アウトライン
1A 思いなさい 1−4
1B 上にあるもの 1−2
2B 神にあるいのち 3−4
2A 身につけなさい 5−17
1B 神にかたどり造られた新しい人 5−11
1C 地上の諸部分に対する死 5−9
2C 真の知識 10−11
2B 神に選ばれた者として 12−17
1C 赦し 12−14
2C 感謝 15−17
3A 従いなさい 18−4:1
1B 家族 18−21
2B 仕事 22−4:1
本文
コロサイ人への手紙3章を開いてください。3章のテーマは、「よみがえらされた私たち」です。キリストとともによみがえらされた者として、どのように生きなければいけないのか、その具体的な勧めを学びます。
1A 思いなさい 1−4
1B 上にあるもの 1−2
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
パウロは、「こういうわけで」という言葉から始めています。これは2章からの続きです。2章20節には、「もしあながたがたが、キリストとともに死んで」いる、とパウロは言っています。2章においてパウロは、キリスト者というのは、肉の割礼ではなくキリストの割礼を受けたものであり、キリストとともに死に、そしてキリストともによみがえった者であります。そして3章に続きます。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら」と続くのです。
そして、「上にあるものを求めなさい。」と言っています。(上にあるものとは、キリストが着座されているところです。)「求める」というのは、私たちの動機付けを表していますね。今、自分がしていることをなぜしているのか、自分を突き動かしているものは何か、とうことを考えればよいかと思います。それが、「何を食べればよいか」「何を着ればよいか」などの、この世に属するものであれば、それは下にあるもの、地上にあるものを求めています。けれども、イエスさまが、「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。(マタイ7:33)」と言われたように、神のことによって自分が突き動かされているのであれば、上にあるものを求めています。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
「求めなさい」に続く勧めは、「思いなさい」です。自分の思いがどこに定められているか、ということです。地上のものに思いが定まっている、あるいは固定されているのであれば、それは「地上のものを思っている」ことになります。けれども、パウロは、天にあるものに、自分の思いを固定させなさいと勧めています。ここが、私たちクリスチャンが行なうべき第一の事柄であります。
私が、新しくクリスチャンになった人、いや、すべてのクリスチャンにアドバイスすることは、まさにここです。何か特定の活動に参加することではなく、天にあるもの、上のものをただ思うことです。私たちの霊は、御霊によって上から生まれました。けれども、その思いは地上のものによって作り上げられたので、地上のことを考えます。これを、祈りとみことばの思い巡らしの中で、天のものに変えられていかねばならないのです。そして、神の御霊が私たちの思いを変えてくださり、私たちはキリストの思いを抱くことができるようになります。
2B 神にあるいのち 3−4
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
今日のキリスト教会の中は、あまりにも「自分」が中心となっています。「私は、このような悪いことをしました。」「私は、今週、ずっと神さまから離れていました。」とか、「私は・・・」という文句を、教会の中の祈りでたくさん聞きます。これは一見、謙遜のように見えますが、決してそうではないのです。パウロは、「あなたがたはすでに死んでいます」と断言しています。死んでいる自分を、もうこれ以上、ことさらにいじくる必要はないのです。
今年の夏、私たちはかぶと虫を飼いはじめました。一週間ぐらいで死んでしまいました。そこにある、死んだかぶと虫を、私はすぐに取り出しました。けれども、もし私が、その死骸を、まだ生きているかのように大切に扱い、えさを与え、じっくり見て、ときどき声をかけていたりしていたら、多くの人が私を変態趣味があるとして、気味悪がるでしょう。けれども、そのことを私たちクリスチャンは、自分に対して、しばしば行なっているのです!もうすでに死んでしまった自分が、いかに生きることができるかを探って、迷走しています。
まず、「自分」というものを切り離して、それからキリストを見てください。キリストのうちにこそ、私たちのいのちが隠されているからです。そうすれば、キリストご自身が、御霊によって、本当の自分を明らかにしてくださいます。自分を変えることは、それからでも遅くないのです。自分の思いを白紙にし、キリストをキリストとして認めることが、私たちが踏み込むべき第一歩なのです。
私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
私たちのキリストとの関係は、目に見ることはできません。けれども、神は、このいのちの関係を目で見ることができる日をお定めになっています。それは、「キリストの現われ」の時です。イエスさまは、私たち教会のために戻ってきてくださいます。そのとき、一瞬のうちにして私たちは変えられて、キリストに似た栄光の姿に変えられます。私たちは引き上げられ、空中に来られたキリストにお会いすることになります。
2A 身につけなさい 5−17
こうしてパウロは、「上のものを求めなさい」「天にあるものを思いなさい」と勧めました。次に彼は、「身につけなさい」という勧めをします。私たちが古くなった服を脱ぎ捨てて、新しい服を身につけるように、キリストにある新しい態度や言動を身につけていきます。
1B 神にかたどり造られた新しい人 5−11
1C 地上の諸部分に対する死 5−9
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
聖書時代において、不品行と偶像礼拝は密接に結びついていました。民数記25章において、モアブの娘がイスラエルの宿営にはいり、イスラエル人の男とモアブの女がたわむれて、そして女たちは、自分たちの偶像を見せて、これを拝むように誘いました。彼女たちは、これを一つの宗教儀式として、神殿娼婦として行なっていました。その行為によって、女たちが妊娠すると、その赤ん坊を、火で熱した鉄の、モレクの神の手の中に置き、赤ん坊をささげるのです。このような忌まわしい行ないのために、神はイスラエルに対して、これら異邦の民を打ち滅ぼすように命じられました。
今の時代に、これらの偶像を手にして、性的行為をすることはありません。しかし、原理は同じなのです。神から与えられた大切な性的欲求を、むさぼり求める姿は、まさに一つの神を拝んでいる姿であり、まことの神ではない偶像を礼拝している姿であります。そして、むさぼりは不品行だけではなく、その他の悪い欲にも現われています。ここに「情欲」とありますが、これは性的なものだけではなく、その他のあらゆる欲求を指しています。今、子供たちが英語を習っていますが、机の上でプリント問題を書き込むときに、ふでばこから競って、争うようにして鉛筆を取ります。もう少しで、他の子に悪いことを言ったり、ぶったりする危険さえあります。これは、「むさぼり」であり「情欲」なのです。
これらの悪い欲に対して、パウロは、「殺してしまいなさい」と言っています。これは、「死んだものとみなしなさい」と言い換えることができます。これらの肉の欲望について、私たちはキリストとともに十字架につけられ、死にました。死んでいるのですから、これらを再び生かすことがないようにしなさい、ということです。これには「信仰」が必要です。なぜなら、これら肉の欲望は、私たちのうちにうずまいており、とどめもなく私たちを支配しようと挑みかかってくるからです。けれども、霊的には、すでに死んでおり、私たちはただ、「自分は死んでいる。今は、キリストにあって新しく作られたものだ。」と思い、みなし、決意していかねばならないのです。
このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
パウロは、「以前はそのような歩み方をしていました」と言っています。つまり、現在は違うのです。これは、御霊によって上から生まれている人は、根本的なところですでに変化を遂げているということです。私たちは、この誘惑にはどうしても負けてしまう、と思っても希望を持ってください。キリストを死者の中からよみがえらした神の力が、この私たちのからだにも働いているからです!
しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。
ここでパウロは、「口による汚れ」を取り扱っています。人との関係の中で、怒りや憤りが生まれ、それが悪意となって現われ、人をそしり、中傷したりします。これらは、地上に属するものであり、私たちが脱ぎ捨てなければいけないものです。
2C 真の知識 10−11
あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
私たちはすでに、新しい人を着ています。御霊によって上から生まれ、神の性質が自分のうちに与えられています。使徒ペテロは、「あなたがたが、・・・世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(Uペテロ1:4)」と言いました。
この新しい人は、「造り主のかたちに似せられて」います。罪を犯す前のアダムが、神のかたちに造られたのと同じです。そして、最後のアダムと呼ばれるキリストが、地上において、神のかたちとして生きるとは何であるかを、お示しになりました。この新しい人は、「ますます新しく」されます。つまり、どんどん変えられていくのです。今の自分よりも、さらにキリストのご性質が現われた行ないをしていくことができます。そして、「真の知識に至る」とありますが、これはキリストご自身のことです。これは、知識偏重や知的高慢に対する戒めともなっています。知識を持っていれば、霊的優れているという高慢です。しかし、真の知識は、キリストを知っていることなのです。
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
キリストを知っていくようになると、それぞれの違いを越えて、一つになることができます。ギリシヤ人とユダヤ人という人種的な違い。割礼の有無は宗教的な違いですね。未開人、スクテヤ人というのは、教育水準でしょうか。そして奴隷と自由人というのは経済的な区別です。これらの区別によって、私たち人間は争いが起こります。また、排除したり、分離したりします。しかし、キリストにあって成熟すればするほど、これらの違いが自分たちの交わりの妨げにならないことを知るようになってきます。
2B 神に選ばれた者として 12−17
次にパウロは、この新しい性質に基づいて、新しい態度や心構えを身につけていくように勧めています。
1C 赦し 12−14
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
パウロは再び、クリスチャンがどのような存在かを説明しています。一つ目は「選ばれた者」です。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ1:4)」とエペソ書にはあります。神が、私たちを選び、ご自分の計画が私たちをとおして実現しようとされています。私たちは神の作品なのです。そして、二つ目は、「聖なる者」です。これはもともと、「切り離す」という意味があります。この世の中にいたところから、切り分けて、神のものとした、というのが「聖なる者」の意味です。クリスチャンはこの世にいても、この世のものではない、ということです。そして、「愛されている者」ですが、キリストにある神の愛はとてつもなく、広く、深く、高いです。この愛を受け取って、それを他の人に分かち合うのがクリスチャンであります。
こうしてクリスチャンのアイデンティティーを基にして、パウロは初めに、「深い同情心」を身につけなさい、と勧めています。これは、「腹からあわれみが出てくる」と言い換えることができます。つまり、話している相手に共感し、むやみに批判したり非難したりすることができない状態のことをいいます。次に「慈愛」です。これは簡単に「親切」と言い換えることができるでしょう。酷いことを言ったり、行なったりすることの反対語です。それから、「謙遜」です。これは、私たちが学んだピリピ書で、パウロが、「自分のことだけでなく、他の人のことをも顧みなさい。(2:4)」とあった、自分よりも他の人を考える心です。そして、「柔和」は、自分のことを押し通す、自己主張と反対語になっています。あるいは、やり返してやる、という復讐心の反対の態度でしょう。最後に「寛容」ですが、これは「忍耐」と言い換えたほうがいいでしょう。次の節にも、「互いに忍び合い」という言葉がでてきますね。こうした態度を、キリストにあって身に付けなさい、とパウロは勧めています。
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
赦すことへの勧めですが、「赦す」という意味を考えなければいけません。それは、端的にいうと「過ぎ去らせる」ということです。お互いの間に、何が意見の不一致があって、気まずい思いになったとしましょう。このときに陥りやすい罠は、「私はこのように話した、あの言葉が、このように言い換えればよかったのね。」云々と、細かいことの分析をすることです。先ほどの、「自分」の問題にまた戻るのですが、自分たちのことを掘り起こしたところで、何も良いものが生まれません。むしろ、キリストにあって互いにこの問題を過ぎ去らせ、再び新たに関係を気づくことが大切です。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
パウロは今、新しい人を、一つの着物にたとえています。いろいろな態度や姿勢を着物であるならば、それを結び帯は「愛」であるとしています。結び帯がなければ、着物がばらけてしまいます。着物が自分の身にしっかりととどまっているためには結び帯が必要で、それが「愛」であるわけです。
この愛が、私たちを互いに結び合わせるための完全な帯であると、パウロは言っています。プロテスタントの教会において、その発生から大きな問題が起こりました。それは「教団・教派」の乱立です。聖書の読み方、とらえかた、教会運営の仕方、いろいろな違いと特徴がありますが、それらを基にして、教団や教派をつくります。そして、これらの違いが、「実際に行動するときに、似たような考えの人たちが集まっていれば、動きやすい。」という単純な理由でとどまっていれば良いのですが、そのようにはいかず、違いばかりがクローズアップされます。なぜ、このような違いが起こってくるのだろうか?考えてみると、それはプロテスタントの教会が、「神の前に立つ個人」という個人の信仰を強調し、重んじるためであることが分かりました。個々人の信仰が固くされていることが目標となっており、教会は個々人の信仰の集合体であると考えられているのです。
ところが、教会というのは、パウロがここで話しているように「愛による結び帯」なのです。私たちの思いを、教理や実践などの一致から、人間関係において、相手を愛していくことに徹していくことが必要です。そこから「結びつき」が生まれてきます。これがパウロが話したかったことです。
2C 感謝 15−17
こうして、人に対する接し方や態度についてパウロは話していましたが、次からは、自分の心の状態の持ち方について話しています。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
私たちの心が、思い乱れるのではなく、キリストの平和で安定している必要があります。そして、キリストの平和によって、他の者と一体になることができます。キリストが、神と人との壁、人と人との壁をこわしてくださり、互いに交わることができるようにしてくださいました。この平和によって心が支配されている必要があります。
さらに「感謝の心」をもつ必要があります。つぶやいたり、否定的なことを絶えず口から出すのではなく、感謝によって心が満たされている必要があります。
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
「キリストの平和」の次は、「キリストのことば」です。神のみことばによって、私たちの心を豊かに住まわせる必要があります。そのためには、このような聖書の学びと、そして、みことばを思い巡らすときが必要ですね。御霊が、みことばを心深くに沈み込ませてくださり、生活の中でもみことばが口から出てくるようにしてくださいます。
そして、そのように心をみことば飽和状態にしていると、互いに教え、戒めることができるようになります。ある具体的な問題に対して、知恵をもって、みことばによって対処することができるようになります。さらに、みことばを住まわせていることは、歌につながってきます。心から神に向かって歌うことができるようになります。心から賛美が口ずさんで出てくるでしょうか?
あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。
これはとても大事ですね。妻に、「はやく、たまっている服を洗濯機にかけてよ。」と言われると、心はぶつぶついいながら、「ああ、とにかりやらなければいけないな。」となってしまいます。けれども、そうではなく、主イエスの名によって洗濯機を回さなければいけないのです。イエスさまの名によってすれば、神に感謝する心が生まれます。
こうして、「よみがえられた私たち」と題して、主に、「思いなさい」という勧めと、「身につけなさい」という勧めを見てきました。時間がないので、18節以降の「従いなさい」の勧めについては、次回に回したいと思います。私たちの生活は、「食べてはいけない。触ってはいけない。」という規則にしばられたものではありません。ことさらに知識をふりまわしたり、神秘的体験をいたずらに喜んだりするものではありません。むしろ、キリストにあるいのちを思い、新しい態度や姿勢を身につけ、心をキリストで満たしていただく歩みにすぎません。
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