ヘブル人への手紙12章18−29節 「あなたはどこに近づいているか」

アウトライン

1A 近づいているところ 18−24
   1B シナイ山 18−21
   2B シオンの山 22−24
2A 焼き尽くす火 25−29
   1B 天からの警告 25
   2B 揺り動かされる天地 26−29

本文

 ヘブル人への手紙12章を開いてください。今日は12章の後半部分18節から29節までを学びます。ここでのテーマは、「あなたはどこに近づいているか」です。

1A 近づいているところ 18−24
1B シナイ山 18−21
 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。

 これは、シナイ山で起こった出来事です。出エジプト記に書かれてあることを思い出してください。19章16節にこう書いてあります。「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。・・・シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。角笛の音が、いよいよ高くなった。(出エジプト記19:16,18,19

 今、ヘブル書の著者は、読者に対して、自分がどのようなところで主にお会いするのか。自分が死んでからどこに行くのかを説明しようとしています。ヘブル人たちは、以前、このような恐ろしい、ものすごい光景の中で神に出会っていました。

 このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。

 聖なる神ご自身がお語りになったので、あまりにも恐ろしく、もしこれ以上語るのであれば、自分は死んでしまうのではないか、と思いました。

 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。

 山のふもとには、杭が打たれていました。その中に入って、家畜でも人でもはいって死ぬことがないようにするためです。

 また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。

 モーセも、恐ろしくて、ぶるぶる震えていました。

 ヘブル書の著者は、このようなところで、主にお会いするのではない、と言っています。19節のところに、「近づいているのではありません」と書かれていますね。ヘブル書のテーマは、神に近づくことであります。礼拝について書かれています。そして、天における報いについて書かれています。今、読者に対して、自分がこれから行くべきところがどのようなところかを教えようとしています。

 そして、私たちが近づいているその場所は、今話したような恐ろしいところではありません。主に近づくのに、一言も付け加えてほしくないほどになったり、震えたり、杭が打たれて、近づけないようになっているようなものではありません。これは、律法が与えられているからです。律法に表れている神の聖さと正しさが表れているからです。律法が与えられれば、私たちは恐れ退くしかありません。

 私たちが心の奥底で、どのようにして神に近づいているかを思ってください。自分のことを申し上げることに遠慮が出ているでしょか。心のうちのすべてを明かすと、神の怒りに会うかもしれないと思っているでしょうか。そこで神さまに赦してもらうために、十字架を思い出して、かろうじて神に近づけるように自分を用意しているのでしょうか?これは、シナイ山に近づいていることになります。律法によって神に近づいているのです。

 先日、ある若者の集まりで聖書を教える機会がありました。その後、分かち合いの時を持ちましたが、ある方は教会に2年間通っているけれども、まだクリスチャンになる決意ができていないとおっしゃっていました。その理由は、クリスチャンになったら社会に適合できるか、ということです。大学四年生なのですが、クリスチャンになることによって周りからどう思われるかが、気になっているとのことです。これはごく一例ですが、私たちは、「これが起こったらどうなるのか、あれが起こったらどうなのか。」と、いろいろな恐れを持ちながら神のことを考えてしまいます。あす死ぬかもしれないこのいのちのことを思い煩って、神との交わりが、シナイ山にいるかのように行なっていることが多いのです。

2B シオンの山 22−24
 しかし、次から、クリスチャンが近づいている、すばらしい山が紹介されています。しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。

 クリスチャンが近づいているのは、シナイ山ではなくシオンの山です。これは、天に用意されている神の都であり、天のエルサレムです。この光景が詳しく書かれている聖書個所がありますね。それは、黙示録21章です。天と地が過ぎ去り、新しい天と地が再創造されます。そこに天から、大きな立方体のかたちのものが降りてきました。それは神の栄光で輝いており、土台は12の宝石で、城壁が碧玉、都は純金で造られていました。そこには神殿はありません。父なる神と子羊イエスの栄光が都を輝かせているからです。とてつもない、栄光に富んだ山が私たちに近づいています。

 そして無数の御使いがいます。「御使い」というと、羽がついているキューピーちゃんのように考えないでください。聖書に描かれている御使いは、ひとりで何万人もの軍勢を殺すことができる力を持っており、世界の大国を動かす力を持っており、地上にやって来ただけで大地震が起こるような御使いです。彼らが無数にいて、そして主を賛美している、その大祝会に近づいているのです。

 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。

 天に登録されている長子たちの教会とは、教会史すべての聖徒たちです。私たちはパウロにも会えるし、マルチン・ルターにも会えるし、そしてつい最近死んだ、クリスチャンの肉親や友人にも会えるのです。そして、「万民の審判者」であられる神がおられ、そして「全うされた義人たちの霊」とあります。これは、旧約時代の聖徒たちのことです。彼らは、信仰によって死に、約束のものを手に入れなかった、と、ヘブル書11章で学びました。キリストが十字架の上で死んでくださったので、彼らは天に入ることができました。罪が取り除かれたからです。ですから、旧約聖書に出てくる人物にもみな、私たちは会うことができます。

 そして、この天の中に入ることができることを可能にする新しい契約の仲介者、イエスさまご自身がおられます。イエスさまは、今も、私たちのためにとりなしをしておられる大祭司です。そして、アベルの血よりもすぐれた血、すなわち、主イエスが十字架につけられたときに流された血が、天にあります。

 ものすごいですね。ここで私たちは、「近づいている」という言葉に注目しなければいけません。これは自分の死を覚悟しているか、あるいは、主イエスさまが天から空中にまで下ってきてくださるか、どちらであるか分からないけれども、それを意識している状態であります。私がクリスチャンになったとき、まだ19歳でしたが、その時に「自分はもう明日死んでも良い準備ができた。」と思いました。もう自分は死にました。今しているのは、この近づいている天を見上げながら、残された日々として生きることです。

 自分がクリスチャンになって、「私はこれから、これこれのことを行なって、こうやって生きてゆく」というようなこの地上における希望を持ちながら、それから天国に行くというような遠い存在にしていないでしょうか?シオンの山は「近づいている」のです。私たちがこのビジョンをもって生きているときに、自分ではなく、上からの聖霊の力が私たちを支えてくださいます。

 このビジョンは、病床にいる人に対する希望でありましょう。迫害下にいる人たちの希望でありましょう。彼らの中で、人間的には状況が悪化すればするほど、ますます喜んで、聖霊に満ちあふれる人々が多くいます。なぜなら、自分の外なる人がそがれていくので、ますます内なる人が鮮やかに見えてくるからです。けれども、この祝福を、病気の時や迫害の時だけに持っているだけではもったいないです。私たちクリスチャンは、時が良くても悪くても、天が近づいていることを思い、その中で生きていくことに賭けてみるのです。

2A 焼き尽くす火 25−29
1B 天からの警告 25
 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。

 私たちは、シオンの山に近づいているのですから、大胆に、神に近づくことができます。希望と愛にあふれて、残された日々を歩むことができます。けれども、もしこの契約さえも拒むなら、すなわち、イエスさまが流された血を踏み付けて、恵みの御霊をあなどるのであれば、そのときの処罰は、旧約における処罰どころではありません。10章27節には、「ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。」と書いてあります。

2B 揺り動かされる天地 26−29
 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」

 シナイ山においては、神の御声によって地が揺り動かされましたが、今度は地だけではありません。天もゆり動くようなものです。

 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。

 私たちは、すべてのものが焼けただれて、すべてのものがなくなってしまうことを知っています。ペテロは、この万物の終わりを次のように説明しています。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。・・・その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(2ペテロ3:10、12)」この前紫音ちゃんに、万物の終わりについて、次のように説明しました。「今、紫音ちゃんが一気に、火で燃え尽くされても、でも紫音ちゃんの魂までは、だれも燃やすことはできないよ。」天の万象が焼け溶けるということは、原子という単位までも崩れることを意味すると思います。そのようなものが焼け崩れても、贖われた魂は決して崩れ去ることはないのです。

 だから、イエスさまが言われました。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4−5)」私たちが、神のことばと約束、また先ほどの、天国についての啓示、これ以外に何か自分のよりどころを求めていれば、それは焼き崩されることを知らなければいけません。この世のものは過ぎ去ります。けれども、イエスさまのことばだけは残ります。

 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。

 私たちが受け継ぐ御国は、造られたものではなく、主ご自身がおられるところです。したがって、決して揺り動かされることはありません。私たちはこの幻を心にいつも描いて、感謝しつつ、歩むよう召されています。

 こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。

 自分のものがどうなるか、という心配をしている限り、神に喜んで仕えることはできません。けれども、天地が過ぎ去る、万象は焼き尽くされることを知りつつ、ただ天のエルサレムだけが自分に近づいているという深い確信の中にいるときだけ、喜んで仕えることができます。「慎みと恐れとをもって」とありますが、それは、主がさばかれる方だからです。洪水の前のノアのように、来るべき神のさばきを畏れながら、日々を暮らしていきます。

 私たちの神は焼き尽くす火です。

 神の本質が書かれています。私たちは、聖書の中で、「神は何々である」という表現を見つけることができます。一つは、「神は愛です」というものです。神は愛を持っているではなく、神は愛です。神が愛することができない、ということはありません。神から出たものはみな愛です。そして、「神は光である」とも書かれています。これはきよさを表します。そして、「焼き尽くす火」ですが、主は、すべてのものをさばかれるための火であるし、また精錬するための火でもあります。私たちが、信仰によって確信をもっているものがあるかぎり、その火が自分にふりかかっても、それは清めの働きをします。イエスさまによって、私たちはきよめられ、そして栄光の冠を受け取ることができます。

 一方、何も持っていない人は、持っているものまでが取り上げられます。すべてが焼かれ、また火と硫黄の池で永遠に苦しまなければいけません。この火が、自分にとってきよめになるのか、それともさばきになるのか、それを決めるのは自分です。唯一残るもの、すなわち主イエスが流された血を自分のものとして信じるかどうかによって決まります。


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