アウトライン
1A 召しにふさわしく歩む 1−16
2A 異邦人のように歩まない 17−32
1B キリストに聞く 17−24
1C むなしい心 17−19
2C 新しい人 20−24
2B 脱ぎ捨て、身に着ける 25−32
1C 偽り、怒り、盗みについて 25−29
2C 聖霊を悲しませない 30−32
本文
エペソ人への手紙4章を開いてください。先週は、4章全体を学ぶことができず、前半部分を学びました。そこで今回は、4章後半、17節から32節まで学びたいと思います。ここでのテーマは、先週と同じく、「キリストにある歩み」です。けれども副題が、「異邦人のようではない歩み」となります。
1A 召しにふさわしく歩む 1−16
私たちは4章から、使徒パウロによる勧めを読んでいます。4章1節には、「主の囚人である私は、あなたががたに勧めます。」とあります。これは、この勧めるという言葉は、推薦するという意味の「薦める」ではありません。漢字が違いますね。勧告するというときに使う、「勧める」です。つまり、これは、人を励まして気を引き立てることを意味します。行ないに駆り立てることを意味します。私たちクリスチャンは、多くの教えを受けていますが、知っていてもなかなか行なうことができないものです。そこで、「ほら、やってみなさい!」と励ましてくれる人が必要です。こうした行動へ駆り立てる言葉が勧めであり、パウロは4章から、勧めを行なっています。
パウロの次の勧めは、「異邦人のように歩まない」であります。パウロは、2章において、異邦人とはどのような存在であったかを描いていましたが、ここにおいても描いています。ここでは、「むなしい心で歩んでいる」と表現しています。
ここで言う「むなしい心」とは、将来の目的がなく、生きる指針がない状態のことを指しています。キリストを自分の思いに抱いている人は、パウロが語ったところの、「神の召しによって与えられる望み」を持っています。キリストにあって、神に選ばれたこと。そして、贖われたこと。そして、神の相続人とされていること。神とともに永遠を過ごすこと。これらの望みを持っています。したがって、自分たちがどこに向かっているのか、終着地点はどこにあるのかを、はっきりと知っている種族なのです。この望みを持っていないのが、「むなしい心」なのです。コリントの手紙第一で引用されている、イザヤ書の言葉、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。(イザヤ22:13)」また、伝者の書にある、「空の空。すべては空。(1:2)」という言葉であります。
彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
将来における望みがないので、その知性は陰ります。そして、神について無知になり、心がかたくなになります。「神」という言葉は使っていますが、神については何も知りません。聖書において、「ここにはっきり、書かれているのに。」と思うような事柄さえ、見ることができません。神の福音が、いかに道理にかなったものであるかを、彼らは理解できません。かたくなになっているからです。そして、神のいのちから遠く離れています。自分がいのちであると思っているのは、肉体のいのちか、魂のいのちであります。しかし、人間は、さらに高度ないのち、すなわち霊のいのちを持っています。しかし、生まれながらの人は、このいのちを持っていません。人はこのいのちを得なければいけません。再び生まれる、あるいは新生しなければならないのです。
道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。
神についての事柄に無知であることは、知性だけではなく道徳的にも無感覚になります。初めは、「これはやってはいけないことだ」と感じていることも、続けて行なううちに、罪意識を感じなくなります。幼いころ、このようなことは絶対にいけないと思っていたことを、大人になって平気でやっていることを発見します。それは無感覚になってしまったからです。ハンセン氏病の患者が、ストーブに誤って手をおいて焼きただれても、何も気づかないように、自分の魂と体に滅びがおとずれていることを感じることができないのです。そこで、好色に身をゆだね、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになります。あらゆる不潔な行ないです。肉の欲は、とどまるところを知りません。酩酊、貪欲、不品行は、これで満足だと言わせることができないのです。人を決して満たすことはないからです。
2C 新しい人 20−24
これが異邦人がむなしい心で歩んでいる歩みです。エペソの町にいる信徒たちは、以前の自分がこのような者であることを、よく知っておりました。しかし、今は違いません。そこでパウロは、こう言います。
しかし、あなたがたはキリストのことを、このようには学びませんでした。
ここは、「あなたがたは、キリストを、このようには学びませんでした。」という訳のほうが正確です。キリストについて学んだのではなく、キリストご自身を、個人的に、人格的に学んだのです。イエスさまが言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:29)」イエスさまご自身から学びます。やさしいへりくだった方から、その軽いくびきを負って、その戒めを学びます。この学びを日々行なっているのが、クリスチャンです。
ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
キリストに聞き、そしてキリストにあって教えを受けます。弟子たちがイエスさまのお供をし、そこで個人レッスンを受けたときのように、私たちも教えを受けます。そして、それはみな真理でした。ピラトに対してイエスさまは、「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。(ヨハネ18:37)」と言われました。そしてこのイエスさまは、その行ないと言葉は、すべて完全で、きよく、不正は何一つ見出すことはできませんでした。異邦人の歩みとは対局にあるのです。
そこでパウロは、こう言います。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
異邦人のむなしい心による歩みというのは、ここで言う「古い人」のことです。神のいのちから離れ、無感覚になり、あらゆる不潔な行ないをむさぼっている自分です。この古い人を脱ぎ捨てます。しかし、気をつけなければいけないのは、私たちの古い人は、すでに死んでいることです。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」とローマ書6章6節には書かれています。したがって、私たちは、罪を犯さざるを得ないという罪の奴隷状態から解放されています。古い人にしたがって育成した、古い思いは私たちのうちにありますが、しかし、それらは私たちを支配しなくなったのです。
そして私たちは、新しく造られました。「神にかたどり造り出された、新しい人」です。私たちの心は新しくされて、神の性質を持つようになりました。そして、これは、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された」とあります。義と聖です。義とは、私たちと同じ人間との正しい関係を持っていることです。「私はクリスチャンになりました。私は正しくなりました。」と言っても、知人が、「それは嘘だね。お前に貸したあの20万円、3年たってもぜんぜん戻ってこないぞ。」と言っています。自分の行ないによって、人との関係が悪くなっているのですから、これは義ではありません。そして聖は、神との正しい関係です。神ではないものを拝んだりすること。また心の中で悪いことを考えていること。また、不品行など、自分のからだに対する罪。人には迷惑をかけていないかもしれないが、神を悲しませています。しかし、新しい人は、真理に基づく義と聖をもってかたどり造り出されています。
2B 脱ぎ捨て、身に着ける 25−32
そして25節から、この真理に基づく具体的な勧めをパウロがしています。つまり、「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着ける。」という真理です。
1C 偽り、怒り、盗みについて 25−29
ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
ここでは、ただ偽りを捨てるだけではなく、進んで真実を語っていく、ということが語られています。私たちクリスチャンは、とかく、何かをしないことが義であったり聖であったり考えます。しかし、クリスチャンは、それだけではなく、良い行ないをすることがその特徴となっているのです。
もう一つ大事なことは、このような積極面、良い行ないをするという側面があって、初めて思いを変えることが出切るという点です。私たちには肉の弱さがあり、同じ部分において罪を犯してしまいます。そこで、「これはやってはいけない。これはやってはいけない。」と心の中で念じるのですが、やってはいけないことに焦点を当てていると、なかなかやめることはできません。しかし、「私は、このようなことを行なおう。」という思いの入れ替えをすれば、やめることができなかったものも、やめることができるようになるのです。
私が受けた聖書カンセリングのクラスにおいて、先生が、生徒たちに、「今、白い像を思い浮かべてみてください。」と言いました。その数秒後に、今度は、「それでは、白い像を思いの中から消してください。」と言いました。それで先生は、消すことが出来た人に、どうやって消したかを聞きました。すると、他の色の像を思い浮かべたという人がいました。例えば、紫色の象を思い浮かべたりしたわけです。白色の像は、紫色の像を思い浮かべることで、消えていったのです。
私たちの歩みも、これと同じなのです。異邦人のような歩みをしないためには、そのような行ないを捨てるだけではなく、同時に、良い行ないをしていくのです。ですから、「偽り」を捨てるのですが、進んで真実を隣人に対して語っていくということで、偽りを捨てることができます。
それでは、次の勧めを見ましょう。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。
ここは、怒らないように、という勧めではありません。怒っても、罪を犯してはなりませんという勧めです。怒ることには、二つの種類があります。一つは、神から来た怒りです。よく「義憤」と言われるものです。イエスさまも、このことについて怒られました。神の御名が汚されているような言葉、また行為に対して、怒りを抱くことは聖いことであります。自分のことが悪く言われているときに怒る怒りは自己中心的なものですが、イエスさまのことが悪く言われているときに、何も感じないのであれば、それこそおかしいです。また、弱い立場の人を利用しているような人を見て、怒りを何も感じないのは逆に罪です。ですから、神から来た怒りがあります。しかし、人間の怒りがありまして、それが今言った、自分のことを悪く言われたり、気に入らないことをされたりするときの怒りです。これは罪であり、パウロが、「罪を犯してはなりません。」と言っているところです。
「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」と言っていますが、これは夫婦の間でならよく分かりますね。布団の中に入る前に、口論において決着をつけるということです。そのまま寝床についてはいけません。さもないと、その思いを利用して悪魔が私たちを攻撃してきます。
盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
これも、「捨て去って、身につける」の真理ですね。ただ盗みをやめるだけではなく、困っている人に施しをするために、正しい仕事をして、ほねおって働くのです。なんと、クリスチャンの歩むべき基準は高いのだろうかと思います。
悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
口から出てくる言葉の問題です。私は、自分のことを考えれば、このことは良く分かります。口で失敗した、というようなことがよく起こります。「あの言葉さえ言わなければ。」という後悔がありますね。これがヤコブの手紙で話されていることです。「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。 (3:2)」ですから、悪いことばをいっさい話してはなりません、とパウロは言っています。同時に、先ほどの身につけるの真理ですが、必要なときに、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えます。
2C 聖霊を悲しませない 30−32
このような勧めのリストの中で、パウロは、とても大切な真理を語っています。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
聖霊を悲しませてはいけない、という勧めです。聖霊は、お悲しみなることができるのです。異端は、聖霊はエネルギーやエッセンスであるとか言いますが、エネルギーやエッセンスが、悲しむことはできません。聖霊が人格をもった存在であり、神ご自身であります。
聖霊さまは、私たちの贖いの日までに、証印として押されている、とあります。これはエペソ書1章で学んだ、証印としての聖霊のお働きです。私たちは、キリストを信じたときから、聖霊がうちに住んでくださっています。旧約の時代のように、聖霊が離れていってしまわれるようなことは、決してありません。そして、聖霊は私たちを励まし、慰め、力づけ、このからだが変えられて復活するときまで、私たちとともにいてくださいます。「贖いの日」とありますが、これは、キリストが再び来られて、私たちを引き上げてくださる時のことです。そのときには、私たちの罪や肉の問題もすべてなくなり、栄光の体に変えられます。
ですから、聖霊は、いつでも、私たちとともに、また私たちのうちにおられるのです。したがって、私たちが肉にしたがって歩むとき、思いや心の中で罪を犯すとき、そこから離れ去るのではなく、じっと悲しんでおられるのです。
それでは、どのようなことをすると、悲しまれるのでしょうか。次を御覧ください。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
初めの言葉「無慈悲」は、「苦み」と訳したほうが良いでしょう。苦み、憤り、怒り、叫び、そしり、そしていっさいの悪意です。これらの感情を心の中に持っていれば、私たち自身も悲しみをおぼえますが、内におられる聖霊は、もっと悲しまれているのです。心と体の健康のためにも、このような感情を捨て去るべきですが、それ以上に、内に住んでおられる聖霊を悲しませないためにも、捨て去るべきなのです。
そして、再び身につけるべきことが書かれています。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。
親切にして、心の優しい人となり、そして赦し合う。これが、キリスト者の歩むべき道です。しかし、その赦しの度合いがここに書かれています。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」という基準です。「キリストの満ち満ちたみたけにまで達する」ということをパウロは、この章の前半部分で語っていましたが、まさに、このことであります。
私たちは果たして、神がキリストにおいて赦してくださったように、人を赦すことができるのでしょうか?答えは「はい」です。私たちは、このような個所を読むときに、「ああ、私はダメなクリスチャンだ。神が自分を赦してくださったように、人を赦すことなどできない。」と思ってしまいます。しかし、他の個所では、神は、私たちが耐えられないような試練を与えられない、と教えられています。神は、私たちのことをよくご存知です。もし私たちが、人を赦さなければいけない状況があるならば、それは赦すことができる力をも与えることにおいて、その状況をお許しになったのです。今、私たちが、人が赦せないということがあるでしょうか。そこから始めれば良いのです。「ある人が、僕の奥さんをレイプして、殺したら、その殺人犯を赦すことができるのか…。」などと、まだ起こってもいないことを考えないでください。今、与えられている状況の中で、神は、キリストによって私たちのうちで働いてくださるのです。
赦すというのは、意志の問題です。赦せないという感情があっても、「私は、キリストにあって、この人を赦します。」という決断をします。赦すような優しい感情が初めは伴わないかもしれませんが、その決断をしつづけてください。そうすれば、神があなたをキリストにあって赦してくださった、その赦しの力をあなたに与えてくださるでしょう。
また、主が与えておられる時があります。今すぐに、その人を赦せなくても、自分を責めないでください。赦しの力は御霊によるものです。私たちは、あくまでも、ここにパウロは勧めているように、赦すという決断をすることです。
ですから、キリスト者の歩みは、キリストを基準としています。5章1節も、「神にならう者となりなさい。」と書いてあります。私たちは、今、自分がいるところからスタートすれば良いのです。イエスさまに聞き、イエスさまに教えられ、心の霊において新しくされ、新しい人を身に着けます。そのプロセスを通りながら、私たちは、栄光から栄光へと主の似姿に変えられ、キリストの身たけへと成長するのです。
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