聖霊シリーズ 2001/04/10
証印なる聖霊
「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:13-14)」
パウロが始めた三位一体の神への賛美は、今、聖霊へと向かっています。3節から6節までが「父なる神」についてのみわざについて、7節から12節までが御子なるキリストについて賛美されていました。13節と14節は、聖霊のみわざについて賛美がささげられています。
私たちは、父なる神の働きと子なるキリストの働きについては、よく聞きますが、聖霊なる神の働きについては、あまり聞きません。そのため、キリスト教会では、聖霊についてのさまざまな誤解があります。一つは、ご聖霊の働きを、感情的な高揚や超自然的な現象と同一視することです。確かに、そのようなことをご聖霊はなさるでしょう。使徒行伝の1章8節には、イエスさまが弟子たちに、「あなたがたの上に、聖霊が臨まれる」と約束なさいました。私たちが、世に対してイエスの証人となるために、聖霊は私たちを力づけ、大胆さを与え、また、しるしを与えられます。しかし、これはご聖霊の主要な働きではありません。
そして、もう一つの誤解は、感情的、神秘的な動きに対する反動として、聖霊の働きそのものについて敏感になり、否定的になることです。「聖書信仰」とか「みことば」ということを強調しますが、その中で信仰ではなく律法の行ないに傾いていることが多々あります。使徒たちの手紙で一貫していることは、御霊によって導かれることは、信仰によって生きることと同義語になっていることです。御霊の働きなくして、信仰によって歩むことはできません。御霊の働きを過小評価すると、その歩みは自ずと、恵みから離れて行ないに傾いていきます。
そこで、私たちは、聖書に聞いて、ご聖霊がどのような働きをなさっているのかを、心の中にしっかりと浸透させる必要があります。
ここで賛美されている聖霊のみわざは、一言でいうと、「証印」であります。私たちが、キリストにあって、真理のことば、救いの福音を聞き、それを信じたら、聖霊によって証印を押されます。「証印」というのは、かつて、貿易の貨物がだれのものであるかを明らかにするためのスタンプでありました。昔は、今のように紙のラベルに印刷するのではなく、蝋(ろう)があって、自分の指輪の印を、まだ柔らかい蝋に押しつけました。それが固まったのが証印であるわけです。
この手紙を読んでいるのは、エペソにいる信徒たちでした。エペソは、当時、貿易中継都市としてもっとも栄えた都市の一つでした。東の国々から、世界の中心地であるローマに対して数多くの貨物が輸送されました。そのエペソにおいて、貿易商人たちは、自分たちが売るための商品を梱包して、それから、この「証印」を押しました。これが自分たちのものであることを、こうして証明したのです。積荷された船は次に、コリントの町を通って、イタリヤのポテオリという港町に行きます。ポテオリからローマは近くにあり、この港からローマじゅうに商品に配送されます。ですから、ポテオリで積荷は降ろされますが、そのときに、どの荷物がだれのものか証印によって判断するのです。貿易商人は使いを送って、自分の荷物を探させます。その使いは、「あった、あった!」と言って、主人の指輪の証印と、ろうそくに型どられた印の跡と照合した荷物を持ってくるのです。
聖霊と神の贖い
パウロは、エペソにいる人たちがよく知っている、この出来事を用いて、神の贖いのご計画について説明しているのです。私たちは、この貿易商人の商品であります。貿易商人、つまり所有者は神でありキリストです。私たちが、救いの福音を聞いて、信じたときに、神は私たちに、私たちがキリストのものであることの証印を押してくださったのです。それは、目に見える証印ではありません。神の聖霊ご自身が、証印となってくださっているのです。
聖霊が、神の贖いのための証印であられるということは、とてつもない霊的祝福です。私たちは救われていますが、まだすべてのものが贖われているのを見ていません。私たちのからだは、相変わらずアダムから引き継いだところの罪を宿しているし、世界は、まだキリストの支配に従っていません。すでに、キリストの血によって、すべてのものは神の所有になっているのですが、だからといって神に従っているわけではないのです。
これは、ちょうど、ダビデが油注がれて、王となったのにもかかわらず、サウルがしばらくの間、王位に着いていたのと同じです。サウルは、神への不従順のため王位から退けられ、代わりに神は、ダビデに油を注ぐようサムエルに命じました(Tサムエル9章)。しかし、ダビデは実際に王となられたわけではなく、むしろ、サウルにいのちを狙われる逃亡生活を送りました。サウルがペリシテ人の前で倒れてからも、なおしばらくの間、王としてイスラエル国を統治するまで、戦いがつづきました。
同じように、キリストは今、神の右の座に着いておらるのに、悪魔は不法に、自分の王座をこの世に置いています。しかし、すべてのものがキリストの足の下に来る日が来るのです。最初に、私たちのからだが変えられて、キリストに似た者になる時が来ます。そして万物が変えられて、すべてのものが、自然も、国も、経済も、政治も、文化も、教育も、家族関係も、すべてのものがキリストに服従する時が来ます。したがって、神は、すべてのものをご自分のものにしておられますが、その所有権をまだ行使されていないのです。
その間、私たちも、また被造物も、自分たちが贖われるのをうめいて、待っているような状態にいるのです(ローマ8:18−25)。しかし、私たちには、その道程にともにおられて、助け、慰めてくださる方がおられるのです。その方がパレクレトス、聖霊であります。
創世記での話しを思い出してください。アブラハムのしもべエリエゼルは、イサクの妻になる人を探しに行きました。リベカがいました。リベカは、エリエゼルの言い寄りに従い、彼とともにイサクのところに行くことを決めました。そこからイサクが住んでいるところまでは、かなり長い道のりです。しかし、その道すがら、エリエゼルはリベカに花婿イサクのことを話したことでしょう。彼がどのような人であるか、彼が父からどれほどの財産を受けているのかなどを話し、さまざまな言葉で彼女を励まし、慰め、助け、イサクに目を向けさせたはずです。
これがご聖霊の働きなのです。聖霊は、この暗き世において、私たちを慰めてくださいます。キリストの栄光を知らせてくださり、私たちが苦しみの中にいても、希望を持つことができるようにしてくださっているのです。
私たちはちょうど、証印を押されて、ポテオリに向かっている貨物のようであります。まだ所有者のものとなっていません。しかし、証印があるので、確かに所有者の手の中に入ります。その時が待ち遠しいです。所有者が、「これはわたしのものだ。」と言われる時が近いのです。このように、ご聖霊は、私たちが神の子どもであり、キリストによって贖われていることを確認してくださるのです。
手付け金なる聖霊
パウロは、聖霊の証印としての働きについて説明したあと、これに関連して聖霊の確認のみわざを紹介しています。
「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1:5)」
ここの「保証」というのは、「手付け金」とか「頭金」と訳すことができます。高い買物をするとき、自分が必ずそれを購入することを確かにするために、手付け金を払いますね。例えば家やマンションを購入するとき、売主と買主の間で契約を結びます。そのときに、買主は購入代金の一部を売主に払います。それは、買主が、他の良い物件が見つけて、それに乗り移らないようにするためです。そして、物件の引き渡し日に、購入代金の残りをすべて支払って、売買を完了させます。
買主が、前もって購入代金の一部を売主に支払うのは、買主の購入意志が真剣であることを示すためです。(そのため、英語では、頭金を“earnest
money”、つまり、「真剣な金」と言います。)買主は、いろいろな物件を探しています。そして、良い物件が見つかったので、これを購入すると売主に申し出ます。けれども、高価な買物なので、その場で現金交換はできません。けれども、購入したいので、売主に、「この物件を私のためにとっておいてください。他の人に売らないでください。」と頼むとします。けれども、売主は、物件を一定の期間売らないことにともなう、リスクを背負わなければいけないのです。その期間、もしかしたら売ることができたかもしれないのに、その一人の人のために売らないようにしておかなければいけません。買主の前に、さらに良い物件が見つかり、自分の物件の購入をキャンセルするかもしれないのです。そこで、前もって、双方の間に売買契約を結ぶのです。その契約時に、購入金額の一部を買主が売主に支払います。
買主が買うと言っているので、その間、他の人には売らないようにしておきます。けれども、途中で気が変わって、契約をキャンセルしたら、その間に本当は他の人が買ったかもしれないその機会を失ってしまいます。ですから、手付け金を受け取って、確かに買主が購入を完了させる保証としているのです。
そして、パウロは、聖霊が、この手付け金であると言っています。神は、私たちを贖ってくださるその意図が、本当であり真剣であることを示すために、聖霊を与えてくださいました。聖霊は、やがて来る神の国にある霊的祝福の、ごく一部のであられます。私たちは、御霊によって新たにうまれ、その救いにある豊かな恵みに良くしています。言葉に言い表すことのできないほどの喜び、理解を超えたところにある平安、そして、計り知ることのできない神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを知っています。しかし、これらは、後に来る栄光の、ごくごく一部でしかないのです。手付け金にしかすぎないのです!神が、購入を完了されるときが来ます。この購入が本当であることを私たちに示してくださるために、その祝福の一部を今、私たちに楽しませてあげるようにしてくださっているのです。
なんとすばらしいことでしょうか!私たちには、とてつもない、爆発的な栄光が待っています。そして、それが必ず訪れることを示すために、神はわざわざ、聖霊を下さったのです。聖霊の愛に浴しつづけてください。そして、ますますキリストの栄光をじっくりと見てください。来る神の御国に思いを馳せてください。これがまさに、神が私たちクリスチャンに望んでおられることなのです。
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