肉の誇り  2001/03/20

「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。」(ガラテヤ6:12)

この前の日曜日は、ガラテヤ書6章を学びました。

パウロは、この手紙の終わりに、偽教師たちの動機をあばいています。なぜ彼らがあんなにも、割礼を受けることに固執するのか。それは、「外見を良くしたいからだ」と言っています。そしてまた、「迫害を受けたくない」からです。偽教師たちは、福音の中身を変えてしまった問題の根本はここにあったのです。

私たちクリスチャンは、肉の弱さを持っています。それはキリストの十字架によって迫害を受けたくないという弱さ、また、この世に認められたい、という誘惑です。キリストの十字架によって、私たちは、神の恵みを知りました。そして自由を知りました。神の子どもとしての身分は、祝福に満ちています。けれども、キリストの十字架は、この世を罪に定めます。十字架のことばは、「あなたは罪の中に死んでいる。神のさばきを受けることが定められている。あなたのあらゆる良い行ないは、神の前では不潔な着物のようである。」というものです。そこで、この世は、その言葉を受け入れたくないので、ひどく反発します。聞きたくないので耳をふさぎ、叫びます。そしてあらゆる手を使って、自分たちの考えを受け入れさせようとします。こうして迫害が起こるのです。

なぜ、恵みの福音を受け入れることができないかと言うと、それは自分の行ないが否定されるからです。自分の行ないを誇りたい、肉(自分についてのものすべて)を誇りたいと思うからです。それで、この世は、人間の行ないによって義と認められるような制度、宗教、文化を持っています。日本であれば、先祖供養、家の制度などがそれに当たるでしょう。家のためには、しきたりを何とかして守らなければいけないと教えるのですが、その根底に流れているのは、見栄であり、世間体なのです。「外見をよくしたい」というのが動機なのです。

そこで、私たちがこの世からの迫害を避けたいと願って、この世に認められたいと思うと、この世の制度が教会の中にも入り込んでしまうのです。そうすると、ガラテヤの教会のようになってしまいます。さまざまな規則があります。目に見えない束縛があります。キリストを礼拝するために教会に来ているはずなのに、キリストが見えなくなってしまいます。互いの重荷を負い合うのではなく、なるべく負わないようになります。そして愛が冷えるのです。そのもともとの原因は、この世の制度を自分の思いの中に忍び込むのを許してしまったからです。けれども、パウロは、2章において、「一歩たりとも譲歩しなかった。」と言っています。私たちも、しっかりと立って、キリストのうちにある自由を固く守り、二度と、奴隷のくびきを負わせられないようにしなければいけません。

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