ガラテヤ人への手紙1章 「人間によらない福音」

アウトライン

1A 神によるもの 1−10
   1B キリストの恵み 1−5
   2B かき乱す者たち 6−10
2A イエス・キリストの啓示 11−24
   1B 恵みによる召し 11−17
   2B ほかの使徒からの教え 18−24


本文

 ガラテヤ人への手紙1章を開いてください。ここでのテーマは、「人によらない福音」です。

 私たちはこれまで、コリント人への手紙第二を学んできましたが、そこでの問題はにせ使徒たちの存在でした。その彼らが、パウロについてあれこれと言い、その中傷によってコリントの人たちがパウロに対する信用を失いかけていました。その信用を回復して、再び彼らに仕えていくことができるよう、パウロはこの手紙を書きました。

 ガラテヤ人への手紙も、同じように、偽教師たちの問題がありました。彼らは、エルサレムの教会から来た者たちであると主張し、パウロは、自分たちとともに使徒たちの下で学びをしていたと言っていたようです。そして、パウロが宣べ伝えている福音をくつがえすようなことを話し始めました。それは、私たちが救われるのは、信仰によるだけではない。イエス・キリストを信じるだけではなく、もっと他にすることがあると教えました。具体的には、モーセの律法を守り行ない、割礼を受けなければ救いにあずかることができない、と教えたのです。そこでパウロは、事の深刻さを知りました。彼が宣べ伝えていた福音が変質し、まったく異なるものとなっている。そして、ガラテヤの人たちは、その偽りの教えを受け入れてしまい、自分たちが立っているところを失ってしまいました。これがパウロがこの手紙を書いた背景です。

 ガラテヤ人への手紙を一言でまとめるならば、「キリスト・イエスにある自由」でしょう。私たちは、神の恵みによって、キリストを信じる信仰によって生きています。その自由を奪い取るような要素が、教会の中に、私たち個人の信仰の中に忍び込んできます。私たちは、この自由を守るべく、しっかりと心を見張っていなければいけません。

1A 神によるもの 1−10
 それでは本文を読みましょう。
1B キリストの恵み 1−5
 使徒となったパウロ・・私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。・・

 パウロは注意深く、自分が使徒となったのは、人間から出たことでもなく、人間の手を通したことでもない、と言っています。パウロは、1章において、このことを何回も繰り返しています。使徒となったのは、人による任命ではない。また、私が宣べ伝えている福音は、人によって教えられたのではなく、イエス・キリストの啓示である。私が宣べ伝えている福音は、神ご自身から来たものであり、キリストご自身のことばである、と言うことです。

 偽教師たちは、エルサレムの教会とのつながりを強調したようです。あなたがたがこのつながりの中にいなければ、救いを得ることはできない。あなたがたは、エルサレムで教えを受けたこの私たちの教えを受けることによって、初めて信仰を保つことができる、と教えていたようです。そこでパウロは、人からの任命は本質的な事柄ではない。大切なのは、イエス・キリストご自身と父なる神ご自身からの任命である。しかも、死者の中からよみがえられたところの、復活のキリストからの任命を私は受けた、と言っています。

 ですから、パウロが宣べ伝えていた福音は、人間の鎖の中につながれていたものではありませんでした。そうではなく、神ご自身につながれていた福音です。神がキリストにおいて成してくださったこと、そのことに縛られているところの福音宣教です。これが本物の召しであり、私たちが求めなければいけない召しです。したがって、私たちの資質は、いかにキリスト・イエスを知っているかにかかっています。神がキリストにおいてしてくださったことを、いかに自分のものとして受けとめているかが、私たちの課題にならなければいけないのです。

 および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。

 受取人は、ガラテヤの諸教会になっています。この手紙は、一つの教会に宛てられたものではなく、ガラテヤという一つの地域の中にあるいくつもの教会に対して送られたものです。ガラテヤは小アジヤ、つまり現在のトルコの中にある一地域です。

 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 これは、他のパウロの手紙にも見ることのできる、いつものあいさつでありますが、けれども、ガラテヤ人への手紙では、この当たり前のあいさつをさえできないような、根底からのなしくずしがありました。つまり、神の恵みを台無しにするような教えです。イエス・キリストを信じる信仰だけでは不充分である。その他に、あなたはこれこれのことをしなければいけない、と教えていました。これに対し、パウロは非常に激しい語調で論駁しています。

 そして次に、この恵みの中身について、パウロは語っています。福音とは何かが、この短い2節の中に盛り込まれています。キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 父なる神と主なるイエス・キリストからの恵みとは、初めに、それがキリストご自身のみわざである、ということです。私たちが神のために行なったことではなく、神がキリストにおいて行なわれたことにすべてが基づいています。ここが、私たちが聖書理解、また信仰生活で知らなければいけない死活的なことであります。私たちは、自分たちの行ないによって報酬を得るという行動パターンがもっとも自然です。因果関係がはっきりしているからです。そこで、私たちは、自分たちがしなければならないことが書かれてある聖書個所に目が留まります。しかし聖書を客観的に読みますと、実は神が私たちのためにしてくださったことのほうがたくさん書かれております。「初めに、神が天と地を創造した。」という冒頭のことばもそうですね。ですから、私たちの課題は、自分たちではなく、キリストが行なわれたことに目を留めることです。

 次に、「キリストは今の悪の世界から私たちを救い出そうとして」と書いてあります。これは、神の恵みの目的です。何のためにキリストが恵みを注いでくださったのか。これは、私たちが今の悪い世界から救い出されるためです。神の恵みの話題についてクリスチャンの間で語られるとき、人々は、それでは何の行ないもしなくてもよいのか。今のままでOK、何の問題もありません、というような物言いを聞きますが、これは異端です。神の恵みを知ることによって、私たちは罪から離れ、罪に打ち勝ち、ついにはからだの贖いによって、罪そのものをなくしてしまうのです。罪の中に生きるのではなく、罪に対して死に、キリストに対して生きることができます。

 そして、「私たちの罪のために」とあります。これは恵みの理由です。なぜ神の恵みが私たちの上に注がれたか、それは、私たちが罪を犯したからです。「恵み」という言葉はいろいろな意味で使われますが、例えば、良い天気に恵まれたとか言います。しかし、聖書における恵みは、罪を犯したことに関わります。罪を犯したのにも関わらず、死ではなく永遠のいのちを持つところに現われます。罪を犯せば、その報いは死です。しかし、神は、その罪によって永遠のいのちをもたらすところのみわざを行なってくださったのです。そして、「ご自分をお捨てになりました」とあります。これは恵みの手段です。どのようにして、罪によって人に永遠のいのちをもたらすのか。罪によれば死ではないか。なのにどうして?ということにありますが、それはキリストが身代わりに私たちの罪に対して死んでくださったからです。キリストが私たちの罪のために死なれ、私たちはキリストの義のゆえに生きているのです。交換をしたわけです。キリストが私たちにご自分の義を手渡し、私たちがキリストの自分たちの罪を手渡しました。キリストが死に、私たちが生きたのです。これが神の恵みが働いた方法です。

 そして、「私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」とありますが、これは、恵みの計画です。これらの恵みのわざをキリストが行なわれたのは、前もって父なる神がお定めになったことでした。ユダヤ人の指導者たちの陰謀によって、キリストは死に渡されたのですが、実は、神は天地が創造される前から、このことを永遠の贖いのみわざとしてお定めになっていました。そして最後に、「どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン」とあります。これは恵みの目標です。恵みが注がれたのは、人にではなく、神ご自身に栄光が帰されるようになるためです。もし私たちの功績によって、何かを成し遂げたのであれば、その栄光は私たちに帰されることになります。証しと称するこのような自慢話が、キリスト教会の中でまかりとおっています。これだけの祈りをしたから、聖霊のバプテスマを受けました。教会の人数がふえました。あの人は、こんなにささげています、など、人の功績がたたえられているのです。しかし、それは恵みではありません。神は、あえて称賛を受けるに値しない者、いや、罰を受けるに値する者をあえて引き上げ、そして義の冠をかぶせるようにしてくださいます。それによって、だれにも栄光が帰せられず、ご自身のみがほめたたえられるように仕向けられたのです。

2B かき乱す者たち 6−10
 こうしてパウロは、あいさつの中に神の恵みの中身について話しました。しかし、この恵みの福音を本質から変えてしまい、ガラテヤ人たちをかき乱していたやからを糾弾しています。

 
私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。

 パウロは非常に驚いています。今、パウロが説明したとおり、私たちを召し出された神は、こんなにもすばらしいキリストの恵みを私たちに注いでくださいました。ところがこの神を見捨てて、自分たちをがんじがらめにする福音に移って行ってしまったことに驚いています。私たちは、解放と自由を与えるものを求め、自分を奴隷にするものを拒むのが当然であると考えますが、実はその逆を行なっていることが、しばしばあるのです。


 
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

 ここの「ほかの福音」というところの「ほかの」というのは、「ヘテロス」というギリシヤ語が使われています。「ほかの」という言葉には、アロスというギリシヤ語とヘテロスというギリシヤ語がありますが、アロスは、同じ性質のもので異なるもの、という意味があるのに対して、ヘテロスは異質のものという意味があります。例えば、イエスさまはご聖霊のことを、「もうひとりの助け主」を呼ばれましたが、聖霊がご自分と同じ性質を持っておられる、ということを意味しておられます。けれどもここでは、ヘテロスです。つまり、福音と言っても、実はその中身がまったく異なる、福音とは呼べない代物である、ということです。私たちは悪魔の仕業に注意しなければいけません。イエス・キリストの福音を宣べ伝えているなかで、「そしてですね…キリストを信じることの他に、これこれのことをしなければいけません。」という言葉を付け加えるとします。そうすると福音に何かを付け加えたのではなく、福音そのものを全く変化させてしまうことになるのです。

 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

 パウロは、ものすごい強い言葉をここで用いています。のろわれるべきである、アナテマです。地獄へ落ちよ、永遠の滅びへと向かえ、というような非常に強いことばです。それだけ、福音を変えてしまうことが恐ろしいことであるかが分かります。パウロは、天の御使いであっても、そして私たち自身であっても、と言っています。どんなに信頼できそうな存在が来ても、私たちはそれを決して信じてはいけないのです。どんなことがあっても、意固地になっても、たった一人になっても、パウロたちが宣べ伝えた福音に反することを言う者たちに対しては、ノーと言って、はねつけるべきなのです。

 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

 パウロは再び繰り返しています。それほど、このことが深刻であることを表しています。

 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

 パウロが取り入ろうとしているのは神であります。父なる神が、キリストにおいて自分に恵みを注ぎ、さらに、自分を使徒として任命してくだいました。ですから、神のみを喜ばせることを求め、人の歓心を買おうとしてはいけません。しかし、ここが人間の陥るわななのです。なぜ、自由をもたらすところの福音ではなく、束縛をもたらすところの規則に移って行ってしまうのか。それは、人に取り入ろうとする私たちの肉の弱さなのです。恵みの福音をもっとも嫌い、それを何とかして抹殺したいと願うのは、他でもない人間自身なのです。パウロはあとで、「私は律法に対して、律法に死にました。」と言いましたが、キリストの福音は、私たち自身に死を宣告します。義人はいない、ひとりもいない、神を求める者はいない。すべての者は神のさばきに服する、ことことを受け入れなければいけないのです。したがって、キリストの福音を受け入れ、それを宣べ伝える者には、根本的に外からの迫害が付きまといます。したがって、私たちは、この迫害を免れたいという思いが働き、人々に受け入れられやすい話を作り上げてしまう誘惑を受けるのです。これがパウロがここで話していることであり、パウロは、人ではなく、神に取り入らなければ、キリストのしもべではないと言っています。

2A イエス・キリストの啓示 11−24
 そしてパウロは、自分自身がこの恵みにあずかった者であることを、次から証しします。

1B 恵みによる召し 11−17

 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

 パウロは、自分が使徒となったことだけではなく、自分が受け取ったメッセージもまた、人間を通してではなく、イエス・キリストご自身が示してくださったものである、と言っています。パウロは、ダマスコに行く途上で、復活のイエスさまに出会いました。そのイエスさまご自身から、福音の啓示を受けました。したがって、だれか他の使徒から教わったことでもなく、純粋に神からのメッセージであることをここで訴えています。

 ここから私たちは、人をとおしたところの教えではなく、主イエス・キリストご自身との出会いが必要であることをします。むろん、私たちはパウロのような啓示を受ける必要はありません。パウロが受けたこの啓示、聖書という神のことばがあれば十分です。また、この聖書を教えるところの教会をとおして、イエス・キリストを知ることができます。しかしながら、私たちは、直接的なイエス・キリストとの出会いがなければ、それは恵みの福音にはならないのです。人から教わったことをそのまま受け入れ、そして、その教えの中に生きているうちは、それは福音の中に生きているとは言えません。必ず、個人的に、人格的に、イエスさまにお会いしたという証しを持っていなければならないのです。

 そこでパウロは、自分の過去を話し始めます。以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。

 彼は自分の信じていた宗教への熱心さのゆえに、教会を迫害し、滅ぼそうとしました。彼は教会のことを「神の教会」と呼んでいます。彼は、このことがとてつもない重い罪であることを認識していたのでしょう。クリスチャンを迫害することによって、神ご自身を迫害していたのだ、ということを知ったからです。むろん、彼は神のあわれみを信じていたので、それによって悩まされることはなかったようです。

 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

 彼は、他のだれよりもユダヤ教に進んでいました。律法の行ないによって生きていたと言えば、まさにパウロがその人だったのです。

 ところが、この人生が一変します。パウロは、キリストとの出会いについて話し始めます。けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、

 神は、パウロを、恵みをもって召してくださいました。そして、律法主義の第一人者を、恵みの福音の第一人者と変えてくださいました。これが神の恵みです。もっともふさわしくない者を用いられるのです。そして、ここでパウロは、「生まれたときから私を選び分け」と言っています。「生まれたときから」というのは、母の胎内にいるときから、というのが直訳です。彼は、自分がイエス・キリストの知識に至る前から、母の胎内にいるときから、神がこの働きのために自分を召してくださったのだ、ということが分かりました。ローマ書9章には、ヤコブが選ばれて、エサウが退かれたことが書かれていますが、その選びが行なわれたのは、善悪を行なっていない母の胎内にいるときからである、とあります。自分が召し出されたことが、自分が何かを行なったからという何か原因を探し出すがまったくできません。パウロは、そのときから選び分けられ、生まれてからの自分もすべて神によって導かれ、そして信仰に至ったことを知っていました。同じように、私たちの人生にも神が関わってくださいます。私たちが何かを行なったからという人生ではなく、神がこのように行なってくださったという恵みの足跡を見ることができます。これが恵みの福音であります。

 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、神が、パウロのうちに御子を啓示することをよしとされました。彼が宣べ伝えたのは、御子ご自身であります。御子ご自身が福音であります。何か抽象的な考えでも、キリストについての教えでもなく、「主イエス・キリストを信じなさい。」という、キリストご自身を受け入れるところのメッセージだったのです。ですから、私たちが人から教えられるところの考えを受け入れるのではなく、キリストご自身に出会わなければならないことが、ここでも分かります。

 私はすぐに、人には相談せず、先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

 パウロは注意深く、偽教師たちの主張に対して、反論しています。ユダヤ主義者の偽教師たちは、パウロが、エルサレムにおいて使徒たちから律法の教えを受けた、と主張していたようです。しかし、パウロはそんなことをしてはいない、とここで反論しています。彼はすぐアラビヤへ行きました。そこには、彼を教えることができるような使徒たちはいません。こうして、彼は、自分が宣べ伝えている福音は、純粋にキリストご自身の啓示であり、キリストのことばそのものであることを弁明しているのです。

2B ほかの使徒からの教え 18−24
 それから三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒にはだれにも会いませんでした。私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。

 パウロは、エルサレムを訪れていたことを否定しませんでした。けれども、それは彼が回心してから三年後のことであります。そして、ケパつまりペテロを訪ねたのはたった15日間であり、彼から教えを受けるような時間はありませんでした。そして、主の兄弟ヤコブにだけ会って、ほかの使徒にはだれにも会っていないと言っています。主の兄弟ヤコブとは、ヨハネの兄弟ヤコブがヘロデ王によって殉教したあとに、エルサレムの教会の指導者として立たせられた人です。イエスさまの半兄弟でもあります。

 それから、私はシリヤおよびキリキヤの地方に行きました。

 シリヤ、キリキヤ地方、つまりアンテオケのほうです。彼は異邦人への福音伝道に召されていましたから、ユダヤ地方にはおらず、そのままシリヤとキリキヤ地方にいたのです。

 しかし、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られていませんでした。

 ユダヤ主義者たちは、自分たちがパウロのことを知っていると言いふらしていたのでしょう。パウロ本人は、彼らのことを何も知りません。そこで、このように言っています。

 けれども、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。」と聞いてだけはいたので、彼らは私のことで神をあがめていました。

 ユダヤ地方には一度も顔を出しませんでしたが、彼の噂だけはユダヤの教会には伝わっていたようです。それを聞いて、彼らは神をあがめていました。ユダヤ主義者たちは、異邦人が割礼を受けて、モーセの律法を守らなければ救われないと、言っていましたが、ユダヤ地方の教会の兄弟たちは、異邦人への福音宣教を聞いて、かえって喜んでいました。つまり、おかしいのはパウロではなく、このユダヤ主義者たちです。

 こうしてパウロは、自分が宣べ伝えるところの福音は、神からのものであり、イエス・キリストの直接の啓示であることを語りました。偽教師たちの教えが間違っているとかとやかく言うまえに、自分自身がこの恵みに浴していることを語りました。偽教師たちには、そのような経験はむろんなかったわけです。私たちが信じるところの福音は、このパウロからのものでなければいけません。つまり、自分が、人から教えられたところにとどまり、教えられたものだけを受け入れ、従っていくのではなく、神から直接、イエス・キリストを示していただかなければいけない、ということです。自分の本質的な信仰が、イエス・キリストとの実体験になっていなければいけません。使徒ヨハネは、「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。(Tヨハネ2:27」と言いました。また主ご自身が、「わたしから学びなさい。」と言われました。私たちの歩みが、人から言われたところの規則や決まり事によって縛られるのではなく、神ご自身の恵みの中に生かされたものとなりますように、お祈りします。


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