エペソ人への手紙4章 「キリストにある歩み − 召しにふさわしい歩み

アウトライン

1A 召しにふさわしく歩む 1−16
   1B 一致を保つ 1−6
      1C 謙遜と柔和さによって 1−3
      2C ひとりの神のゆえに 4−6
   2B からだを建て上げる 7−16
      1C キリストの賜物によって 7−11
      2C キリストへと成長するために 12−16
2A 異邦人のように歩まない 17−32
   1B キリストに聞く 17−24
      1C むなしい心 17−19
      2C 新しい人 20−24
   2B 脱ぎ捨て、身に着ける 25−32
      1C 偽り、怒り、盗みについて 25−29
      2C 聖霊を悲しませない 30−32

本文

 エペソ人への手紙4章を開いてください。ここでのテーマは、「キリストにある歩み」です。今日も、一章全体を学ぼうと思いましたが、かなり長くなってしまうので前半部分だけにとどめたいと思います。前半部分の1節から16節までを学びます。そこで、テーマは、「キリストにある歩み」なのですが、副題として、「召しにふさわしい歩み」と致します。

1A 召しにふさわしく歩む 1−16
 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

 パウロは、「勧めます」という言葉から4章を始めています。パウロは、この手紙を読む人たちに、具体的に行動に移すように促そうとしています。1章から3章までは、「知る」ことが念頭に置かれていました。神を知るための知恵と啓示の御霊が私たちに与えられるように、とパウロは祈り、そして、キリストにある霊的な富がいかにすぐれているかを、彼は話していました。こうした霊的富にしたがって、私たちがこの世において、どのように生きればよいかを、具体的に勧めているのが4章と5章と6章です。

 そして、「召されたあなたがたは、」と言っています。召されるということは、言いかえれば「救われる」ということです。神のご計画によって私たちは救いに選ばれていたのですが、それをキリストにあって神が実行してくださいました。この実行を「召し」と言います。

 この召しがいかにすぐれているかを、パウロは1章から3章までにおいて説明しましたが、「その召しにふさわしく歩みなさい。」と言っています。つまり、神の召しについて知らない人が、ふさわしく歩むことはできない、ということです。救いについて、そのすばらしさを知らない人が、その救いにふさわしい歩みをすることはできません。

 エペソ人への手紙について、よく、「歩くことを学ぶ前に、座ることを覚えなければいけない。」と言われます。「神は、キリスト・イエスにおいて、…とともに天のところにすわらせてくださいました。」と2章6節に書いてありますが、私たちがキリスト・イエスにあってどのような存在であるかをまず、学ばなければいけないということです。天のところにすわっていることをまず知ってから、それからその召しにしたがって歩むことができます。赤ちゃんが成長して、歩くことができるまえに、座ることを学びますね。これと同じです。

 別のたとえを用いるならば、私たちは、海に浮かぶ氷山のようであります。「氷山の一角」と言われるように、私たちが目にする氷山は、海中に広がっている何倍もの大きさの氷があるからこそ、海上から氷山を眺めることができます。私たちの歩みは氷山の一角のようであり、キリストにある自分というものが、歩みとして自然に現れてくるのが正しいのです。したがって、「召しにふさわしく歩む」ことが第一歩になります。

1B 一致を保つ 1−6
 召されたあなたがたは、の召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 パウロの勧めは、「御霊の一致」を保ちなさい、というところから始まります。「一致」というと、私たちはしばしば、組織の一致や教義の一致を連想します。しかし、パウロは、「御霊」の一致を保ちなさい、と言っているのです。ここに、「謙遜と柔和」「寛容」「」「平和」という言葉が並んでいます。これはみな、ガラテヤ書5章でパウロが列挙した、「聖霊の実」です。私たちが御霊に導かれることによって、これらの実を結ばせることによって、私たちは一つになります。ですから、組織的・教義的な一致よりも、態度における一致が本質的な事柄であり、私たちが求めなければいけないことです。

1C 謙遜と柔和さによって 1−3
 私たちが御霊の一致を保つための第一歩は、「謙遜」です。すことであると言っています。自分と異なる考えの人がいれば、その人を批判し、見下すことによって、その人を排除したいという思いに駆られます。けれども、自分が何者であるかを思い起こす必要があります。「自分の行ないをよく調べなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることはできないでしょう。(ガラテヤ6:4」とガラテヤ書には書いてあります。謙遜が第一歩です。そして、「柔和」を身に着けなければいけません。柔和とは、自己主張の反対語です。不必要な主張を控えます。

 そして、「寛容を尽くし、愛をもって互いに忍び合い」という言葉があります。一言で言えば、「言いたいことを、がまんする」ということです。

 その結果として、「平和のきずな」が、私たちの間で結ばれます。平和というのは、一人がもう一人の中に入り込むのを妨げる壁がない状態です。私たちが思っていること、感じていることを分かち合い、共有できているとき、それが平和のきずなであります。

2C ひとりの神のゆえに 4−6
 こうしてパウロは、御霊の一致を勧めていますが、何故にそこまで一致を保たなければいけないのでしょうか?その答えが次に書かれています。私たちが一つにならなければいけない根拠が4節から6節に書かれています。

 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

 この個所を読んで、お気づきになられたでしょうか?三位一体の神がここに啓示されています。「御霊は一つ」「主は一つ」「父なる神は一つ」とありますね。神がひとりであられるがゆえに、その神の教会である私たちも一つでなければいけない、ということです。イエスさまは、十字架につけられる前夜に、このように父なる神に祈られました。「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(ヨハネ17:21」イエスさまと父なる神が一つであるように、彼らも一つになること。そして、彼らが一つになっているのを世が見て、世がキリストを信じるようになること。これが、イエスさまの祈りでした。

 もし私たちクリスチャンが、互いにいがみ合っているのであれば、クリスチャンではない人は、キリストは分割されている方なのか、というイメージを持ちます。神がばらばらになっているという印象を持たせます。しかし、三位一体の神を神としてこの世に示すために、私たちは一つになっている必要があるのです。

2B からだを建て上げる 7−16
 このように、一つになっている必要があるのですが、どのようにすれば一致を保つことができるのでしょうか?組織的に一つにしようとしても、それは御霊の一致ではありません。一致の鍵は、成熟であります。パウロは、7節から16節において、一致をもたらすところのキリスト者の成熟と、キリストのからだの建て上げについて話しています。

1C キリストの賜物によって 7−11
 しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。

 パウロは、私たちが一つであっても、すべての事柄において同じとならなければいけない、と教えてはいません。むしろ、私たちひとりひとりに賜物が与えられています。

 そして、ここで賜物が「恵み」と呼ばれていることに注目してください。ローマ書12章には、「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っている(12:6」と書かれています。賜物というのは、私たちの能力ではありません。例えば、ギターを弾けるから、礼拝での賛美を導くことができるのではありません。あくまでも、私たちが信仰によって、神の恵みによって生きているときに、知らず知らずのうちに自然に神が備えてくださっている力であります。

 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」・・この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。・・

 ここでパウロが話しているのは、イエス・キリストの昇天です。使徒信条にもありますね、「キリストは、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり」とありますが、このことを話しています。イエスさまは十字架につけられ、葬られてから、地の低い所、つまりハデスに下られました。それから、よみがえり、弟子たちに現われ、天にのぼられました。イエスさまが天にのぼられてから、賜物を分け与えてくださったのです。

 けれども、なぜ、パウロは、賜物の話しをしているときに、イエスさまが地の深いところに下られた話しをしているのでしょうか?「すべてのものを満たすために」とパウロは言っていますね。イエスさまは、ご自分の支配と勝利を、あらゆるところに満たすために下られました。地上にいる罪深い私たちの中にも来られ、また、約束のものを待ち望んでいた、ハデスにいる旧約の聖徒たちのところにも行かれて、ご自分がそばにおられること、ご自分が一人一人に関わることをお示しになったのです。それゆえ、神が遠くから私たちを見ていて、私たちが自分たちで、がんばっているという姿は、聖書的では全くありません。イエスさまは、すべてのところにご自分の栄光で満たそうとされたのです。

 そして次の、パウロの言葉があります。こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。

 キリストが教会に、賜物のある者たちをお立てになったのですが、それは、すべてにご自分を満たすためであります。教会の指導者がいて、そして、信徒たちがいて、それぞれ距離を離し、区別をするというような考えは全く聖書的では、ありません。キリストが下られたように、人々のところにまで下っていくのが彼らの姿です。ともに苦しみ、ともに喜び、ともに祈って、ともに学ぶのが、これら賜物を持つ者たちのあるべき姿です。

2C キリストへと成長するために 12−16
 そして、このような者たちをキリストがお立てになっている理由を、パウロは次に書いています。

 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 使徒や預言者、伝道者、そして牧師・教師が与えられているのは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせる」ためです。ここは、とても大切です。教会で奉仕をするのは、牧師や伝道師ではなく、ひとりひとりの信者なのです。「献身者」と「平信徒」と分けている区別は非聖書的であり、すべての人が献身者なのです。ひとりひとりが、奉仕者として召されているのです!そして、どのようにキリストに自分自身をささげればよいのか、その道を示し、その道を歩むのを助けてあげるのが牧師の役目であり、「聖徒たちを整える」ことであります。

 キリスト教会は、二つの極端に陥っています。一つは、今話しましたように、牧師が奉仕者であると思っていることです。牧師から何かをしてもらう、良い説教を作ってもらう、家庭訪問をしてもらう、いろいろ世話してもらう、という「お任せ」になっていることです。しかし、教会に来ているのは、自分たちが他の人々を世話することができるようになるため、主にお仕えすることができるようになるためなのです。ですから、自分は、教会において、主体的に、自発的に、能動的に動かなければいけないということにお気づきになると思います。

 もう一つの極端は、「牧師はいらない」ということであります。すべてが信徒であり兄弟姉妹なのであり、互いが賜物を用い合うのであるから、牧師の指導を仰がなくてもよい、または、牧師はいらない、という考えです。しかし、これは、キリストご自身を否定することになります。牧師をお立てになったのはキリストご自身です。牧師を通してでなければ、自分が奉仕の働きのために整えられることは決してできないのです。

 そして、聖徒ひとりひとりが奉仕の働きをすることによって、「キリストのからだを建て上げる」ことができます。プロテスタントの宗教改革において、「万人祭司」という言葉が生まれましたが、それを私たちは、だれをも介さずに、直接キリストのところに行ける、という意味で捉えていると思いますが、それだけでは足りないのです。私たちが互いに祭司であり、互いに仕えて祭司の務めをする、というのが万人祭司のもう一つの側面なのです。したがって、互いが互いを必要としているのです。私たちは、キリストにあってしっかりと立たなければいけません。他の人に依存することはいけません。しかし、その一方で、互いにキリストにあって建て上げていく必要があるのです。

 そして、このように奉仕の働きをし、キリストのからだが建て上げられると、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とパウロは言っています。信仰の一致は、むりやり自分たちの考えを合わせることによっては与えられません。私たちが奉仕者として整えられ、成熟して、キリストの似姿に変えられていく中で、もたらされるものなのです。とかく、「何々神学」とか「どこどこのグループは…」という会話が、クリスチャンの間でなされます。しかし、それらの違いは実に表面的なものであり、信仰が成熟してくると、それらは二義的なものであることを知るようになってきます。そして、神の御子の知識において、ますます理解が与えられて、互いに自分たちは一つであることを認識しはじめるようになるのです。

 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

 私たちが成熟すること、キリストにあって成長するのは、ここに書いてあるとおり、「真理」であります。神の真理である御言葉を聞くことによって、私たちは、かしらなるキリストに達することができます。パウロは、成熟していない状態のことを、「子ども」のようであり、「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれてりしている」と表現しています。

 キリスト教会には、必ずと言ってよいほど、「教えの風」が吹いています。「流行り」と言っても良いでしょうか、人々を寄せ集めるために、何か新しい事を行なって集めようとします。新しいミニストリー、新しいムーブメント、新しい教会成長理論などなど、新しいものを導入することによって、人々の注目を集めて、それで「教会をやっていこう」とします。しかし、それは風のように、また波のように過ぎ去ってしまうのです。

 私たちに必要なのは、新しいことではありません。初めからあるものです。すなわち、みことばの学び、祈り、互いへの愛と交わり、そしてパンを裂くことです。私たちが、このような地味な作業の中に宝を見出すのであれば、その人の霊的成長は、他の教えの風に吹きまわされることなく着実なものとなります。

 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

 パウロはここで、キリストのからだを、一つの建物としています。幕屋のことを思い出してください。幕屋は、幕、板、ほぞなどの各部分によって成り立っています。ばらばらになっている各部分を、輪によってつなぎ合わせたり棒などで組み合わせます。それぞれが結び合わされ、組み合わされることによって、初めて神が住まわれる幕屋として機能するのです。パウロは、これが私たちキリスト者の姿だ、と言っています。

 私たちは、教会において、だれ一人、傍観者でいることはできないのです。自分自身もキリストのからだという神の建物の一部なのです。自分自身が神から任されている部分を行なっていくことによって、初めて建て上げられていくのです。「愛のうちに建てられる」と言っていますから、すべてが愛の雰囲気に包まれて、互いに励まし、祈り、気にかけてあげるような雰囲気の中で、自分の果たすべき分をしっかりと果たすのです。

 私たちは、「召されたあなたがたは、その召しにふわさしく歩みなさい。」と命じられています。教会における、この召しを認めておられるでしょうか?それは、謙遜と柔和によって、一致を保つということもありますが、それから一歩踏み出して、キリストにあって成長するということまで考えなければいけません。それは、牧師・教師の指導の中で行なわれ、自分自身が奉仕の働きを行なう中で可能となります。私たちは、しっかりと組み合わされて、結び合わされていくところの各部分なのです。キリストにあって、すべての人がいて初めて成り立つ教会であります。


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