コロサイ人への手紙2章 「完全な者」



アウトライン

1A キリストの知恵において 1−10
   1B 豊かな全き確信 1−5
      1C 愛の結びつき 1−3
      2C 秩序 4−5
   2B だましごとの哲学 6−10
      1C キリストにある歩み 6−7
      2C キリストの権威 8−10
2A キリストの力において 11−23
   1B キリストの割礼 11−15
      1C 霊的な復活 11−12
      2C 罪の赦し 13−15
   2B いたずらな肉の誇り 16−23
      1C 実体なるキリスト 16−19
      2C キリストとの死 20−23

本文

 コロサイ人への手紙2章を開いてください。ここでのテーマは、「完全な者」です。私たちはコロサイ書の1章で、キリストがすべてのものにまさって第一の方であることを学びました。キリストが天地万物の創造主であり、万物はキリストによって成り立っており、また神と万物との和解も、キリストの十字架によって行なわれました。さらに、このキリストが、私たちの中に住んでおられます。キリストが第一の方で、かつキリストが内におられる、というのが、1章における要点でした。

1A キリストの知恵において 1−10
 それでは2章1節をごらんください。
1B 豊かな全き確信 1−5
1C 愛の結びつき 1−3
 あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。

 「苦闘」とパウロは言っていますが、これは、「心にかけている」と言い換えても良いかもしれません。パウロは、神の奥義であるキリストについて、知恵を尽くして、あの手この手で教えていました。どのようにすれば、このキリストにあってすべてのものがあるかを知らせるために、いろいろ考え、主から知恵をいただいて教えていたのです。それは、彼らのことをとても心にかけていて、いろいろな労苦があったわけです。

 そして、「ラオデキヤの人たち」とありますが、コロサイの町のすぐそばにある町です。ラオデキヤの人たちにも、この手紙を読んでもらいたいと願っています。コロサイだけではなくラオデキヤにも、だましごとの哲学や伝統などの、偽りの教えが入り込んできていたものと思われます。

 パウロは、これらの、直接顔を見たことのない人たちのために、苦闘していたことを考えてみてください。自分の知っている人、自分と利害関係のある人だけではなく、ただ聞いたことのある人のために、いろいろ骨を折っていました。私たちも、このようでありたいです。見たことはない人のために、私たちはどれだけ祈ることができるでしょうか。どれだけ献金によって支えることができるでしょうか。自分の世界だけに閉じこもるのではなく、外にも開かれた心を主にあって与えられたいと願います。

 それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。

 パウロは1章において、神の奥義は、私たちのうちにおられるキリストである、と言いました。したがって、私たちが求めていくべくことは、私たちキリストを信じている者たちの交わりの中で、キリストを知っていくことができる、ということです。ここがとても大切です。私たちは、ただ聖書だけを読んでキリストを知ることはできません。自分だけの信仰を保って、キリストを知ることはできません。キリストは神秘的に、一見、弱く不完全に見える一つ一つの交わりの中に一体化されて、そこにおられます。その中に自分も加わることによって、キリストをキリストとして十分に知ることができるのです。

 その交わりに必要なのは、「心に励ましを受け」ることです。私たちが、主にあって、人を励ますとき、私たちのうちにキリストが形成されはじめます。そして、心に励ましを受けつつ、「愛による結びつき」ができます。この結びつきが、とても大切です。次に、「理解をもって全く豊かな確信に達し」とありますが、私たちは、神のみことばの学びを欠かすことはできません。神の奥義である、イエス・キリストは、この聖書によって啓示されているからです。しかし、もし、愛の結びつきがなく、ただ大学の講義のように、一人一人独立して聖書を学びに来ているのであれば、この全く豊かな確信に達することはできないのです。見えてくるべき、キリストの姿を見ることはできません。

 私がカルバリーチャペルにいたときのことを思い出すと、このことが実現されていたなあと思います。聖書を教えることが強調されていますが、その学びは、励ましと、愛の雰囲気の中で行なわれていました。そして、それは知的に聖書を理解するのではなく、イエスさまをもっと深く、親密に知っていくことが目的になっていました。まさに、「理解をもって全く豊かな確信」があったのです。

 このような雰囲気の中にいると、今まで見えてこなかったキリストの姿が、自分の心と思いの中に形づくられてきます。「キリストとはこのような方なのだ」という明確な姿を見ることができるようになります。ここでパウロが「真に知るようになるのです」と言っていますが、本当に「真に」知るようになっています。

  このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

 キリストが自分のうちに形造られるようになると、今度は、生活のいろいろな場面で、何を行ない何を話したらよいかについて、その知恵が与えられます。また、知識も与えられます。パウロはここで、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」と言っていますが、私たちの生活に必要な知恵と知識は、みなキリストのうちに見出されるのです。「けれども、ちょっと待って。買い物をしているとき、3本で100円のキュウリと、1パック300円のトマトのどっちを買えば良いのですか?」と聞かれるかもしれませんが、いや、このことについての知恵も、キリストのうちに歩む中で得られるでしょう。互いの愛の交わりの中で、キリストを知っていくなかで、生活における徐々にキリストの支配が広がっていくとき、これがクリスチャンの霊的な歩みの中で喜びとなります。1章のテーマを思い出してください。キリストはすべてのことにおいて第一の方となられましたが、知恵と知識においても第一の方であり、知恵と知識の源となられているのです。

2C 秩序 4−5
 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。

 パウロが2章において強調しているのは、ここに書いている「まことしやかな議論」です。人々を巧妙にだましていく教えや哲学、また伝統に気をつけなさい、とパウロは喚起しています。8節をごらんください。「あのむなしい、だましごとの哲学」とあります。18節には、「肉の思いによって、いたずらに誇り」とあります。そして、23節には、「肉体の苦行のゆえに賢いもののように見える」とあります。明らかにおかしいもの、すぐに間違っていると思われるものは、気をつける必要はありません。いや、賢いように見えるもの、聞きざわりがよいものに、私たちは注意を払われなけばいけません。

 このことについて、私たちはナイーブであってはいけません。幼稚な考えを持ってはいけません。「モルモン教やエホバの証人など、異端とされているグループに私はおらず、正統的なキリスト教会にいるのだから大丈夫である。」では、いけないのです。実際、キリスト教界の中で主流になっている動きのなかに、実際に麗しい御霊の流れを感じるようなものの中に、巧妙に、おかしな教えが入り込んできます。このようなことを具体的に話したら、「あなたは、他の兄弟をさばいている。」とか、「愛がない」とか言われるかもしれません。けれども実際に、この正統的で、愛の結びつきがあるコロサイの教会に対して、パウロは警告の手紙を書いているのです。

 私は、肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたといっしょにいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰とを見て喜んでいます。

 まことしやかな議論があるところには、必ず混乱と分裂が起こりますが、キリストによって結び合わされたところの交わりにおいては、必ず秩序があります。落ち着きがあり、へりくだりがあります。教えの風に吹きまわされない、堅実さを持っています。

2B だましごとの哲学 6−10
1C キリストにある歩み 6−7
 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。

 パウロがここで言っているのは、「主イエス・キリストを聞いて、その信じたとおりに歩みなさい。」ということであります。信じてから、また別の新しい歩みがあるのではなく、信じているその信仰をさらに深めなさい、ということであります。ここで、多くの教会が大きな間違いを犯しているのです。私たちは大抵、クリスチャンになって、「私は信じてから何をすればよいのでしょうか。」と牧師や教会の人に聞くと思います。そのときに、「礼拝を守り、伝道を行ない、奉仕をして、弟子訓練プログラムを受けてください。」などの、何らかの活動をすすめるわけです。しかし、初めてイエス・キリストを信じた、その信仰の中からさまよい出て行ってしまい、行ないによって完成させようとするのです。これは、あたかも、新婚夫婦がすぐに別居して、それぞれ任された仕事をするようなものです。教会やその他の、クリスチャンのグループの活動をしているのですが、イエス・キリストご自身を見失っている、ということがしばしば起こっています。パウロは、このことについて戒めています。あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたように、彼にあって歩みなさい、と言っています。

 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。

 初めに、キリストの中に根ざします。言い換えれば、自分が教えられたところのキリストの中にとどまるということです。そして、その土台から建てられます。今説明しましたように、この根ではないまた別の教えなり、行ないを取り入れてしまうのです。まず根をはって、その根から成長していかなければいけません。そして、教えられたとおりに信仰を堅くします。これは確立させると言っても良いかもしれません。自分が信じたとおりのものが、見えるかたちで、自分にもまた他人にも明らかになります。

 その結果、「あふれるばかりに感謝しなさい」となります。あふれるばかりの感謝の生活が、このプロセスを通ることによって結ばれる実です。

2C キリストの権威 8−10
 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

 「あのむなしい、だましごとの哲学」とありますが、人をひきつけ、説得力を持ち、人を引き込ませるのですが、そこには内実がない、空虚であるということです。言葉だけが一人歩きして、内容のない議論をしています。インターネットでは、クリスチャンによるいろいろなフォーラムがあります。ある人が話題を提供し、それに対するコメントや意見を述べるような場がありますが、次第に言葉だけが独り歩きし、互いに感情的になり、傷つき、結局その議論から何か得られるものがないことが、往々にしてあります。とくに、聖書神学についての話題、時事話題についてはそうです。日本社会一般においても、そうです。

 それから守られる方法は、パウロが初めから話しているように、キリストの中にあって歩み、キリストに根ざし、建てられ、また信仰を堅くするところから生まれます。自分の前にキリストを見ることができるので、どこに行けばよいのかを見極めることができるようになります。

 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

 パウロは、コロサイ書1章において、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」と言いました。また、「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」と言いました。キリストが神であり、また肉のうちに宿られた神であります。このキリストが私たちの中に住んでくださっているのですから、なぜゆえ、人の哲学や言い伝えに、知恵や知識を求めるのですか、というのがここでパウロが言いたいことなのです。

 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

 ここに、驚くべき言葉が書かれています。「満ち満ちている」というのは、「完全です」と訳すことができます。つまり、私たちはキリストにあって、完全であるとパウロは言っているのです。

 この真理を知っているかいないかで、私たちクリスチャンの生活は180度変わります。キリストが完全な方であり、完全な義をもっておられます。私たちは、キリストを信じてから、もっと正しくなろう、これから変わろうと努力します。けれども、これほど無駄なことはないのです!もうキリストの義によって、正しいとみなされているのですから、これ以上正しくなることはできません。では、私たちは何をすればよいのでしょうか?ですから、パウロが先ほどから話しているように、キリストを知っていくことだけなのです。すでに完全にされているのですから、その完全な状態のまま、とどまっていることが私たちの役目なのです。そして、このとどまっている状態の中で、すべての知恵と知識、力、いのちなど、あらゆる良き物が出てきます。これが、すなわち「御霊の現われ(Tコリント12)」であり、神が私たちをとおして、ご自分のみわざを行なってくださるのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

 パウロは、何回も何回も、キリストがかしらであることを繰り返しています。キリストが万物の創造においても、和解においても、死者の復活においてもすべての中で第一の方であり、そして、すべての知恵と知識の源であり、そしてここでは、支配と権威においてもかしらであると述べています。

2A キリストの力において 11−23
 こうしてパウロは、キリストにある知恵について述べましたが、次に、キリストにある力について述べます。私たちが、物事を理解し、判断するのに、キリストがその源であったように、罪に打ち勝つ力、肉に対する力も、キリストにあるとパウロは述べます。

1B キリストの割礼 11−15
1C 霊的な復活 11−12

 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。

 パウロは今、ユダヤ人が生後8日目に受ける割礼のことについて話しています。この儀式がユダヤ人であることを表し、アブラハムの子孫としての契約のしるしになるのです。けれども、この肉の割礼が、肉の欲望に対して力を持つことはない、というのがパウロがここで言いたいことです。むしろ、キリストの割礼というものがあり、この割礼によって、初めて罪と肉に打ち勝つ力が与えられます。

 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

 キリストの割礼とは、ここにあるように、水のバプテスマに表れている、キリストとともに死ぬことと、キリストとともによみがえったことであります。あなたが水の中に入ったときに、罪に支配されていた古い人が死に、埋葬された。そして、水から出てきたときに、キリストとともによみがえらせられた、という真理であります。この真理によってのみ、私たちは自分の罪に対して対処することができ、罪ではなく神にお仕えすることが始めて可能になるのです。

2C 罪の赦し 13−15
 そして、次に、罪の赦しの力が書かれています。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

 債務証書とありますが、私たちが借金地獄になっており、取り立て屋が自分の家の戸を叩いていることを想像してください。「早く、金を返せ」と責め立てられるわけですが、これが、律法が私たちに対してすることです。律法が、私たちに、「これをしていない。」「あれをしていない。」と罪を示します。しかし、キリストが十字架につけられたことによって、その債務証書がすべて十字架に釘付けされたのです。ハレルヤ!私たちの罪はすべて赦されました。

 さらにパウロは、この罪の赦しにおいて神が成し遂げてくださった、霊的解放を教えています。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

 悪魔は、兄弟たちの告発者であると聖書には書かれています。私たちを責め立て、神に見捨てられていると私たちの耳にささやきます。さまざまな嫌なことが起こるとき、「神はあなたに敵対しているのだ。」と囁きます。しかし、キリストが十字架につけらえたことによって、神は、彼らの武装を解除され、凱旋において捕虜の行列に加えられたのです。

 私たちは、このところにおいて、本当にはっきりとした確信をもっていなければいけません。なぜなら、罪の赦しの確信がゆらいでいるところで、私たちは罪意識を抱き、自分で自分の罪を償ってしまおうとするからです。罪を償うために、たくさん祈ったり、聖書を読んだり、他のあらゆる活動を行なう動機付けにさえなってしまいます。これが悪魔の策略であります。しかし、罪の赦しにおいて、私たちはすでに、キリストにおいて圧倒的な勝利者であり、キリストにある神の愛から私たちを引き離す者は、何一つないのです。

2B いたずらな肉の誇り 16−23
 そこでパウロは次に、罪の赦しを得たのにもかかわらず、あたかも赦されていないかのように修行をしてみたり、神秘的体験をしてみたり、ユダヤ人のしきたりを守ってみたりと、肉をもてあそぶような行ないに対して注意を喚起しています。

1C 実体なるキリスト 16−19
 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。

 旧約聖書には、律法がありました。そこには、食物規定がありました。レビ記11章ですね、食べてもよいきよい動物と、汚れた動物が区別されていました。また、一年に守り行なう例祭がありました。過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りなどです。そして新月の祭りと、安息日がありました。安息日は、神がとくに強調されて、守り行なうように命じられた大切な日でありました。けれども、パウロがここで言っているように、それらは影であって本体はキリストにあるのです。

 ここに、旧約聖書を学ぶ醍醐味があります。すでに新約なのだから旧約はたいして大切ではない、という風潮がキリスト教会にありますが、それはとんでもない間違いです。旧約には、本体であるキリストが指し示されている影があります。キリストを指し示す型がたくさんあります。それらによって、新約で語られているキリストがくっきりと見えてくるのです。

 パウロが生きていた時代には、本体なるキリストが現われた後なのに、これらのしきたりを守り行なうグループがいまして、異邦人であるコロサイ人クリスチャンに対しても、それを行なうことが正しいと教えていました。そこでパウロは、これらは影にしかすぎないのだ、と強調しているのです。

 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。

 パウロが注意を喚起しているのは、しきたりに縛られる律法主義だけではありませんでした。御使い礼拝などの神秘主義です。幻を見たとか、天使がやって来て、私にこのような神の御告げを教えてきた、とかいうことを話している人たちがいました。このようなことを聞くと、その人がいかにも神に近づいているかのように感じてしまいます。けれども、真理はその逆なのです。次をごらんください。

 彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。

 思い出してください、キリストが私たちのうちに住んでおられるのです。御使い礼拝や幻なんかよりも、はるかに私たちのほうが神秘的なのです!宇宙を創造し、神を万物と和解させ、知恵と知識のすべてが隠されており、支配と権威のかしらであられる方が、私たちのうちに住んでおられます。ですから、かしらなるキリストにつながることが、私たちの特権であり、また責任なのです。

 そして、このかしらに結びつくことによって、からだ全体も成長します。

2C キリストとの死 20−23
 神秘主義の次は、禁欲主義について注意を呼びかけています。もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。

 すがるな、味わうな、さわるな、という決まり事をつくって、そのルールにしたがって生きれば、霊的になれるという教えです。

 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

 ここが大事ですね。どんなに修行をしても、肉というのは効力がなくなるということは決してありません。むしろ、肉体への苦行を行なえばそれだけ、さらに肉の誇りが心から舞い上がってきます。教会の中でもそれを行なってしまいます。だれだれが、40日間も断食をした。そして神から、こんな声を聞いた。だから、この声はとても大事なものである、とかです。40日断食して顔をやつしているから、その人がキリストから聞いてることには、なりません!ただ、キリストとともに死に、キリストとともに生きたところに立つことが、キリストに結ばれていることであり、そこに肉に対して効力を発揮できるのです。必要なのは、ただ一つ信仰です。キリストがなされたみわざを、自分に信仰によって当てはめること、これだけなのです。

 こうして、さまざまな、だましごとの教えに気をつけなければいけないことを学びました。それは、今の自分では十分ではない、もっと何か満たされなければいけない、というところからすべて出ています。しかし、それは、初めから履き違えているのです。あなたは、キリストにあって完全です。満ち満ちているのです。ですから、キリストの中にあって歩み、キリストに根ざし、建てられ、信仰を堅くすればよいのです。キリストのうちにとどまるとき、感謝があふれでて、そこから聖霊の働きが始まります。


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