使徒行伝26章 「福音の光」


アウトライン

1A 希望として 1−11
   1B 土台 − 聖書の知識 1−3
   2B 特徴 − 熱心さ 4−11
      1C 厳密な解釈 4−8
      2C 聖徒への迫害 9−11
2A 回心において 12−23
   1B 内容 − 主イエスとの出会い 12−18
      1C 光の輝き 12−15
      2C 自分の任務 16−18
   2B 条件 − 忠実さ 19−23
4A 自分にあるものとして 24−32
   1B 証言の力 24−29
   2B 無実の証明 30−32

本文

 使徒の働き26章をお開きください。ここでのテーマは、「福音の光」です。パウロがアグリッパに、「キリストが光を宣べ伝える」と言いました。

1A 希望として 1−11
 すると、アグリッパがパウロに、「あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい。」と言った。そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始めた。

 私たちは前回、
25章において、パウロが法廷の中でカイザルに上訴すると言ったことを読みました。自分がエルサレムに戻されて、ユダヤ人の陰謀によって殺される危険があったこと、また、総督の政治的な道具として利用されていたことに気づいていたからでした。正当な裁判を受けるために、ローマに行って皇帝から判決を下していただくことを選んだのです。そこで総督フェストは、パウロをただローマに連れていくことが仕事になりましたが、問題は訴状として何ら思いつくものがなかったのです。彼は、ユダヤ人の慣習や問題について無知だったからです。ユダヤ人指導者とパウロが激しく言い争っていたのは、宗教に関することであり、イエスという者が今も生きている、というパウロの主張でありました。そこで、フェストは、彼のところに訪問しに来ていたアグリッパ王に相談をもちかけたのです。ユダヤ教に詳しく、自らも改宗者である彼なら、訴えの箇条を見出してくれるかもしれないと思ったのです。そこで、翌日、カイザリヤにある講堂にて、アグリッパと政府の役人たちが全員、集まりました。パウロも連れて来られて、パウロは鎖につながれながら、アグリッパに自分の言い分を申し述べます。

1B 土台 − 聖書の知識 1−3
 アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします。

 パウロは、アグリッパ王の前で弁明できることを幸いに存じます、と言っています。それは、アグリッパ王がユダヤ人の宗教について詳しく知っているからです。これは本当のことでした。総督フェストには聖書についての知識はなかったので、パウロは、言っていることが理解してもらえていないという不自由さを感じていたかもしれません。しかし、アグリッパは知っています。そこで、パウロは自分が主張していることを自由に語ることができます。そして、パウロの主張は、自分が無罪であることではなく、イエス・キリストでした。この方こそ、私たちの希望であり光である、という主張です。


 福音というのは、聖書から導き出されるもの、いや聖書そのものと言って差し支えないでしょう。キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたこと。再び来られて、人間をさばかれること、こうした福音は、聖書がどのようなことを語っているかを知っている人でなければ本当の意味で分かりません。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17」と、パウロがローマ人へ言ったとおりです。私たちは今、子どもたちに聖書を教えていますが、それはこのことのためであります。イエスさまを信じるためには、まず聖書を知らなければいけません。神を神として理解し、把握していなければなりません。それがなければ、信じるといっても、「いわしの頭も信心から」という日本人の神概念では本当に信じたことにはならないからです。パウロは、聖書に精通しているアグリッパに語りました。だから自由に、キリストの福音について語ることができます。

2B 特徴 − 熱心さ 4−11
1C 厳密な解釈 4−8
 では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若い時からの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。

 
パウロは最初に、自分がきっすいのユダヤ人であることを紹介しています。彼は若いときからエルサレムで過ごしていました。エルサレムはもちろん、ユダヤ人の信仰と礼拝にとって、もっとも中心になる町であります。そして、彼の宗教は、最も厳格な派であるパリサイ派です。しかも、彼はすべてのユダヤ人が自分のことを知っていると言っています。これは大げさではなく、彼は当時、もっとも敬われていたラビの一人であるガマリエルから律法を教えてもらい、また彼はサンヘドリンの議員でありました。つまり、パウロは、ユダヤ人をユダヤ人たらしめるもっとも中心的な立場の中にいたのです。


 そのユダヤ人たちが信じているもの、待望しているものを信じているために、自分は訴えられていると次に述べます。そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。

 パウロが述べている、ユダヤ人たちの希望というのは、死者からの復活でした。これは、とくにパリサイ派が信じている事柄であり、聖書を字義的に、厳密に解釈する人たちによって保持されてきた信仰です。その信仰のゆえに、彼らは熱心に神に仕え、メシヤが来られることを待ち望みました。もしパウロが、神の律法について熱心でなければ、次に彼があかしするイエスさまとの出会いは無意味なものだったでしょう。死者の復活はないと思っていたら、それは、単なるむなしい幻でしかないからです。また、キリストの死も、それが罪を贖うためであるという結論を見出さなかったはずです。ユダヤ人たちがイエスさまを信じられなかった理由、弟子たちでさえ信じられなかった理由は、聖書に書かれてあることのすべてを信じていなかったことによるものです。イエスさまが言われました。「「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカ
24:25-27

 聖書のすべてを信じる ― これは、私たちが希望を抱いて生きていくために必要不可欠なことであります。私たちが今、「聖書のすべてを信じますか。」と聞かれたとき、プロテスタントの福音派の背景を持っている私たちは、「はい」と答えるでしょう。けれども、そのような信じ方のことを話しているのではありません。具体的な特定の聖書の個所について、具体的な生活の各場面において、本当に信じているかということであります。パウロは、死者の復活について信じているかどうかについて語っていますが、死者の復活を信じていなければ、私たちは、将来について、この世界の上にある天について期待をかけることはできません。日常生活が順調に行けば、それで満足してしまいます。「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。(イザヤ22:13」となってしまいます。死者の復活を信じることは、神からさばかれること、あるいは報酬を受けることを意味します。この地上に行なっていることに対して、説明責任を担いながら生きていくことができるのです。また、死者の復活を信じることは、現状の苦しみに耐え抜く忍耐を与えてくれます。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18」とパウロは言いました。

 そして何よりも、主イエス・キリストの死者からのよみがえりは、この方が神ご自身であり、この方の言われていることはすべて本当であることを証明しています。この方に期待をかけて生きても裏切られないことを知るのです。だから、パウロは、自分が神の律法を重んじているパリサイ派であり、その結果、律法と預言者の言うことを信じないユダヤ人に訴えられているのだ、ということを話したのです。

2C 聖徒への迫害 9−11
 以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。

 
パウロは死者の復活のことを話しましたが、ナザレ人イエスに特定して、この方がよみがえったことに話しを絞っています。

 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。

 パウロは、神に対してあまりにも熱心だったので、それが聖徒たちへの迫害となって表れました。ユダヤ人たちは、当時「この道」と呼ばれていたクリスチャンたちが異端であり、偽りの教えを信じており、排除されなければいけないと思っていましたが、パウロは輪をかけて、そう思っていました。


2A 回心において 12−23
 こうしてパウロは、自分が回心する前までの自分の生涯について語りました。それは、聖書をそのまま信じる生活、熱心に神に仕える生活でした。その激しさは、クリスチャンたちを迫害するほどまでになっていましたが、けれども、神がイスラエルに与えてくださった約束を熱心に待ち望んでいたのです。預言者イザヤは、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(9:2」と預言しましたが、この光を待っていたのです。

1B 内容 − 主イエスとの出会い 12−18
 そして次から、自分の回心の体験を語ります。つまり、この光が自分に訪れたことを語ります。

1C 光の輝き 12−15
 このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。

 
正午の太陽の輝きよりも、さらに明るい光が彼らを照らします。

 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」私が「主よ。あなたはどなたですか。」と言いますと、主がこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」


 天からの光は、イエスご自身の栄光でありました。パウロは、この光を受けたときに、これは間違いなく神ご自身の光であることを知りました。そこで彼は、「主よ。あなたはどなたですか。」と聞いています。そして、イエスさまがご自分のことを明かされると、パウロは、イエスさまがその神であることを知ったのです。


 しかし、パウロはこの突然の光によって、回心することができたのではありません。イエスさまが、「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」と言われました。パウロのあの激しい迫害は、実は、クリスチャンたちのあかしを受け入れてしまってしまっていることに対する、あがきだったのです。とげのついた棒とは、若い雄牛がくびきを付けられたとき、そのくびきを嫌がって、足でけってはずそうとします。そこで、くびきに突き棒を付けておいて、足でけるとわき腹を痛めるようにします。それで、抵抗するのを止めさせるのです。パウロが激しい迫害を始めたのは、ステパノがサンヘドリンで弁明をしたときからです。おそらく、ステパノのあかしによって、また彼の殉教を見て、パウロは、おそらくイエスがメシヤかもしれないという印象を受けたのかもしれません。だから、彼はもがいたのです。一生懸命、その思いを振り払おうとして、聖徒たちを迫害しました。しかし、主は、このパウロに御手を差し伸ばし、彼にご自分を現わされたのです。

 人々が回心するとは、この主と出会うことです。ヘブル書には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」であると書かれています(ヘブル1:3)。クリスチャンになるとは、なにか特定の組織の中に入ることではなければ、ある信条を持つことでもなく、イエス・キリストという方に個人的に、人格的に出会うことなのです。パウロは聖書に精通していました。また、神に熱心に奉仕していました。けれども、よみがえられた主との出会いがなかったのであり、それで彼は回心していなかったのです。けれども、今、彼は主に出会いました。イエスさまのすばらしさ、神の栄光として輝きを、私たちはどれほど見ているでしょうか。イエス・キリストについて知っていることと、イエス・キリスト知ることには大きな違いがあります。回心とは、自分の行ないや考えを変えること以上に、主イエスの栄光を見ていくことであります。

2C 自分の任務 16−18
 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。

 
イエスさまは、パウロにご自身をお現わしになったあと、パウロへのご自分の計画を明らかにされました。今見たこと、そしてこれから見ることのあかしをするために任命されます。そして、ユダヤ人と異邦人のところに遣わされますが、この「遣わされる」というギリシヤ語は、「使徒とする」と言い換えることができます。パウロは、祭司長たちから権限を受けて、ダマスコに行く途中ですが、彼は祭司長の使徒だったのです。今は、主イエスから権限を受けて、遣わされるのですから、主イエス・キリストの使徒なのです。ですから、主はパウロに、彼に対する計画を示してくださいました。主は、私たちに対しても同じことをしてくださいます。回心するときに、主イエスとの生きた出会いをするだけではなく、自分に対する神のご計画を知らされます。つまり、自分は自分自身のためではなく、神の喜びのために存在していることを知るのです。人は自分が何のために生きていけばよいのか分からないでいますが、主にお会いするときに、その目的を発見するのです。


 そして主はパウロに、ご自分が彼を遣わされる目的を告げられます。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

 
イエスさまは、基本的に、パウロが今体験してしたことを、他の人々にも行なうときにパウロを用いることをおっしゃっています。つまり、人々を光の中に導き入れるみわざをパウロをとおして行なうことを話されています。パウロはパリサイ人でしたが、パリサイ派の人々は、霊や御使いを信じていました。聖書に描かれている、目に見えない世界についても信じていました。主はパウロに、人々が暗やみの中にいるところから解放し、光の中に導き入れ、そして、罪を赦し、神の国に入らせるようにする、と言われています。


2B 条件 − 忠実さ 19−23
 パウロは、自分の回心をアグリッパに話したあとで、なぜ今まで世界中への宣教を行なっていたのかを説明します。こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。

 パウロは、自分が行なっていたのは、この天からの啓示にそむかないためである言っています。つまり、神の呼びかけに対して従順になり、まかされた任務を忠実に行なっていったのだ、と言っているのです。そして、パウロは、「悔い改め」という言葉を使っています。先ほどの、光から暗やみへ、サタンの支配から神へ立ち返ることが、悔い改めです。私たちは、主イエス・キリストの出会うためには、この悔い改めをしなければいけません。今の生活が変わらなければいけません。そして、神の支配の中に自分を従わせる生活へ変える決断をしなければいけません。この悔い改めによって、罪の赦しを受け、神の国を相続する約束を自分のものにすることができます。そして、「悔い改めにふさわしい行ない」とありますが、悔い改めには行ないが伴ないます。主を信じます、と言って、その後の行ない、あるいは生活が変わることがなければ、本当に信じたのか分かりません。その人が何を信じているかは、行ないによって、生活スタイルによって知ることができます。

 そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕え、殺そうとしたのです。こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。

 
ユダヤ人たちが殺そうとしたけれども、神がこれまで自分を守ってくださった、と話しています。


 そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。

 パウロは再び、自分は聖書に忠実になっている事実を強調しています。自分が信じていることは、ユダヤ人が待ち望んでいる神の約束であるし、これからもそれは変わらない、と言っているのです。したがって、パウロは回心したあとの人生は、「忠実さ」が特徴になっていたことがわかります。天からの啓示に忠実であり、聖書に書かれていることに忠実でした。それに付け加えたり、差し引いたりすることはありませんでした。私たちが福音の中に生きるのも、こういうことです。私たちはとかく、主から言われたことを離れて、何か新しいことを求めることができると錯覚してしまいますが、神は、私たちに至極単純な生活を求めておられます。主とともに歩み、任された務めを忠実に行なう生活です。預言者ミカは、こう預言しました。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(
6:8

3A 自分にあるものとして 24−32
 こうしてパウロは、ユダヤ人たちが待ち望んでいた約束が、イエスにあって成就したことをアグリッパに話しました。希望として抱いていた光が、自分の身に訪れたのです。けれども、この話しをずっと聞いていた総督フェストが突然叫びました。

1B 証言の力 24−29
 パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」と言った。

 
フェストには、天からの啓示とか、死者の中からの復活とか、とうてい理解することができなかったので、パウロが気が狂ってしまったと思いました。

 するとパウロは次のように言った。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。」


 パウロは、弁明をしているときに、何回も、「王よ」と呼びかけていました。彼は、アグリッパ個人に語りかけており、アグリッパは、パウロの話していることの多くを理解していたのです。そこで、パウロは、アグリッパを、この光の中に招き入れようとします。


 「アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。

 
ここのアグリッパの発言は、「あなたは、ほとんど私をキリスト者にしてしまった。」と訳すこともできます。アグリッパは、パウロの聖霊に満たされた、力強い説教によって、ほとんどイエスをメシヤとして信じそうになっていたのです。彼の心に、聖霊が強く働いておられました。けれども、このときにアグリッパが信じたという記録はありませんから、信じなかったのです。光があると分かりましたが、光のところに来ることはしなかったのです。これが、実に多くの人が取っている決断です。あまりにも多くの人が、福音は理にかなっている、信じるに値すべきものであることを認めています。しかし、自分の生き方を変えたくないのです。今までの自分のライフスタイルをくずしたくないのです。


 そこでパウロが一押しします。パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」

 パウロは、「私のようになってほしい。」と言っています。パウロは、他の個所でも、「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(Tコリント
11:1」と言いました。自分を見たら、キリスト者になるとはどういうことかが分かるというのです。つまり、パウロは光を宣べ伝えていただけではなく、自分のうちに光を持っていたのです。自分の生き方に、キリストの栄光が反映されていました。福音を語るのと、福音の中に生きるのには、大きな違いがあります。もちろん、私たちは自分たちの生活をすべて虱潰しに調べられたら、恥ずかしいところだらけです。虱潰しにされなくても、恥ずかしいことをたくさんしてしまいます。けれども、主を求めることはできます。自分の弱さのうちに、キリストの力が完全に働くと主は言われました。ですから、私たちは、日々砕かれて、主の前にへりくだり、御霊の力が自分をおおってくださるように祈り、主ご自身の愛の御霊が、自分の心の奥底から流れ出るようになることを願い求めることはできるのです。そして、実際に、他の人々が自分を見て、主イエスに従わなければならないと思うまでに至る、そのような生き方をすることはできるのです。

2B 無実の証明 30−32
 ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。彼らは退場してから、互いに話し合って言った。「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。」またアグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに。」と言った。

 アグリッパは、パウロが何ら悪いことをしていないことがよく分かりました。むしろ、彼は、自分が、神に真理に対して応答しなければいけないと感じたほどだったのです。


 こうしてパウロは、聖書の知識を持っているアグリッパに対して、福音が光であることを語りました。聖書は、その一部ではなく、すべて信じるべきものであることを私たちは知りました。そこに希望があり、福音があることを知りました。また、光とは、主イエス・キリストご自身であり、この方に対して悔い改めをする必要があることをしました。そして、自分がその福音の中に生きなければいけません。私たちはこれまで、聖書の学びによって、多くの神の知識を得ることができました。アグリッパも知識を持っていました。けれども、この学びは、主イエス・キリストご自身との出会い、悔い改めにふさわしい生き方に裏づけされたものでなければいけません。これが、来年からのチャレンジであると思われます。いかに、生ける神の御霊の中にとどまることができるか、そして、自分が変えられて、主に似姿に変えられていくか。また、自分たちの悟りに頼らず、いかに祈りによって主に拠り頼んでいくことができるかにかかっていると思われます。

 私たちも、この現実に気づく必要があります。パウロは、エペソにいる信者たちに、こう言いました。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:12-13」私たちがここに集まっているのは、聖書の知識を増し加えるための知的な理由ではありません。また、良い行ないをするために鍛錬する道徳的な理由でもありません。あるいは、人々との関わりで精神的に満たされる社会的な理由でもありません。イエスさまが、ペテロに言われたように、私たちは天の御国のかぎを渡されています。地獄の門もこれに打ち勝つ事ができないほどの、霊的な権限が与えられています。ですから、私たちの戦いは、目に見えるところで私たちがいかに活動しているかということではなく、目に見えないところの霊の戦いであるのです。ですから、祈りが最大の武器であるし、神のみことばを用いることによって私たちは、悪魔の要塞を打ち砕くことができます。そして、その戦いの中で、人々が主を信じ、罪が赦されます。私たちを悩ます罪意識から解放されます。さらに、御国を受け継ぐことができるようになります。神の国は、主が再び来られるときに、この地上に立てられます。


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