ヘブル人への手紙10章1−18節 「罪を取り除く方」

アウトライン

1A 思い出される罪 1−4
   1B 後に来るものの影 1
   2B 年ごとのいけにえ 2−3
   3B 動物の血 4
2A いけにえの御体 5−10
   1B 父のみこころ 5−7
   2B 前者の廃止 8−9
   3B 聖化 10
3A 全うされた聖化 11−18
   1B 一つの永遠のいけにえ 11−14
      1C 毎日の務め 11
      2C キリストの着座 12−13
      3C 全うされた聖め 14
   2B 無用なささげもの 15−18
      1C 神の意思 15−17
      2C 罪の赦し 18

本文

 ヘブル人への手紙10章を開いてください。今回は、前半部分1節から18節までを学びます。ここでのメッセージ題は、「罪を取り除く方」です。

 ヘブル人への手紙は、その名前のように、ヘブル人、あるいはユダヤ人に対して書かれた手紙です。エルサレムの町や、ユダヤ地方にはたくさんにユダヤ人がおり、そこでイエスをメシヤと信じて集まっている人々がいました。けれども、ユダヤ人には「ユダヤ教」という宗教がありました。私たちが持っている聖書の、「旧約聖書」だけを信じている宗教です。彼らは、律法にしたがい、動物のいけにえを神殿でささげていました。そして、イエスをメシヤとして信じたユダヤ人は、不信者のユダヤ人から迫害を受けていました。ユダヤ人の共同体の中から村八分にされるプレッシャーを絶えず受けていました。そこで、信者たちは、イエス・キリストに対する信仰告白をしないで、ユダヤ教の中で生きていれば良いと思って、信仰を捨てようとしていました。そこで書かれたのがこの手紙です。手紙を書いた人は、イエス・キリストがいかにすぐれた方であるかを書きました。この方が、ユダヤ教において、柱とされている大事なものよりも、さらにすぐれていることを書きました。ですから、この手紙から、私たちは、自分の信じているイエスさまが、いかに偉大ですぐれており、いかに偉大なことを行なってくださったかを知ることができます。そうして、信仰が強められて、不信者の中にいても、その中でキリストに対する希望に支えられて、耐え忍びながら生きることができるようになります。

 私たちがこれから学ぶ10章前半部分は、イエスさまが、神殿にささげられている動物のいけにえよりも、さらにすぐれたいけにえがささげられていることが書かれています。動物のいけにえではできなくなかった罪の赦しが、キリストのいけにえによって成し遂げられたことが書かれています。

1A 思い出される罪 1−4
1B 後に来るものの影 1
 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。

 ユダヤ人は、エルサレムにある神殿にて、牛や羊、またやぎなどのいけにえをささげていました。そして、年に一度、贖罪日と呼ばれる祭りがあります。(レビ記16章と23章に書かれていますので、興味のある方はあとでお読みください。)その日に、大祭司が至聖所の中にはいり、イスラエルの民のために、罪の赦しときよめのために、贖いをします。羊とやぎの血をたずさえていき、その血を契約の箱のところにふりかけます。動物のいけにえがほふられることによって、イスラエルの民は、自分たちの罪が赦されたことを知ります。

 けれども、これらは、「後に来るすばらしいものの影」であって、実体ではないと書いてあります。律法が与えられた千五百年ぐらい後に、イエス・キリストが現われました。この方が、罪の赦しを与える権威を持っておられた方であって、律法はキリストと、キリストのみわざを写し出すところの影でしかありませんでした。コロサイ書2章16節には、「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」と書いてあります。影が本物の役割を果たすことはできません。車の陰が、車がどのようなものであるか、その形態を表すことはできても、車の役目をすることができないように、律法はキリストを表しても、キリストが行なわれることを行なうことはできないのです。したがって、律法にしたがって、罪のためのいけにえをささげても、それが本当には罪を赦すことは、できなかったのです。

2B 年ごとのいけにえ 2−3
 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。

 人が神殿に来て、礼拝をささげる目的は、生きた神に近づくためです。しかし、人は、そのままの姿では、聖なる神に近づくことはできません。そこで、「いけにえ」が必要になります。自分と神との間の仕切りとなっている罪を取り除くために、代わりに犠牲となって血を流し、いのちが注がれる対象が必要です。そこで、旧約の律法において、イスラエル人たちは罪のためのいけにえをささげたのですが、1節には、それが完全に行なわれなかった、と書いてあります。

 その証拠として、繰り返し、彼らが贖罪日のごとに、毎年、罪のためのいけにえをささげていたことが挙げられます。もし、本当に罪が赦されて、自分がきよめられたことが分かっていたなら、再び罪がきよめられるために、いけにえをささげる必要はありません。罪が赦されたことを喜んで、神に感謝し、賛美をささげるために神を礼拝するのではなく、罪を赦していただくために、再び犠牲の供え物をささげようとしているのですから、まだ罪が赦されているという意識がないことを示しています。

 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。

 旧約のいけにえの儀式において、実際に起こっていたことは、罪の赦しではなく、むしろ、罪が思い出されることでありました。罪の責めを感じるから、罪を赦してもらうために、エルサレムまで都のぼりをして、牛や羊をいけにえとしてささげました。けれども、このようなささげものをしているために、ますます自分が罪深いことを悟るようになり、そこでますます自分が、いけにえによって赦されなければいけないと考えるようにあります。罪が赦されて、自由になるためのいけにえなのに、むしろ罪がますます意識されて、罪意識に悩むようになるような悪循環に陥ってしまうのです。

 これは旧約時代における、イスラエル人のいけにえの制度の説明ですが、しかし現代生きているクリスチャンにも、同じことが言えます。私たちが礼拝に集うときに、自分がその週の半ばに罪を犯して、クリスチャンとしてきちんとした生活ができず、自分が神から遠く離れたような気持ちになって、礼拝に来ます。けれども礼拝によって、神さまから、何とかして罪きよめをしてしていただこうと期待します。罪が赦された気になりますが、また新しい週を迎えると、同じように罪を犯して、神さまから遠く離れていると感じて、それで一生懸命祈ったり、教会活動に関わったりして、神さまを近く感じようと努力します。自分の良心に咎めを感じて、その咎めを何とかしてなだめようとし、罪意識をなくそうとして、いろいろな宗教的な活動をするようになってしまいます。けれども、これは、新約における、神への奉仕ではありません。旧約時代の奉仕です!外側では、神にお仕えしているように見えますが、内側では葛藤が起こっています。イスラエルの民は、こうした罪意識を抱えていました。

3B 動物の血 4
 その原因は、彼らがささげていた、動物の血でした。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

 聖書には、「贖罪」という言葉、英語ではatonementという言葉があります。これは旧約におけるものと、新約におけるものでは意味が異なります。旧約では、「罪をおおう」という意味がありました。アダムが罪を犯して、エバとともにエデンの園を出て行かなくならなければいけなくなった時のことを思い出してください。主が彼らに、皮の衣を着せてくださいました。彼らは裸でいたことが分かって恥ずかしくなりましたが、神は、その恥をおおってくださったのです。神の御前に出ることができるように、罪をおおう働きをするのが、「贖罪」の意味です。

 けれども、新約においては、贖罪は「一つになる」という意味があります。キリストにあって、神と一つになる、あるいは神と結ばれて、交わりをするという意味があります。単に罪をおおうのではありません。罪をおおうだけならば、外面的な、表面的な交わりを神と持つことはできますが、心からの、良心がきよめられた状態での神との交わりを持つことはできません。罪はおおわれるだけでなく、「取り除かれる」必要があるのです。そして、その罪を取り除く力は、動物の血にはなく、イエス・キリストの血にあります。ヘブル書9章13節と14節には、こう書いてあります。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」キリストの血は、私たちの罪を根こそぎ取り除き、洗い清める力があります。そして、私たちを雪のように白くし、西が東から遠くは離れているように、罪を引き離す力があります。したがって、私たちは、キリストにあって、神に大胆に近づくことができ、神と御霊をとおして、一体となった交わりを楽しむことができるのです!

2A いけにえの御体 5−10
1B 父のみこころ 5−7
 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」

 これは詩篇40篇からの引用です。旧約の時代には、数々のいけにえやささげ物がありましたが、神はこれをもはや望まれずに、キリストのためにからだを造ってくだる、つまり、キリストが肉体をとって現われることを意味しています。

 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。

 イスラエルは、律法によって、神に近づこうとしましたが、実際はますます遠く離れるような歴史を辿りました。彼らは、律法によって神の前に正しいものと認められるのではなく、ますます罪深い存在であることが示されることとなりました。律法にしたがって、神に近づくためにいけにえをささげましたが、彼らの心は神から遠く離れており、ただ儀式だけが行なわれるようになってしまったのです。イスラエルが、滅ぼされるという国家危機にあるときに、預言者が彼らに遣わされましたが、その一人であるイザヤが、こう預言しています。「『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。』と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。』(1:10−11)」彼らの行ないは何も変わらない、いやますます悪くなっているのに、このようないけにえをささげても無駄だ、ということです。ですから、宗教的になることが、神に喜ばれることでは決してないことを覚えておくべきでしょう。いや、むしろ神を知るために、妨げになることさえあるのです。

 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」

 イスラエルが律法によって生きることはできないことを思って、神は、新しい契約を与えられました。神は、彼らが従順になれないのを知って、彼らのために完全に罪の問題を解決する方法を計画されていました。それは、人の罪の赦しのために、動物のいけにえではなく、ご自分のひとり子であられるキリストが、肉体をもって生まれるようにしてくださったのです。5節には、「わたしのために、からだを造ってくださいました」と書かれていました。ベツレヘムの飼い葉桶にお生まれになったあの幼子は、動物のいけにえに代わる、神のためのいけにえとしてお生まれになったのです。あの肉と血は、引き裂かれて、血を注ぎ出されるために与えられたものです。そして7節には、「あなたのみこころを行なうために」と書かれています。ゲッセマネの園において、主は、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39)」と祈られました。主は、ご自分が、罪のためのいけにえとなることが、父のみこころであり、それを行なわれたのです。

2B 前者の廃止 8−9
 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。

 イエスさまが、罪のためのいけにえとしてささげられた今、旧約におけるいけにえの制度は廃止されました。イスラエルのいけにえに満足されなかったから、キリストご自身がいけにえとなられたのだから、律法に定められたいけにえの制度を守る必要はありません。したがって、私たちはもはや、動物のいけにえをささげて神を礼拝することはしていませんが、それだけでなく、私たちの心にある動機も、変えられていなければいけません。自分の罪が赦されるために礼拝をささげているのか。それとも、キリストの血によって自分の罪が赦されたから、その解放と喜びがあって、そのために主を礼拝し、主に仕えているのか。大事なのは心の動機です。

3B 聖化 10
 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

 「聖なるものとされる」とありますが、元々の意味は、「別たれる」であります。あるところから別けられて、引き離される、という意味です。英語ではset apartです。そして、そこから、「聖なるものとされる」というのは、この世から別けられて、神のものとなる、という意味になっています。神さまの所有物となり、神さまだけのものとなっているとき、「聖なるものとされている」と言えます。

 そこでここでは、「イエス・キリストのからだが、ただ一度ささげられたことにより、聖なるものとされている」とありますから、イエスさまが十字架の上で死なれたことにより、私たちは罪から引き離されて、神のものとなっている、ということになります。しばしば、「聖められる」というときに、私たちはしばしば、自分がどんどん神さまに近づいているものになっていく、と勘違いすることがあります。信仰を強めることにより、より神さまに近づいた存在になっていく、というのは、聖書の教えではなく、少なくともプロテスタントの教えではありません。仏教では、修行を積むことによって、次第に涅槃の状態に近づくと教えます。カトリックでは、洗礼や聖体など「秘跡」と呼ばれる儀式によって、神の前でしだいに正しくなる、と教えます。しかし、私たちは信仰によって、正しい者と認められたのですが、正しくされたのではありません。正しくされるのは、キリストが再臨される時です。イエスさまを信じたばかりの時の自分と、10年後の自分では、その正しさは何ら変わっていません。自分が成長したように思えても、神の前では、キリストによって正しいと認められているのであり、自分の霊性や信仰深さによって正しいと認められているのではないのです。私たちはすでに、キリストが十字架につけられたときに、義と認められ、また聖められたのです。

 すでに私たちは、キリストのうちにおり、キリストのうちにいるのなら、父なる神のうちにもいるのです。これ以上、神に近づけられることはなく、神の贖いは完成したのです!今はただ、このからだが贖われることを、キリストが再び来られることを待ち望んでいるだけです。ハレルヤ!

3A 全うされた聖化 11−18
1B 一つの永遠のいけにえ 11−14
1C 毎日の務め 11
 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。

 大祭司が年に一度、贖罪日にいけにえをささげますが、もちろん祭司たちは毎日、イスラエルの民のためにいけにえをささげて、礼拝の務めをします。ここで大事な言葉は「立って礼拝の務めをなし」というところです。罪の贖いをするために、座ることなく、立ち働いていました。その働きは完了することなく、くり返されていました。

2C キリストの着座 12−13
 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 祭司たちは、繰り返していけにえをささげていたのに対して、キリストは、一つの永遠のいけにえをおささげになりました。「永遠」でありますから、もうこれ以上、他にいけにえがささげられることはありません。「永遠」ですから、途中で効力をなくして、再び他のいけにえが必要になるようなことはありません。キリストがあの時に十字架につけられた時に、私たちの罪は、すべて負われたのです。私たちは、キリストに信仰を置いたとき、すべての罪が赦されました。過去に犯した罪だけではありません。現在犯しているかもしれない罪、これから犯すかもしれない罪、過去・現在・未来のすべてが赦されたのです。ですから、主は神の右の座に「着かれています」。立ち働いていた祭司とは対照的に、主はすべてのわざを終えられたので、着座されているのです。

 そして、「その敵がご自分の足台となるのを待っておられる」というのは、主が再臨されて、悪魔がこの世を支配しなくなるときのことを意味します。この世で、不法に活動している悪魔のしわざが、主が来られることによってなくなります。

3C 全うされた聖め 14
 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

 私たちが神の前に近づくために必要な聖めは、キリストが十字架につけられたことによって、すべて行なわれました。すべては、十字架のみわざによって成し遂げられました。

2B 無用なささげもの 15−18
1C 神の意思 15−17
 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。

 この個所は、エレミヤ書からの引用です。新しい契約の約束です。罪のためのいけにえによって、罪意識がなくなったわけでなく、かえって、彼らのいけにえが神にとって忌み嫌われるものとなり、そこで神が、キリストをそのいけにえをされることによって、永遠にこの罪の問題を解決させ、決着をつけられました。そしてこれから、そのように罪の赦しを受けた者に与えられている新しい生き方が、ここに約束されています。神の律法が、私たちの心の中に置かれる、ということです。

 私たちは、聖書を手にして、聖書が神のことばであると信じています。これはもちろん、書かれたことばです。けれども、それがモーセの時代に意味していたことと、今は異なります。モーセの律法によると、律法は石に刻み込まれていたものでした。その文字を絶えず思い起こさせて、「主の戒めを守り行なえ」と呼びかけることによって、守り行なわせようというものでした。しかし、新しい契約においては、すべての者に聖霊が注がれる約束がともなっています。ご聖霊が私たちのうちに住まわれることによって、キリストがうちに住み、キリストが住んでおられることによって、神の律法が成就しているようになっています。

 今、私たちの本当の教師は、聖霊ご自身です。牧師はみことばを教えますが、本当に皆さんの良心と心にみことばを教え、それに聞き従うように促すのは、皆さんのうちに住まわれる聖霊ご自身です。ご聖霊によって、神の御声を聞き、生きている神を知り、神に従うときに、肉の行ないを殺すことができるのです。イスラエルの民は、学校の生徒が校則を守るように、規則のようにして神の戒めを聞いていましたが、ご聖霊が与えられている私たちは、キリストとの個人的な関係の中で戒めを守っています。神の律法が自分の心の中に置かれました。

 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」

 すばらしい約束ですね。完全に正義であられる神ご自身が、私たちの罪を思い出すようなことはなされないと宣言されているのです。「罪の赦し」というのは、その罪が思い出されないようにすることによって、初めて成り立ちます。「あなたが、この前、これこれ、こういう悪いことをしたけれどもね、私はあなたを赦すよ。」では赦しにならないのです。本当に、過去のことを持ち出さない。これが赦しです。

2C 罪の赦し 18
 これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。

 もはや、私たちが罪を赦していただくために、ささげなければいけないものは一切ありません。私たちが積み責められるから、祈ってみたり、聖書を読んでみたり、伝道したり、教会で奉仕をしたり、そうした宗教的活動は一切必要ありません。どうか、罪責められるときは、神がキリストにあって行なってくださった、十字架のみわざを受け入れてください。私たちの良心をきよめるのは、キリストの血のみであります。これが永遠の贖いを成し遂げた、唯一のいけにえです。キリストを受け入れるか、それとも拒むかの二つの選択肢しかないのです。


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