1A − ヘブル人に対する手紙
2A 神のことば 1−3
1B 預言者によって 1
2B 御子によって 2−3
1C 万物の相続者 2
2C 神の本質の現われ 3a
3C 罪のきよめ 3b
ヘブル人への手紙を学びます。今日のメッセージ題は、「さらにすぐれた方」です。
1A − ヘブル人に対する手紙
この手紙に入る前に、私たちがこれまでずっと学んできたことをおさらいしたいと思います。私たちは、ずっとパウロによる手紙を読んできました。使徒行伝には、13章にあるアンテオケの教会からバルナバとパウロが遣わされて以来、異邦人に対する福音宣教の記録が書かれていました。そしてローマ人への手紙から、主に、異邦人向けのメッセージとなっていました。福音はユダヤ人をはじめ、異邦人にも救いを与える神の力であり、キリストにあって、ユダヤ人と異邦人が一つになり、一つのキリストのからだに連なっています。神の恵みによって、信仰によって私たちは救われます、割礼を受けて、モーセの律法を守らなくても、異邦人は異邦人のままで救われます。パウロは、異邦人に福音を宣べ伝える使徒として召されており、異邦人が多い、小アジヤとヨーロッパの諸教会に手紙を書きました。
けれども、このヘブル人への手紙は、その手紙の題名のとおり、ヘブル人すなわちユダヤ人への手紙になっています。ちなみに、ヘブル書の後にあるヤコブの手紙も、「国外に散っている12部族へあいさつを送ります。」(1:1)と書いてあり、ユダヤ人を主に意識した手紙となっています。同じように、ペテロの手紙も、離散しているユダヤ人信者を意識しています。
そこで、使徒行伝の初めのほうにある記録を思い出してください。主がユダヤ人の弟子たちに対して、「聖霊があなたがたの上に臨まれ、力を受けます。」(1:8)と言われました。そして、彼らが祈っていたときに、聖霊が臨まれましたが、そこはダビデ王の墓の上にある部屋においてでした。集まってきたのは、世界中からエルサレムに五旬節を祝いに来たユダヤ人であり、ペテロは、ユダヤ人たちに、福音を宣べ伝えて、彼らが救いを得ました。そして教会が生まれましたが、そこはユダヤ人たちの集まりでした。そして、使徒行伝2章46節を読みますと、「毎日、心を一つにして宮に集まり」と書いています。そしてペテロとヨハネは、午後三時の祈りのために、宮に上っていく生活を送っていました(3:1)。このように、彼らは、イエスをメシヤと信じながら、ユダヤ教の中で生活していました。
そして、また、使徒行伝15章においては、異邦人にモーセの律法を要求しないという決議はなされましたが、彼らが割礼を受けるのをやめたり、また他の律法をやめるようなこともありませんでした。これはパウロも勧めていることであり、コリント第一7章にて彼は、「召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。(18節)」と言っています。そして、パウロがエルサレムに戻ってきたときにヤコブに会いましたが、ヤコブはパウロにこう言いました。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。」ユダヤ人たちは、イエスをメシヤと信じていても、なおかつ律法を守り行ない、神殿礼拝もささげていたのです。
しかし、彼らは、ユダヤ教の中で生活しながら、ユダヤ教の中では激しい迫害の中に入っていました。使徒たちがエルサレムで福音を宣べ伝えているときに、むちを打たれたり、牢に入れられたりしました。そして、ステパノが説教をした後に、それを聞いていたユダヤ人たちは彼を石打ちによって殺しました。初めての殉教者です。そのときから、エルサレムとユダヤ地方にて激しい迫害が起こり、ユダヤ人たちは、ユダヤ教の中にいながら、なおかつユダヤ教の共同体からはつまはじきにされる圧力を受けていました。これが、ヘブル人への手紙を読むときに必要な、背景知識です。ユダヤ人信者の中には、この迫害が苦しくて、イエス・キリストへの信仰を捨てて、ユダヤ教の中に戻ろうとしていた人たちがいました。けれども、ヘブル人への手紙の著者は、この信仰の後退について警告を発しています。初めに抱いた確信を最後まで保ちつづけなさい、と勧めています。
そして、ヘブル書の著者は、この苦しみの中において忍耐する力を与えるのは、何よりも、主イエス・キリストを思っていることであることを知っていました。主イエスのご栄光が、その人のうちに輝いていればいるほど、人は、直面している困難や悩みにも耐えることができます。そこで、ヘブル人への著者は、イエス・キリストがいかにすぐれているかを、この手紙のテーマとしています。彼は、ユダヤ教の中ですぐれているとされている、三つの事柄を挙げています。一つは御使い、次にモーセ、そして三つ目にアロンの祭司制度です。御子イエス・キリストを、これらの事柄と比較して、キリストがさらにすぐれている方であることを証明しています。ヘブル人で、頻繁に使われていることばは、この「さらにすぐれた」という言葉です。英語ではbetterです。例えば、1章4節をお読みします。「御子は、御使いたちよりも、さらにすぐれた御名を相続された」とあります。次に7章の19節を見てみましょう。「・・律法は何事も全うしなかったのです。・・他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」とあります。さらにすぐれた希望です。そして、8章6節です。「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」他にもたくさんあります。
この手紙は、ユダヤ人に対して書かれたのですが、異邦人クリスチャンである私たちにも、たくさんの教えと訓戒を与えてくれます。私たちも同じように、自分がクリスチャンになることによって、既存の共同体の中から、つまはじきにされることが多いです。日本には、家制度があります。家を受け継がなければいけないので、先祖の墓を守らなければいけないし、先祖供養も欠かすことはできません。地域社会においても、盆踊り大会やその他、神道関係の行事がもりだくさんです。会社においても、飲み会に付き合ったりして、仕事の仲間関係を保っておかなければいけません。そして、これらの活動は決して悪いものではありません。先祖を尊敬して、家族を大切にすることは、とても良いことです。盆踊りは偶像礼拝ですが、地域ぐるみの付き合いそのものは、とても良いものです。仕事をスムーズにするために、同僚との関係を保っておくことも良いことです。私たちを悩ますのは、これらが必ずしも悪いものではなく、良いものだからです。悪いものであれば、簡単に捨て去ることはできるのですが、良いものだから捨てられないのです。けれども、そのような、日本人の中にある共同体を失いたくないと願うばかりに、自分の信仰を表明しなくなったり、他の兄弟姉妹との交わりを持たなくなったり、祈らなくなったりしていきます。それは、ユダヤ人が、自分たちが村八分にされたくないために、イエス・キリストへの信仰を捨てて、ユダヤ教に回帰しようとしたのと似ています。
ですから、私たちは、今、主イエス・キリストの栄光を仰ぎ見なければいけません。この方がいかにすぐれたお方なのか、知らなければいけません。これら良いものと思われているものよりも、はるかにすぐれたお方であり、ゆえに、この方から目を離さないで、迫害も甘んじて受けることが必要です。
ところで、このヘブル人への手紙を書いた人について、聖書学者の間でたくさんに意見に分かれていることを付記したいと思います。多くの人は、著者はパウロであるとしています。手紙の終わりには、こう書いています。「私たちの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼といっしょにあなたがたに会えるでしょう。すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」ヨーロッパにいるパウロが、テモテとともに、ユダヤ地方にいる信者たちに書いた手紙と考えられます。
2A 神のことば 1−3
それでは、本文を読みたいと思います。今日は初めの3節だけを学びたいと思います。この3節は、ヘブル人への手紙のテーマになっています。すなわち、イエス・キリストの栄光の輝きです。
1B 預言者によって 1
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。
パウロは、神が、語られる神であることを、ここで紹介しています。私たちクリスチャンにとっては、このことは当たり前のことかもしれませんが、しかし、日本人など異教の神々を拝んでいた人たちにとっては、驚くべき事実です。目に見えない神を信じることは、ある意味で、もどかしいことです。目で見える偶像であれば、これがあれば安心であるという思いを抱くことができます。とくに、目に見えない神を拝んでいる私たちを、その異教徒が見るときに、「お前の神はどこにいるのか。」とチャレンジされてしまいます。けれども、このことについて、詩篇の著者は、非常に面白いことを書いています。詩篇115篇2節から8節です。「なぜ、国々は言うのか。『彼らの神は、いったいどこにいるのか。』と。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」偶像は、目や耳や口、足があるので把握することができますが、けれども、見ることはできず、聞くことはできず、そして語ることができません。私たちは、この方を見ることはできないけれども、神は私たちを見ておられ、また私たちに語りかけてくださいます。語りかけてくださるので、人格的な関係を持つことができます。これほど幸いなことはありません。
パウロはここで、むかしに神が語られた時のことと、御子イエス・キリストが現われてから語られていることとの対比を行なっています。むかしは、まず先祖たちに対して神は語られました。この「先祖たち」とは、イスラエル人のことであり旧約の聖徒たちのことです。そして、彼らは、「預言者たちを通して」語られました。彼らにはアブラハムがおり、モーセがいて、その他さまざまの、神のことばを取り次ぐ人々がいました。彼らは自分たちで勝手に語ったのではなく、聖霊に動かされて語りました。使徒ペテロは、「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:21)」と言っています。私たちは、聖書預言を読むと、その正確さに驚かされます。イエスさまがこの地上に来られたときに、300以上の預言が、すべて成就しました。そして、今の時代を見ても、イスラエル国が建てられ、ユダヤ人が世界中からイスラエルに集められているのを見るときに、私は、ほんとうに神を信じ、神のみことばを信じていることの幸いを思います。もし、これらのガイドラインがなければ、今、どのようにして、世界で起こっていることを把握できるのかと思います。そして、世界情勢のことだけではなく、私たちの個人生活において、するべきこと、しないべきこと、結婚生活、人間関係など、本当にいろいろな指針を、聖書の言葉から知ることができます。
そしてむかしは、「多くの部分に分け」語られたとあります。これは、少しずつ、時代を追って、神がご自分の計画を明らかにされたことを意味します。アダムに与えられた神の啓示よりも、ノアに与えられた神の啓示のほうが、詳しくなっています。ノアよりもアブラハムのほうが、アブラハムよりもモーセのほうが、モーセよりもダビデのほうが、神のご計画が明らかにされています。それぞれの時代に分けて神はお語りになり、ご自分の目的とご計画を明らかにされました。そして、「いろいろな方法で」とあります。むかしは、多くの人が、神の音声を聞きました。神が直接、音を出して語られた記述が聖書ではたくさんあります。ある人は、夢や幻の中で語られました。またある人は、内なる声を聞きました。ある人は、祭司のウリムとトンミムによって、神のみこころを知りました。このようにして、いろいろな方法で神は先祖たちに、お語りになりました。
2B 御子によって 2−3
したがって、預言者による、神の語りかけということ自体、偉大なことであり、驚くべきことです。これはユダヤ人たちに与えられていた特権であり、祝福です。しかし、パウロは、この預言者による神の語りかけ以上に、すばらしいことばがあることを、ここで明らかにしています。「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」とあります。この終わりの時、御子ご自身が、私たちの神からのメッセージとなっています。主が、ユダヤ人の弟子たちにお語りになったときに、このように言い始めて、神の律法を説き明かされました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」イエスさまは、律法と預言の成就そのものなのです。ユダヤ人指導者たちには、こう言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)」このイエスという方にあって、旧約聖書全体が、すべて詰まっています。パウロはコロサイ人への手紙で、こう言いました。「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。(コロサイ2:16-17)」本体はキリストにあり、律法はその本体の影です。ですから、ヨハネによる福音書は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(1:1)」と、イエス・キリストのことを書き始めています。キリストが、神が人にお語りになりたい、最終作品なのです。
したがって、私たちは、神が語りかけてくださることばとして、イエス・キリストご自身に全神経を集中させなければいけません。キリストがどのような本性を持っておられて、どのようなご性質があり、この方が行なわれたこと、また今行なわれていること、そしてこれから行なうことを、見ていく必要があります。この方が、神が終わりの時にお語りになる、媒体なのです。
1C 万物の相続者 2
そこでパウロはこう語ります。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は、「万物の相続者」です。すべての物を所有しておられます。詩篇2篇8節には、父なる神が子なるキリストへ、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」と書いてあります。ヨハネ3章35節には、「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」と書いてあります。父なる神から御子がすべてのものを与えられています。そして、「御子によって世界を造られました。」とありますが、御子は万物の創造主です。ヨハネ1章2節には、「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とあります。コロサイ人への手紙にも、こう書いてあります。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(1:16)」
このことを考えるとき、主が地上におられるときに、「心配してはいけません。」と訓戒されたことを思います。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイ6:26)」主は、ご自分がお造りになった鳥を指さして、弟子たちにお語りになっていました。「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。(6:28−29)」イエスさまは、ご自分がお造りになり、また支配されている花を弟子たちに示して、お語りになっておられます。キリストがともにおられて、キリストがうちにおられるなら、私たちはすべてを持っていることになります。なぜなら、この方が万物の相続者であり、万物の創造者だからです。だから、物が足りないときに、心配することはありません。信仰のゆえに不利な立場に追い込まれたときに、心配することはありません。主は、これらのことより、はるかに大きい方なのです。
2C 神の本質の現われ 3a
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
御子は、神のことを表している方ではありません。この方そのものが神であり、神ご自身の完全な現われです。むかし預言者たちは、神にことについて語りました。しかし、今は、この神が肉の姿を取って、人間の前に現われてくださったのです。ピリポが、イエスさまに尋ねました。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」すると、イエスはこう彼に言われました。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」驚くべきことばです。イエスを見た者は、神を見ています。神が人のかたちをとって、今、ピリピの目の前におられるのです!彼らがイエスさまの肩に手を当てたなら、神の肩に手を当てたのと同じです。イエスとともに食事を取られたなら、神とともに食事を取っていたのと同じです。
そして、パウロは、「その力あるみことばによって万物を保っておられます」と言っています。御子は、万物を創造し、万物を相続しておられるだけではなく、万物を保っておられます。今ある原子や粒子は、すべてイエスさまによって、それが保たれています。ペテロの手紙には、「その日が来れば、そのために、天は燃えくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(2ペテロ3:12)」と書いてありますが、イエスさまは、ご自分のみこころによって、このことを一瞬にしておできになります。なぜなら、今、イエスさまが意識されて、この天地万象の秩序を保っておられるからです。
3C 罪のきよめ 3b
また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
万物の相続者であり、創造者であり、また支配者であられる方が、人になり、仕える者の姿をおとりになり、そして最後は罪の供え物となられました。そして、十字架の上で流された血は、私たちの罪をみなきよめてくださる力を持っています。使徒ヨハネは言いました。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7)」
そして、主は、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれています。この「着座」されている、というところが大事です。というのは、それは、罪のきよめのため、救いのために必要なことはすべて成し遂げられた、ということを意味するからです。主は十字架につけられて、息を引き取られる前に語った最後のことばが、「完了した」でありました。人を救うために必要なことをすべて成し遂げられたので、主は、立ち歩いてお仕事をされるのではなく、座っておられるのです。そして今、この成し遂げられたみわざによって、私たちの執り成しをしておられます。私たちの大祭司となられたのです。ヘブル人への手紙では、大祭司としてのイエス・キリストが描かれています。
こうして、このヘブル人への手紙に書かれている、キリストの本質と働きのテーマとなっている部分を読みました。これらの事柄をただ見ていくだけで、私たちは、自分の信仰が不動のものとなっていくのに気づくかと思います。私たちが置かれている周りにあるもので、左右されにくくなっているのに気づくことでしょう。主イエス・キリストこそが、私たちが聞くべき、神のメッセージです。