自由になるための二つの勧め 2001/03/12
昨日の朝の礼拝において、ガラテヤ書5章を学びました。
私たちがクリスチャンとしてしなければいけない唯一の責務は、「信じる」ことであることをガラテヤ書で学ぶことができます。神がキリストにあって行なってくださったことを信じるのであれば、神のうちにあるすべての霊的祝福を受けることができ、神と私たちとの関係は、父と子の愛の関係と同じになりました。もはや、「これをしなさい。あれをしなさい。」という幼稚な教えの奴隷ではないのです。
パウロは5章において、信仰によって生きるための具体的な二つの勧めを行なっています。一つは、「しっかりと立ちなさい」です。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。(1節)」とパウロは言いました。初めて福音を信じたときに、私たちは、そのことばを聞く行為を行ないました。また、それを心の中で思い巡らすことも行いました。さらに、公けに言い表すという行為もしました。これらは「信じる」中に入るのですが、私たちはこの状態を保ちつづけることが、クリスチャンとしての務めになります。ですから、信仰生活を歩もうとすると、自ずと祈るようになりますし、聖書を読むようになりますし、また伝道もするようになります。
しかし、その逆であってはいけないのです。すなわち、「一日一時間祈れば、立派なクリスチャンになれる」とか、「私は今週、5人の人に証しをした」とか考えることです。そのような活動や行ないを頼りにして、自分のクリスチャンとしての良し悪しを決めてはいけません。これが「奴隷のくびき」であり、私たちは、そのような考えに陥らないよう、心を見張っていなければなりません。
信仰によって生きるためのもう一つの勧めは、「愛によって仕える」ことです。「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(13節)」私たちは、キリストの義を身にまとったのであり、キリストにあって完全な者とされました。ゆえに、これからの歩みはまったく自由にされています。しかし、もし私たちが自分の肉の欲望に身を任せれば、その時点で自由人ではなくなります。欲望の奴隷となってしまうからです。
そして、私たちは「自分」というものの奴隷になっています。神と人を第一とするのではなく、自分を第一としてしまいます。自分のことが本当にかわいいのです。けれども、キリストはその幽閉状態から私たちを解放してくださいました。この世でもっとも自由であった方は、キリストご自身です。イエスさまは、天地を創造された全能の神であり、万物の支配者であられます。けれども、人の姿を取ることをよしとされて、十字架に至るまで仕える姿を取られました。弟子たちの足を洗うことさえされたのです。イエスさまは、「自分」というものからもっとも解放されていたのです。弟子たちを愛し、その愛に満たされて、自分のことは置き去りにされていました。これがまことの自由であり、私たちは、愛をもって仕える自由が与えられたのです。
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