神にならう者 08/03/2001
「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。(エペソ5:1)」
パウロは、「ですから」という言葉を使っています。つまり、5章1節は、4章からの続きになっています。4章の最後である32節を読みますと、「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」とあります。私たちが苦みを捨てて、互いに赦し合って、心の優しい人となりなさいという勧めですが、どのように赦すかという基準が、ここには書かれています。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」という基準です。つまり、私たちクリスチャンの歩みは、「ほどほどに」とか、「他の人たちがやっているから」という基準によるのではなく、「神のように、キリストにように」という基準です。
ここでパウロが使っている「ならう」は、ギリシヤ語では、「模倣する」とか「真似をする」という意味になっています。「物まね大会」とか「日本人は模倣することが上手だ」という言い回しで使う「まねる」という言葉が使われています。「神を基準として、キリストを基準として」というと、到底自分にはできない高尚な生き方だなあ、と感じてしまうかもしれませんが、実は、「神の物まねをしなさい」と言っているのです。
そして、「愛されている子どもらしく」とありますね。パウロは、両親に愛されている子どものことを話しています。幼い子どもは、親から愛されていることによって生きています。そして、親が言うこと、行なうことを真似しながら生きています。私たちのところに、英語を習いに来ている子たちは、年齢が低ければ低いほど、英語の発音が上手です。THの発音を、「舌を上下の歯でかんで」と言わなくてもその発音を出します。Vの音を、下唇を噛みながら出して、と言われなくてもその発音をします。子どもはまねが上手いのです。人が言うこと行なうことをいっぱいに吸収して、それをそのまま行なおうとするからです。
そして、私たちは神に愛された子どもです。神が、キリストによって自分の罪をすべて赦してくださったのを知っています。ですから、この神を父としてあおぎ、幼子のように神の姿を観察し、それを真似てみることができるのです。
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