使徒行伝7章後半(16節−60節) 「聖霊に逆らう」

 

アウトライン

1A モーセを退ける 17−50

   1B 律法 17−43

      1C 人 17−35

         1D 1回目 17−29

         2D 2回目 30−35

      2C ことば 36−43

   2B 神殿 44−50

2A キリストご自身を退ける 51−60

   1B 正しい方 51−53

   2B 罪を赦す方 54−60

 
本文

 使徒の働き7章を開いてください。前回は、7章の15節まで学びました。今日は、16節から学びます。ここでのテーマは、「聖霊に逆らう」です。私たちは、使徒行伝の中で、聖霊の働きについて学んでいます。使徒行伝においては、ご聖霊が私たちの内側から働かれるのではなく、外側から働きかけてくださり、私たちを導き、支配し、語るべきことばを与え、イエスさまの証人になる力を与えてくださいます。聖霊は神ご自身であり、聖霊に対して欺くことができることを、アナニヤとサッピラの事件で学ぶことができました。彼らは代金の一部を持っていたのに、すべて持ってきたかのように嘘をついていたので、その場で倒れて死んでしまったのです。今日学ぶところでは、聖霊に逆らうことができることを学びます。ご聖霊の働きかけを受け入れず、退けてしまうことができることについて見ていきます。

 

1A モーセを退ける 17−50

 ステパノは、このことについて、モーセの生涯から語り始めています。

1B 律法 17−43

1C 人 17−35

1D 1回目 17−29

 神がアブラハムにお立てになった約束の時が近づくにしたがって、民はエジプトの中にふえ広がり、ヨセフのことを知らない別の王がエジプトの王位につくときまで続きました。

 

 アブラハムにお立てになった約束については、私たちは前回、5節から7節で学びました。アブラハムの子孫が祝福され、空の星のように海の砂のようにふえて、カナン人の土地を所有するという約束でした。途中、彼らはエジプトに移住し、400年の間、奴隷として虐げられます。けれども、神がエジプトをさばき、イスラエル人をエジプトからのがれさせ、再びこの土地に戻してくださるという約束でした。ヤコブの家族は、エジプトで支配者になっていたヨセフのところに行くために、エジプトに移住しました。その民がふえていったのですが、ヨセフも死んで、何年も経った後に、ヨセフのことを知らないエジプトの王が現われたのです。

 この王は、私たちの同胞に対して策略を巡らし、私たちの先祖を苦しめて、幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。

 

 イスラエル人はふえ広がり、強くなっていったので、エジプトの王パロはおそれました。彼らの力を弱めるために、苦役と過酷な労働を課しました。けれども、イスラエル人は減っていくどころか、ますます子どもを産んでいきます。そこでパロは、助産婦たちに、産まれてくる男の子をその場で殺すように命令しました。しかし、助産婦たちはパロの命令に背いたので、パロは今度は、男の子の赤ちゃんをナイル川に投げ込むように命令を出したのです。

 

 このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、ついに捨てられたのをパロの娘が拾い上げ、自分の子として育てたのです。

 

 一つの家族に、男の子が生まれました。とてもかわいらしかったので、ナイル川に捨てることができず、3ヶ月間隠し持っていました。けれども、泣き声も激しく、隠しとおせないと思った親は、この子をかごの中に入れ、ナイル川の葦の茂みの中に浮かべました。ここから神のすばらしい摂理が実行されます。それを見つけたのは、なんとパロの娘でした。彼女は、この子がヘブル人であるのを知りながらも、かわいそうに思って、自分の子として育てることにしたのです。モーセという名前が付けられました。モーセとは、「引き出される」という意味です。神は、このモーセをとおして、ご自分の民をエジプトの苦しみから引き出す計画をお持ちでした。

 

 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました。

 

 モーセには、人々を助け、救い出す、強い思いがありました。とくに、同胞のイスラエル人が苦しめられているのを見て、彼らを助けたいと思ったのです。自分がこのようにヘブル人であることを自覚しているのは不思議ですが、実は、パロの娘がモーセを引き取るとき、ベビーシッターとして、知らずにモーセの実の母を雇ったのです。ですから、モーセの母親は、自分たちの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神についてモーセに教えていたに違いありません。また、モーセ自身、エジプトのエリート教育を受けているなかで、イスラエルについての情報にとくに関心を寄せていたのかもしれません。この苦境から助けてあげたいという思いを強く抱いていました。

 ところで、モーセの全生涯は3つの40年間に分けることができます。最初の40年はエジプトの宮廷生活でした。しかし、モーセは、エジプトの何一つ不自由のない栄華に富んだ生活を離れて、イスラエルの民とともにキリストのそしりを受ける生活を選びました。次の40年間は、荒野で羊飼いとして過ごしています。そして、その後の40年は、イスラエル人とともに約束の地に向かって荒野で生活しました。そして120歳で全生涯を終えます。


 そして、同胞のひとりが虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち倒して、乱暴されているその人の仕返しをしました。彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

 

 モーセの、イスラエル人を救いたいという思いは神から来たものでした。しかし、その方法は自分から来たものでした。彼は、自分の力で、自分の知恵で、このことを行なおうとしたのです。

 

 翌日彼は、兄弟たちが争っているところに現われ、和解させようとして、「あなたがたは、兄弟なのだ。それなのにどうしてお互いに傷つけ合っているのか。」と言いました。すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけてこう言いました。「だれがあなたを、私たちの支配者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か。」

 

 このように、モーセは、たった一人のエジプト人を倒すことにも失敗してしまいました。けれども、この40年後、モーセは、なんとエジプトの全軍隊を打ち倒すことに成功したのです。紅海が分かれて、その中に入って来たエジプト軍は、元に戻った海の中で溺れ死んでしまいました。そのときは、自分の考えや自分の力ではなく、神の導きによって、聖霊に従って行なったのです。肉の力で行なうのと、御霊に導かれて行なうのでは、こうも違いが出て来るんですね。

 ただ、ステパノのメッセージの中で注目しなければならないのは、イスラエル人の反応です。彼らを救おうと思ってやって来た人を、彼ら自身が押しのけた、という事実です。ステパノは、このことを後で、「聖霊に逆らっている」と話しています。自分に差し伸べられた救いの手を、自分で拒むことが聖霊に逆らうことなのです。ご聖霊は、私たちに罪の自覚を与え、主イエスの十字かを啓示して、私たちがイエスの御名を信じるように促してくださいます。その導きに応答すれば、私たちの罪は赦されて、心はきよめられて、神の子どもとなり、救われるのです。けれども、その導きを拒むこともでき、聖霊に逆らってしまうことになります。

 このことばを聞いたモーセは、逃げてミデアンの地に身を寄せ、そこで男の子ふたりをもうけました。

 

 エジプトを逃げたモーセは、ミデアン人が住むシナイ半島のところに来ました。そこで、井戸のところにイテロという人の娘が7人いて、飼っている羊に水を与えようとしていました。そこに他の羊飼いたちがやってきて、彼女たちを押しのけたのですが、モーセは彼女たちを救って、その羊の群れに水を飲ませました。このことを知ったイテロはモーセを自分の家に迎えて、娘のひとりチッポラを嫁に与え、二人の男の子が生まれました。

2D 2回目 30−35

 そして次から、モーセの最後の40年についての話が始まります。

 

 四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現われました。その光景を見たモーセは驚いて、それをよく見ようとして近寄ったとき、主の御声が聞こえました。

 

 場所は、シナイ山です。後に、神はこの山に現われてくださり、モーセに律法を授けられます。そこに柴があったのですが、火がついていたのに、いつまでたっても燃え尽きません。不思議に思って近寄ると、実は主がそこにおられたのです。

 

 「わたしはあなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」そこで、モーセは震え上がり、見定める勇気もなくなりました。

 

 先祖の神が、ついに現われてくださいました。300年間ほど、何の音沙汰もないように思われた神の御声が聞こえるようになりました。

 

 すると、主は彼にこう言われたのです。「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。」

 

 柴で燃えている炎は、主の聖さを表わしていました。火によってさまざまな物が燃え尽くされてしまうように、神はその聖さによって、人間をことごとくさばかれます。また、火によって不純物が取り除かれる金や銀のように、私たちクリスチャンは、神によって聖められます。ですから、主は聖い方であります。

 

 わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下って来た。さあ、行きなさい。わたしはあなたをエジプトに遣わそう。

 

 何の音沙汰もないように思われた神は、実は、彼らの苦しみを見て、うめき声を聞いていてくださっていました。神は自分に無関心である、関わっておられないと思うのは私たちのほうであり、実際はそうではないのです。私たちが苦しんでいるとき、神もいっしょに苦しんでくださっておられます。私たちの心がうめいているとき、神はそのうめき声をすべて聞いておられます。そして、私たちに救いの手を差し伸ばすために、下って来てくださいます。

 だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。

 

 ステパノのメッセージの要点が、ここに示されています。これを聞いているユダヤ人は、モーセほどの偉大な預言者はいない。彼の語ったことばは、神のことばであり、ステパノは、モーセにそむくことを言っている、と言っていました。けれども、ステパノは、このあなたがたが敬っているモーセを、あなたがたの先祖は一度退けたのですよ。神が、あなたがたを救うために選んでくださった器を退けてしまったのですよ、と言っています。モーセが二度目に現われたとき、イスラエル人ははじめて、彼を解放者として、支配者として認めました。

 神とイスラエルとのこのような関係は、実は、イエス・キリストにも言えたことなのです。イエスがイスラエルの王として、救い主としてユダヤ人に現われたのに、彼らはイエスを押しのけてしまいました。しかし、聖書には、イエスさまが再び地上に来られることが預言されています。そのときには、ユダヤ人は、自分の初子を失ったかのように激しく泣き、悔い改めて、イエスを自分たちのメシヤと認めるようになると聖書では預言されています。一度目は拒んだのですが、2回目に現われるときに認めるのです。


2C ことば 36−43

 ステパノは続いて、先祖たちが、モーセの言うことを聞かず、律法を守らなかったことについて話します。

 

 この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行ないました。

 

 使徒たちもステパノも不思議やしるしを行なっていましたが、それは、神に任命された器であることを証明していました。不思議やしるしを行なった預言者でもっとも偉大だったのは、このモーセです。紅海が分かれました。岩から水が出てきました。反逆する者が、生きたまま地球の真ん中に落ちていきました。

 

 このモーセが、イスラエルの人々に、「神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。」と言ったのです。

 

 モーセが自分の生涯を終えるとき、最後にとても長い説教をしました。その説教が申命記です。その中で、彼は、私のような預言者がもうひとり現われる。ユダヤ人の中から現われる、と預言しました。これはメシヤ預言です。私たちがイエスさまとモーセを比べるときに、類似した点を多く見出すことができます。もちろん、イエスさまは神の子であり、モーセは単なる人間でありますが、イエスさまは、モーセと似たような預言者としての活動を行なわれました。例えば、生まれてきた状況が似ています。ヘロデ王は、ガリラヤ地方の2歳以下の子どもをみな殺すように命じました。また、荒野に40年間モーセがいましたが、イエスさまは40日間荒野で、悪魔からの誘惑をお受けになりました。そしてもちろん、イエスさまは、多くの不思議としるしのわざを行なわれました。また、神のことばを語られました。モーセとの類似点が多くあります。ですから、モーセが言った「もうひとりの預言者」とは、イエスさまのことです。

 また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。

 

 このモーセによって、彼らの土台とも言うべき律法が与えられました。神のみことばがモーセによって与えられました。ここで神のことばが、「生けるみことば」となっていますね。神のことばは生きています。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12」とヘブル書には書かれています。それとは対照的に、イスラエルは死んだ偶像を求めました。

 

 ところが、私たちの先祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、「私たちに、先立って行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導き出したモーセは、どうなったのかわかりませんから。」とアロンに言いました。そのころ彼らは子牛を作り、この偶像に供え物をささげ、彼らの手で作った物を楽しんでいました。

 

 モーセは神から律法を受けて、また幕屋の造り方を示されて、シナイ山のうえに40日間いました。モーセがなかなか戻ってこないので、イスラエルの民は、エジプトで見なれていた牛の像を代わりに作って、私たちの神としてください、とアロンに迫りました。アロンは、この圧力に負けて、金の子牛をつくり、イスラエル人はその像の回りで、偶像崇拝と不品行の罪を犯しました。

 私たちは、彼らのことを簡単に非難してはいけません。なぜなら、私たちも、同じことをクリスチャン生活を歩んでいるうえで、行なってしまうからです。イスラエルの民は、神の生けるみことばにより頼むことができませんでした。神のことばではなく、モーセという目に見える人物に頼っていたのです。だから、モーセがいなくなると不安になって、神のみことばに頼ることなく、他の目に見える存在を求めました。だから、私たちクリスチャンも、いつもこの問題に直面しています。神のみことばを真剣に受けとめて、日々、神の御声を聞いて歩んでいるでしょうか。もしそうでなければ、流れの中に自分をまかせており、目に見えるものに従って生きてしまっています。


 そこで、神は彼らに背を向け、彼らが天の星に仕えるままにされました。預言者たちの書に書いてあるとおりです。「イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、ほふられた獣と供え物とを、わたしにささげたことがあったか。あなたがたは、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか。それゆえ、わたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ移す。」

 

 イスラエルは偶像崇拝の歴史をたどり、ついに、バビロンに、奴隷として捕え移されてしまいました。これを聞いていたユダヤ人は、「私たちの先祖はすばらしい。」と言って誇っていましたが、ステパノはずばりと、あなたがたの先祖は律法をやぶって、偶像崇拝をしていたのですよ。律法、律法と叫んでいるが、見なさい、律法を守っていません、と訴えているのです。

2B 神殿 44−50

 そして次に、ステパノは神殿について語り始めます。ユダヤ人が、ステパノが神殿を汚すようなことを言った、と言って非難していたからです。

 

 私たちの先祖のためには、荒野にあかしの幕屋がありました。それは、見たとおりの形に造れとモーセに言われた方の命令どおりに、造られていました。

 

 神殿の中身は、最初に神さまからモーセに、幕屋を造るように命じられたところから始まりました。幕屋とは、材木と幕で出来た主を礼拝する場です。彼らは旅をしていたので、一つのところに建物を持つのではなく、解体して組みたてることのできる幕屋を、神はお示しになったのです。この幕屋について、神はモーセに、わたしの言うとおりに正確に造りなさい、と命じられました。それは、幕屋は、天国の模型であるからです。天国がどのようになっているのか、その原型が幕屋の中に示されています。

 

 私たちの先祖は、この幕屋を次々に受け継いで、神が先祖たちの前から異邦人を追い払い、その領土を取らせてくださったときには、ヨシュアとともにそれを運び入れ、ついにダビデの時代となりました。ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願い求めました。けれども、神のために家を建てたのはソロモンでした。

 

 モーセは、約束の地の中に入ることはできず、後継者のヨシュアが入っていき、敵を打ち倒して、土地を所有しました。けれども、すべての土地を所有したわけではなく、500年ぐらい経ったあとに、神はダビデを王としてイスラエルの国に立てて下さり、彼がまだ征服していない町や土地を取っていきました。そしてその息子ソロモンが、神殿を建てました。

 けれども、ソロモン自身は、天と地を造られた神が、このような小さな建物に住まわれるなどとは考えていませんでした。彼は祈りの中で、こう言っています。「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。(列王記第一8:27-28」神殿は、神が住まわれる場所ではなく、神がとくべつに祈りを聞いてくださる場所でありますように、とソロモンは祈っています。これが本来の神殿の役割なのです。しかし、ステパノの説教を聴いているユダヤ人は、ここが神の住まわれる所である、この神殿は偉大なのだと、神殿そのものを誇っていたのです。先ほどの偶像崇拝と変わらないことを行なっていたのです。神ではなくて、神についてのものを礼拝の対象物にしてしまいました。

 私たちクリスチャンも、同じような過ちをしてしまいます。神ご自身ではなく、たとえば、教会の指導者、自分の通っている教会、教会堂、自分が属している教団、牧師、また、ある特定の賛美のしかたなど、そうした神ではないものに焦点を当てて、そちらに注意が寄せられてしまうのです。ユダヤ人は、神殿そのものを礼拝の対象物にしてしまいました。


 そこでステパノは、こう言います。しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。「主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足の足台である。あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。わたしの休む所とは、どこか。わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。」

 

2A キリストご自身を退ける 51−60

 そしてステパノは、自分の説教を締めくくります。

1B 正しい方 51−53

 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

 

 ステパノはずばりと、彼らについての真実を指摘しました。あなたがたは先祖について誇っているが、その先祖は神の預言者をことごとく迫害しました、と言っています。そして、さらに、預言者は、キリストが来られることを預言しましたが、あなたがたは、このキリストご自身を裏切り、十字架につけて殺してしまったのです、と言っています。

 

 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。

 

 これも、痛々しい指摘です。彼らは律法を誇りにかけていたのですが、今、ステパノは、彼らが律法を守り行ってこなかったことをイスラエルの歴史から証明し、彼らを追い詰めてしまいました。

2B 罪を赦す方 54−60

 ここで、本来なら、聞いているユダヤ人は、自分が誤っていたことに気づいて、「それでは、私たちはどうすれば良いのでしょうか。」と聞くべきでした。以前、ペテロの説教を聞いたユダヤ人たちはそうでした。けれども、ここにいるユダヤ人たちの反応は異なっています。

 

 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

 

 はらわたが煮え返る、というのは、直訳では、「心をのこぎりで切り取られる」となっています。ステパノはずばっと、彼らの核心部分に触れたので、のこぎりが心の中に入ってしまったようになったのです。そして、歯ぎしりした、とうのは、「このやろ〜!(犬がうなっているように)」と、いう感じですね。なぜ、こうなってしまったのでしょうか。なぜ、自分はとんでもないことをしてしまった、どうしよう、という思いにならなかったのかと言いますと、自分が正しいと思い込んでいたからです。自分が正しい、他の人が間違っている、と思い込めば思い込むほど、真実を指摘されたときに、悔い改めることができなくなってしまいます。

 パウロがこう言いました。「
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。(ローマ2:1)」人に人差し指を向けているときに、中指と薬指と小指は自分の方向に向けられていることを知ってください。私たちは常に、全知全能の神の存在を意識して、神の御前でへりくだる用意ができていないといけません。ペテロがこう言いました。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(ペテロ第一5:6」神は、へりくだる者を決してお見捨てになりません。神は、私たちがどんな過ちを犯したとしても、へりくだって、その罪を認めるなら、豊かに赦してくださり、私たちをすべて受け入れてくださり、なぐさめ、いやし、希望を与えてくださいます。

 聞いていたユダヤ人たちは悔い改めませんでした。けれども、今度はステパノの行動に注目してください。ユダヤ人は聖霊に逆らっている姿ですが、ステパノは聖霊に満たされている姿です。

 

 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

 

 ユダヤ人が怒り狂っているのを見て、ステパノは何ら恐がることなく、天を見つめ、主イエスご自身を見つめていました。イエスさまが、ステパノを受け入れるために、神の右の座から立ち上がっていてくださいます。私たちも、聖霊に満たされるときに、それは、神と主イエスの栄光をはっきりと見ることができます。目の前に迫っている試練を乗り越えるほどの、光と輝きを与えて下さいます。

 

 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

 

 新しい人物が登場しました。サウロです。後にパウロという名前になる人です。彼はステパノの説教を聞いて、ステパノを殺すことを積極的に認めた、サンヘドリンの議員です。師匠のガマリエルが「手を出すな」と注意喚起したのにもかからわず、サウロは、ステパノの説教を聞いたあとで気が狂っているかのように迫害していきます。

 ところがステパノの反応を見てください。こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 

 石で打たれているものすごい激しい痛みのなか、ステパノは主イエスが十字架の上で死なれたときと同じことばを語りました。「私の霊をお受けください。」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と言って、眠り、つまり死にました。彼は、イエスが言われた、「敵を愛しなさい。敵のために祈り、祝福しなさい。」という言葉をそのまま守った人です。

 けれども、注意しなければならないのは、これはステパノの精神力から来たものではなく、聖霊に満たされたことによって行なうことができたものである、ということです。主イエスを見つめ、その栄光を見て、この言葉を叫びました。ですから、私たちも、困難に直面するとき、主イエスを見つめてください。「主イエスさま!」と叫んでください。イエスさまは必ず私たちを助けて下さり、ご自分を私たちに現わしてくださり、そして、私たちが直面する困難に耐えることができるほどの力を与えてくださいます。必ず与えてくださいます。大事なのは、主イエスの御名を呼び求め、主イエスに目を注ぐことです。


 こうしてステパノは眠りにつきましたが、これが初めての殉教でした。教会が誕生してから初めての殉教です。ペテロとヨハネは、御使いによって助けられたのに、ステパノは救われなかったのか、と思うかもしれません。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」とステパノは祈ったが、ユダヤ人は悔い改めないで、これから迫害の手を伸ばしていくのではないか、とおっしゃられるかもしれません。

 けれども、そうではないのです。この殉教によって、一人の人が悔い改め、その人をとおして、全世界に福音が宣べ伝えられていきます。この場に居合わせていたサウロです。サウロは、ステパノの説教を聞いて、気が狂ったようになって、教会を迫害しはじめました。そして、ダマスコというところに行って、そこにいるクリスチャンを縛り上げようとしました。その途中、主イエスご自身がサウロに現われ、こうおっしゃいました。「
サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。(使徒26:14)」サウロは、ステパノの説教を聞いて、良心のとがめを受けていたのです。そして、とげのついた棒をけるように、必死になって、意固地になって、良心に反することを行なっていました。けれども、サウロは降参し、主にすべてを明け渡し、今度は、このイエスを大胆に宣べ伝えるようになっていったのです。

 だから、ステパノの祈りは聞かれました。「彼らを罪に定めないでください。」という祈りは、サウロの生涯において聞かれました。聖霊の御力は、これほどまでに大きいのです。私たちがいかに不利に思われる状況に陥っているとしても、主は必ずご自分のしたいと願われることを、私たちを通して行なってくださいます。どうか聖霊に逆らわないでください。つねに、自分の心を探っていただくことができるように、主の御前でへりくだってください。