活は変化しないのです。したがって、悔い改めることと、主イエスに対して信仰を持つことは、切っても切り離すことはできません。

 そしてパウロは、これから自分の身にふりかかえることを彼らに伝えます。いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。

 エルサレムで、パウロは、なわめと苦しみが待っています。次回学ぶ21章から、私たちはその様子を読むことができます。このことをパウロは、ご聖霊によって示されていました。

 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

 
ここが、この章における中心テーマです。パウロは、走るべき自分の行程をほぼ走り尽くしていました。地の果てまでに福音を宣べ伝える務めを、もうすでにギリシヤにまで行ない、あとはローマを待つのみです。このように、走るべき行程がある生活が、クリスチャン生活です。パウロは、他の手紙でこのように書きました。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)」私たちには、はっきりとした目標があります。それは、主イエス・キリストを知るという目標です。その目標に向かって走っているとき、パウロは、地の果てまでに福音を宣べ伝える務めを担っていたのです。そして、これが、自分の行程であって、他人の行程ではないことに気づいてください。他のクリスチャンではなく、神はあなただけに通ってほしい行程を用意してくださっています。

 皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。このことばが、エペソの長老たちを悲しませました。あとで、そのことが書かれています。

B 知らせる 26−31
 パウロは、次に「ですから」という言葉で話します。これは、28節にも出てきます。日本語訳には出てきませんが、英語にはあります。そして、31節に、「ですから」とありますね。エペソにおける自分の務めを果たしたパウロは、長老たちに最後のことばを知らせます。

 ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。

 私たちが、人生の最後にこのことばを言えたら、すばらしいです。「すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。」という言葉は、務めをすべて成し終えた人だけが言えることばです。具体的には、神のご計画の全体を余すところなく知らせました。私たちは、聖書全体を読むことによって、神のご計画の全体を知ることができます。今、私たちは、新約聖書はマタイの福音書から使徒の働きまで、そして旧約聖書は、創世記からレビ記まで来ています。神が私たちに与えてくださったことばを、私たちはすべて聞く責任があるのです。

 次に、二番目の、「ですから」です。あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。気を配りなさい、あるいは、気をつけなさいと言っています。その理由を、次に述べています。私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。

 狂暴な狼、つまり、偽預言者や偽教師が入り込んで来ることをパウロは告げました。パウロが、群れの全体だけではなく、自分自身に気を配りなさい、と言ったのは、外から狼が入ってくるだけではなく、今パウロの話しを聞いている長老たちの一部からも、そのような者が出てくるからです。自分が正しい群れの中にいるだけでは、自分が狼ではないことを意味しません。高慢になり、金を愛し、情欲に引かれるとき、牧師は十分に偽教師となり得るのです。

 ところで、聖書では、イスラエルの民やクリスチャンのことを、羊にたとえています。羊は羊飼いがいなければ、決して生きていくことができない存在です。また、逆に、羊飼いの声をきちんと聞き分けることができる能力を持っています。また、群れをなして生きなければ生きることができない存在です。私たちクリスチャンが、他の信者と集まることをせず、自分だけでクリスチャン生活を送ることができると考えるのは、このことから間違っていることに気づきます。また、牧師や監督者は必要ないと考えるグループもいますが、それも間違っていることに気づきます。けれども、逆に、牧師がしたいようにして、信徒たちが引きずりまわされる教会もありますが、それは、パウロが言った、「神の教会」という真理を忘れてしまっているのです。教会は、牧師のものではなく、神のものです。そして、パウロが、教会のことを、「神がご自身の血をもって買い取られた」と言っていることに注目してください。イエスさまが流された血は、三位一体の神ご自身の血なのです。神は、それほど私たちを愛しており、私たちをご自分のものとされたいのです。

 そして三つ目の「ですから」です。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。

 目をさまして、思い出しなさい、と言っています。私たちクリスチャンは、キリストの兵士としてたとえられます。キリスト教と言うと、優しさと和やかさがただよう雰囲気の中で礼拝堂に集うロマンチックな印象がありますが、それは違いますね。寝ているときも、少しの物音にも目を覚まして戦いに臨む戦士が、私たちにふさわしい表現なのです。ペテロが言いました。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。(ペテロ第一5:8-9)」パウロは、狼が来たときに、それにすぐに気づくように目をさまし、また、パウロの訓戒を思い出してほしいように懇願しました。

B ゆだねる 32−38
 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

 
パウロは、これから襲いかかる悪魔の攻撃を知りながらも、主の真実を信じていました。自分は離れても、主ご自身が、その恵みとみことばによってエペソの教会を築き上げてくださる。そして、最後まで信仰を捨てず、御国を継がせてくださることを信じました。これは、とても大切なことです。戦いはありますが、主が彼らを立たせてくださいます。私たちも、これはだめだ、と思ったときでも、神は必ず引き上げてくださいます。パウロは、神の恵みと主のみことばにゆだねました。

 私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。

 パウロは、金銭に関してやましいことをしていないことを話していますが、これはおそらく、偽預言者たちが金を無心するのを考えて、牧師としての生き方を教えているのでしょう。また、私たちの富は、天の御国に蓄えられており、地上のものではないことを区別するためでしょう。

 あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。パウロは、コリントだけではなく、エペソにおいても働きながら宣教活動をしていました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。パウロが働いたのは、自分のためだけではなく、他の人々のためでもありました。

 こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけし、彼が、「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。」と言ったことばによって、特に心を痛めた。それから、彼らはパウロを船まで見送った。親しい者と分かれるのは、ほんとうに辛いことです。長老たちは、声をあげて泣き、パウロを抱いて幾度も口づけしました。

 こうして、私たちは、「走るべき自分の行程」について学びました。それは、具体的なお仕事というよりも、自分の生きる姿勢そのものに関わっていることがわかりました。多くの人が、パウロのように、海外に出ていって、誰も福音を聞いたことがない地域に教会を建てあげる働きはしません。しかし、パウロのように、賢い人のように生き、愛の動機によって奉仕をし、独りで祈り、さらに、涙をもって主に仕え、目をさまして、主のみことばを思い出し、受けるのではなく与える幸いを知ることはできます。こうした生き方によって、私たちはどのような場所に置かれていても、神は必ず私たちをお用いになることができます。ですから、「こうこう、こういう条件が整わなければ、神に用いられない。」ということは決してないのです。今からスタートすることができます。すでに、自分の前には、神が敷いてくださったレールがあるのです。そのレールの上にしっかりと乗っかってください。


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