ガラテヤ人への手紙6章 「クリスチャンの生き様」

アウトライン

1A 互いの重荷 1−10
   1B あやまちに陥ることにおいて 1−5
   2B 善を行なうことにおいて 6−10
2A イエスの焼き印 11−18
   1B 十字架の誇り 11−15
   2B 平和と恵み 16−18


本文

 ガラテヤ人への手紙6章を開いてください。ガラテヤ書の最後の章になりました。ここでのテーマは、「クリスチャンの生き様」です。私たちクリスチャンが生きている中で、どのようなことが特徴になっているのかについて、知っていきたいと思います。

1A 互いの重荷 1−10
1B あやまちに陥ることにおいて 1−5
 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

 ここの個所は、ガラテヤ書5章からの続きになっています。パウロは、律法全体は愛をもって互いに仕え合うところに全うされる、と言いました(13-14節)。そして、「御霊によって歩みなさい(16節)」とも言っています。御霊である人が、罪に陥った人を柔和な心で正してあげなさい。こうして、互いに愛をもって仕えるというキリストの律法を全うさせなさい、ということです。

 ここで取り扱われている問題は、私たちクリスチャンが、あやまって罪に陥ってしまった兄弟にどのように接していけばよいのか、ということです。例えば、だれかが姦淫の罪を犯してしまいました。その時に、私たちは、すでに罪意識で悩んでいる兄弟をさらに落とし入れるようなことをしてはいけない、いうことです。すでに傷ついているところを、さらに打つ必要はありません。むしろ、その人が回復することができるように、助けてあげるというのがクリスチャンの特徴です。パウロは、「柔和な心で」と言っていますが、罪犯して傷ついている人に対して、私たちは、言葉を選び、さらに負担をかけさせないよう気を使い、主から励ましとあわれみの言葉を話すことができるように祈り、そしていっしょに祈ってあげることが必要です。

 パウロはまた、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」と言っています。だれかが罪を犯してしまったとき、その人を見下すのではなく、むしろ自分もまったく同じ罪を十分に犯してしまうような者だと知って、恐れおののかなければいけません。そして、ますます、自分の肉の弱さのために神からの助けと力を祈らなければいけません。

 そして「互いに重荷を負いなさい」と言っています。ここの「互いに」という言葉がとても大事です。クリスチャンは、それぞれが独立して、一匹狼のように生きたりする存在ではありません。あるいは、自分の悩み相談室のように、自分の悩みが解決されることだけを求めて教会に来るのでもありません。孤立するのでもなく、依存するのでもない、「互いに重荷を負いあう」仲が、クリスチャンの間に必要なのです。

 そしてパウロは、私たちが自分を見る自己評価について語っています。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。

 私たちが何か重要に見えるような事を行なっていたり、重要な位置についているような時に、自分は何か良いものがある、といううぬぼれた思いが出てきます。しかし、よく考えてみると、あんな弱い部分がある、こんな醜い部分がある、あんな失敗をしている、などなど、引き出したらいくらでもごみが私たちの生活から出てきます。このことを思うと、自分がりっぱであると思っていたことが、他の人には到底誇ることはできないということが分かるのです。

 パウロが、この前に、互いに重荷を負い、そして愛をもって仕え合うことを話していましたが、私たちが、このキリストの律法に従えなくさせるものが、この優越感であります。偉そばっている人のところに行ってみてください。その人になかなか近寄れなくなりますね。自分の心を割って話したいとは思わなくなります。つまり孤立しはじめるのです。ですから、ここでパウロは、「自分の行ないを調べてみなさい。」と勧めているのです。

 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。

 ここの「重荷」と、2節の「互いの重荷」の重荷とは、異なるギリシヤ語が使われています。2節の重荷は、まさに人の人生に重荷になること、という意味での重荷ですが、5節の重荷は、自分に与えられた任務と考えたほうがいいです。私たちは、それぞれに神から任されたところの務めがある、ということであります。

 今日のキリスト教会の中に、賜物嗜好の傾向を見ることができます。賛美の賜物、名説教など、各人の能力がもてはやされる傾向があります。しかし、聖書では、御霊によって与えられる賜物について、それをしっかりと使いなさいという、勤勉さ、忠実さを命じる教えしかありません。その賜物が用いられて、有名になるような道は聖書の中には存在しません。あくまでも、「愛をもって互いに仕えあう」ことが中心にあるのです。そして、賜物については、神から任されたところの務めをしっかり果たしていくという、地味な働きにとどまっていることができるよう、祈りたいものです。

2B 善を行なうことにおいて 6−10
 このことを話したあとに、パウロは、信仰を持っている人たちに対して、具体的に、物質的に善を行なっていくことを教えています。

 みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。

 みことばを教えに専念している者を、物質的に支えなさいということです。これは、パウロが、コリント人への手紙においても、何回も語ってきたことであります。聖書を教えている者が、このことを強調するのは気が引けます。まるで、「私にお金をください。」と訴えているように聞こえるからです。しかし、聖書は強調しているので、自分という要素を排して語らなければいけません。みことばに専念している人が、その生活を支えられることによって初めて専念することができる、という原則があります。また、みことばを聞いている人が、教えている人を支えることによって、そのみことばの教えによって自分も益を受ける、という原則があります。これは神がお立てになった原則でありましょう。

 もう一つ考えられるのは、忠実にみことばを教えている人は、この世において弱い立場に置かれることです。人の肉に訴えかけるような偽教師たちは多くの金銭が集まってきますが、忠実に教えているところには集まってこない、と言えるかもしれません。新興宗教の教祖たちは金持ちになっているのですが、キリストの福音を宣べ伝えれば、貧乏にはなるかもしれませんが金もうけはできません。だから、良いものを分け合うことが必要になるのです。

 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

 今、分け合うことを話していたので、パウロは、そのような行為を「種を蒔く」ことに言い換えています。種を蒔けば、実を結び、刈り取りがあります。霊的にも同じ法則があるということです。

 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

 私たちが自分のことしか考えずに、自分の腹のためだけに財産を用いるのであれば、それにふさわしい報いを受けます。けれども、御霊についての事柄に財を費やせば、永遠のいのちを刈り取ります。この原則は財産だけに限りません。私たちが、くだらないテレビ番組を見つづけて、それで霊的に成長しようと考えるのは間違っています。けれども、みことばに取り組んでいれば、必ず豊かないのちにあずかるようになる、ということです。

 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

 御霊のために蒔いても、その結果がすぐに見えるとは限りません。時間がかかります。だから、忍耐が必要です。そこでパウロは、善を行なうのに飽いてはならない。失望せずに、行ない続けなさい、と言っています。遅くても、必ず実を結ぶのです。日本に生きているクリスチャンにとって、これはなんと慰めに満ちたみことばでしょうか。目に見えるかたちではなかなか現われない宣教ですが、これが無駄に終わることはないのです。必ず刈り取る時期が来ます。

 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。

 このように、お互いに重荷を負い、互いに愛をもって仕え合い、そして善を行ないます。クリスチャンは、すべての人に対して自分たちのものを分け合う、善を行なうことが必要ですが、とくに信仰の家族に行なわなければいけません。もし困っている人がいるなら、足立区で何百人といるかもしれない困っている人よりも、自分たちの中で困っている人を助けなければいけません。自分たちで助け合っていく、これがクリスチャンの原則です。

2A イエスの焼き印 11−18
 こうしてパウロは、愛によって仕え合うところの勧めを終えました。次から、この手紙の最後の言葉に入っていきます。パウロは、読者に注意を喚起しています。
1B 十字架の誇り 11−15
 ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。

 パウロが手紙を書くときは、大抵口述筆記者によって書いていました。自分で書くのではなく、自分が言ったことばを、他の人に書いてもらっていたようです。しかし、ガラテヤ書は違うようでした。「大きな字で」と言っていますが、ここからパウロは目が悪かったのではないかと推測できます。4章にも、ガラテヤ人が目をえぐりだしてでもパウロに与えたいとまで思っていたことが書かれています。この手紙全体が、大きな字で書かれていたのか、それとも、これからの文が大きな文字になっているのかは分かりませんが、最後のことばとして、今パウロは、ガラテヤ人の耳をさらに開かせようとしています。

 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。

 パウロは、偽教師たちの動機をあばいています。なぜ彼らがあんなにも、割礼を受けることに固執するのか。それは、外見を良くしたいからだ、と言っています。そしてまた、迫害を受けたくないからです。ここに根本的な問題があったので、偽教師たちは、福音の中身を変えてしまいました。

 ここは、私たちクリスチャンがもっとも気をつけなければいけない問題であります。私たちは、キリストの十字架を信じたことによって、もっとも自由な者となりました。何にも囚われることのない、キリストにある自由を得ました。ところが世界は、そのように動いていません。この世は、信仰ではない行ないによる正しさをするように、求めています。さまざまな宗教があり、ある行ないによって義と認められる制度を作り出しているのです。日本ならば、先祖供養、家の制度、天皇制があるでしょう。家のためには、これこれのしきたりを守り行なわなければいけない、と言って、家のメンバーにしきたりを強要します。それは何のためでしょうか?見栄ですね。世間体ですね。外見をきれいにしたいからです。

 そして、同じような考えが教会の中に入ります。そうすると、ガラテヤの教会のようになってしまうのです。さまざまな規則がある。目に見えない束縛がある。キリストを信仰し、礼拝するために教会に来ているのに、教会に来ると逆にキリストが見えなくなる。そして、互いの重荷を負うのではなく、なるべく負わないようにする。そして愛が冷える、という感じです。なにがいけなかったのか?それは、この世の価値観、宗教、しきやりや文化を、それぞれの思いの中に許してしまったからです。パウロは、「一歩たりとも譲らなかった」と言いましたが、譲ってしまったのです。私たちが、キリストの十字架を信じているなら、必ず迫害があります。この世からの圧力、強要、強制があります。しかし、決して屈してはならないのです。それは自由を保つためです。

 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。

 割礼を受けた人たちは、律法を守ろうとする純粋な動機から割礼を受けたのではありません。むしろ、ガラテヤ人たちに割礼を受けさせることによって、ユダヤ人の前に誇って見せたかったからです。キリストを知らないユダヤ人不信者に認めてもらうため、ただそれだけのために割礼を受けさせます。律法を大切にしているからではありません。

 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

 ここに鮮烈な、この世との分離があります。キリストの十字架は、私たちをこの世界から、はっきりと聖め別けてしまいます。まず、私たちは、キリストの十字架を宣べ伝えることによって、この世を罪に定めてしまいます。それが、「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ」という部分です。義人なし、一人だになし、神を求める者はひとりもいない。すべての者が神のさばくに服することを教えるのです。神の怒りが、不従順な子らに下るのです。そして、このメッセージを聞いたこの世は、私たちを苦しめようとします。それが、「私も世界に対して十字架につけられたのです。」という意味です。聞きたくないので、耳をふさぎます。そして叫びます。そして、あらゆる手を使って、自分たちの考えを受け入れてもらおうとします。けれども、私たちは、「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない」という立場を貫くのです。

 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

 新しい創造、つまり、御霊によって新しく生まれることであります。「だれでもキリストにある者は、新しく造られました。古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しいのです。」という言葉です。これが、パウロがガラテヤ3章、4章で論じていた、信仰によるアブラハムの子孫ということです。神によって新しくされたこの歩みが大事なのであり、割礼という外の傷は大事なことではありません。私たちが、外見のことを大事にすることが、どれだけたくさんあることでしょうか。教団・教派、何々神学、年齢、牧師・信徒、聖霊派・福音派など、数え出したら切りがありません。私たちはただ、「キリストにあって、神の子どもである。」という真理を保っていかなければならないのです。

2B 平和と恵み 16−18
 そしてパウロは、最後のあいさつを始めます。

 どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。

 キリストの十字架のみを誇りとする人、この人たちに平安とあわれみがありますように、と祈っています。神のイスラエルというのは、キリストを信じるまことのイスラエル人ということです。キリストの十字架を誇っている人には、平安とあわれみに心が満たされます。迫害はあるでしょう。犠牲はあるでしょう。しかし、平安とあわれみがあります。

 これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。

 ガラテヤの偽教師たちは、割礼の傷を誇りとしていました。それと対比させてパウロは、自分の体にある打ち傷を見せました。彼の体はあざだらけ、傷だらけだったのです。これがパウロがキリスト者であることのしるしであり、パウロのようではなくても、クリスチャンすべてのしるしなのです。

 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。

 ガラテヤ書の終わりにふさわしい終わり方です。「恵み」があなたがたとともにあるように、と祈っています。

 こうしてクリスチャンの生き様について学びました。それは、互いに重荷を負うような仕え合う行き様であり、イエスの焼き印をからだに持っているような生き方です。私たちが、そのような生き方をしているでしょうか?