使徒行伝5章 「世に打ち勝つ信仰」
アウトライン
1A 教会のきよめ 1−16
1B 聖霊の働き 1−11
2B 多くの不思議 12−16
2A 福音宣教 17−42
1B つ
ながれない御言葉 17−32
1C
主の使い 17−21
2C 神の命令 22−32
2B 神から出たもの 33−42
本文
使徒行伝5章を開いてください。ここでのテーマは、「世に打ち勝つ信仰」」です。
私たちは、使徒行伝において、「聖霊の働き」というテーマで学んでいます。復活された主イエスは、今は聖霊をとおして私たちの間で働いてくださいます。ですから、教会は、私たち人間が自分たちの計画を実行していくところではなく、聖霊が力強く私たちに信者を促してくださり、ご自分のなさりたいことを行なわれる場所であります。
私たちは、前回、教会に迫害がやって来たことを学びました。足なえの男が立ち上がりましたが、ペテロは、神殿にいるユダヤ人に、ナザレ人イエスが死者の中からよみがえられたキリストであることを宣べ伝えました。復活を信じないサドカイ派の人たちは、それを聞いて困り果てて、ペテロとヨハネを逮捕して、次の日に裁判にかけました。けれども、足なえだった男が立っているのを見て、彼らを刑罰に処することはできませんでした。それで釈放されましたが、ペテロとヨハネはすぐに教会に行き、起こったことをすべて報告しました。
そこで、教会の人々は神に祈り、神が自分たちをさらに力づけてくださり、みことばを語り、しるしと不思議を行なうことができるように祈ったのです。そして、彼らは、さらに交わりを深めました。自分たちの財産を売って、使徒たちの足もとに置き、すべての財産を分かち合いました。このように、彼らは、迫害が起こっても、祈りと愛の交わりによって、それに耐えていたのです。
そして今日学ぶ5章は、彼らがこの世の権力に対して、圧倒的な勝利を収める記事を読みます。ユダヤ人議会サンヘドリンが、とうとう、彼らを処罰するのをあきらめざるを得なくなるところにまで至ります。イエスは言われました。「あなたがたは、世にあって患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)」この世にあって患難や試みの中にあっても、私たちはすでに勝利が約束されています。この初代教会に、この世に対してどのように勝利を収めたのかを、見ていきたいと思います。
1A 教会のきよめ 1−16
まず1節から16節ですが、その勝利は教会の中から起こりました。この世的な価値観が教会の中から取り除かれ、聖なる神の霊が、ますます力強く働いてくださる場面を読みます。
1B 聖霊の働き 1−11
ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
ところが、という言葉で始まっています。直前に登場しているバルナバが、畑を売って、代金を持って来たこととは裏腹に、ということです。このアナニヤとサッピラと言う夫婦は、代金の一部を自分たちのところに残したのに、全部持って来たと言って使徒たちの足もとに置いたのです。
そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
アナニヤとサッピラの罪は、代金を全部持って来なかったことではなかったことが、ここから分かります。持ち物は残していても良かったし、売っても、その代金は自分のものにして一向に構わなかったのに、とペテロは言っています。この二人の悪は偽善でした。自分たちを人々に良く見せるために、嘘をつきました。この偽善が問題だったのです。
この世の中では、偽善は、ときに美徳とさえされます。全体の調和を保つために、形だけでも人に合わせることは良いこととされています。自分に正直になることは、この世の中ではあまり尊ばれません。自分の正直な気持ちや意見を言うことは、いけないことだとされています。
けれども、教会では全く逆です。教会では、私たちは自分に正直でなければいけません。教会では、自分を取り繕って、自分を装うことがもっとも忌み嫌われます。私たちがどんなに不完全でも、大きな失敗を犯して、自分がもうだめだと思っても、ありのままの姿で主に近づくなら、神は私たちを豊かに赦してくださり、あわれみを注いでくださいます。私たちも互いにそうでなければいけけません。兄弟がつまずいて罪を犯したことを聞いて、その人を、「あなたは、こんな悪いことをしたのですか。とんでもないですね。」と咎めてはいけないのです。むしろ、そのように正直になっていることを主に感謝し、ともに痛みを分かち合って、ともに祈り合う必要があります。
けれども、アナニヤとサッピラは、自分たちは財産を残していたいと思っていたのに、正直でありませんでした。もしアナニヤが、「私は代金の一部は自分のところに置いていたのです。」と自分の気持ちを正直に話したのなら、まったく何の問題もなかったのです。なのに、バルナバのように代金を全部持って来たと言ったことが問題だったのです。
アナニヤはこの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
アナニヤは死んでしまいました。そのため、多くの人々が、偽善がいかに恐ろしい罪であるかを知りました。ところで、ペテロが、「あなたがたは、人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。聖霊なる神を欺いたのだ。」と言ったことに注目してください。後でも、「人ではなく、神なのだ。」という言いまわしが、他に2回出てきます。アナニヤが偽善を行なったことを見破ったのは、ペテロではなく聖霊ご自身でした。ペテロは、自分に知識のことばの賜物が与えられて、アナニヤの状態を知ったのですが、聖霊がアナニヤの罪を暴かれたのです。
教会は、このようなところでなければいけません。人々が他人をさばいて、その罪を咎めるのではなく、聖霊ご自身が私たちに罪の自覚を与え、私たちが悔い改めに導かれるようにされるのです。教会に来ると、自分の罪が心の中で明らかにされて、悔い改めて、罪を告白して、罪を捨てなければいけないと強く促される、そのような教会を神が望んでおられます。そして、来る人々も、自分に欠けた部分がご聖霊に示されることを喜びとしているような教会になっていなければいけません。
三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です。」と言った。そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
先ほどは、「聖霊を欺いた」とペテロは言いましたが、ここでは、「御霊を試みた」と言っています。悪いことを知りながら、あえてそのようなことを行なってしまったのです。
すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
この出来事は、教会全体に広まりました。ペテロがいたところだけではなく、エルサレムで礼拝を守っていた、数多くの家にこの知らせが伝わっていったのです。
2B 多くの不思議 12−16
こうして教会の中で、罪が取り除かれました。そうしたら、次のような出来事が起こります。また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
多くのしるしと不思議なわざが行なわれました。教会は、きよめられるときに力を持ちます。教会の力は、きよめにあります。
ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。
これは、矛盾しているように聞こえますが、そうではありません。ソロモンの廊は、神殿の中にありますから、神殿で神を礼拝している他のユダヤ人がたくさんいました。そこに、このイエスをキリストと信じる人たちが集まって、神を賛美し、聖書のことばを聞き、パンを裂いて、祈り、交わりをしているのを見ました。そこで、「ああ、なんて敬虔な人たちであろう。私とは違うグループだけれども、神に熱心だな。愛があるな。」と思っていたのです。
私が学生のときに、クリスチャンたちの仲間で伝道集会を大学キャンパスの近くの教会を借りて行ないました。その準備のとき、私たちは、必要ならばいつでもともに祈りました。それを見ていた、その建物の教会の人が、「ずいぶん、熱心ですね。」と関心して言っていましたが、そのような感じであったろうと思われます。本人は加わる気はないが、尊敬していたのです。けれども、イエスをメシヤと信じる人々をとおしてイエスを主と信じる人々もいるわけで、そのような人がますます増えていきました。
ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。
すごいですね、病人も悪霊つきも、全部がいやされました。そして、人々は、ペテロの影にでもかかるようにしようと思うほどになりました。けれども、ここで、ペテロがすばらしいいやしの能力を持っていると思ったら間違いです。いやされという信仰を持っていたのは、ペテロよりも、むしろ病人を連れて来た人々でした。ペテロの影にでもかかれば、きっといやされると信じて、病人を運び出したのです。聖霊が力強く働いてくださると、このような信仰が大ぜいの人々に与えられます。これこれをすれば、きっとこうなる、という強い確信が与えられます。
2A 福音宣教 17−42
こうして教会は、偽善が取り除かれて、力強く前進していきました。そして次に、ふたたびユダヤ人指導者が使徒たちを迫害します。けれども、今度は、彼らの完全な敗北に終わります。
2B つながれない御言葉 17−32
1C 主の使い 17−21
そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕え、留置場に入れた。
4章では、彼らは「困り果てて」いました。ここでは、「ねたみに燃え上がって」います。
ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮にはいって教え始めた。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。
彼らは使徒たちを捕えましたが、天使が彼らを連れ出したので、使徒たちはいのちのみことばを宮の中でことごとく語りました。天使の存在を信じないサドカイ派の人たちに対して、天使が登場していることは興味深いです。サドカイ派の人たちは、物理的な方法によって物事が解決できると思っていました。目に見えるものだけが実在しており、目に見える物質的な手段を用いて、使徒たちを捕まえたと思いました。
しかし、実際は、目に見えない存在のほうが目に見えるものよりも力があり、目に見えないものが目に見えるものを支配しているのです。パウロは牢獄に入っているとき、「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。(Uテモテ2:9)」と言いました。また、主イエスは、「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。(ルカ12:4)」とおっしゃられました。したがって、目に見えないみことばや私たちのたましいは、決して物理的な方法によって縛られることができません。
2C 神の命令 22−32
ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、引き返してこう報告した。「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。」宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞いて、いったいこれはどうなって行くのかと、使徒たちのことで当惑した。
番人たちは、殻の牢屋を番していました。
そこへ、ある人がやって来て、「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています。」と告げた。そこで、宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来た。しかし、手荒なことはしなかった。人々に石で打ち殺されるのを恐れたからである。
使徒たちは人々から尊敬されていたので、もはや使徒たちに手荒なことができませんでした。
彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、言った。
大祭司が問いただしました。
「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」
何と言う欺瞞でしょうか!イエスを死刑に定めたのは、紛れもなくこの大祭司なのです。その上、群集たちは、「この血について、私には責任がない。」とピラトが言ったとき、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。(マタイ27:25)」と言いました。けれども、この彼に、「エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまった。」と言わせてしまうほど、福音がくまなく宣べ伝えられていたのです。
イエスは、「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)」と命じられました。そして、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム…でわたしの証人となります。(使徒1:8)」と言われました。このイエスの命令と約束が、もうすでに実現しつつあるのです。
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。」
再び出てきました。「人ではなく、神」という言い回しです。先ほどは、「人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」でした。ここでは、「人に従うより、神に従うべきです。」であります。聖霊が力強く働かれるとき、私たちは人を相手にして生きるのではなく、神を相手にして生きるようになります。人のつくった決まり事に拘束されるのではなく、神がつくられた決まり事に捕えられているのです。
私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。
ペテロは、大祭司の訴えを完全に無視しています。「あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているのではないか。」と言ったのに、「あなたがたが十字架にかけて殺した。」と言いました。「あの名によって教えてはならないと命じておいたのに。」と言いましたが、ペテロは、「このイエスを神はよみがえらせたのです。神は、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。」と言いました。彼らは、神のことしか眼中にありませんでした。人のことは耳に入りませんでした。
2B 神から出たもの 33−42
そして、エルサレムの議会は、とうとう使徒たちに手を出さないことを決めざるを得なくなってしまいました。
彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計った。ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。
ガマリエルという人物が登場しました。彼は、一流の律法学者であり、あのパウロはガマリエルから指導を受けていました。彼も今、この議会の中の一人としてここにいるはずです。そして、このガマリエルはパリサイ派でした。パリサイ人は天使も信じるし、復活も信じているので、ガマリエルは使徒たちの言っていることに、ある程度、寛容になれていたのだろうと考えられます。それで次のような発言をします。
それから、議員たちに向かってこう言った。「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。」
ここで、3回目の、「人ではなく、神」という言い回しです。人から出たものであれば自滅する。しかし、神から出たものなら、決して滅ぼすことはできない、と断言しました。彼の発言は当たっていました。使徒たちの働きは決して自滅することなく、実に現在に至るまで続いており、これが神から出たものである事を証明しました。
もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。
神に敵対する者になるかもしれない、と結論づけています。神に奉仕していると思っていて、実は神に敵対していることになっているのは、恐ろしいことです。けれども、宗教がこれをしてしまいます。パウロは、このガマリエルの助言を聞いていたのにもかからわず、ステパノを石打ちにするのに賛同し、教会を巡っては引きずり出して牢屋に入れ、イエスという名に激しく敵対していました。しかし、ダマスコに行く途上で、主イエスご自身が彼とお会いして、「あなたはなぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。(使徒26:14)」と言われました。そこでパウロは回心しましたが、パウロは、神に対して熱心であったので、それだけ神に敵対していたのです。
彼らは彼に説得され、使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。
彼らはまだ、使徒たちを激しくねたんでいましたが、ガマリエルに説得されて、やむを得ず釈放します。
そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
ここを注意して読んでください、はじかしめられたことを悲しんだ、と書いていなくて、はずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ、とあります。これはすごいことです。彼らは、イエスの御名のゆえにはずかしめられること、迫害されることをむしろ期待していたのです。このような信仰が与えられたら、私たちはほんとうに幸せであると思います。私たちは、たとえ、見た目には調子が良くて、問題もなく、何となくクリスチャンとしてもきちんと生活していたとしても、魂の奥底では決して満足していません。なぜなら、主イエスの血によって贖われた霊は、キリストのみこころを行なうことをもっとも大きな喜びをしているからです。そしてみこころを行なうことに伴なう苦しみや迫害があると、ああ、自分は主の御心の中に生きているのだ、ということが分かり魂が喜ぶのです。
そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。
こうして、彼らはエルサレムにおける宣教に大勝利を収めました。イエスが約束されたとおりに、すでに世に打ち勝っていたのです。次の6章からステパノという人物が登場して、7章に彼の説教の内容が書かれていますが、彼が殉教して、エルサレムにいる教会の人々は、散らされて、ユダヤとサマリヤの地域に移りました。それは、使徒たちがエルサレムにおいて、イエスの証しを十分に立てたからなのです。いのちのことばをことごとく宮の中で語り、エルサレム中に彼らの教えをいっぱいにしてしまったからです。
ところで、エルサレムとは彼らにとってどのような町であるかを思い出してください。エルサレムは、彼らの故郷のガリラヤと異なり、宗教的指導者が集まっているところです。その指導者たちに、彼らの主イエスが殺されてしまったところです。彼らを恐れて、イエスを見捨てて、ペテロは3度主を否定しました。イエスがよみがえられたばかりのときは、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸を固く閉めていました。
しかし、イエスはまず、そこからご自分の証人になると使徒たちに話されたのです。一番行ないたくない宣教地ではなかったのでしょうか。誰も知らない遠いところで福音を伝えるのではなく、自分たちのことをよく知っている者たち、かつてはひどく恐れていた人たちがいるところではじめなさい、と言われたのです。でも、なぜ成功したのでしょうか。なぜ、このように大勝利を収めることができたのでしょうか。それは、エルサレムは彼らにとって、宗教指導者がいる場所だけではなく、主イエスがよみがえられたところだからです。彼らはその場所で、主の葬られた墓の石が取り除けられていたのを見て、自分たちの部屋に主が現れて、40日間、神の国についてお語りになった場所であります。したがって、使徒たちにとって、エルサレムは、主イエスにお会いした場所なのです。
私たちにとってのエルサレムはどこでしょうか。それは、自分が主イエスにお会いしたところ、またお会いしているところであります。私たちは、自分と家族との関係の中で、その人間関係がきかっけとなって、イエスさまを信じるようになったかもしれません。仕事のことが大変で、イエスさまを信じるようになったかもしれません。その問題の中でイエスさまに出会ったのであり、私たちは、まずそこからイエスの証人とならなければならないのです。自分がキリストによって変わったこと、新たにされたことを知っているのは、もっとも身近な人です。もっとも自分に深く関わっていた人たちです。自分が変化したことによって、ある人は、驚いて、自分もイエスを信じてみたいと思うかもしれません。あるいは、変わってしまった自分が嫌いになり、意地悪をするかもしれません。使徒たちもそうでした。けれども、彼らは、「宮の中で、いのちのことばをことごとく語りなさい。」と命じられ、一歩も譲歩することなく、みことばを宣べ伝えました。
私たちも同じです。今置かれている場所からスタートして下さい。今、自分が直面している課題からスタートしてみてください。聖霊があなたの上に臨まれるときに、あなたは力を受けます。そして、エルサレムからイエスの証人となるのです。