神の恵みとは? 2001/02/13

パウロはガラテヤ書1章4、5節において短く、恵みとは何かについてまとめています。
「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

「キリストは」:これは、恵みの本質です。私たちが神のために行なうべきことよりも、神がキリストにあって行なってくださることであります。私たち人間は、自分が行なったことに応じてその報いを得るという行動パターンが最も自然です。因果関係がはっきりしているからです。そこで、聖書を読むときにも、また教会生活においても、自分がしなければならない部分に目が留まります。しかし、聖書には、神が私たちのために成されたことのほうが中心に書かれています。冒頭も、初めに、「神が」天と地を創造された、とあります。

「今の悪の世界から私たちを救い出そうとして」:これは、恵みの目的です。恵みについてクリスチャンの間で語られるとき、「それでは何も行なわなくてもよいのか」とか、「今の自分でOKです。問題はありません。」というような話が出てきますが、それらは、この目的に反しています。私たちは、神の恵みを知ることによって、初めて罪から離れ、罪に打ち勝ち、またからだの贖いによって、罪そのものをなくすという経験をすることができるのです。

「私たちの罪のために」:これは恵みの理由です。ローマ書5章には、「罪の増し加わるところに、恵みも増し加わった」とあります。私たちが罪を犯したのですから、神の正義によれば、私たちは死に値します。しかし、神はご自分の恵みによって、罪人に永遠のいのちをお与えになりました。

「ご自分をお捨てになりました」:恵みの手段です。罪を犯した者に、どのようにして永遠のいのちが与えられるのか?このような逆説的なことが、どのようにして起こったのか?それは、キリストが身代わりに死んでくださったことによります。ちょうどこれは、交換をしたようになっています。私たちの罪と死を、キリストに手渡し、キリストが罪人に数えられ、死なれました。代わりに、キリストの義といのちをキリストは私たちに手渡し、私たちが義人と認められ、永遠のいのちを持ちます。

「私たちの神であり父である方のみこころによったのです」:これは、恵みの計画です。キリストが行なわれたことは、天地が創造される前に、父なる神がすでにお定めになっていたことでした。ユダヤ人指導者たちの陰謀によって、キリストは死に渡されたのですが、神が永遠の贖いの計画を成し遂げるために計画されていたことでした。

「どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン」これは、恵みの目標です。恵みが注がれたのは、人にではなく、神ご自身に栄光が帰されるためです。私たちの功績によって何かが為されたのであれば、私たちに栄光が及びます。証しと称して、実は自慢話であることが、キリスト教会でしばしば起こります。これだけの祈りをささげたから、これだけ献金したから、このような祝福が与えられました云々という話を聞きますが、それは恵みではありません。むしろ、称賛を受けるに値しない者、罰を受けるにふさわしい者があえて引き上げられるところに、恵みの冠があります。神は、そのことによって、ご自分のみがほめたたえられるように意図されているのです。


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