エペソ人への手紙5章 (5:22−6:9) 「互いに従う生活」

アウトライン

1A 夫婦関係において 22−33
   1B 妻が夫に従う 22−24
   2B 夫が妻を愛する 25−33
      1C キリストがささげられたように愛する 25−27
      2C 自分のからだのように愛する 28−33
2A 親子関係において 1−4
   1B 子が両親に従う 1−3
   2B 父が子を訓練する 4
3A 雇用関係において 5−9
   1B 奴隷が主人に従う 5−8
   2B 主人が奴隷を同じように扱う 9


本文

 エペソ人への手紙5章を開いてください。前回は1節から21節までを学びました。今日は、5章22節から6章の9節までを学びたいと思います。ここでのテーマは、「互いに従う生活」です。

 私たちは前回、神にならう歩みとして、三つのことを学びました。一つは、愛のうちに歩むことでした。神がキリストにおいて愛してくださったのですが、その愛を知るようになると、私たちは他の人たちに対しても、その愛を分かち合いたいと願います。したがって、不品行や好色、下品な冗談などは、口にさえしてはいけないということでした。二つ目は、光の子どもらしく歩むことです。暗やみのわざをしている者たちと行動をともにしないことと、そのわざを明らかにすることが勧められていました。そして三つ目が、賢い人のように歩むことです。神の御怒りが下される終わりの日が近づいている今、悪魔は、なんとかして主のわざを台無しにしようと徘徊しています。ですから、私たちは知恵を用いて、賢く歩まなければいけません。

 そのためには、御霊に満たされることが必要でした。パウロは、「酒に酔いしれないで、御霊に満たされなさい。」と勧めました。私たちが必要とする知恵と知識は、主からのものです。自分自身で考え付くことはできません。ですから、知恵と悟りの霊であるご聖霊に、私たちを支配していただく必要があるのです。

 そして、その御霊の満たしの現われとして、主に賛美を歌うことと、すべてのことについて感謝することがありました。けれども、それだけではありません。21節を見ると、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」とあります。主に賛美をささげること、すべてのことに感謝することは、簡単であるかもしれないと感じます。私はそうです。主のすばらしさを知り、賛美をささげること、それに衣食住について感謝すること、一日のことを感謝することは簡単そうに見えます。けれども、自分が本を楽しんで読んでいるとき、奥さんから、「ねえ、洗濯物片付けてよ。」と言われたら、「やだ!」と言いたくなります。けれども、妻を愛するために、自分自身を従わせて、洗濯物を片付けることも、御霊に満たされることなのです。パウロはこれから、「互いに従いなさい。」という勧めから、夫婦関係、親子関係、そして雇用被雇用関係における服従について教えています。

1A 夫婦関係において 22−33
1B 妻が夫に従う 22−24
 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。

 この節で、新改訳聖書においては段落が付いています。他の英訳の聖書を見てもそうです。けれども、この節は21節につながっているのです。ギリシヤ語に沿って訳すならば、「キリストを恐れ尊んで、互いに従い、妻は主に従うように、自分の夫に従いなさい。」となります。ですから、妻が一方的に夫に従うということではないのです。夫は、25節から書かれているとおり、妻を愛することによって、キリストにあって妻に従うのです。この相互関係がないかぎり、妻が夫に従うということも成り立たないのです。

 私たちは前回、神の愛がどのような性質のものであるかを学びました。主が愛しておられることが書かれている初めの箇所は申命記4章37節にありますが、主がイスラエルを愛して、彼らを選び出し、エジプトから連れ出されたというところであります。そして神は、ご自分がイスラエルと結ばれた契約にあえて自分自身をしばられて、決して彼らに背を向けることはなさいませんでした。あらゆる方法で、ご自分がどのような方であるかを明らかにし、イスラエルの民が神を信頼しやすくしてくださったのです。これが愛であることを学びました。ですから、神は絶対的な主権者であるのにも関わらず、ご自分の立てた契約に合わせて、イスラエルの民に従われたのです。言い換えれば、愛するというのは、服従するということであります。神の場合は、ご自分の契約に服従されて、イスラエルの民に関わりを持たれたのですが、夫の場合は、キリストが与えられた愛の律法に服従して、妻との関わりを持つのです。

 聖書も神もない異教の世界では、権威あるものは自分の裁量で何をしても構わない、という考えがあります。ですから、夫は夜遊びをしていても良いのですが、妻は辛抱して家で待っていなければならないのです。しかし、今申し上げましたように、聖書の中の権威者は、自分よりも上の存在に対して自らも服従している存在なのです。

  なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。

 妻が夫に従うのは、キリストが教会のかしらであり、教会がキリストに従うように従います。キリストと教会の関係が、夫婦関係の基準になっています。イエスさまが、どのようにして私たちを愛しておられるでしょうか。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は持っていません。(ヨハネ15:13)」とイエスさまは言われました。ご自分のいのちをも惜しまずに与えられるところの愛です。そして教会は、キリストに対してどのように従っているでしょうか?パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:21)」と言いました。つまり、こちらもいのちをささげるような服従であります。キリストは、私たちを愛するためにすべての犠牲を払われ、そして私たちは、すべてのものにまさってキリストを第一として生きていくことであります。

 ここには、他のものが入り込んでくる隙間はありません。しっかりと結びつけられた関係であって、その関係がすべてを包括しているのです。妻が夫に従うときも、この関係でなければいけないのです。有名な聖句に、「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」とあります。妻と夫はしっかりと結び合わされるので、父と母でさえもその関係に関与することはできません。ですから、結婚した女の人は、姑でもなく自分の息子・娘でもなく、夫を中心にして物事を考えていかなければいけません。はたして自分の生活の中心は、夫に従うことになっているか、ということです。夫ではなく、夫の家に嫁いでいる嫁になってはいないか?夫ではなく、子供に自分のエネルギーを注いでいやしないか?また、ともすると、夫よりも教会を大切にしていることはないか?教会の活動に熱心になることによって、自分が霊的なクリスチャンであると思ってはいやしないか?

 このエペソ書において、夫と妻との関係が一番初めに出てきて、次に親子の関係、そして雇用関係という順番になっていることに注目してください。夫が仕事に熱心になりすぎて家庭をおろそかにするのと同じように、妻は子育てに熱心になりすぎて、夫婦関係をおろそかにする危険性があります。けれども、それは子供に益をもたらさないばかりか、逆に子供をつぶしてしまうことになりかねません。子供が主にあって成長する最も近道は、いかに夫婦関係を良くさせていくことなのです。妻が夫に従っていること、また夫が妻を愛していることを示すことそのものが、子供を育てていることに他なりません。家庭では子供中心ではなく、夫婦中心でなければいけないのです。夫婦の関係があって初めて親子関係が確立します。

2B 夫が妻を愛する 25−33
 そして次に夫が妻を愛しなさい、という勧めがあります。
1C キリストがささげられたように愛する 25−27
 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。

 先ほど説明しましたとおり、夫は妻に自分自身をささげることによって、妻を愛していきます。私たち男がイエスさまに従うときに、もし、イエスさまがご自身をおささげにならずに、「わたしの言うことに聞き従いなさい。」と命令されたらどうか、ということを考えたら良いと思います。それでは奴隷状態であり、イエスさまは専制君主になってしまうことが良く分かるでしょう。自分がイエスさまにおささげする前に、イエスさまがご自身を自分にささげてくださったことを知っているからこそ、その愛の保障があって、イエスさまにお従いすることができるのです。妻も同じです。夫から愛されているという安心感があって初めて、妻は夫について来てくることができるのです。

 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

 ここでは、キリストと教会との関係を、花嫁が整えられて、花婿の前に現われる結婚式のことになぞらえられています。花嫁が、顔の化粧から、結婚衣裳まで、何一つ汚れや、しわになっているところや、しみになっているところがないように、すべて整えられます。花婿の前に立つときには、すべてが整えられた、栄光の姿として現われます。

 実は、霊的に、キリストがこのことを私たちのためにしてくださっているのです。キリストは、私たちにみことばをお与えになっています。それによって、私たちがきよめられるためです。そして、私たちは、日々、御霊によってキリストの似姿へと変えられて、キリストが再び戻って来られるときには、花嫁として栄光の姿で現われるのです。人間の結婚式と異なる部分は、人間の結婚式では花嫁の母親や他の家族のメンバーが、結婚衣裳を整えるのですが、キリストはそのこともご自分で行なわれていることです。キリストが整えてくださり、そしてまた花婿として私たちの前に現われてくださるのです。

2C 自分のからだのように愛する 28−33
 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。

 ここの勧めは、隣人を自分自身のように愛さなければならない、という戒めに似ています。けれども、少し違うのは、「自分のからだのように愛する」と言うところです。私はこの箇所を読んで、女という人が持っている必要を知ることができましたし、妻が夫に対して持っている必要を知ることができました。たとえば、妻が落ち込んでいたり、いらいらしているのを見ているとき、私は、「いらいらしてはだめではないか!」と責めてしまうことがよくあります。しかし、それは、女性が定期的に訪れるものによってであることを、結婚してから知るようになりました。妻の肉体的な弱さをも省みるときに、初めて妻を理解してあげることができます。ですから、パウロは、自分のからだのように愛しなさい、と言っているのです。

 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。

 最近のカウンセリングの本には、「自分を愛さなければいけない」というテーマのものがあります。けれども、この聖書箇所から、そんな必要はないことが分かります。私たちはすでに自分自身を愛しているのです。ある人が面白いことを言っていました。「私は自分のことが大嫌いです。私は醜いです。」と言って泣いているけれども、もし自分のことが大嫌いなら、自分が醜いことを喜ぶはずではないか、とのことです。自己憐憫というのは、往々にして他人の注目を集めたいから、とのことです。

 ですから、自分が自分のからだをどのように養い育てているかを思い出せば、妻をどのように愛せばよいかを知ることができます。ご飯のことを忘れる人はいません。具合悪くなったら、休んで蒲団の中に入ろうとします。同じように、妻のことをいたわらなければならない、ということです。

 それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

 ここは、結婚式でも読まれる、有名な聖書箇所です。けれども、パウロは、この箇所は男女の結婚だけではなく、実はキリストと教会の関係をさしている、と言っています。パウロが、自分の手紙のすべてをとおして話している中心テーマが、ここに書かれていると言っても過言ではありません。ローマ書から始まった、信仰による義認の教え。そして、神の恵み。キリストの死と復活にあずかること。御霊に導かれること。キリストにある自由。キリストにある相続。そして、隔ての壁を壊すキリストの平和など、これらすべての真理は、「女が男に結ばれるように、教会がキリストに結ばれた」と一言に集約されます。

 神と人間との関係は、普通に考えれば、主人としもべの関係になってしまいます。神が言われたことを行ない、行なえば報酬が与えられ、行なわなければ罰が与えられる、という関係です。この考えが、あまりにも根深く私たちの思いの中に横たわっているので、信仰によって義と認められることも、神の恵みも、御霊に導かれることも理解できないという問題があります。例えば、神の恵みによって、信仰によって救われる、という話を聞くと、「それでは良い行ないをしなくても構わないのですね。」と反応したり、「罪を犯していても、天国に入ることができるのですね。」と考えてしまいます。それは、依然として、主人と奴隷の関係の中に自分を置いているからなのです。

 しかし、パウロがここまで感動して、ここまで変えられて、命をかけて福音を宣べ伝えていたのは、この主人としもべの関係が大変革して、夫と妻との関係になってしまったというところにあります。私たちはキリストに結びつけらえて、キリストのからだの部分になってしまいました。それゆえ、キリストの義が、私たちの義と数えられ、キリストの死といのちが、私たちの罪に対する死と、よみがえりになり、キリストが神の右に座におられるというところから、私たちも天において着座し、キリストが神のものを相続されているから、私たちも相続人となっています。もはや、神のために何かを行ない、それに対する報酬を得るような関係ではなく、結び付けられてしまった関係なのです。

 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

 パウロは、本題に戻っています。夫が妻を愛して、妻は夫を敬いなさい、という勧めを繰り返しています。

2A 親子関係において 1−4
 そして次に、親子関係についての勧めを行なっています。
1B 子が両親に従う 1−3
 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

 子どもが両親に従いなさい、という勧めです。これは、モーセの十戒に基づいた戒めです。「あなたの父と母を敬え。」とあります。これは十戒のうちの、第五番目の戒めで真ん中に来ています。第一から第四までは神と人との縦の関係であり、第六から第十までは人と人との横の関係であります。この間に挟まれるようにして、この「父母を敬え」という戒めがあるのです。

 これが何を意味しているかと言いますと、両親は子供にとって、神の代表者であるということです。子供は親をとおして、神がどのような方であるかを知ります。子供は親に従うことによって、実際には神に従うのです。

 よく大人たちは、子供について「子供は元気に自由に遊ばせておいたら良い。」というようなことを話します。けれども、それは、子供を最も愛していない方法なのです!子供は、子供のレベルで、何を行なって良いのか、何を行なってはいけないのか、その境界線を絶えず求めています。一貫性のあるルールのもとにいるときに、初めて安心することができ、愛されていると感じることができるのです。私たちが、法治国家の秩序の中で生き、それに従えば安全に暮らすことができるのを知っています。恐ろしいのは無秩序、無政府状態ですよね。しつけをしないのは、小さなレベルで、子供に無秩序状態を提供していることに他ならないのです。ですから、子供にとって、もっとも幸せな生き方は、徹底して親が言うことに服従することなのです。服従することを学ぶときに、初めて大人になって、自己選択ができるような人間に育っていきます。

2B 父が子を訓練する 4
 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

 服従するという勧めは、相互的なものであることを夫婦関係の中で学びましたが、それは親子関係においても同じです。親、とくに父親には、子どもに主にある教育と訓戒を与えることによって、主に従わなければいけません。

 子供に主の教育と訓戒を与える第一歩は、自分自身を主の教育と訓戒の下に置くことであります。自分を愛して、甘やかしているならば、子供に対しても何も言えなくなってしまいます。子供に言えば、それがすぐに自分に跳ね返ってくることを知っているからです。

 ダビデのことを思い出してください。彼はバテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その夫ウリヤを殺す罪を犯しました。彼は罪は赦されましたが、その後、自分の子供たちが罪を犯しました。息子アムノンが、違う母親を持つ妹のタマルを犯したとき、ダビデはアムノンを懲らしめることができませんでした。それゆえタマルの兄アブシャロムがアムノンを憎み、そして彼を殺しました。けれでも、ダビデは、アブシャロムを懲らしめることができませんでした。そこでアブシャロムはさらに罪を重ねて、とうとうアブシャロムは戦いの中で死にました。これらはみな、ダビデが自分自身を主にあって戒めることができず、罪を犯してしまったからであり、そして子どもを訓戒することができなかったからなのです。ですから、まず自分自身が主の教育と訓戒の中に生きることが必要なのです。

 そして、神の代表をしているという自覚を持ち、どのようにしたら自分の息子や娘が、神を神として理解することができるかを、いろいろ考えて、必要な言葉をかけてあげることが大切です。これが、パウロがここで勧めていることです。

3A 雇用関係において 5−9
 そしてパウロは、家族関係から離れて、雇用被雇用関係に話題を移します。
1B 奴隷が主人に従う 5−8
 奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。

 ここで「奴隷」というのは、現代では被雇用者のことです。ですから、私たちが会社の上司に対してどのように接していけば良いのかを考えればよいことになります。パウロの勧めは、「キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心から命令を聞く。」と言うことです。

 パウロが「真心から」と言っているのは、次の過ちを被雇用者が犯してしまうからです。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。

 上司のごきげんをとるという誘惑が雇われている人たちにはありますね。上司が見ているところでは、一生懸命働くのですが、見ていなければだらけてしまいます。裏表をつくってしまうのですが、クリスチャンはそうであってはならない、とパウロは言っています。キリストに従うように、従いなさい。真心から、善意をもって仕えなさい、と勧めています。

 良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。

 ここの言葉は、牧師や伝道者などの奉仕者ではない人たちには、必要なものです。なぜなら、サラリーマンをしている人でも、教会で奉仕をしている人でも、それぞれの報いを主から受けるようになるからです。教会についての事柄に仕えることだけが、主から報いを受ける方法ではないのです。会社でキリストにあって働くことも、主から報いを受けるのです。

2B 主人が奴隷を同じように扱う 9
 そして次は、雇用者、経営者に対する勧めです。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから。

 奴隷が陥ってしまう過ちは、うわべだけの仕事であったのに対して、主人が陥ってしまう過ちは、奴隷をおどしてしまうことです。あるいは、酷使してしまうことです。しかし、奴隷が主人に従うように、同じように、主人は奴隷に丁重に接していかなければいけません。その理由は、主の前では、奴隷も主人も同じところに立っており、主は平等に扱われているところにあります。

 こうして、私たちは、家族関係と雇用関係の中にある、互いに従うことについて学びました。これがみな、「御霊に満たされなさい」という勧めの続きになっています。私たちは、キリストに従うように、身の周りの人々に従っていくところに御霊が働いておられることを知らなければいけません。賛美をして感謝をささげていることだけが、聖霊に満たされていることではないのです。私たちはもともと、自分が主人になりたいと思っています。けれども、そうではなくしもべの姿を取るには、御霊の力が必要なのです。

 次回は、エペソ人への手紙のクライマックスになっている、霊の戦いについて学びます。


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