アウトライン
1A しっかりと立つ 1−12
1B 奴隷のくびきに対して 1−6
1C キリストからの締め出し 1−4
2C 信仰による義 5−6
2B パン種に対して 7−12
2A 互いに仕える 13−26
1B 愛によって 13−15
2B 御霊に導かれて 16−26
1C 御霊の力 16−18
2C 御霊の実 19−23
3C 御霊の命 24−26
本文
ガラテヤ人への手紙5章を開いてください。ここでのテーマは「キリストにある自由」です。
1A しっかりと立つ 1−12
1B 奴隷のくびきに対して 1−6
1C キリストからの締め出し 1−4
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
この節は、前の章からの続きになっています。4章の31節には、「こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」とあります。私たちは、自由の女から生まれた子であり、イサクのように約束の子どもです、というのがパウロの主張でした。これはとてつもない祝福です。父なる神は、御子の御霊を私たちに与えくださり、神を、「アバ、父」と呼ぶことができるようにしてくださいました。キリストは私たちのうちに生きておられ、このいのちの関係の中に生きるようにしてくださったのです。にも関わらず、ガラテヤ人は、「これをしなさい」「あれをしなさい」というおきてをルールによって、神に認められよう、神に受け入れられようとするように逆戻りしてしまったのです。そこで、パウロは、私たちが自由を得るために、キリストが私たちを解放されたのだ、と話しています。
また、パウロは、「しっかりと立ちなさい」と勧めています。このガラテヤ書5章においては、私たちがこれまで学んだ信仰による義の教えについて、それをどのように自分のうちに生かせばよいか、その具体的な勧めを行なっています。私たちは、どのようにして、パウロが教えるところの信仰によって生きていくことができるのでしょうか。それは、「しっかりと立つ」ということによってです。多くの人は、信仰を、何も行為が伴わないものであると勘違いします。しかし、信仰には、神がキリストにあって行なってくださったことを聞くという行為があり、それについて思い巡らすという行為があり、そして、それを人に伝えるという行為があります。信仰というのは躍動的なものであり、それは祈り、礼拝、伝道というかたちとなって現われるのです。しかし、私たちの過ちは、それがいつのまにか、神に認められるための手段となってしまうことです。一日に1時間祈ったから、これですっきり、とか、聖書を一日10章読みました、とか、今週は5人の人に証ししました、とか、そのような活動によって、神に喜ばれると思ってしまうのです。ですから私たちは、さ迷い出てしまうような存在です。そこでパウロは、「しっかりと立ってください」と勧めているのです。
よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。
パウロはここから、律法の行ないによって義と認められようとすると、どのようなことが起こるのかその結末を話しています。それは、クリスチャンにとっては恐ろしいことです。まず、キリストが自分にとって無意味になるということです。これまでの、クリスチャンとして行なってきた生活・人生は、まったくの無駄であった、ということです。私たちは、自分の行ないにより頼むようになると、それに執着し、その行ないに対する報いを、神に対して要求します。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。(マタイ7:22)」しかし、イエスさまは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。」私たちの行ないが数えられるどころか、不法をなしている者としてみなされてしまうのです。私たちは、神がキリストにあって行なってくださったことを信じて、受け入れるという単純なところに立たなければいけません。さもないと、自分では一生懸命行なっているのに、まったく受け入れられないという幽閉状態を作り出してしまうのです。
割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。
律法によって義と認められようとする人は、きまって、律法の一部を守り行なおうとします。しかし、律法は私たちが義と認められるための道具ではありません。法律を一つでも違反すれば、その法律によってさばかれるように、律法を一つでも破れば、その違反に対する罰を受けるのです。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。しっかりと立たずに、さまよってしまうことによる二つ目の結末は、キリストから離れて、恵みから落ちてしまうことです。これも恐ろしいことです。キリスト教会の中で、人は救いを失え得るかどうかという議論があります。ある人は、一度信じれば永遠に救われているのだから、決して失われることはないと主張し、ある人は、キリストにとどまっていなければ失われてしまう、と言います。どちらがわの意見も、聖書のことばによって支持されています。しかし、はっきりしていることは一つあります。それは、律法の行ないによって救われようとすれば、キリストから離れて、恵みから落ちてしまうということです。キリストが私たちの罪のために死なれて、よみがえられました。キリストが十字架の上で、「完了した」と言われたその義が完全な義であり、これ以上の義は存在しないのです。そこから出ていってしまえば、私たちは、恵みから落ちてしまうのです。100パーセントの義を自分の身にまとうか、あるいはまったく義を持たずに滅びへと至るか、この二者択一しかないのです。その中間は存在しません。
2C 信仰による義 5−6
けれども私たちはいつも、飢え渇いています。自分のうちに肉があり、その肉の欲望に自分がひかれてしまうことです。私たちはキリストにあって新しい者にされました。けれども、アダムから受け継いだところの罪は自分のからだの中にまだ存在します。そのために、自分をキリストだけではなく、何らかのルールの中に置きたくなってしまうのです。そこでパウロは、この肉の問題に対して、正しい対処の仕方を次に教えています。
私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。
パウロは、「義をいただく望みを熱心に待ち望んでいる」と言っています。地のちりによって造られた私たちのからだは、神の義であられる主イエス・キリストが戻って来られるときに贖われます。私たちは一瞬にして変えられて、朽ちないものを身につけ、栄光あるからだを身につけます。このとき私たちは、キリストに似た者にされるのです。このときのことを、信仰によって待ち望むのです。私が、とかくキリストの再臨の教えを繰り返して強調させていただいているのは、そのためです。もし私たちが、自分の贖いについてキリストの再臨を待ち望まなければ、必ず、自分の行ないや、キリスト以外の他の何かにより頼んでしまいます。キリストが戻ってこられることは、キリストの十字架と復活と同じように、救いにとって根幹的な教えなのです。
そして、義を熱心に待ち望んでいるとき、私たちの弱さを助けてくださるのが御霊であります。「信仰によって、御霊によって」とあります。ローマ8章では、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(26)」とあります。
このように、信仰と希望が大事な要素ですが、もう一つ大事なことがあります。キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
愛によって働く信仰です。愛が土台となっている信仰であります。パウロは、「山を動かすほどの信仰があっても、愛がなければ無に等しい。」と言いましたが、愛によって働く信仰だけが大事なのです。私たちはキリストを信じます、というときに、私たちにとってキリストが慕わしい方になっているでしょうか。キリストがあたかも、信条や教理に代表される、抽象的な乾燥無味しているような存在でしょうか。私たちが語っているところの信仰は、信条を信じることでもなく、やみくもに「信じます」と告白することでもなく、人格的に信頼するところの信仰なのです。神がどのような方であるかを知り、キリストが何を行なってくださったかを知り、そして人格ある救い主、主としてこの方を心にお迎えします。そしてその愛にふれられた私たちは、キリストを愛する愛によってこの方を信じ、生きていくのです。そこで愛によって働く信仰が大事なのです。
このように、義を待ち望み、愛によって生きることによって、キリストにある自由の中に立っていくことができます。行ないではなく、信仰によって生きることができるのです。
2B パン種に対して 7−12
そしてもう一つ、大事なことがあります。それは、偽りの教えに注意するということです。
あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。
パウロは今、ガラテヤ人たちの信仰の歩みを妨げた偽教師たちのことを話しています。パウロは、「あなたがたはよく走っていたのに」と言っています。ガラテヤ2章では、自分自身の信仰の歩みも、「力を尽くしていま走っていること」と言っています。信仰によって生きることを、走ることにたとえています。競争選手には、一定の規定が与えられますが、それ以上に何かしなければいけないことを要求されません。けれども、選手たちは冠を得るために、過酷なトレーニングに励むのです。「毎日ランニングをしなさい。」と言われなくても、勝つために毎日ランニングの練習を積みます。何もしなくても良いのですが、賞を得るために努めているのです。これが律法ではなく信仰によって生きている姿です。もう私たちには、義が与えられました。したがって、正しいと認められようという動機が働かなくなります。したがって、私たちのエネルギーは、ただ主を愛して、主を喜ばせることだけに注がれます。ですから、ガラテヤ人は走っていたのです。けれども、その競走を妨げる者が出て来て、トラックから離れ出てしまっていたのです。
そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。
偽りの教えの特徴は、それが私たちを召してくださった神から出たものではない、ということです。その出所は人間によるので、たえず自分たちの教えを聞くように勧めます。聖書をそのまま読んで、それに至りつく結論ではなく、聖書以外に付け加えたり、または差し引いたりすることによって、他の教えを吹き込むことによって出てきます。したがって、すべての信者は、説教者のいうこと、教会指導者の言うことを、聖書によってはたしてそのとおりかどうか、調べる責任を持っています。パウロは、テサロニケの信者たちにこう言いました。「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(Tテサロニケ5:21)」見分けることが必要なのです。クリスチャンである私たちは、ここの部分において弱い存在です。説得力のある話を聞くと、その教えを鵜呑みにして信じ込んでしまいます。その話し手が有名な人であるということだけで、その人の言っていることはみな正しいと思ったりします。けれども、私たちはキリストにある自由を奪われないために、みことばによって見分ける必要があるのです。
わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。
ここでのパン種とは、偽りの教えのことです。偽教師たちがガラテヤ人に教えているとき、彼らは95パーセント、もっともなことを話していたでしょう。しかし、その5パーセントが全体を汚します。100パーセント間違っているのであれば、私たちはことさらに、すべてのことを見分ける必要はありません。例えば、オウム真理教の教えが間違っているかどうか、深く考えこむ必要はないわけです。しかし、95パーセントは正しければ、私たちは十分にかき乱され得るのです。
私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。
パウロは、主がガラテヤ人たちを真理に立ち戻らせてくださることを信じています。そこで、「主にあって、あなたがたが少しも間違った考えを持っていないと確信しています。」と言っています。しかし、かき乱す者は、だれであろうとさばきを受けると断言しています。
兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。
ここが大事です。十字架のことばを宣べ伝えるのは、人々につまずきを与えることであり、それゆえ迫害を受ける原因となります。なぜなら、十字架は、人間すべてが罪人であり、救われようのない存在であることを教えるからです。ですから、それは私たちのプライドを傷つけます。自分はそんなにひどい人間ではない。私はこれまで、こんなに頑張ってきた。それをみな、無きものにするのか、という叫びを立ててしまうのです。イエスさまが、ゲッセマネの園で、「もしできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたとき、そのできることなら、というのは私たちの可能性でした。私たちが自分で自分を救うことができる可能性があるのであれば、どうぞこの苦しみにあわせないようにしてください、と祈られたのです。しかし、イエスさまは、「あなたのみこころのままになりますように。」と言われて、十字架への道を歩まれました。ですから、十字架は、イエス・キリストをとおしてでなければ決して救われないことを教えています。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、父のみもとに行くことはできません。」と言われたとおり、天下には主イエスの御名のみが、人間が救われるべき名として存在しているのです。このことを話せば、みな怒り出します。「では、イエスを信じないで死んだ私の両親は、いま地獄にいるということか!」「熱心な仏教徒は、地獄に落ちるということか!」と言って、怒り出すのです。したがって、十字架はつまずきを与え、そして迫害を受ける原因となるのです。
あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。
この「不具になってしまう」というのは、あまりにもぼかした言い方です。ここでパウロは、「切り取ってしまったほうがよいのです。」と言っています。つまり、「そんなに包皮の一部を切ることに執着するのであれば、いっそのこと男根のすべてを切り取ってしまうがよい。」と言っています。パウロはかなり気分を害しています。恵みの福音を無きものにして、ガラテヤ人をキリストから締め出そうとしていることに、腹を立てているのです。
2A 互いに仕える 13−26
こうしてパウロは、キリストにある自由の中で生きるために、「しっかりと立ちなさい」という勧めをしました。私たちが自由でいるためには、しっかりと立って、奴隷のくびきを負わさせないように気をつけることが大切です。そしてパウロは次に、自由の中で生きるためのもう一つの勧めをしています。
1B 愛によって 13−15
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
私たちは、神がキリストにあって行なってくださったことに信仰を置き、安息を得ています。そこには、あらゆる天における霊的祝福があります。アブラハムの子孫とされ、神の相続人となりました。ですから、私たちは、どのようなことを行なってもよいということになります。しかしパウロは、この自由を、肉を働かせる機会としないでください、と言っています。自由なのだから、自分の好き勝手に、肉の思いのままに生きることができるであろう、と思ってしまいます。けれども、もし私たちが肉の思いに自分自身を引き渡すのであれば、その時点で自由人ではなくなります。肉の欲望の奴隷になってしまうのです。私たちは、「自分」というものの奴隷であります。神のかたちに造られたのにも関わらず、神や人を第一にするのではなく、自分を第一にします。自分のことがもっとも可愛いい存在になっています。しかし、自分を喜ばせるための生き方は、むなしいものです。けれども、「自分」というものに幽閉されているのです。
しかし、キリストは、私たちをそのような奴隷状態から解放してくださいました。自分を否み、神を愛して、隣人を愛していくことができるようにされたのです。これがキリストにある自由の本質であり、愛をもって互いに仕え合うことができるようになる自由を、私たちに与えてくださったのです。このことにおいて、もっとも自由に生きた方はもちろん主イエス・キリストご自身です。この方は父のふところにおられる独り子でした。しかし、神の身分におられるのに、人の姿を取り、仕える者の姿を取ってくださいました。イエスさまが十字架につけられる前夜のことを思い出してください。イエスさまは、手ぬぐいを取って、それを腰にまかれて、弟子たち一人一人の足を洗われたのです。天と地を創造された方、万物を支配されている方が、ここまでへりくだり、仕えることができたのです。イエスさまには、まったく「自分」というものがありませんでした。弟子たちを愛する愛で満たされており、それゆえ彼らにお仕えになるところの自由を持っておられたのです。
律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。
隣人を自分自身のように愛するということは、律法の行ないによってではなく、信仰によって可能となります。私たちは、自分が正しいと認められるために努力する必要がなくなりました。それゆえ、自分自身を他の人たちの益になるようにささげていくことができるのです。偽教師たちは違います。例えば、エホバの証人の人たちが、訪問伝道しているのが愛の行為でしょうか。彼らは、自分たちが救われるためにあのことを行なっているのです。これはちょうど、自分に利益があがるように知人や友人に商品を勧めるねずみ講と変わりません。そして、その仲間になった人も、自分に利益があがるために、他の人を仲間に入るように勧めるのです。人を愛するということは、自分が義と認められていることを知って初めて愛することができます。自分の救いにはつながるのでもなく、魂を勝ち取ることによって点数があがるわけではないのです。ただ、その人を愛する純真な愛によって、伝道をし、キリストの救いにいたるよう、熱心に祈り、説得します。これは私たちが、信仰によって義と認められているというところから出ているのです。
もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
これが、ガラテヤの諸教会に忍び込んでいた偽教師たちの行なっていたことであり、また、ガラテヤ人たちが行なっていたことです。偽教師たちはもっともらしいことを話していましたが、その本心のところは、パウロを引き落とすことでした。自分が認められるために、パウロが去ったあとに、彼の背中に噛みついたのです。それで事が終われば良いのですが、このようなことを行なえば、必ず、互いを噛み合うことになります。他の奉仕者や兄弟を引き落とすことによって、自分たちを立て上げようとする者たちの間には、必ず仲間割れが起こり、自滅してしまうのです。
2B 御霊に導かれて 16−26
そしてパウロは、愛をもって互いに仕えるために必要な、御霊の力について話し始めます。
1C 御霊の力 16−18
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。御霊によって歩む、という原則があります。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはない、という約束があります。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
パウロは、御霊によって歩むということを、信仰によって生きるということと同じものとして語っていることに注目してください。先ほどは、「御霊によって、信仰によって、義を熱心に待ち望みます。」と語りました。ローマ書においても、コリント人への手紙においても、またエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、パウロの手紙には一貫して、信仰によって義と認められることと、御霊の約束がワンセットになって語られています。これは密接に結びつけられた原則なのです。
私たちが、自分の行ないによって神に認められようとするとき、私たちは良い行ないをするのではなく、むしろ悪い行ないをしていることに気づきます。私たちの心の座には自分がおり、そこから自分自身を救い出すことはできません。仏教用語を借りるなら、煩悩から解脱して涅槃に至ることは、私たちではできないのです。しかし神が、キリストにあって、私たちが肉の弱さのためにできなくなっていることを行なってくださいました。キリストが、その肉の姿において罪の処罰を受けてくださったのです。そして、私たちは、神が行なってくださったことを信仰を持って受けとめます。そのときに、ローマ書8章で書かれている「いのちの御霊の原理」が働くのです。私たちがキリストとともに十字架につけられたこと、罪に対して死んでいることを思うとき、私たちのうちにおられる御霊が私たちを導き、そして肉の行ないを殺すことができるのです。ここは、私たちが必死になってきよくさせようとする努力ではなく、キリストが2000年前にすでに行なってくださったことを信仰によって自分に当てはめることで可能になります。そして私たちが、自分のうちにキリストが生きておられることを知ることができます。主がともにおられて、この私を導いておられることを意識することができるようになるのです。これが「御霊によって導かれる」ということです。私たちが御霊の導きに敏感になることができればできるほど、肉の欲望に対して対処することができるようになります。
2C 御霊の実 19−23
そしてパウロは、肉に従って生きることと、御霊に導かれて生きることを対比させています。肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。
ここでは、主に性的な乱れ。偶像に関すること。苦々しい思い。そして、だらしなく騒ぐこと、に分けることができるでしょう。パウロが明白であって、と言っているように、いちいち説明しなくても、これらが肉の行ないであることを理解することができます。
前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
ここは、とても大切な教えです。肉の行ないをしている者は、自分がいくら救われていると主張していても、救われてはいないのです。信仰によって義と認められた人は、同時に御霊によって新たに生まれました。御霊がその人を導くようになるのですから、その人には必ず聖霊の実が結ばれるようになります。しかし、肉の行ないをしているのであれば、本当にその人が救われているのかどうか、疑ってみなければいけません。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
肉の行ないが「行ない」と書かれているのに対して、御霊の実は「実」と書かれているところに注目してください。私たちの行ないは肉に属するものです。しかし、御霊がなしてくださることは、実、すなわち自然に育ってくるものなのです。私たちが、キリストのうちにいこい、キリストにかたく立ち、キリストのうちにとどまっているのであれば、自然と愛が与えられます。私たちが、愛ではなく憎しみ、怒りがあるのであれば、それは私たちの努力が足りないからではなく、私たちが信じられていないからです。御霊に拠り頼むことができていないからです。私たちが、ありのままの自分を主にさしだし、自分には何もできないことを認め、主に座を明け渡すときに、主が私たちに代わって、これらのことを行なってくださいます。
3C 御霊の命 24−26
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
パウロは、また原点に戻るように促しています。信仰をもって聞いたときに戻ってください。あれほどはっきりと十字架につけられたキリストを見た、あのときに戻ってください。そして、自分はキリストとともに十字架につけられ、死んでしまった者だと思いなさい。だれでもキリストにある者は、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去りました。このことに立ち戻ってください。御霊によって生きたのですから、同じように御霊によって進みましょう、と言っています。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。いろいろなルールをもうけて、それによって生きていきましょう、というのは、もっともらしく思えますが実のところ、虚栄であるのです。自分に栄光が与えられるために、そのようなことを行なうのです。
こうして、キリストにある自由を保つためにはどうすればよいかを見ていくことができました。それは、「しっかりと立つ」ということと「愛によって仕える」という二つの原則によってでした。非常に単純なことです。しかし、私たちはガラテヤ人たちと同じように、すぐに、その立場からさ迷い出てしまうような存在です。そして、必ず偽教師たちが存在します。単純な福音を、「これこれ、このようなことを行なえば、あなたは幸せになれます。祝福されます。」という歪められたメッセージを持ち込みます。それに影響されるのが、私たちなのです。だから、パウロが宣べ伝えたところの福音にしっかりと立ちましょう。そして、この自由を愛によって仕えるために用いましょう。