エペソ人への手紙3章 「聖徒たちへの願いと祈り」


アウトライン

1A キリストの奥義 1−13
   1B 恵みの務め 1−7
      1C 啓示によって 1−5
      2C ともにあずかる者 6−7
   2B 世々隠されていた知恵 8−13
2A 神の満ち満ちたさま 14−21
   1B キリストの愛 14−19
   2B 豊かに施す方 20−21


本文

 エペソ人への手紙3章を開いてください。ここでのテーマは、「聖徒たちへの願いと祈り」です。

 エペソ人への手紙のテーマは、「キリストにある霊的祝福」です。1章3節に、「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と話していますが、私たちがキリストのうちにいることが、いかにすぐれて偉大なことなのか。祝福に満ち、栄光に富んでいることなのかを学んでいます。

 1章においては、この霊的祝福が具体的に描かれていました。父なる神のからの祝福、子なるキリストによる祝福、そして聖霊の祝福です。それから2章において、この祝福を受ける前、私たちがどのような状態にいたのかを描いています。罪の中に死んでおり、神の御怒りを受けるべき子らでした。また、キリストから遠く離れ、イスラエルに与えられた約束の契約からは他国人と呼ばれる者でした。しかし、今は、キリストとともに生かされ、キリストにあって天のところに座らせていただいています。また、キリストに近い者とされ、神の民とさせられ、神の家族の中に入れられました。

1A キリストの奥義 1−13
 そして3章に入ります。パウロは、このような霊的祝福は、実は、これまでだれの手によっても明らかにされていなかった奥義、あるいは秘められた計画であることを告げます。神が永遠の昔から計画されていたことで、それが今になって明らかにされたものであることを教えています。

1B 恵みの務め 1−7
1C 啓示によって 1−5
 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。

 パウロは、今、ローマにおいて軟禁状態になっています。使徒行伝の終わりに、パウロは自費で家を借りて、鎖につながれ、ローマ兵が監視している中、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストを宣べ伝えた、と書いてあります。ここでパウロは今、エペソ人たちに手紙を書いているのです。ですから、自分のことを「キリスト・イエスの囚人」と言っています。

 単なる囚人ではなく、イエス・キリストの福音のゆえに投獄されているので、「キリスト・イエスの囚人」と言っていますが、それだけではなく「あなたがた異邦人のために」と言っています。これが大事です。なぜなら、パウロがここで鎖につながれているのは、彼が異邦人に福音を宣べ伝えることを話していたからです。

 おぼえているでしょうか、パウロは、聖霊に示されて、エルサレムに行くことを心に決めました。そして、エルサレムにある教会でヤコブに会い、ユダヤ人たちのしきたりによって、清めの儀式を行ない、神殿で礼拝をささげおうとしておりました。すると、アジヤ地方から来ていたユダヤ人たちが、パウロが異邦人を神殿の中に入れていると叫びました。そこで町中が殺到して、人々はパウロを捕らえ、宮の外にひきずり出そうとしました。これをローマの千人隊長が見て、パウロを彼らの手から奪い取り、パウロを兵営に連れて行こうとしました。けれども、パウロは仲間のユダヤ人たちに話をしたいと千人隊長に申し出て、彼はヘブル語でユダヤ人たちに、自分の回心について話しました。

 パウロは、ダマスコに行く途上で主イエスに出会ったこと、そして、主が自分に、「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす。(使徒22:21)」と言われたことを話しました。ところが、パウロが、この「異邦人」という言葉を発したとたん、聴衆が声を張り上げ、わめき立てるので、千人隊長はパウロを拘禁しました。これがパウロが囚人となった始まりなのです。この後は、数年、カイザリヤにパウロはいましたが、ローマ総督たちの政治の道具に利用されているのに飽きて、ローマ皇帝に上訴しました。それで今、ローマにいて軟禁状態となっているのです。ですから、パウロが囚人となったのは、紛れもなく、自分が異邦人に福音を宣べ伝えていること、このことに他ならなかったのです。だからパウロは、「あなたがた異邦人のために囚人となっている」と言っています。

 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。

 異邦人に福音を宣べ伝えることをパウロが忠実に行なっておりました。そこで彼はこのことを、「神の恵みによる私の務め」と言っています。この「務め」という言葉ですが、oikonomia(オイコノミア)というギリシヤ語が使われています。これは「世帯」とか「家の管理」という意味の言葉です。つまり、恵みによって全体を管理する、統治する。恵みという制度をつくる、と言うことであります。私たちが恵みに支配され、恵みによって生き、恵みに基づく考えかをし、恵みに満ちあふれるようにする。これがパウロの務めだったのです。終始一徹、恵みの世界があることを彼は知らせていたのでした。

 ユダヤ人が、異邦人に福音を宣べ伝えるパウロにいきり立ったのは、根本的には恵みが原因だったのです。神はイスラエルを選ばれました。それは一方的な神の愛とあわれみによるものですが、ユダヤ人は、そのように受けとめませんでした。ユダヤ人がユダヤ人として生きていくため、自分たちで行なうことができる一定の枠組みを設けました。それから外れているものは排除して、受け入れないという立場を取ったのです。ですから、その枠組みをこわすような要素に対しては、とてつもない拒否反応を示します。異邦人に、イスラエルのメシヤを宣べ伝えるとは、どんでもないことだったのです。

 しかし、ユダヤ人だけではなく私たち人間はみな、恵みに対して拒否反応を示すのです。私たちはみな、自分たちが理解できて、自分たちの能力で実行できる世界の中で生きたいですから、それからはずれたところにまで御手を伸ばす神の気前良さに対して、腹を立ててしまいます。「あまりにも調子が良すぎる。」と。しかし神は恵みに満ちた方です。

 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。

 パウロはこの恵みについて、啓示によって知らされました。ガラテヤ書にも彼は書いていましたね、人間から受けたものではなく、また教えられたものでもなく、ただイエス・キリストの啓示によって受けた、と彼は言っています(1:12)。またコリント書第一においても、「『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして心に浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。(2:9-10)」と言っています。神の恵みは、人が考えつくような類いの真理ではないのです。ですから、御霊による啓示が必要なのです。私たちが悟ることではなく、神が知らせてくださるものであります。

 私たちが自然にふっと考えることと、神が考えておられることは、まず正反対であると言っても良いでしょう。神はその知恵と知識にしたがって、永遠の計画にもとづき事を行なわれるので、今この時にしか生きられない私たちには、決して理解できないようなことばかりを考えておられます。ですから、私たちには「啓示」が必要不可欠なのです。むろん、パウロのような啓示ではありませんが、聖書を理解するためには聖霊の照明が必要です。自分の生活における主のみこころを知るのも、聖霊の導きがあって初めて可能になります。だから、パウロがエペソ書1章で祈ったように、知恵と知識の御霊が私たちに与えられるように、祈らなければいけません。

 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。

 パウロがここで話している個所は、おそらくエペソ書1章8節から10節までのところであろうと思われます。神が知恵と思慮深さによって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。そして、キリストにあっていっさいのものが一つに集められます、ということが書かれています。

 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。

 先ほどから「奥義」という言葉が出ていますね。この言葉が3章においてキーワードになっています。けれども私は、「奥義」という日本語訳は良くないと思います。新共同訳には、「秘められた計画」と訳されていますが、こちらのほうが無難でしょう。この5節に、パウロが意味している奥義の定義がなされています。つまり、前の時代には人々に知らされていなかったけれども、今明らかにされたことであります。「キリストの聖なる使徒たちと預言者たち」とありますから、新約の使徒たちに初めて啓示されたことであり、旧約時代の預言者たちには知らされず隠されていたことでありました。まさに、秘められた計画であります。

 神が私たちに秘められた計画を持っておられるとは、どういうことなのでしょうか。ちょっとたとえで話してみましょう。あなたが有能な大工さんで、棟梁であるとします。自分の愛する人と結婚することになりました。その人は、この女性を愛し、その愛をどのように示せばよいか考えています。そうだ、彼女のために別荘を建築してあげよう。だまって内緒でそれを建てるのだ。彼女が好きなデザイン、色彩、好みなどを考えながら建てよう。そして、あなたは、妻に隠して建築をはじめます。二年の歳月が経ちました。結婚記念日のときに、「ちょっとプレゼントがあるんだ。」と言って、彼女を別荘まで連れていきます。まさにあなたのあらゆる技能をもって出来上がった最良の別荘です。

 これがmusthrion(ムステリオン)、秘められた計画であります。神は、永遠の昔から、私たちのために計画を立てておられました。神のあらゆる知恵と思慮深さをもって、ご自分の恵みを明らかにする方法を考えられました。そしてそれを、ずっとお隠しになっていたのです。旧約時代の聖徒たちにさえ隠しておられました。おぼえていますか、ダニエルが御使いから受けた幻について、理解できずに悩んでいたときに、御使いは、「あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。(12:4)」と命じました。あの神の人ダニエルでさえ知らなかったこと、また他の偉大な預言者も知りたいと思いながら知らされていなかったこと、それを私たちは今、知らされているのです。

2C ともにあずかる者 6−7
 そして、この計画は次のとおりです。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

 異邦人がユダヤ人とともに、神の相続人となること。一つのからだ、あるいは神の家族の中に入ること。そして、ユダヤ人とともに約束にあずかることです。これは実はすでに、エペソ書2章で、パウロが語っていることでした。異邦人は、神もない希望もない者たちであったけれども、キリストの十字架によって隔ての壁が壊され、二つが一つになる。新しいひとりの人に作り上げられる、とありました。

 使徒たちは、この神の計画を知るのに時間が必要でした。使徒行伝はまさに、いかに神の奥義である教会が形成されていったのかを現わす、神の啓示の記録であるとも言えます。聖霊が弟子たちの上に下りました。そのときから教会は始まりましたが、メンバーはみなユダヤ人でした。ところが、ステパノの殉教からキリスト教会への迫害が始まり、彼らは散り散りにされました。しかし、彼らはしだいに、ユダヤ人ではない人々に福音を宣べ伝えはじめました。まず異邦人とユダヤ人との混血であるサマリヤ人に福音が宣べ伝えられています。そして、ステパノの迫害に加担したサウルが、主イエスに出会い、回心を経験します。彼はユダヤ人だけではなく、異邦人に福音を宣べ伝える器として選ばれました。

 そして、あの有名な、コリネリオとペテロとの出会いがあります。このことは、神さまのご計画の中でとても重要な出来事なので、詳しく2章に渡って記録されています。ペテロが宣教活動をするなかで、ユダヤ人のおきてから次第に離れていったこと。そしてついに、神からの幻があったこと。汚れた動物を大きな敷布にいて、「これをほふって、食べなさい。」と命じられたこと。この幻は三度もあり、そして御霊によってはっきりと、異邦人コルネリオの家に行くように示されたこと。一方、コルネリオも、神の御使いによって、ペテロを招くように命じられていました。そして、ペテロは数人のユダヤ人の証人を連れて、コルネリオの家に入りました。これは勇気ある第一歩です。ユダヤ人は決して、異邦人の家に入らなかったのです。そして、ペテロは、主のみことばをコリネリオの一家に伝えました。そうしたら、なんと、彼らに聖霊が臨まれたのです。聖霊はユダヤ人にのみ注がれるものと思っていたのに、今、異邦人に注がれるのを見ました。

 このように、ユダヤ人と異邦人の間には、大きな隔ての壁があったのです。それはさまざまな掟であるとパウロは、エペソ書2章で話していますが、異邦人たちは、このおきてやしきたりによって、神との間に壁がありました。ユダヤ人も、これらのおきてによって、そのまま直接、神に近づくことは許されていませんでした。神との間に壁が、また互いの間にも壁があったのです。これを神はすべて打ち壊してくださいました。

 しかし神は、隔ての壁を壊されただけではありません。2章には、ユダヤ人と異邦人を新しいひとりの人に作り上げると言っています。ユダヤ人でもなく異邦人でもない、まったく新しいアイデンティティーを持つことになりました。つまり、「キリストにある者」です。「だれでもキリストのうちにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくされたのです。」という言葉です。これは、旧約時代においても決してなかった、画期的なことなのです。パウロはコロサイ書で、奥義とは、「あなたがたの中におられるキリスト(1:27)」と言っています。キリストがすぐそばにおられる、というものではありません。私たちのうちにおられるようになったのです。私たちは、キリストに結ばれた者であり、キリストが私たちのうちにおられ、私たちもまたキリストのうちにいます。このようなきっても切り離すことのできない関係、花婿と花嫁の関係、これが教会であります。

 私たちは、自分がキリストから離れていると感じることが多々あるのではないでしょうか?そして、キリストに近づくように頑張っていることはないでしょうか。自分で一定の決まり事を設けて、それに到達するように努め、できれば満足しているが、そうでなけえば落ち込んでいるということはないでしょうか。けれども、それは、キリストの恵みではないのです。私たちはもはや、キリストから離れているものではないのです。キリストの血によって、私たちと神との間にある隔ての壁は、すべて取り除かれているのです。私たちは、キリストに近づくどころか、キリストのうちにすっぽり入れられているのです。私たちは、イエスを信じるユダヤ人と共同の相続人であり、一つのからだであり、ともに約束を受け継ぐものとされました。

 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。

 「神の恵みの賜物」です。彼はこのようなとてつもなく偉大な任務を自分が受けていることは、完全に神からのものであると認めています。

2B 世々隠されていた知恵 8−13
 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。

 パウロは、自分のことを「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に」と言っています。自分が神の教会を迫害していたことを彼は、この手紙を書いている今でも良く知っています。だから、自分が罪人のかしらであるとも他の個所で話しています。しかし、この偉大な務めをも果たしているのです。これをパウロは、「恵み」と呼んでいます。自分は至らない人間である。けれども同時に、神から重要な任務が与えられている、ということです。

 私たちは至らない人間だから、主の奉仕にあずかることはできないのでしょうか。いいえ絶対に違います。自分がこれではだめだ。もう自分ではやっていけない、そう思っているときに、「私ではなく、主よ、主が成し遂げてくださることを信じます。」と言うことができるのです。私たちクリスチャンは、「だめだ。だめだ」と言って、本当に重要なことを行なっていないことです。それは、「信じていない」ことです。神の恵みの約束を信じていない、神の能力を信じていない、このことが問題であります。しかし、今は、パウロと同じように私たちは恵みを伝える任務に遣わされています。ですから、パウロは、神の恵みの賜物によって、神の力によってこのことを行なっている、と話しているのです。

 そして、この任務とは、キリストの測りがたい富を異邦人に伝えることと、あります。口語訳は「無尽蔵の富」とあります。そして、先ほど説明しましたように、神の秘められた計画、奥義は、永遠の昔から、天地万物が造られる前から、神の御旨の中で秘められていた事柄であります。

 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

 この「天にある支配と権威」とは、天使たちのことです。天使たちに対して、この豊かな知恵が示されたとあります。ペテロは、「それは御使いたちもはっきりと見たいと願っていることなのです。(Tペテロ1:12」と言っています。神の御座のまわりで神に仕えている天使でさえもが、異邦人である私たちに与えられた神の計画について、知らされていなかったのです。私たちが、キリストにあって神の子どもであること、このことは、それほどにとてつもない立場であることが分かります。天使たちは、私たちはこの立場をあまりにも利用しないのに、驚いていることでしょう。なぜ祈らないのか。なぜキリストから遠く離れているかのように、自分たちで動いているのか。ただ、イエスさまの御名によって祈ればよいではないか、と考えていることでしょう。

 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

 少しも恥じ入ることなく、大胆に私たちは神の御前に近づくことができます。ヘブル書には、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16」とも書いてあります。私たちが祈るときに、確信のない祈りがあります。「こうなったらよいかなあ、でも、自分の祈りなどかなえられないかもしれないし。」と希望的観測の域を出ない祈りをすることが多々あります。しかし、私たちに与えられている祈りは、みこころにそったものであれば、何でも、文字通り何でも聞いてもらえる、という類いのものなのです。家族の救いのために祈っているなら、救われることを確信しながら祈ることができます。このことを知ってほしいために、パウロは3章の初めから、異邦人に与えられた神の奥義について語っているのです。

 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。

 今、パウロは牢獄の中にいます。そのためにエペソの人々は、落胆していたのでしょう。しかし、パウロは、もし異邦人に対する神の恵みがこれほどすばらしいものでなかったら、私は苦しみにあっていなかったのです、と言っています。あまりにも無尽蔵で、あまりにも栄光に富み、あまりにも恵みに富んでいるので、そのためユダヤ人たちがねたみ、パウロを告発したのです。だから、パウロが苦しみにあっているというのは、異邦人に対する神の御旨の大きさを表している証拠なのです。だから落胆しないでください、と励ましています。

 神の御霊は、今生きている私たちに対して、同じように励ましておられます。私たちが受けている苦しみの中には、そのまま光栄であることがあるのです。神のご計画の中において偉大なことが起こり、それによって苦しむことがあります。私たちには無意味であるような感じるようなことがあっても、神の前では貴重なことであることがたくさんあるのです。だから、あなたがたの内なる人が強められますように。キリストの愛を知りますように、神の満ち満ちたさままで満たされるように、とパウロは祈っています。長くなるので、祈りの部分は次回学びます。


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