アウトライン
1A 主にあって強められる 10−20
1B 悪魔の策略に対して 10−13
2B 神の武具を身につけて 14−20
1C すべての武具 14−17
2C 祈り 18−20
2A あいさつ 21−24
エペソ人への手紙6章を開いてください。今日は、6章10節から最後までを学びます。メッセージ題は、そのまま「終わりのことば」です。パウロが、エペソ人への手紙をしめくくるに当たり、私たちに厳かに勧めている部分を学びます。
1A 主にあって強められる 10−20
1B 悪魔の策略に対して 10−13
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
パウロは、「終わりに言います」と言っています。この「終わりに」というのは、「残されたもの」という意味です。パウロがこの手紙を書いて、最後に残されている大切なことを、今から書こうとしています。それは、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」ということです。パウロは、これまでずっと、主にある大能の力について語ってきました。例えば、1章19節においては、「神の全能の力の働きによって私たちを信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものでるかを、あなたがたが知ることができますように。」と言いました。また、3章16節では、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」と祈っています。そして、パウロは、この主にある大能の力によって、強められなさい、と勧めています。
それには、理由があります。パウロがまだ書いていなかった霊的現実があるからです。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
パウロが、手紙の最後に、主の大能の力によって強められるように改めて勧めているのは、神に対抗し、またキリストにつく者たちに対抗する悪の霊的勢力がいるからです。パウロは、この手紙の端々に、悪魔と悪霊のことを言及していました。「(神は、キリストを)すべての支配、権威、権力、主権の上に、・・・置かれました。」と1章21節にはあります。また、2章2節には、「(あなたがたは)空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」とあります。そして、これらの霊的勢力は、キリストのうちにいる者たちをなんとかして滅ぼしてしまおうと、徘徊しているのです。使徒ペテロは、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(Tペテロ5:8)」と言っています。ですから、私たちは、主にある大能の力を、これら悪魔と悪霊の猛攻撃に対して用いていかなければならないのです。
そして悪魔の攻撃は、「策略」によってもたらします。よく計画された巧みな手法によって、欺きによって攻撃します。これには理由があるのです。それは、悪魔は、実際は、敗北者だからです。まず、悪魔は、全能者である神に対して歯向かっています。彼は、天使階級でも最高の地位にいましたが、それでも創造主の前ではちりあくたにすぎません。ですから、この時点で彼は敗北者です。さらに、彼は、キリストの十字架によって、決定的な敗北をしました。悪魔が、人を神から引き離すためのあらゆるの理由が、キリストの十字架によって取り除かれてしまいました。キリストの十字架は、完全な贖いを成し遂げ、すべての罪を取り除き、神が人に怒りを下されるあらゆる理由がなくなってしまいました。そこでコロサイ人への手紙には、「神は、十字架において、すべての支配と権威の武装をさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(2:15)」とあります。したがって、ローマ書8章には、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(8:37)」とあります。
したがって、悪魔が私たちキリスト者を攻撃するときは、これらの真実を歪めて、欺くという手法を取るのです。彼は「偽りの父(ヨハネ8:44)」と呼ばれています。私たちが、キリストが十字架で自分の罪のために死んでくださったことについて、その事実と力について歪め、嘘をつき、正反対のことを信じ込ませようとする手法に出てきます。そして、私たちをキリストにあって生きることできないようにし、あたかもキリストから離れて生きるように仕向けるのです。そこで、悪魔の「策略」に対して立ち向かわなければいけないのです。
そしてパウロは、この勢力に立ち向かうことを、「神の武具」として形容しています。パウロが今、ローマにおいて鎖につながれていることを思い出してください。自費で借りた家にいるのですが、鎖でつながれており、いつもローマ兵が看守としてそばにいました。そこでパウロは、ローマ兵の武具と武器を見ながら、私たちも、悪魔と悪しき霊どもに対抗するために、武具と武器を身に着けなければいけないのです。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
パウロは、この聖書個所に入る前に、私たちの日常生活についての勧めを行なっていました。夫婦関係についての勧め、親子関係、また職場についてのことを話していました。このような分野は、いわば「血肉」とパウロがここで言っている部分ですが、しかし、本質的には、このような日常生活も、霊的な戦場の場であることを知らなければいけません。パウロが、この手紙を書き始めるとき、「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(1:3)」と言いました。キリストによる、天における霊的祝福なのです。ですから、キリストにあって、私たちはこの地上の歩みを天的な力によって歩むことができます。
けれども、私たちは、日常生活において問題が、悪魔と悪霊どもによってもたらされていることを見失って、それらの問題を、目に見える物理的な方法で解決しようとしてしまうのです。そこでパウロは、「私たちの格闘は、血肉に対するものではない」と言っているのです。私たちの戦いは、どんな苦境にあっても、「私を強くしてくださる方によって、何でもできるのです。(ピリピ4:13)」と宣言することができるほどの、キリストによる天にある霊的祝福を、何とかして見えなくさせ、歪んだ情報を送り、嘘を信じさせる、天にいるもろもろの諸霊に対して立ち向かわなければいけないのです。慌てふためいて、物理的な方法で立ち向かおうとしてはいけません。
もう一つ付け加えなければいけない事は、悪魔はまだ「天にいる」ということです。悪魔は神の御座の周りからは追い出されましたが、まだ地獄に落ちてはおらず、底なしの所に鎖でつながれてもいません。聖書には「空中」という言葉が出てきますが、その天に悪魔はいます。そして、黙示録12章7節をご覧になると、天においてミカエルとその使いたちと、悪魔とその使いたちの戦いが起こって、悪魔が地上に投げ落とされることが書かれていますが、それが起こるのは大患難時代の半ばであります。つまり、将来の先のことです。したがって、悪魔は天において活発的に動いています。聖書信仰を持っていると言っているクリスチャンの中にも、悪魔のことをあまり意識しないで、悪魔があたかも存在していないか、どこかで鎖につながれているかのように考える人たちがたくさんいます。霊の戦いの現実を見ていない人が多いのです。しかし、ここに書かれているように、事実悪魔は、私たちクリスチャンに戦いを挑んでおり、私たちの霊的祝福がある天において、その祝福を奪い去ろうと躍起になっていることを知ってください。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
パウロは、「堅く立つことができるように」と勧めています。エペソ人への手紙には、クリスチャンに対して三つの言葉が使われています。一つは「すわる(2:6)」です。これは、私たちがキリストにあってどのような位置にいるのか、どのような状態にいるのかを知ることです。もう一つは、「歩む」です。これは、キリストを基準としてどのように生きていくべきかの指針を得ることです。そしてここに、「立つ」という言葉があります。これは、私たちが置かれているキリストの立場を保持すると言うことができるでしょう。あるいは、抵抗するとも言えますし、制止させるとも言えると思います。キリストの十字架によって征服した陣地に、猛攻撃をしかけてくる悪魔・悪霊どもに対して、神の武器をもって立ち向かうのです。
2B 神の武具を身につけて 14−20
1C すべての武具 14−17
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
神の武具を身に着けるときに、初めに行なうことは真理の帯を締めることです。当時は、男は、足のところまですそが来る、長い衣を身にまとっていました。けれども、仕事をしたり戦いに出るような活動をするときは、帯でそのすそを引き上げて動き回ることができるようにします。ですから帯を初めに締めて、他の武具を身に着け、それで盾なり、剣なりを取って戦いに出るのです。
私たちクリスチャンが戦いに臨むときに、初めにしなければいけないのは、偽りに対抗する真理の帯を身に着けることです。偽りの父である悪魔の策略に対して、立ち向かうことができるのは真理をもってであります。イエスさまは父なる神に、「あなたのみことばは真理です。(ヨハネ17:17)」と言われました。また、イエスさまご自身が真理であると、ピリポに対して語られました(ヨハネ14:6)。さらに、御霊が私たちをあらゆる真理へと導いてくださると、イエスさまはおっしゃっています(ヨハネ16:13)。悪魔は、私たちの思いに訴え、欺きます。また、私たちの心、感情に訴えます。しかし、私たちは己の悟りに拠り頼むのではなく、主に力を尽くしてより頼むのです。
そしてパウロは次に、胸当てとして「正義」を身につけなさい、と勧めています。胸は私たちの心のことを表しています。そこに悪魔は、絶えず私たちを告発しています。「お前は、このようにクリスチャンとしてふさわしくない歩みをしている。ほら、こんなことを行なっているだろう。あんなことを思っているだろう。だからお前は、クリスチャンらしくないのだ。」とささやきます。そして、悪魔は、私たちを、あらゆる宗教的行ないに駆り立てるのです。「ああ、もっと祈らなければいけない。」「ああ、もっと聖書を読んで、神に近づかなければいけない。」「伝道しなければ。」という焦りを作ります。そして、私たちをまんまと、行ないによって神との関係を結ばせるような状態へと引き込むのです。
しかし、それは真っ赤な嘘です!私たちは、律法の行ないではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められたのです!私たちの罪はすべて、キリストの十字架が取り除いたのです。神は、私たちの過去の罪、現在の罪、そして将来犯すかもしれない罪をすべて、キリストの十字架の血潮で、洗いきよめてしまわれました。「わたしは、もうあなたの罪を思い起こさない。」と言われています。それだけではありません。私たちは、もうこれ以上、正しくなることができないほどの完全な義を身に着けています。キリストの義です。私たちが何かの行為によって、神に受け入れられよう、神に近づこうなどとする必要は一切なく、私たちは、ただキリストの恵みによって救われています。
真理を知って、そしてキリストにある義を知ると、神との平和があることを知ります。そこでパウロは、「足には平和の福音の備えをはきなさい。」と言っています。神はもはや、罪のゆえに自分自身に敵対しておられないことを知ります。キリストにおいてすべての怒りを置いてしまわれたので、今は、和解の御手を伸ばされている神の御姿しかないのです。神は、私たちに対して怒っておられないのです!だから、私たちは、この良き知らせを周りの人に伝えたいと願うようになります。だから、足には平和の福音の備え、とあるのです。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
次の神の武具は、「信仰の大盾」です。大盾によって、兵士は自分の体すべてを守ることができます。同じように、私たちは、信仰によって自分自身を守ることができます。キリストが、私たちが神を喜ばせるためにしなければいけないすべてのことを、代わりにしてくださいました。ですから、私たちはただ、そのことを信じればよいのです。これが私たちのすべてなのです。しかし、悪魔は、何とかして、私たちを行ないの中に引きずり込もうとしています。…いや、すでに私たちを引きずり込み、ぼろぼろになるまで痛めつけているかもしれません。キリスト教会の中に、悪魔の大きな嘘が吹聴されています。それは、クリスチャンとしての良し悪しが、私たちの行為によって決まるというものなのです。キリストの十字架のみわざから離れて、何か自分が思い描いた行動パターンを行なうことによって、自分を満足させようとします。そのときには、キリストという名前も、キリストの十字架という言葉も使われるかもしれませんが、中身のない宗教に化してしまっているのです。
私たちは、どうしても自分自身で何かを行ないたいと思ってしまうのです。しかし、すべては完成しており、私たちは信じることだけで生きていくのです。では、何もしなくて良いのか…いいえ。私たちが信じるときに、心から喜びと感謝が溢れ出します。キリストの愛に圧倒されて前に向かって進むことができます。だから、信仰の大盾を取らなければいけません。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
兵士はもちろん、自分の頭を守るためにかぶとをかぶっています。そこでクリスチャンは、救いのかぶとをかぶらなければいけません。自分が確実に救われているという、確信と確証を持たなければいけません。
私が前回、エペソ人への手紙5章で、キリストと教会の関係について教えたときに、教会は今、キリストのみことばによって、きよめられることによって、花嫁修行をしているのだ、という話しをしました。私はそのとき、− ここで謝らなければいけないのですが、− 一つの間違いを犯していました。それは、イエスさまが再び来られるときに、聖く傷のない姿になるべく、私たちが徐々にきよくなっていく、ということを話していたからです。しかし、先日、ここの聖書個所をある聖書の学びで読んだときに、それは間違いであることに気づきました。5章の26節、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」とありますが、これは現在の私たちの姿ではなく、すでに起こった過去のことだったのです。キリストがご自分を教会のためにおささげになった時点で、教会は聖い傷のないものにすでにされていたのです。ギリシヤ語では、一回性の時制をあらわすアオリストが使われています。
ということは、私たちは今の時点で、既にキリストによって罪からきよめられ、罪から離れているのです。そして、キリストが再び来られるときには、私たちのからだが一瞬にして変えられて、栄光の教会としてキリストの御前に立つことになります。ですから、「自分がどれだけ聖められているのか」という心配は、一切する必要がないのです。ですから、救いは確実なのです。私たちを罪から引き離してくださったのも神であるし、この罪をなくしてしまわれるのも神です。私たちは、救いを自分たちにではなく、神ご自身に求めることができるのです。ですから、「救いのかぶとをかぶりなさい」とパウロが勧めています。
そして、「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」とあります。神のことばは、御霊が与えてくださっているものであることに、注目してください。ですから、神のみことばは、人が解釈したり、説明したりして力を持つのではなく、そのみことば自体に力があるのです。イエスさまが、悪魔に抵抗されたとき、彼のささやきに対して、聖書のことばを引用して対抗されました。「〜と書いてある。」と言われました。私たちも同じなのです。聖書を理解する人間の言葉ではなく、神のみことばそのものを持って、戦うのです。
聖書には「罪」という言葉が出てきますが、ドフトエスキーの小説には「罪と罰」という言葉が出てきます。「平和」という言葉が出てきますが、人間の世界でも平和という言葉はたくさん使われます。しかし、聖書のことばを読むときに、これらの人間の言葉と重ね合わせながら読むのであれば、それは悪魔の思う壺なのです。神のみことばは、あくまでも御霊によるものなのです。したがって、そのまま、人間のフィルターを通さずに、御霊が語りかけてくださるままを聞かなければならないのです。そして、そのみことばこそが、私たちに力を与えます。
これは伝道をするときも同じです。人にキリストのことを話すときに、自分で説明したキリスト教を話しているでしょうか。それとも、聖書のことばをそのまま引用しているでしょうか?私たちの言葉は、その人の魂を救いません。神のみことばが、その人の魂を救うのです。私たちの剣は、神のみことばであります。
2C 祈り 18−20
そしてパウロは、祈りについて話しています。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。
この祈りは、ここで話されている霊の戦いと直結しています。ギリシヤ語では、17節から続いて一文になっています。これは、自分が霊の戦いの中にいることを十分に認識して、切迫感を抱きながら熱心に祈りつづけている姿であります。「すべての祈りと願い」の「願い」という言葉は、切なる思いをもって、主に願いを申し立てている姿です。
私たちは、絶えず目をさましていなければいけません。自分の周りで起こっていること、自分の知り合いや友人、家族の中で起こっていること、これらの状態を、御霊によって見分けていく必要があります。先ほど話しましたように、日常生活で霊の戦いは繰り広げられているのです。そして、何かが起こったときに、私たちはすぐ神に対して、祈りに訴えることができます。用意が出来ていなければ、相当大変なことが起こるまで何も気づかないでいるか、慌てて人間的な解決法を求めるかのどちらかになってしまうからです。
そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
「すべての聖徒のために」祈りなさいとありますが、これはインターネット用語を用いるなら、祈りのファイアーウォールをつくる、と言ったら良いでしょう。ファイアーウォールというのは、インターネットの中にアクセスしているときに、外部からハッカーが侵入してくるのを防ぐ電子包囲網のことを指しています。私たちが互いに、クリスチャンの仲間のために、祈りの包囲網を作らなければいけないのです。今、私たちのところには、カルバリーチャペル・コスタメサの、宣教師たちの祈りの課題が、毎週メールによって送られてきます。その中の知っている人たちのために、私たちは祈っています。これを忘れてしまうときもあります。けれども、それではいけないのです。包囲網に穴が空いてしまうからです。
そして「忍耐の限りを尽くし」祈りなさいとあります。これは辛抱して祈り続ける、と言っても良いでしょうか。なかなか祈りが聞かれないので、祈ることをやめてしまうことがしばしばありますが、それは霊の戦いにおいては禁物です。ダニエルが祈っていたときのことを思い出してください。彼は三週間祈っていました。そうすると、御使いがやって来ました。ダニエルの祈りが聞かれたのです。けれども、その御使いはダニエルに、ペルシヤの君が自分に立ち向かって立っていた、と話しています(ダニエル10:13)。ペルシヤの君とは、ペリシヤ国を支配する悪霊のことです。ですから、私たちが祈るとき、そこでは壮絶な霊の戦いが繰り広げられていることを知る必要があります。そのときに必要なのは、忍耐の限りを尽くすような、しつこい祈りです。
また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
パウロは今、すべての聖徒のために祈りなさい、と言ったので、それを自分自身の当てはめています。どうか、聖徒の一人として、私のために祈ってください、とエペソの人たちにお願いしています。これは大事ですね。私たちはすぐ、このように兄弟姉妹に、自分の祈祷課題を臆せず出す必要があります。自分のことだからと言って、遠慮してはいけないのです。祈りの包囲網を作るのですから、どんどん祈ってもらう必要があります。ここの場合は、パウロが大胆に福音の奥義を語ることができるように、との祈りの要請です。
2A あいさつ 21−24
そして、終わりのことばとして、パウロはあいさつをしています。
あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。
テキコは、パウロがローマで鎖につながれているとき、そばで世話をしていました。彼がこのエペソ人への手紙と、またコロサイ人への手紙をパウロから受けとって、アジヤ地方に行きました。
テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。
テキコがパウロについて近況報告をエペソの人たちにすることによって、エペソの人たちが心励まされるようにしたい、というのがパウロの願いです。
どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。
平安と信仰と愛。そして愛と恵みのことばをもって、パウロはこの手紙をしめくくりました。
これでエペソ人への手紙が終わりました。次は、ピリピ人への手紙ですが、これもパウロが囚人になっているときに書かれた手紙です。主のご計画はとても不思議です。パウロが宣教活動が行なえず、無駄に時間を費やしているのではないかと人間的には思われるときに、福音の奥義をこうも明瞭に表すような手紙を、聖霊によってパウロは書き上げたのでした。私たちも、時間をむだに過ごしているのでは、と思われるような出来事が起こったりしますが、しかし、その中で主は確実に働いておられます。
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