アウトライン
1A 三位一体の神への賛美 1−14
1B 父なる神 1−6
1C あいさつ 1−2
2C 天的祝福 3−6
1D 選び 3−4
2D 予定 5
3D 子なる身分 5−6
2B 子なるキリスト 7−12
1C 贖い 7
2C みこころの奥義 8−10
3C 御国の相続 11
3B 聖霊 13−14
2A 神を知るための祈り 15−23
1B 私たちに働く神 15−19
1C 神の召し 15−18
2C 神の全能の力 19
2B キリストに働かれた神 20−23
1C 死から昇天 20−21
2C 教会のかしら 22−23
本文
エペソ人への手紙1章をお開きください。私たちは前回、「キリストにある霊的祝福」というテーマで、1章を学びました。時間の関係で12節までしか進みませんでしたが、今日は、その続きを学びます。そこで再び、メッセージ題は、「キリストにある霊的祝福」であります。
1A 三位一体の神への賛美 1−14
前回までのおさらいをしたいと思います。エペソ人への手紙は、1章3節にあることばでまとめることができます。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」というものです。天にあるすべての霊的祝福が、キリストのうちに隠されています。私たちは、キリストのうちにいる者であり、それゆえ、あらゆる霊的祝福が与えられています。
そしてパウロは、この1章を賛美によって始めました。「私たちの父なる神がほめたたえられますように。」と言っています。この賛美はいつまでも続き、14節にまで至っています。ギリシヤ語においては一文になっています。パウロは、この霊的な祝福と富のことを考えると、心から湧き出る賛美をやめることができなかったようです。
3節から6節までは、父なる神による霊的祝福について書いてありました。父なる神の祝福は、一言でいうと、「あらかじめ定められた」というお働きです。私たちが神を選んで、神に受け入れられたのではなく、神が私たちをキリストにあって選び、ご自分の子にするように定められたのです。このことは私たちに、深い安心を与えます。もはや自分が救われているのか、救われていないのかを心配することはありません。と同時に、神が選んでくださったという真理は、キリストを中心とした生き方をしなければならないということであります。私たちが選んで、主にしたがっているのであれば、主が言われることの良いところだけを都合に合わせて受け入れればよいのですが、主が選ばれたのですから、主がおっしゃられるすべてのことを受け入れていくことになります。
そして6節には、「私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」とあります。ここまでが父なる神についての賛美です。7節からは御子なるキリストについての賛美です。父なる神が、あらかじめお定めになることがお働きであるならば、御子はその計画を実行される働きをなさっています。それは、「贖い」と呼ばれます。私たちが神に選ばれた者であっても、実際は神から離れ、罪と死と悪魔に売り渡された者でした。しかし、キリストがこの世に来てくださり、失われた私たちを探し出し、私たちを見つけ、そして、神のみもとに連れ出してくださいました。そのときに、ご自分の血という代価を支払って、私たちを買い取ってくださったのです。神にとって、私たちがどれほど、高価で尊いかは、キリストの流された血を見れば明らかなのです。
そして、この贖いによって、キリストのもとにすべてのものが一つに集められる働きがあります。キリストが王の王、主の主となり、万物を支配される時が来ることを、パウロは話しています。そしてこのキリストの御国を私たちが受け継ぐこととなります。
3B 聖霊 13−14
12節をごらんください。「前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」ここまでが、キリストについての賛美でありました。そして次に、聖霊についての賛美に入ります。このようにパウロの口から、三つにして一つなる神への賛美が発せられています。
またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。
私たちは、父なる神の働きと子なるキリストの働きについては、よく聞きますが、聖霊なる神の働きについては、あまり聞きません。そのため、日本における教会では、聖霊についてのさまざまな誤解があります。ご聖霊の働きを、感情的な高揚と同一視したり、超自然的な現象があるとそれは聖霊がなさっていることであると話します。もちろん、これらは聖霊がもたらしてくださる働きの一部ではあるのですが、主要な働きではありません。そして、もう一つの誤解は、このような感情的、神秘的な動きに対する反動として、聖霊の働きそのものについて敏感になり、否定的になることであります。「聖書信仰」とか「みことば」ということを強調しますが、その中で信仰ではなく律法の行ないに傾いていることが多々あります。私たちがこれまでずっと学んできましたように、御霊によって導かれるということは、信仰によって生きることと同義語なのです。御霊の働きをないがしろにしたら、自ずとその歩みは行ないに傾くのです。
ということで、私たちは、聖書に聞いて、ご聖霊がどのような働きをなさっているのかを、心の中にしっかりと浸透させる必要があります。
パウロがここで賛美しているご聖霊の働きは、一言でいうと、「証印」であります。私たちが、キリストにあって、真理のことば、救いの福音を聞き、それを信じたら、聖霊によって証印を押されます、とパウロは言っています。「証印」というのは、かつて、貿易の貨物がだれのものであるかを明らかにするためのスタンプでありました。昔は、今のように紙のラベルに印刷するのではなく、蝋(ろう)があって、自分の指輪の印を、まだ柔らかい蝋に押しつけました。それが固まったのが証印であるわけです。
この手紙を読んでいるのは、エペソにいる信徒たちでした。エペソは、当時、貿易中継都市としてもっとも栄えた都市の一つでした。東の国々から、世界の中心地であるローマに対して数多くの貨物が輸送されました。そのエペソにおいて、貿易商人たちは、自分たちが売るための商品を梱包して、それから、今話しました「証印」を押しました。これが自分たちのものであることを、こうして証明したのです。積荷された船は次に、コリントの町を通って、イタリヤのポテオリという港町に行きます。ポテオリからローマは近くにあり、この港からローマじゅうに製品がポテオリで積荷は降ろされますが、そのときに、どの荷物がだれのものか証印によって判断するのです。貿易商人は使いを送って、自分の荷物を探させます。その使いは、「あった、あった!」と言って、主人の指輪の証印と、ろうそくに型どられた印の跡と照合した荷物を持ってくるのです。
パウロは、エペソにいる人たちがよく知っている、この出来事を用いて、神の贖いのご計画について説明しているのです。私たちは、この貿易商人の商品であります。貿易商人、つまり所有者は神でありキリストです。私たちが、救いの福音を聞いて、信じたときに、神は私たちに、私たちがキリストのものであることの証印を押してくださったのです。それは、目に見える証印ではありません。神の聖霊ご自身が、証印となってくださっているのです。
これはとてつもない霊的祝福です。私たちは、まだすべてのものが贖われているのを見ていません。私たちのからだは、相変わらずアダムから引き継いだところの罪を宿しているし、この世界もまだキリストの支配に従っていません。キリストの血によって、すべてのものは神の支配下にあるのですが、すべての者が神に従っているわけではないのです。ダビデが油注がれて、王となったのにもかかわらず、サウルがしばらくの間、王位に着いていました。同じように、キリストは今、神の右の座に着いておられるのに、悪魔は不法に、自分の王座をこの世に置いています。しかし、すべてのものがキリストの足下に来る日が来るのです。まず、私たちのからだが変えられて、キリストに似た者になる時が来ます。そして万物が変えられて、すべてのものが、自然も、国も、経済も、政治も、文化も、教育も、家族関係も、すべてがキリストに服従する時が来ます。したがって、神は、すべてのものをご自分のものにしておられますが、その所有権をまだ行使されていないのです。
その間、私たちも、また被造物も、自分たちが贖われるのをうめいて、待っているような状態にいるのです。しかし、私たちには、その道程にともにおられて、助け、慰めてくださる方がおられるのです。その方がパレクレトス、聖霊であります。創世記の学びをおぼえおられますか、アブラハムのしもべエリエゼルは、イサクの妻になる人を探しに行きました。リベカがいました。リベカは、エリエゼルの言い寄りに従い、彼とともにイサクのところに行くことを決めました。そこからイサクが住んでいるところまでは、かなり長い道のりです。しかし、その道すがら、エリエゼルはリベカに花婿イサクのことを話したことでしょう。彼がどのような人であるか、彼が父からどれほどの財産を受けているのかなどを話し、さまざまな言葉で彼女を励まし、慰め、助け、イサクに目を向けさせたはずです。これがご聖霊の働きなのです。聖霊は、この暗き世において、私たちを慰めてくださいます。キリストの栄光を知らせてくださり、私たちが苦しみの中にいても、希望を持つことができるようにしてくださっているのです。
私たちはちょうど、証印を押されて、ポテオリに向かっている貨物のようであります。まだ所有者のものとなっていません。しかし、証印があるので、確かに所有者の手の中に入ります。その時が待ち遠しいです。所有者が、「これはわたしのものだ。」と言ってご自分のものとされる時が近いのです。このように、ご聖霊は、私たちが神の子どもであり、キリストによって贖われていることを確認してくださるのです。
それでは次の節に行きます。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。
ここの「保証」というのは、「手付け金」とか「頭金」と訳すことができます。高い買物をするとき、自分が必ずそれを購入することを確かにするために、手付け金を払いますね。例えば家やマンションを買うときは、売主と買主の間で契約を結びます。そのときには、買主は購入代金の一部を売主に払います。それは、買主が、他の良い物件が見つけて、それに乗り移ってほしくないからです。買主が買うと言っているので、その間、他の人には売らないようにしておきます。けれども、途中で気が変わって、契約をキャンセルしたら、その間に本当は他の人が買ったかもしれないその機会を失ってしまいます。ですから、手付け金を受け取って、確かに買主が購入を完了させる保証としているのです。
そして、パウロは、聖霊が、この手付け金であると言っています。神が私たちを贖ってくださるのですが、本当に贖ってくださることを保証するために、その祝福の一部を、私たちに与えてくださったのです。私たちが今得ているのは、神が与えてくださるところの祝福のごく一部です。ご聖霊によって、私たちに平安が与えられ、キリストの愛によって満たされ、言葉で言い表すことのできないほどの喜びに満たされ、私たちは、ああ、なんと祝福されているのであろうかと思います。けれども、それは頭金でしかないのです。天における祝福のほんの少しなのです。ですから、神の御国がいかに栄光に富んでいるものであるかを、知ることができるのでしょう。
2A 神を知るための祈り 15−23
こうしてパウロは、三位一体の神への賛美を終えました。その賛美には、父なる神による予定、キリストによる贖い、そして聖霊による証印の働きが述べられていました。そしてパウロは、この霊的祝福を、どうか私たち聖徒が悟ることができるように、と祈りはじめます。
1B 私たちに働く神 15−19
1C 神の召し 15−18
こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。
パウロはここから再び長い祈りを始めます。この節から1章の最後までがギリシヤ語では一文になっています。パウロの賛美は心から湧き出るものでしたが、それだけ聖徒たちへの祈りにも熱がこもっていました。
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
パウロの一つ目の祈りは、神を知ることができるように、というものです。神ご自身を知りさえすれば、私たちの歩みは確かなものとなります。私たちクリスチャンの問題は、神ご自身を知ることを目的にするよりも、自分の行なっていることに注目してしまうことです。良いことにしても、悪いことにしても、自分が何をしたか、しなかったか、周りの人たちが何をしたか、しなかったかについて考えています。祈りの中でも、自分のことや人のことが中心になっています。聖書を読むときでも、神についての事柄ではなく、「何々をしなさい」という命令とか、「このようなことが起こります」という約束が目に付き、神に対して目が届きません。しかし、命令や約束、勧めなどはもちろん、クリスチャンにとって大事なものです。けれども、もっともっと大事なことは、神ご自身を見つめることなのです。イエスさまが、死に渡される前に、このように父なる神に祈られました。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)」永遠のいのちとは、まさに父なる神と、イエス・キリストを知ることそのものなのです。この過程そのものが、永遠のいのちなのです。したがって、私たちが神を知ることが最重要課題であることが分かると思います。
ただ、神を知ることは私たち自身ではできないのです。私たちの知性では、神を計り知ることはできません。そこでパウロは、「知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈っているのです。私たちは聖書の学びをしますが、それは知的な作業であるというよりも、霊的な作業なのです。聖霊の特別な照明がなければ、私たちは決して神を知ることはできません。ですから、私たちは、この聖霊ご自身が自分に神を啓示してくださるように祈らなければいけません。
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
神の召しというのは、私たちがよく用いるような言葉とは異なります。キリスト教会では、牧師になるには神の召しが必要であるということがよく語られます。確かにパウロが、「使徒として召されたパウロから(ローマ1:1)」と言っているように、主の奉仕者として召されたことを話しているように、召命でありましょう。けれども、他にも、「平和を得るために召されたのです」とか、いろいろに使われているので、牧師として召されているだけにとどまりません。そして、パウロや他の使徒たちの手紙の中では、私たちが救われるときに、「召される」と使っていることが最も多いです。ローマ書8章には、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(30節)」とあります。つまり、私たちが神の家族の中に招かれた、召されたということです。
そして、この救いにあずかった者たちが、どのような望みを持っているかと言いますと、例えば、キリストにあって、聖い者、傷のない者として父なる神の前に立つこと、キリストと同じかたちに変えられることなどです。このような望みを持っているので、私たちの一時的な苦しみは取るに足りないとパウロは、同じくローマ8章で話しています。
そして、「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか」とありますが、私たちは豊かな恵みだけを受けているのではなく、豊かな栄光も受けています。7節には、キリストの流された血によって罪の赦しを得ているが、それは豊かな恵みによることです、とあります。けれども、それだけがクリスチャン生活であると思うのであれば、それは間違いです。私たち聖徒が受け継ぐものを見ていかなければいけません。それがいかに栄光に富んだものかを私たちがどれだけ考えたことがあるでしょうか?このことについて、もっともっと、目が開かれなければいけないとパウロは言っています。
2C 神の全能の力 19
そして、パウロは、私たちのうちに働く力について話し始めます。また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
私たちが信じているのは全能なる神です。「人にはできないことですが、神にはできるのです。」というイエスさまのことばどおりに、神にはできないことは何もありません。この力がいかに偉大であるかを知ってほしいと、パウロは願っています。
そしてパウロは、この力が信じる私たちのうちに働くと言っているのです。他のものに働くことを私たちは容易に信じることができます。けれども、自分自身に働くことをなかなか信じることはできません。しかし、神が意図されているのは、ご自分の全能の力を、ご自分を信じる者たちに働かせることなのです。
2B キリストに働かれた神 20−23
けれども、全能の神と言っても、私たちが願うままに事を行なわれる、ということではありません。神には法則があります。その法則に反して事を行なわれることはありません。また契約があります。その契約に反して全能の力を働かせることはありません。そして、神は一定の法則や契約のもとで、その全能の力を働かせます。そして、神は、私たち信者に対して働かせている力は、キリストをよみがえらせたところの復活の力であります。
1C 死から昇天 20−21
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
私は昔、19節の言葉を呼んで、神の全能を信じていろいろなことを祈ってみたり、願ったりしました。けれども、そのとおりにならないことが多かったです。それは、今話しましたように、一定の法則や契約があるからでありますが、また、もう一つ、神の全能の力は、キリスト者には復活に現われるということを知らなかったからです。
復活があるということは、死があるということです。死んでいなければ、よみがえることはできません。したがって、神の全能の力を知るためには、まず自分が死ななければならない、ということであります。イエスさまがこの地上におられ、十字架への道を歩まれていたときに、ご自分の全能の力をお用いになったでしょうか。いいえ、イエスはあえてその力を用いられず、兵士には殴られ、平手で打れたままにされていました。偽りの告発を受けたままにされていました。「神の子なら、自分自身を救え」というののしりの声も、聞くままにされていました。十字架の木の上ではりつけにされたままにされておられたのです。そして死なれました。この死があって、そして三日目によみがえられました。このキリストにつながれた者が私たちなのです。
つまり、私たちもキリストの死を身にまとっているということです。神の全能の力が自分のうちに働くことを信じて祈っても、その祈りが聞かれないのはそのためだったのです。自分を生かすため、自分の欲を満たすためには、全能の力は働かないのです。むしろ、死ぬところに働きます。パウロは、人一倍、迫害を受け、苦難にあい、死に面し、あざけりを受けました。しかし、彼は、それでも窮せず、倒れず、行きづまることはなく、死の危険も免れた、と言っています。ここに復活の力が働きます。神は、キリストをよみがえらせたところのその力を、私たちに付与してくださっているのです。
よく考えると、復活ほど、全能の力を現わしているものはありませんね。紅海が分かれることも、太陽が動かないで天にとどまることも、数々の奇蹟や不思議も、神の全能を現わしています。しかし、どのような力も死に打ち勝つことはできませんでした。被造物が滅びに向かうという法則に打ち勝つ事はできませんでした。しかし、神はご自分が全能の方であることを現わされるため、キリストを死者の中からよみがえらせたのです。私たちも、この力に期待しましょう。さまざまな奇蹟、いやしを信じることはすばらしいことです。しかし、自分がキリストの死にあやかり、そして復活の姿にあやかることほど、神の全能の力の偉大さを知ることはないのです。
この復活につづいて、神の全能の力は、キリストを昇天させるところにも現われました。「天上においてご自分の右の座に着かせて」とあります。天に引き上げられるという物理的な力もそうですが、神ご自身の御座にまで引き上げる力であります。これも、実はキリスト者に働いている力です。それは2章で詳しく見ます。
そして、「すべての支配、権威、権力、主権の上に」とありますね。これは、天使の階級を表しています。神に仕える天使もいれば、神に反逆する天使たちもいます。これらの天使よりも、さらに高いところにキリストは着座されました。さらに、キリストは、「すべての名」にまさる名を与えられました。つまり、すべての権能と権力をもっておられ、万物のかしらとなられたということです。
2C 教会のかしら 22−23
そして祈りの最後に、パウロは、教会について語ります。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
この祈りの中にある最後の霊的祝福も偉大であります。万物の上にいますキリストが、教会という存在によって、この世界に現われることをお決めになったことです。そしてご自分をかしらとし、教会をからだとするような、切っても切り離せない、神秘的なかたちでご自分を証ししようとされていることです。これがもし、キリストが社長で、そして、部下に任せて仕事をさせる、というのであれば何となく理解できるかもしれません。しかし、そうではなく、教会をからだとしご自分をかしらとして、ひとりの人のように動くことをお決めになられたのです。頭だけあって、だれも生きていくことはできませんね。からだがなければだめです。キリストは万物の主であるにも関わらず、教会のような弱い存在といっしょになられ、教会といっしょになってしまわれました。そして、その教会によって、すべての名よりもまさるご自分の御名を世界に知らしめようとされたのです。
教会という日本語の訳は良くないと思います。宣教師たちが日本人に聖書を教えているところから、「教える会」=教会と名づけられたのでしょうが、そのような教えをこうようなところが教会ではありません。教会のギリシヤ語はエクレシアであり、「呼び出された者」「召された者」という意味です。この世から神に召し出された者たちが集まるのが、教会であります。したがって、先ほどの「神の召しの望み」というものを持っていることが前提となっているのです。
私たちが教会を教会たらしめるためには、それぞれが「神の召しの望み」が何であるかを知らなければいけません。そして、ここまで読んできたキリストにある天の霊的祝福を知らなければいけません。この恵みと栄光を知り、そして集まるときに、私たちは初めて、エクレシアの醍醐味を知ることができるのです。