黒い背景の前に輝くダイアモンド 2001/04/25
先々週になってしまいますが、エペソ書2章を学びました。
1章においては、キリストにある神の霊的祝福が、どのようなかたちで与えられているかが列挙されていました。そして、2章では、この祝福がいかにすばらしいものであるかを、過去における私たちの姿を描き出すことによって、パウロは示しています。
ある聖書教師は、これを「黒い背景の前に輝くダイヤモンド」と表現しました。クリスチャンであることがいかにすばらしいかをダイヤモンドで現わし、さらに、黒い背景によって際立たせる、ということです。
その黒い背景の一つ目は、私たちが死んでいたことです。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(1-3)」
私たちが死んでいるというのは、私たちの可能性、能力、生きがいなどがすべて否定されているということです。イエスさまは、「自分のいのちを救おうとする者は、それを失い、わたしのためにいのちを失うものは、それを救うのです。」と言われましたが、人はみな、何とかして自分を救おうとしながら生きています。しかし、それらは失われてしまいます。
そして、パウロは特定して、「罪過と罪との中に死んでいた」と言っています。罪過は、与えられたルールに違反すること、神のおきてを破ることです。罪とは、もともと「的をはずす」という意味で、神に背を向けた生活をしているということです。これらの中にあって死んでいます。
このような状態にいると、その人は、この世の流れに従っている、とパウロは言っています。ある人が、子どものとき、母からこう教えられたそうです。「生きている魚だけが、流れに逆らって川を上ることができる。」人は死んでいるとき、この世の制度の中でただ翻弄されているだけになっています。
そしてさらに悪いことに、私たちは、悪魔と悪霊の中に生き、従っていました。人は自分のことは自分で決める、自分を信じて自分の人生を切り開く、と言いますが、実は悪魔の奴隷になっているというのが真理なのです。他の個所にも、「神の奴隷であるか、罪の奴隷であるかのどちらかである。」と書いてありますが、その通りであります。
そして、肉の欲の中に生きて、肉と思いの望むままを行なっていたとパウロが言っていますが、肉の望みとは、好色などの肉体の欲求に関わること、思いの望みというのは、高慢や妬みなど心に関わることです。生理的欲求、心理的欲求、社会的欲求そのものは、神から与えられた賜物ですが、しかし、これがバランスを崩したり、行き過ぎたりすると、聖書で言う「情欲」になります。
そしてついに、「御怒りを受ける」という結末に至ります。死んだ後に、神からさばきを受けます。
…・最悪の状態です。しかし、4節には、「しかし、神は」と言う言葉から始まりますね。ここからがダイアモンドの個所です。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:4−6)」
死んでいた私たちに対して、神は生かす御業を行なってくださいました。御霊によって新しく生まれさせてくださいました。けれども、それだけではありません。イエスさまは神の右の座に着いておられますが、ともに天の所にすわらせてくださっているのです!私たちは、今、この地上にいるのですが、天におられるキリストの中にいるのです。私たちはすでに天に属している者とさせられているのです。
これは、ものすごいことです。私たちは、この地上にいながらして、天、しかも神の御座と直結しているのです!私たちの祈りは、直接、キリストによって父なる神に聞き届けられます。
「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」
ここの文の意味は、一言でいうと、「イエスさまの恵みが啓示されるのは、永遠という時間を費やす」ということです。この一生涯においても、また死後のいのちにおいても、恵みは語り尽きることはないのです!ああ、天国はなんと楽しいところでしょうか!また、この地上の生活も、イエスさまをますます知ることにより、信じたときよりも、さらに神さまとの新鮮な交わりをすることができるのです!
私たちは、死と地獄いうどん底から、天にまで引き上げられるという恵みにあずかりみました。そして、パウロは、また別の側面の恵みについて、2章後半で話しています。
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