コロサイ人への手紙4章 「たゆみない祈り」


アウトライン

1A 思いなさい
2A 身につけなさい
3A 従いなさい 3:18−4:1
   1B 家族において 18−21
   2B 会社において 22−4:1

1A 語ることにおいて 2−6

   1B キリストの奥義 2−4
   2B 外部に対する機会 5−6
2A あいさつの中で 7−18
   1B 忠実な愛する兄弟 7−9
   2B 同労者 10−15
      1C ユダヤ人の友 10−11
      2C 異邦人の友 12−14
   3B ラオデキヤの教会 15−18


本文

 今日は、コロサイ人への手紙3章18節から学び、4章まですべて読んでいきたいと思います。今日の個所のテーマは、「たゆみない祈り」です。パウロは、自分たちが、祈りとみことばのために労していること、またコロサイ人たちが、みことばと祈りに励むことを教えています。

 コロサイ書3章の前半部分について、おさらいしたいと思います。3章は、私たちが、キリストとともによみがえらされた者たちであることから、始まっています。私たちは、キリストとともに死に、そしてキリストとともによみがえった者です。古きは過ぎ去り、新しく造られた者となりました。そこでパウロは、よみがえらされた者として、どのように生きれば良いのかを、この3章をとおして話していました。

1A 思いなさい
 主に三つの勧めがありました。一つは、「思いなさい」ということです。よみがえらされたのであるから、私たちのいのちは地上にあるのではなく、天におられるキリストのうちにある、ということです。ですから、地上のことを思わないで、天にあるもの、上にあるものを求めなさいとパウロは勧めています。これがクリスチャンの主な働きであり、私たちは、伝道や奉仕よりも、キリストのことを思うこと、神との時間を取ることを第一にしなければなりません。

2A 身につけなさい
 もう一つは、「身につけなさい」という勧めがありました。私たちは、神からの新しい性質を受けたのですから、その新しい性質にそった態度を身に着けなさい、ということです。不品行や怒りなどを脱ぎ捨てて、慈愛や謙遜を身につけなさい、と勧めています。

3A 従いなさい 18−4:1
1B 家族において 18−21
 それから、三つ目の勧めは、「従いなさい」です。18節からになります。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」とあります。

 「服従する」というのは、現代の社会では人気のないものとなりました。「人権」とか「自尊心」というような言葉が使われ、自分自身が生きることが大切にされています。クリスチャンも、ともすると、「私だけでイエスさまを賛美します。人からとやかく、言われたくありません。自分だけで信仰生活をします。」という、独りよがりの考えに陥ってしまうことがあります。けれども、私たちは、互いに服従することが求められています。

 けれども、ここで、「主にある者にふさわしく」従いなさいとあるところに注目してください。妻が夫に従うのは、それは妻が夫の所有物であり、夫の奴隷であるということでは決してありません。むしろ、妻は、主ご自身の所有物であり、神のしもべでなのです。先ほども申し上げましたように、私たちは、キリストとともに死に、ともによみがえったという、キリストに結ばれた者なのです。それゆえ、主にお仕えするために、主が与えてくださった夫にも従っていきます。

 ですから、妻は、夫から自分の必要を満されることを第一目的にしてはいけないのです。そうではなく、自分はキリストに結ばれた者として、その飢え渇きを主に求め、主に満たしていただくことが必要なのです。そのことによって、初めて、主にあって、夫に従っていくことができます。

 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。

 夫が妻に対して与えられている、神からの命令は、「
愛しなさい」です。エペソ人への手紙では、夫たちが、自分のからだのように妻を愛することを勧められています。単に、自分自身のように妻を愛するのではなく、自分のからだのように愛します。私たちは、ちょっとでも気分が悪くなったら、気分が良くなるように祈ったり、薬をかったり、睡眠や食事に気を使ったりします。からだというのは、とても敏感に出来ており、私たちは自然に、からだをいたわり、養っています。同じように、夫も妻を愛していかなければいけない、ということです。

 けれども、夫はとかく、このような妻の必要を忘れてしまいます。例えば、妻が夫に話しかけます。そして、夫にとって、それは、相談をもちかけたられているかのような、悩み事に聞こえます。そこで、「ならば、こうすればよいではないか。」とアドバイスします。けれども、妻はそれでも話し続けます。そこで夫は、いらだってきます。「あなたは、ただ、ぐだぐだ話しているだけだ。もう聞きたくない!」と感じます。そして、パウロが注意している、「つらく当たる」ことをしてしまうのです。けれども、妻はたいてい、「ただ聞いてほしいから話しているのよ。」と答えます。そうなんです、自分の身に起こったことや、感じたことを、ただ聞いてほしいから夫に話しているのです。ですから、夫は、ねんごろに妻を愛さなければいけません。

 子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。

 夫婦関係の次は、親子関係です。子どもたちは、両親に「従いなさい」という命令です。妻が夫に従うときと同じように、主にあって従っていきます。「主に喜ばれることだからです」とパウロは言っています。つまり、子ども、大人と同じように、主イエス・キリストを信じることができるし、また信じなければいけないのです。

 私たちは今、英会話教室をとおして、子供たちへの伝道を行なっています。それは、カルバリーチャペルのChildren’s Ministry(子供へのミニストリー)でならったことに基づいて行なっています。私たちは、教師用のクラスを取ったのですが、そのときに、「子供は救われることができるし、また、救われなければいけない。」と教えられました。子供は、「信じる」という意思においては、大人よりもすぐれている、ということを教えられました。私たち親は、子供にしつけをしなければいけません。決まり事やルールを与えることも大事です。けれども、それで従っても不十分なのです。子供にはイエスさまが必要なのです。

 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。

 ここの「おこらせる」のもともとの意味は、「こすって、ひりひりさせる(irritate by rubbing)」というものです。そこから、「走るようにせかされて、疲れ果てる人」という使われ方をしました。「ほら、これやりなさい。」「まだ、こんなことしていないの!」「だめでしょ!」と続けざまに怒鳴られたり、急かされて、ついに子供が疲れて、そしてついに、どうすればよいか分からなくさせてしまいます。これが、ここでいう「おこらせてはいけません。」です。ですから、パウロは、「気落ちさせないためです。」と言っています。親は、一貫性をもって、子供をしつけなければいけません。そして、怒鳴るのではなく、静かに、真剣に子供に語りかける必要があります。

2B 会社において 22−4:1
 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。

 ここから、奴隷と主人の関係について書かれています。今の時代であれば、雇用関係に当てはまります。雇われている人は、雇っている人に従いなさい、というのがパウロの勧めです。ここの「従いなさい」も、「言うことに聞き従う」というギリシヤ語が使われています。

 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。

 雇われている人は、ごきげんとりのような、うわべだけの仕え方をしてしまいます。上司が見ているときには、一生懸命働きますが、見ていないときは、手を抜きます。けれども、そのような仕え方をせず、主が見ておられるのだから、主を恐れかしこみ、真心から従いなさい、と勧めています。

 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

 人に対してでなく、主に対してすることは、仕事だけではなく、教会の奉仕においても同じことが言えますね。自分がしているミニストリーは、そのミニストリーをしている人たちに仕えているのではなく、主ご自身に仕えているのです。私たちは、ときどき、奉仕をしていてつぶやきたくなるときがありますね。けれども、つぶやくときは、自分がだれに仕えているかを忘れているときです。人ではなく、主にお仕えしています。

 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不正を行なう者は、自分が行なった不正の報いを受けます。それには不公平な扱いはありません。

 仕事をしている中で、不公平な扱いを受けることがあるかもしれません。けれども、大事なことは、会社の中で働いていても、それは実は主にお仕えしているのだということです。ですから、たとえ、不公平な取り扱いを受けても、主ご自身は、あなたに報いてくださり、公平な取り扱いをしてくださいます。

 主人たちよ。あなたがたは、自分たちの主も天におられることを知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。

 今度は、雇用者に対する勧めです。自分の下で働いている者たちには、公平に取り扱いなさい、つまり賃金をきちんと払いなさい、ということであります。そして、「自分たちの主も天におられる」と書かれていることに注目してください。人の上に立つ人は、自分自身が権威の下にいることを知らなければいけません。支配されることを知っている人こそ、人を支配することができます。

1A 語ることにおいて 2−6
 こうして、家庭の中で社会の中で、服従すること、聞き従うことについての勧めがありました。今度は、ミニストリーについての勧めです。祈ること、また、みことばを語ること、また教会の外部の人たちに対する接し方についての勧めです。

1B キリストの奥義 2−4

 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。

 たゆみなく祈ることが勧められています。単に祈るのではなく、ねばり強く、執拗に祈りなさい、とパウロは勧めています。祈ることについて、私たちが間違った考えを持ってしまいがちですが、それは、神のみこころを変えるというものです。頑固親父のように、不動の神がいて、私たちが執拗に懇願して、重い腰を動かしてくれるようなイメージを持ってしまってはいけません。そうではなく、祈りとは、神のみこころに、私たちの心が調和してくるために存在します。そして、神と思いが一つになった私たちをとおして、ご自分のみわざを行なわれようとします。

 神は、私たちにご計画をもっておられます。その計画を実行されようとするときに、まず私たちにご自分の願いを置かれます。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩篇37:4」と詩篇には書かれています。そして、その願いをもって、私たちは祈ります。すると、神は、私たちをとおしてご自分のわざを行なわれます。こうして、神ご自身の願いが私たちの願いとなり、私たちの祈りをとおして、神がご自分の願っていることを実行されるのです。ですから、たゆみなく祈ることによって、私たちの心は神のお心のように変えられ、私たちの祈りのことばが、神が願っておられることに変えられていきます。神は、私たちを、ご自分の心と一つにするように導かれているのです。

 そして、この祈りを、「目をさまして、感謝をもって」行ないます。イエスさまが、ゲッセマネの園におられるとき、弟子たちに、「目をさまして、祈っていなさい」とおっしゃられました。弟子たちは、実際に眠ってしまっていたのですが、それは肉体的に目をさましているというよりも、これから起こる状況をしっかりと見つめて、祈っていなさい、ということであります。主がこれから行なわれること、また主ご自身を、じっくりと見つめながら祈りなさい、ということです。

 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。

 次にパウロは、自分のためにも祈ってほしいと、コロサイ人たちに頼んでいます。それは、主のみことばを語ることができるように語ることができるように願っています。みことばのために、「神が門を開いてくださる」とありますが、これはとても大事ですね。私たちが、自分たちで、みことばを語る機会をこじ開けるのではなく、神ご自身が開けてくださることを待ちます。私たちのミニストリーはすべて、神ご自身が導き、門を開き、また閉じることによって前進します。

 それから、「キリストの奥義」とありますが、これは、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」とコロサイ1章27節にあります。パウロは、キリストが神の栄光の完全な現われであることを、解き明かしました。御子はすべて造られた者の先におられる方であり、御子によって万物が造られ、御子のために万物が造られました。万物は、キリストによって神と和解させられました。また、キリストのうちに、すべての知恵と知識の宝が隠されており、キリストはすべての支配と権威のかしらです。このキリストが、私たちのうちに生きておられることを、彼は教えていたのでした。

 このようにキリストは栄光に富んだ方ですが、この方をありのままに伝えることは、とても難しいです。私たちは、自分たちのことを語るのは簡単です。「証し」という名のもとで、自分のことや他人のことを語ることがたくさんあります。また、教会のことについて、社会のことについて語るのも簡単です。けれども、キリストご自身とその栄光を語るのは、多くの祈りと知恵を必要とします。

2B 外部に対する機会 5−6
 そして、知恵は、信者に対してだけではなく、未信者に対しても必要です。次をごらんください。

 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。

 ここの「外部の人」とは、教会外の人たち、未信者の人たちのことです。私たちは知恵をもって、周囲にいる人々に接していかなければいけません。そして「機会を十分に生かして用いなさい」とパウロは言っています。ここで話していることは、ひっきりなしに伝道をしなさい、ということではありません。量よりも質です。適切な時に、適切な言葉をもって、伝道しなさい、証しをしなさい、ということです。

 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。

 日本語のことばの「親切で」というのは、「恵みによって」と言い換えることができます。あなたのことばが、恵みによって、塩味のきいたものであるようにしなさい、という勧めであります。私たちの言葉は、人を励まし、徳を高めることもできますが、人をさばき、突き刺すこともできます。ですから、どのような言葉を語り、どのような言い方をすればよいのか考えなければいけないのですが、そのときに必要なのが神の恵みです。自分自身が神の恵みの中にいるでしょうか。自分の行ないによって神さまと結びつこうとしているときは、必ず、話すときに人を突き刺す話し方をしているでしょう。けれども、自分自身が恵みの中にいるときに、適切な言葉を語ることができるでしょう。

2A あいさつの中で 7−18
 そしてパウロは、あいさつに入ります。時間が押し迫ってきたので、かいつまんで話していきたいと思います。

1B 忠実な愛する兄弟 7−9
 私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。

 パウロは7節から、自分とともに働いている同労者について書いています。初めにテキコと、ともにコロサイの町に行くオネシモについて話しています。ここで二人についてパウロが、「忠実な愛する兄弟」と言っていることに注目してください。ミニストリーをするときに必要なのは、この忠実さと愛です。どのような小さな事にも、主から任されたことを忠実に行なうことが、まことの奉仕です。そして、ともに働いている人たちが互いに愛し合っていることも大事です。同じことを労している中で与えられるところの愛は、本当に貴いものであります。

2B 同労者 10−15
1C ユダヤ人の友 10−11
 私といっしょに囚人となっているアリスタルコが、あなたがたによろしくと言っています。バルナバのいとこであるマルコも同じです。・・この人については、もし彼があなたがたのところに行ったなら、歓迎するようにという指示をあなたがたは受けています。・・ユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています。割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です。また、彼らは私を激励する者となってくれました。

 以上の人々はみな、ユダヤ人です。アリスタルコも、マルコも、またユストと呼ばれるイエスもみなユダヤ人であり、彼らが数少ない、パウロのユダヤ人の同労者でした。

2C 異邦人の友 12−14
 あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。

 エパフラスとルカ、デマスは、おそらくみな異邦人でしょう。エペフラスは、コロサイの教会の人であり、もしかしたら彼らの牧師であるかもしれません。そして、ルカは病の多いパウロとともにいた医者でした。

3B ラオデキヤの教会 15−18
 そして次にラオデキヤの教会に対する、パウロの指導が書かれています。

 どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回ってくる手紙を読んでください。アルキポに、「主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。」と言ってください。

 ラオデキヤは、コロサイのすぐ東にある町でした。そこでも手紙を読まれるように、とパウロは指導しています。私たちも、このように使徒の手紙を読んでいますが、みことばの学びはとても大切です。そして、アルキポという人物がいますが、おそらく彼は、執事であったであろうと思われます。主にあって受けた務めを、しっかりと果たすように、つまり忠実であるようにという勧めです。

 パウロが自筆であいさつを送ります。私が牢につながれていることを覚えていてください。どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。

 ここだけはパウロの自筆になっています。もしかしたら、ガラテヤ書と同じように、大きな文字で書かれていたかもしれません。あまり目が見えなかったようですから。そして、牢につながれていることを忘れずないでください、とお願いしています。

 こうしてコロサイ書の学びが終わりました。コロサイ人は、パウロの神への感謝の祈りから始まりましたが、終わりも、たえまない祈り、お互いのための祈りで終わっています。これが、教会の力であり、命です。そして次回は、キリストの再臨がテーマとなっている、テサロニケ人への手紙に入ります。