使徒行伝4章 「世にある患難」
アウトライン
1A 世への抵抗 1−22
1B 主なるイエスの宣言 1−4
2B 聖霊の満たし 5−12
3B 生き証人 13−22
2A 教会の対応 23−37
1B 祈りの武器
2B 愛の交わり
使徒行伝4章をお開きください。ここでのテーマは、「世にある患難」です。私たちは使徒行伝の書物において、いくつかの大事な点を学んできました。もう一度おさらいしたいと思います。
大事な点の一つは、聖霊に満たされる、あるいは聖霊のバプテスマを受けることです。自分の思惑で物事を進めていくのではなく、聖霊に満たされて、聖霊がお考えになるように、捕えられて進んで行きます。そして、もう一つの大事な点は、教会についてです。教会は、単なる人々の社交的な集まりではありません。そこでは、聖書の教えを聞き、互いに交わり、祈り、パンを裂いていました。そして、三つ目に大切なことは、イエス・キリストの御名が宣言されるところです。教会の中心は、イエス・キリストというお方とそのみわざであります。この方がかしらとなり、私たちはそのからだの部分であります。
このように、聖霊に満たされること、教会の活動、そしてイエス・キリストの御名を宣言することについて学びましたが、このようなことが起こっているところには、必ず患難があります。迫害があります。イエスは言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」今から学ぶ4章において、使徒たちが、また教会が、世との衝突において、どのように応答しているのか、どのような反応に出ているのか学んでみたいと思います。そして私たちにも必ず襲ってくる、世からの迫害に対してどのように応答すべきかを学びます。
1A 世への抵抗 1−22
1B 主なるイエスの宣言 1−4
彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、彼らに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
4章は、3章からの話の続きになっています。ペテロとヨハネが宮に祈りに行く途中に、足のきかない男がいました。その男が二人に施しを求めたとき、ペテロは、「私たちには金銀はない。しかし、私たちにあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言うと、この男の子はたちまち立ち上がりました。それを知った人々が二人のところにやってくると、ペテロは、彼らに説教を始めたのです。「あなたがたが、キリストであるイエスを十字架につけた。けれども、イエスはよみがえられた。あなたがたは悔い改めて、罪を赦していただきなさい。」そして、今ここで読んだように、五千人の男の人が信じたとあります。けれども、このことを良しと思わないサドカイ人が、ペテロとヨハネを逮捕しました。
サドカイ人が逮捕した理由について注目してください。「イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えている」とあります。サドカイ人は、ユダヤ教の主流派の一つでした。サンヘドリンと呼ばれるユダヤ人議会で支配的な影響力を及ぼしていました。彼らは、律法をとても重んじていたと同時に、目に見えないものを信じない合理主義者、あるいは物質主義者でした。天使は存在せず、死者の復活はないと唱えていた人たちです。けれども、今、ペテロとヨハネが、イエスのことを例に出して、死者の復活を宣べ伝えていたので、困り果てて彼らに手錠をかけたのでした。彼らが固く信じていたことと逆のことを教えていたので、二人を逮捕しました。
この場合は、死者からの復活でしたが、イエスさまの場合はどうだったか覚えていますか。安息日です。サンヘドリンでもう一つ支配的なユダヤ教の一派が、パリサイ派でした。彼らは、律法と律法についての言い伝えを厳格に守っていた人たちでした。安息日の掟についてはことさら厳しく、たとえ人が骨を折って怪我をしても、安息日が終わってからではないと治療してはいけないなどと教えていましたが、イエスはことごとく安息日に病人をお直しになったのです。そのことがパリサイ人の怒りに触れて、彼らはとうとうイエスを十字架にまで追い込んだのです。ですから、国の中で支配的な立場の人たちが信じていることに反対のことを教えるとき、私たちは迫害を受けます。
私たちが住んでいる日本においては、偶像礼拝が支配的な教えです。偶像を捨てて、生ける唯一の神に立ち返ることが、聖書が語るところの根本的な教えです。けれども、同時に、日本では、創造主ではないものを拝むことを、人とのつながりを持つために、何にもまして最も大切にされています。先祖供養をすること。葬式には必ず出席すること。仏壇に線香を立てること。また、地域では神社の祭りがあり、会社においても神棚があることは常です。そして、さらに日本ではそれを国家において行なおうとします。例えば、公立の小中高等学校において、日の丸が掲揚され、君が代を歌うことを義務化しています。彼らにとっては、人々を一つにするために、この偶像崇拝が必ず必要であり、これがなければ国も、また社会も家族も成り立っていかないと固く信じています。けれども、キリスト者は、これこそしてはいけないものであると信じているのです。したがって、私たちがクリスチャンとしてのアイデンティティを守ろうとするときに、必ず反対に遭い、迫害を受けるのです。
けれども、世界共通の迫害の原因は、ここにあるとおり主イエスの復活です。ご自分が主でありキリストであると言われた方が今も生きている、と宣言されることは、「あなたは、自己中心的な生活を捨てなさい。」と言っているのと同じことです。今まで自分が心の王座になっていたのが、今度は、「自分を捨てて、イエスが心の王座に着いていただくようにしなさい。」と宣言しているのです。ですから、イエスがよみがえられたことを伝えると、どのような人間も社会も国もそのことに強く反発するのです。
2B 聖霊の満たし 5−12
このようにして、ペテロとヨハネは逮捕されましたが、その翌日の出来事を読みましょう。翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
逮捕したのはサドカイ派の人たちですが、次の日に、サンヘドリンの議員たちがみなやって来ました。このペテロの件について、裁判を執り行なうためです。ここに、大祭司アンナスとカヤパがいることに注目してください。つい2、3ヶ月前に、イエスを殺すのは得策であると提案し、イエスを十字架につける判決を下しました。まったく同じ人物が、登場しています。
彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。
この尋問は誘導尋問です。申命記13章をご覧ください。1節からお読みます。「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、『さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。』と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。」そして5節。「その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」
ペテロは今、足のきかない男を立たせましたが、その不思議が、ヤハウェなる神の名前以外の名前によって立たせたのだと言わせようとしました。そして、彼らを死刑に定めるつもりでした。
覚えているでしょうか。ペテロは、2、3ヶ月前に、イエスが尋問を受けておられるときにそばにいました。そのとき、大祭司の家の中庭で、火のそばで暖まっていました。イエスがぶたれるのを見ていました。そのとき、その家の女中に、「あなたは、イエスの仲間でしょう。」と問い詰められて、「いや、そんな者ではない。」と否定しました。そして、再び否定し、最後はのろって近い、「イエスという者は私は知らない。」と言ったのです。その同じ大祭司の家にいます。今度は中庭ではなくて、彼らの真ん中に立たされています。したがって、ペテロがここでおびえて、降参して、「お許しください!」と叫んでも不思議ではないような気がします。
しかし、次を読みましょう。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
ペテロはこんなにも大胆になりました。イエス・キリストの名を決して隠すことなく、むしろ、さらに明らかにして、この方以外には救いはない、と宣言したのです。ペテロがなぜ、そんなに変わったのでしょうか。8節の短い言葉が大事ですね。「聖霊に満たされて」であります。これは、ペテロの力ではなかったのです。ペテロは、このような窮地に立たされているときに、外側から聖霊が臨まれて、ペテロの思いと口を支配してくださり、大胆にイエスを宣べ伝えるように導いてくださったのです。ペテロの本質は、以前と変わらないのです。けれども、聖霊なる神が彼を支配してくださいました。
ですから、私たちが世からの反発にあうとき、必ず聖霊に満たされる必要があります。私たちの肉では、決してこの世の迫害に耐えることはできません。しかし、聖霊が私たちに上に臨まれるとき、聖霊ご自身が私たちを強めてくださり、私たちに語るべきことを教えてくださいます。私たちに10の苦しみが加えられたら、20の平安をもって臨んでくださいます。100の迫害を受けたら、200の慰めをもって臨んでくださいます。聖霊に満たされることによって、私たちはこの世に抵抗することができるのです。
3B 生き証人 13−22
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
ここで、彼らが誤っていた点が2つあります。一つは、彼らが無学であったと言うことです。確かに、彼らはどちらも漁師出身です。けれども、彼らは、どちらにイエス・キリストと3年半ともに生活をしました。その聖書をお書きになった聖霊を遣わされた主ご自身が、彼らに聖書の解き明かしをしてくださったのです。したがって、ペテロとヨハネは無学ではなかったのです。主イエスご自身から、神のみことばを学んでいました。
そして、もう一つの彼らの過ちは、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということです。イエスがともにいたのではなくて、イエスがともにいるのです。主イエスはよみがえられました。そして、今、聖霊によって彼らとともにおられたのです。その議会の真ん中に主イエスさまがおられました。
そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。ふたりといっしょに、足の利かなかった人がいっしょに立っていました。彼は神殿に来たすべてのユダヤ人に知られていた人であり、いつも同じところで施しを求めていた人です。今、その人が立っています。この生き証人を目の前にしては、彼らは反論することができませんでした。
彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。
今度は自分たちで協議を始めました。
彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
法律によって、国の権力によって、彼らはイエスの御名を語らせないようにさせました。けれども、次のペテロとヨハネの言葉がとても大切になります。
ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
神の前の良心に逆らって、国の法律を守ることはできない、と言うことです。これはとても大切な原則です。イエスは、「カエザルのものはカエザルに返しなさい。神のものは神に返しなさい。」と言われました。私たちはこの世に生きているかぎり、その国の法律に従わなければいけません。パウロは、すべての権威は神から来たものであるから、上に立つ権威に従うべきです、と言いました(ローマ13:1)。しかし、それはあくまでも、神の立てられた掟に違反していなければ、です。もし国の法律が、神がお立てになった律法に違反するようなことがあれば、私たちは、国の掟ではなく、神のおきてに従なければいけません。
エジプトの王が、ヘブル人の男の子の赤ちゃんをみな殺せと命じたとき、助産婦たちはその命令に逆らって、赤ちゃんのいのちを救いました。ラハブは、エリコの兵隊の命令に背いて、イスラエル人のスパイをかくまいました。このように、神が私たちに与えてくださった法律があり、私たちはその法律の下に生きており、もし、人間の作った法律が神の法律に違反するのであれば、私たちは、その人間の法律に、公然と違反しなければいけません。それは、聖書が禁じる、争いでも、反逆心でもありません。むしろ、神に服従するための良心を守るための戦いであり、ペテロのように、人の命令ではなく、神の命令に従うべきなのです。私たちは、人ではなく神に主権があると信じています。
そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。彼らが死刑にされずに釈放されたのは、この男がいたからでした。この男が生き証人であり、他の人がみな、この奇跡を認めていたからです。ここから学ぶことができるのは、この世に対して抵抗する最も強力な武器は、生きた証拠です。人間的な言い方をすれば、主張する前に既成事実を作ってしまうことです。「主イエスは生きておられます。ほら、見てごらんなさい。ここに証拠があります。」と言えるようにしてしまうことです。つまり、人々の生活が変えられること、決して妥協しない一貫した生活を見せること、こうした事実が、反対者の口を閉ざすことができるのです。
2A 教会の対応 23−37
1B 祈りの武器
釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。ペテロとヨハネは、敵対する人々の中から友好的な人々の中に入っていくことができました。
教会の中に入っていくことができました。そして、自分たちの身に起こったことを残らず報告しました。私は、ここにすばらしさを感じます。教会が、自分の身に起こったことを報告できる仲間であることはすばらしいことです。あまりにも多くの人が、自分のことだけで精一杯で、教会に来ている仲間のことを心に留めたり、祈ってあげたりすることができなくなっています。けれども、教会の仲間のために祈ってください。心に留めてください。この愛の交わりが、教会の醍醐味です。
これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」彼らはまず祈りました。おそらく、アメリカ人なら、多くの人がこの話を聞いて、国を相手に訴訟を起こすでしょう。あるいは、プラカードを持ってデモ行進を行なうかもしれません。日本にいるクリスチャンなら、ここでまず、恐れて、伝道活動を停止させるでしょう。けれども、どちらも間違いです。私たちは、人間の国による締めつけに遭遇するとき、国に抗議をすることも必要かもしれないし、また知恵を使って、直接的な伝道を少し控えることも必要かもしれません。けれども、本当は祈るべきなのです。パウロは言いました。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。…すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:12,18)」私たちは、まず祈るべきです。
そして、ここに記されている祈りは、私たちの模範となるような祈りです。世からの迫害に遭うとき、クリスチャンであることから反対に遭うとき、私たちは、彼らの祈りを真似することができます。まず、今読んだように、「主よ。」と呼びかけることから始めます。そして、「あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」と祈りました。彼らが、「助けてください。」と祈り始めていないことに気づいてください。私たちはまず、主の御名を呼び、呼びかけるときに、神がどのような方であるかを思い出します。もし神が天と地と海と、その中にあるすべてのものを造られた方であるなら、ユダヤ人指導者の脅しなど微々たるものに見えてくるのです。イザヤは言いました。「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。(40:15)」
あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。「なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。」事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。
神がどのような方を思い出した後に、彼らは、聖書の言葉を引用しました。祈りの中で聖書のことばを引用することはとても大切です。そして、今直面していることは、まさに、聖書に書かれていることだ、主イエスが十字架につけられたのは、国の指導者たちが神とキリストに反抗したからだ、神の言われたとおりになったのだ、と言っています。つまり、言い換えますと、このユダヤ人指導者の脅かしは、神の支配の中にあるということです。神は、彼らが直面している状況をも、予め知っており、ご自分の計画に含めておられたのです。神の支配から漏れる出来事は、何一つありません。ですから安心です。とくに、私たちが聖書の言葉を祈りの中で思い出すことによって、ますます神の支配を意識することができます。
そして、彼らは、次からようやく願いを立てています。私たちは普通、ここから始めてしまうのですが、そうではなく神への礼拝から始めるべきです。それでは、何を願ったのかを見てみましょう。
主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。
彼らは迫害に遭うことのないように、祈りませんでした。むしろ、迫害される原因である福音宣教を大胆に行なうことができるように祈りました。ここも大切です。私たちの願いは、主のみこころを行なうことができるようにその力と知恵を求めなければいけません。この世にあって患難があって、その患難が過ぎ去るように願うのではなく、患難の中で主のみこころを行なうことができるように祈ります。どこの国であるか忘れてしまいましたが、クリスチャンをことごとく死刑にする、イスラム教が支配する国がアフリカにおいてありました。その独裁者はものすごい残忍な人物として知られていました。クリスチャンは次々と殺されていきました。しかし、教会では、その独裁者が暗殺されることを祈りませんでした。彼の救いのために祈っていたそうです。ですから、ここにいるユダヤ人たちも、迫害に遭う原因となっている福音宣教を、ますます大胆に語れるように祈りました。
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
見てください、聖霊の力が彼らの恐れを圧倒的に凌駕してしまいました。その場所が震い動き、一同が神のことばを大胆に語り始めました。ですから、祈りが世に打ち勝つための最大の武器です。
2B 愛の交わり 32−37
そして、彼らは祈っただけではありませんでした。ますます、お互いの間の愛の結びつきを深めました。次をご覧ください。
信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
困難に遭っているとき、私たちは、自分のことばかりを考えてしまいます。しかし、教会においては逆の流れが起こります。つまり、困難に遭えば遭うほど、互いに祈り合い、互いに愛し合い、互いに仕え合うのです。乏しい人が誰一人いないように、彼らは財産をみな分かち合いました。この前お話しましたように、これは必ずしも神が命じていることではないのですが、手段は間違っていたせよ、お互いの間に真実な愛があったのです。私たち一人一人も、この流れの中に入ることができます。互いに自分のことを思わず、他人を尊んで、祈り、愛し、必要ならば物質的にも援助するのです。そして、だれかが苦しめばともに苦しみ、だれかが喜べばともに喜びます。キリストにあって、私たちは一つだからです。キリストの愛に結ばれているのです。
そして、このキリストの愛を持っていた一人の人物が紹介されます。
キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
バルナバという人ですが、彼は慰めの子と呼ばれました。人々に慰めを与える賜物を親が願ったのでしょうか、親からそのような名前を与えられています。彼は後に、パウロをアンティオケの教会にまで連れて来て、またエルサレムの教会にパウロを紹介し、パウロとともに宣教旅行に行きました。ユダヤ人には殺されそうになっており、教会からもあまり信用してもらえてなかったパウロに、バルナバは大きな慰めとなりました。詳しいことについては、後で彼が登場したときに学びましょう。
こうして、教会は前進しました。外側からの圧力に対し、祈りをもって応答し、ますます互いの愛を強めていきました。私たちも、この世に生きている限り、迫害があります。そのとき、恐れ退くのではなく、むしろ、聖霊に満たされて、大胆にキリストの証しをし、教会ではともに祈り合い、励まし合っていきましょう。