アウトライン
1A 子としての身分 1−11
1B 監督下の子ども 1−7
2B 幼稚な原理 8−11
2A 良いことでの熱心さ 12−20
1B 苦しみの中の喜び 12−16
2B 自分たちへの熱心さ 17−20
3A 自由の女の子ども 21−35
1B 奴隷から生まれた子 21−27
2B 約束の子ども 28−31
本文
ガラテヤ人への手紙4章をお開きください。ここでのテーマは、「神による相続人」です。
パウロは、3章から、アブラハムの子孫に与えられた祝福の約束について語っていました。アブラハムが信仰によって義と認められたように、信仰による者がこの約束を自分のものにすることができる、ということでした。私たちが神さまから受け入れられようとして何かを行なうとしても、祝福を得ることはできません。けれども、キリストが自分の罪のために死んでくださったことを信じるだけで、神にあるすべての霊的祝福がすべて私のものになっています。3章26節には、「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」とありました。そこでパウロは、4章において、神のものを受け継ぐことができている、神の子どもとしての身分について話しています。自分とは何であるのか、そのアイデンティティーを発見することができます。
1A 子としての身分 1−11
1B 監督下の子ども 1−7
ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
パウロは今、律法の中で生きていたイスラエルの人々のことを話しています。イスラエルの生活が、その律法の監督と管理の中で奴隷と何ら変わらなかったことを話しています。この状態を分かりやすく説明するために、今、まだ成人していない、監督下にある子どもの例えを用いています。裕福な家庭で生まれた男の子がいたとします。その子は、父親のものを後々受け継ぐことができますが、ある一定の歳にならなければ、その財産について一切、自分の自由になることはありません。小さい時は、父が雇っている後見人や管理者によって常に監視されており、「あなたは、今日、これこれのことをしなさい。」という規定とルールに従っていかなければいけません。これが、キリストが来られる前の、律法の下で生きていたイスラエル人であります。アブラハムに約束された祝福を受け継ぐ前に、イスラエルは律法の下での厳しい監視の中にいました。道徳的なことだけではなく、行政司法、結婚、食事規定、着る物、清めの儀式、犠牲のいけにえの制度など、事細かに守るべき事柄が与えられていました。約束のものは、まだ受け取っていなかったのです。
けれども、アブラハムの約束の子孫、イエス・キリストがこの世に現われました。しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
神は、ご自分がよしとされる時に、ご自分の子をこの世に遣わされました。そして、この子を女から生まれた者、律法の下にある者となさいました。それは、律法の下にあるものが贖い出されて、自由な身、相続を受ける成人の身にしてくださるためであります。イエスは神でありながら、人の姿を取ってお生まれになりました。「女から生まれた者」とあります。そして、ユダヤ人としてお生まれになり、育ちました。律法を守り、律法の中で生きるようになさったのです。それは、慣習としての律法を守られただけではありません。律法が要求するところの呪いをも私たちの代わりに、その身に受けてくださいました。イエスさまがそのような姿を取ってくださったので、私たちは代わりに、神の子どもの身分をいただくことができたのです。神のものを受け継ぎ、神の国を相続する者とされました。
そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
「アバ」というのは、「おとおちゃん」というぐらいの親愛のこもった父親への呼びかけです。これはヘブル語ですが、パウロはあえてこの言葉をギリシヤ語に訳すことなく、そのまま使っています。もし神が、私たちにとって主人のような存在であれば、私たちは神をこのような親しみのある言い方をすることはできません。しかし、神が父であれば、私たちは親しみをもってこの方に近づくことができます。
神は、「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
私たちは、キリストを信じる信仰によって、神との関係が、主人と奴隷のような雇用関係ではなくなりました。むしろ、父と子のような愛の関係に変わったのです。奴隷と変わらない、監視下に置かれている小さな子どもではなく、自由に動き回れる成人となったのです。「これをしなさい。あれをしなさい。」と命じられて動くような規則は存在しません。ただ、父を喜ばせたいという愛が動機となって、すべてのことを行なっていきます。これが、神の子どもとして与えられている身分であり、がんじがらめの規則から解放されている姿であります。
2B 幼稚な原理 8−11
しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
パウロは、以前異教徒であったガラテヤ人に対して語っています。イスラエル人が律法の教えの監督下にあったように、ガラテヤ人たちも異教の教えと儀式の奴隷になっていました。これは、日本人である私たちであれば、容易に理解できることです。仏式の葬式にまつわる数々の儀式が、どれだけ人を束縛しているかは、見てのとおりです。家族の間にある信頼関係、愛の関係が、くだらない無意味な一つのしきたりによって壊れてしまうことが多々あります。唱えられているお経は分からないのに、お金を張っておけば供養されると信じて坊さんに高い金を払ったりします。これこそ、本来は神ではない神々の奴隷であると言えるでしょう。ガラテヤ人も以前は、そのような者だったのです。
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。あなたがたは、各種の日と月と季節と年とを守っています。
ガラテヤ人たちは、神を知ることにより、そのような異教を捨て去りました。キリストにあって自由にされました。しかし、偽教師たちが彼らの教会に入り込み、モーセの律法を守らなければ救われないと教えたのです。その教えを受け入れて、彼らはさまざまな儀式を行ない始めました。各種の日と月と季節と年とを守っています、とありますが、日は安息日のことです。月は新月のことでしょう。季節は、過越の祭りなど例祭と言われているものです。そして年は安息年やヨベルの年がありました。このようなものを守っているのは、あなたがたが昔、がんじがらめになっていた異教と何も変わりないのですよ、と言っています。私たちも、このことに気をつけなければいけません。日本人として行なってきたしきたりはもう捨てました。けれども、教会の中で新たな規則をつくり、その規則にがんじがらめになることがあるのです。私たちが神にお仕えする動機は、ただ神を愛する愛からであるべきなのに、その規則を守るべく動いていくという、ガラテヤ人たちの逆戻りを行なってしまいます。
あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。
パウロは、自分が福音をガラテヤの地域に宣べ伝えたのにもかかわらず、彼らが異なる福音を受け入れてしまったことにがっくりきています。彼らは、神を捨て去ってしまい、キリストを捨ててしまったのです。信者であったところから、不信者になってしまったのではないか、と案じています。
2A 良いことでの熱心さ 12−20
しかしこれ以上、パウロが厳しく責めつづけたら、そのままガラテヤ人との対話は切れて行ってしまうかもしれません。彼らが悔い改めて、神に立ち返り、恵みの福音に戻ってくれることが、パウロの願いです。自分たちがパウロによって断罪されている。もうパウロとは無関係である、という決断をしてほしくないので、今、自分が彼らに対する愛を表明していきます。
1B 苦しみの中の喜び 12−16
お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。
「私のようになってください」と言うのは、キリストにある自由をもって生きているパウロのことを指しています。「私もあなたがたのようになったのですから」というのは、パウロがユダヤ人であるのに、モーセの律法にこだわらずに、ガラテヤ人たちのようになったことを表しています。そして「あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。」というのは、「あなたは私を傷つけるようなことは何もしていませんよ。」ということです。パウロがなぜこんなにも怒り口調で手紙を書いているのか、訳がわからないガラテヤ人たちがいるかもしれません。何かガラテヤの教会がパウロに対して悪いことをして、それで気分を害しているのか、怒っているのか、と思ってしまうかもしれません。けれども、パウロはそのようなひどい仕打ちをあなたがたから受けたことはありません、と言っています。
ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。パウロがガラテヤ地方に行ったときに、パウロは身体に何らかの障害を持っていたようです。私は、これはパウロが激しい迫害によって自分のからだが弱まっていることを指していると思っています。パウロは6章において、イエスの焼き印をこの身に受けています、と書いています。また、ガラテヤ人たちが、とてつもない苦しみを受けたことを書いています。ガラテヤ人たちは、パウロが激しい迫害や暴力を受けていたことを知っていたし、また自分たちも福音を受け入れてから、激しい迫害の中にいたわけです。そのような肉体的衰弱、身体的障害を持っていたのにもかかわらず、ガラテヤ人は、パウロが宣べ伝える福音を聞いて、信じたのです。福音の中に生きるということに苦しみがともなうことを知ったら、人間的にはキリストを信じないほうがよい、ということになります。しかし、福音の奥義を知った者、キリストの栄光を知った者、この霊的宝がいかに富んでいるかを知った者にとっては、苦しみによっても決して捨て去ることができないほど、キリストが大切な方となるのです。ガラテヤ人たちが、かつてそうだったのです。
それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
パウロは、視力が悪くなっていたようです。この手紙は彼の自筆で、大きな文字で書かれていたようでした(少なくとも6章11節以降は)。目が悪いパウロを見て、彼らは自分の目をえぐり出してパウロに与えたいとまで思っていました。それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。ガラテヤ人たちは、偽教師たちの教えを受け入れてしまったので、パウロが教えていることは、まさに敵対者が教えていることになってしまいました。
2B 自分たちへの熱心さ 17−20
あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。
パウロは、偽教師たちがどのようにガラテヤ人たちに接しているかを説明しています。彼らは、異常なほどの愛情を示して、彼らに接しています。ガラテヤ人たちは、そうした彼らの熱意にひかれて、その教えを受け入れています。ところが、それ暖かさは、彼らが信じているものを受け入れたら、そこで終わります。なぜなら、目的は、自分たちのところに人を引き寄せることが目的だからです。これがカルト宗教の手法です。はじめは暖かい。異常なほどの暖かさで接してきます。そして、彼らの教えによって洗脳されているときには、その組織の奴隷となっていることに気づきます。
良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
パウロは今、ガラテヤ人たちを「子どもたちよ」と呼んでいます。これがパウロの彼らに対する思いだったのです。親が子を思う思いと同じように、彼らのことを慕う思いから、このような激しい語調で手紙を書いています。それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。本当に、困っているパウロの顔が浮かんできそうです。手紙では、その意思伝達に限界があります。感情や口調をその中に入れることが中途半端になってしまうからです。
3A 自由の女の子ども 21−35
一呼吸置いて、パウロは再び、律法のことと福音のことについて語り始めます。
1B 奴隷から生まれた子 21−27
律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。
パウロは、創世記に出てくる話を始めています。「律法の言うことを聞かないのですか」と言っていますが、創世記はモーセ五書の中の一つなので、律法の中に含めています。これは、アブラハムのふたりの子、イシュマエルとイサクの話であります。アブラハムにはサラという妻がいました。そしてサラにはハガルという女奴隷がいました。アブラハムはハガルによってイシュマエルを生みました。サラからイサクを生みました。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。創世記の話を思い出してください、イシュマエルは、神が約束していないのに、サラとアブラハムがこれは良かれと思って行なった結果、生まれて来た子であります。神は、アブラハムに、「あなたから出てくる子が、あなたの跡を継がなければならない。」と言われました。そこで、アブラハムとサラは10年待っていました。そこで、サラは、神の言われたことを実現させなければいけない、夫アブラハムから子を生ませなければならない、と思いました。そこで女奴隷ハガルをアブラハムに与えたのです。これが肉の行ないです。自分自身で神の計画を実現させようとしたところに、間違いがありました。はたしてハガルは身ごもったのですが、ハガルはサラを見下げるようになり、サラはハガルをいじめました。後になってハガルは戻ってきましたが、このように肉の行ないは、不和や争い、さまざまな結末をもたらします。しかし、神は、サラから生まれてくる子がアブラハムの子になる、と言われました。そこで生まれたのがイサクです。神がアブラハムに、イサクをささげるように命じられたとき、「あなたの愛するひとり子イサク」と呼ばれました。つまり、イシュマエルがアブラハムの子であることさえも、神はお認めになられていないのです。これが肉の行ないであり、神は肉の行ないをお認めになりません。
このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。
パウロは、このふたりの子を二つの契約のたとえとします。創世記の記述には、ふたりの女が二つの契約であるとのことはまったく書かれていません。けれども、パウロの判断で、そしてもちろん、神の霊感によって、ここでは比喩として用いています。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。アラビヤにあるシナイ山とは、もちろん律法のことを指しています。そして今のエルサレムとは、律法の下で行なわれている神殿礼拝のことを指しています。彼らが行なっていることは、イシュマエルのように肉によるものであり、また奴隷になっていると言っています。
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
これは、上から生まれた者たちであるクリスチャンのことを指しています。天に国籍を持つものたち。教会のことです。
すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」
これはイザヤ書からの引用ですが、とても興味深い個所です。というのも、不妊の女をたたえているからです。不妊であっても夫の身にいることのほうが、子を持っていても夫に捨てられるのであれば、子を産まず不妊でいることのほうが喜ばしい、ということです。サラはイサクを産みましたが、ずっと不妊でありました。ハガルはイシュマエルを早くから産んでいました。けれどもハガルはアブラハムの家から追い出されました。同じように、律法によって生きる者たちがいるが、彼らは数多い。けれども、福音によって生きる者は少ないが、彼らはキリストから捨てられていない、ということです。律法によって生きていたユダヤ人たちは数多くいたでしょう。福音によって生きていた者たちに比べれば、はるかに多かったに違いありません。けれども、この数少ない福音を手にしている者たちのほうが、幸せなのです。キリストという夫に結ばれているからです。たとえ福音を受け入れている者が少なくても、自分の行ないによって生きている者が多くても、夫のある女のままでいなさい、夫がいることこそが大事なのだ、キリストにつながっていることが大事なのだ、とパウロはガラテヤ人に訴えています。
2B 約束の子ども 28−31
兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。福音を信じている者たちは、イサクのように約束の子どもです。神の相続人とされたのです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。
イシュマエルは、イサクをからかい、いじめていました。同じように、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害します。福音は、肉にある者にとって、これほど耳障りが悪く、いらだたさせるものはないでしょう。したがって、それを語っているクリスチャンをいやがらせしようとします。
しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」
これはサラが夫アブラハムに言ったことばです。アブラハムにとっては、イシュマエルは自分の子ですから、とても辛いことでした。しかし神は、妻サラの言うことを聞きなさい、と命じられました。イサクはいじめられましたが、約束を受け継ぐ者となり、イシュマエルは追い出され、相続からはずされました。
こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。
恵みの福音を信じる者は、キリストにある自由を得ています。その一方、律法の行ないによって義と認められようとしている者は、奴隷であり、相続からはずされています。福音は多くの人に受け入れられないものであることが分かります。多くの人は自分により頼みます。そして、福音を信じている人を迫害します。けれども、神の約束を受け継いでいるのは福音を信じている人たちなのです。昔ガラテヤ人は、以前、自分たちがこのような者であったことを知っていました。つまり、苦しみを受けていましたが、その約束のゆえに喜んでいたものでした。また、アバ、父よと呼べるところの御霊を受けていました。ですから、規則やルールではなく愛によって結ばれた神との関係でありました。なぜなら神の相続人だからです。