ヘブル人への手紙12章1−17節 「忍耐する信仰」

アウトライン

1A 走り続ける競走 1−4
   1B 雲のように取り巻く証人 1
   2B 信仰の完成者イエス 2−4
      1C 十字架における忍耐 2
      2C 罪人の反抗 3−4
2A 父の懲らしめ 5−11
   1B 子への愛 5−8
      1C 主が愛される者 5−6
      2C ほんとうの子 7−8
   2B 父への服従 9−11
      1C 尊敬 9
      2C 結ばれる実 10−11
3A まっすぐな道 12−17
   1B 筋力 12−13
   2B 平和の追求 14−17
      1C 聖さ 14
      2C 心の監督 15−17

本文

 ヘブル人への手紙12章を開いてください。今日は前半部分、1節から17節までを学びます。ここでのテーマは、「忍耐する信仰」です。

 ヘブル書10章の学びの中で、私たちが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐であると、学びました(36節)。私たちは、自分が思うように早く、神さまの約束が実現するのを見ることがありません。死んだ後に、あるいはイエスさまが再臨された後に来る世界は、まだ見ていないけれども待ち望んでいます。また、日ごろの生活の中で、「神の国を第一に求めれば、これらのものは加えて与えられます。」という約束もありますが、これも自分が望むようには実現しません。だから、その間、忍耐します。約束が実現するまでの間は、まだ見ていないけれども、見ているかのようにして生きて、信仰によって忍耐します。今日は、この忍耐の過程の中で、私たちが経験する、いろいろな事柄について、どのように対処すればよいかを学ぶことができます。

1A 走り続ける競走 1−4
1B 雲のように取り巻く証人 1
 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、

 こういうわけで」とありますが、これは、11章においてたくさん書かれていた、旧約の聖徒たちのことです。彼らは信仰によって、キリストの証人となりました。神さまから言われたことを、聞いて、行なったのですが、それが後の世代から見ると、キリストがどのような方であり、どのようなことを行なわれるのかを、あらかじめ示していたことを知ります。そして、旧約の聖徒たちは、自分が生きているうちに、約束が実現するのを見ませんでした。むしろ、苦しみやしいたげ、そしり、窮乏、拷問など、祝福とは正反対の否定的なことが彼らの生活にふりかかりました。こうした証人が、たくさんいます。著者はここで、たくさんいることを、「雲のように私たちを取り巻いている」と言っています。旧約聖書には、幕屋や神殿において、栄光の雲が満ちることがりましたが、そのように旧約の聖徒たちが、はっきりと私たちに、キリストのことと、信仰によって生きることを教えてくれているのです。

 私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 旧約時代の聖徒たちと同じように、私たちにも、悪いことがふりかかります。そして、悪いことが積み重なると、私たちはそのために、神のことばについて疑いを持ち始めます。クリスチャン生活が重荷となってきます。疲れがたまり、多少の罪を楽しんでも良いではないか、と思うわけです。しかし、私たちは、信仰によって、困難の中にいても、なおいっそうのこと、主にあって喜ぶことができるようになります。信仰は、将来の栄光を先取りすることができますから、困難の中にあるときには、将来の希望がますます輝き、それにともなう喜びが増し加わり、そして主の愛に浸ることができるようになります。

 私たちには、困難なことが起こるときに、二つの道に分かれる分岐点に立たされるのです。一つは、今説明した、希望と信仰と愛の道。もう一つは、その困難が重荷となり、神に対して疑いを持つようになって、苦々しくなり、罪を犯す道。自分が信仰を持つか、また持たないかによって、見方が正反対になり、生きる道も正反対になります。これはベクトルの問題です。

 そこで著者は、読者であるヘブル人たちが、疲れているのを知っていました。ユダヤ人共同体の中で、疎外されているため、その辛さを神に持っていくことをせず、自分の中に押しとどめているのを知っていました。それが重荷となり、罪となっているのを知っていました。そこで、今、旧約の聖徒たちのことを思い起こさせたのです。彼らだって、苦しみの中を通ったのだ。彼らは、私たちのように、約束のキリストが与えられなかったのだ。それでも、キリストを待ち望んで、生きるようにして死んでいったのだ。だから元気を出しなさい、と励ましています。

 そして、パウロが手紙の中で、信仰の歩みを競走にたとえることが多かったですが、ここにおいても、「私たちの前におかれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と信仰生活を競争にたとえています。競走するときに、私たちはなるべく負担にならない軽い靴をはき、服装も軽快にします。マラソン大会において、たくさんの手荷物をぶらさげて走っている人など、一人もいません。困難の中で、自分の思いに浮かび上がってくる疑いがありますが、それが逆に私たちにとって重荷となり、私たちを逆に苦しめるのです。これらのものを取り払って、一心に神に近づく生活を続けようではありませんか、と勧めています。

2B 信仰の完成者イエス 2−4
1C 十字架における忍耐 2
 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

 私たちが、苦しみや試練の中にいるときに、旧約の聖徒たちの姿は励みになりますが、何よりも、信仰の対象であるイエス・キリストこそが、私たちを支えてくださいます。私たちが、どこに焦点を当てているかによって、今生きる力が与えられるか、られないかが変わってきます。イエスにこそ、私たちは目を注ぐべきです。

 そしてここで興味深いのは、主は私たちの信仰の対象だけではなく、創始者であられ、完成者でもあられることです。ローマ12章に、神の恵みによって、私たちに信仰の量りが与えられている、と書かれています。そして、完成者については、ピリピ1章に、良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださる、とあります。

 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 私たちが受ける試練や困難、また迫害は、イエスさまを見るときに耐えることができます。疲れていても、元気が出てきます。なぜなら、主ご自身が、人間がこれまで受けないことなく、またこれからも受けることがないであろう、最悪のはずかしめをお受けになっていたからです。主は、罪人とともに数えられて、十字架につけられました。ローマ兵からは、つばきをかけられ、笑われ、棒で打たれ、十字架につけられているときは、ご自分の下で彼らは着物をくじで分けていました。ユダヤ人は、「お前が神の御子なら、そこから降りてくるがよい。」とののしりました。

 しかし、そうしたはずかしめを耐えることができたのは、ご自分の前に喜びがあったからです。それは、十字架の苦しみの後に、多くの者たちが義と認められることです。イザヤは、この喜びを次のように預言しました。「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ53:11)」そして、はずかしめを耐えて、ついに神の右の御座に着くことがおできになりました。このイエスが、今、私たちの信仰を完成してくださいます。私たちも、この方にならって天における報いを待ち望みながら、今の苦しみを甘んじて受けることができます。

2C 罪人の反抗 3−4
 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。

 再び「考えなさい」という命令です。以前、「私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。(3:1)」というみことばを習いましたが、「考えなさい」の意味は、「沈思する」というものでした。深く考え、じっくり考え、そこに自分を沈み込ませなさい、ということです。それは、罪人たちがイエスさまに対して反抗したとき、つまり、十字架につけられているイエスさまをののしった人たちに対して、それを耐え忍ばれていた、そのイエスを考えます。

 それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

 正しい方であったイエスが、あのような罪人の反抗を忍ばれたのですから、今自分が受けているののしりや、あざけりは、無きにも等しいものです。このことを考えると、私たちは自分を悲劇のヒーローにして、疲れ果ててしまうのではなく、むしろ、イエスさまの道にならっていることができていると喜ぶことができます。

 私たちは信仰の歩みの中で、元気を失うことがあります。悪いことが起こると、それに忍耐していますが、疲れてきて、がっかりして、元気を失います。けれども、よく考えて見ると、イエスさまは、ご自分はまったく正しい方なのに、罪人がののしるのをお受けになっていたのです。このことを考えて、元気を出しなさい。イエスさまが、すでに先んじて、罪人の反抗を忍ばれたのだよ、と言うことです。

 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

 主は、罪人の反抗をしのばれて、血を流されました。使徒パウロも、「この身に、イエスの焼き印を帯びている(ガラテヤ6:17)」と言いました。けれども、あなたがたはまだ、迫害によって血を流したことがないし、罪と戦ったことがないではないか、と指摘しています。

 これは、私も含めて、日本に住むクリスチャンの耳に痛いことばではないでしょうか?私たちは、周囲との調和を保とうと、それこそ血を流すまで戦いますが、罪と戦うことはありません。「これこれのことは罪である」と明らかにすることをためらい、「仕方がないことだ」と言って片付けてしまいます。しかし、実は片付けたつもりでいて、片付いてはいないのです。自分の人生の歩みの中で、霊的にくるいが生じることは必然であり、外側でごまかしているつもりでも、必ず内実は明らかにされます。罪は罪であり、罪には妥協できない。たとえ血を流しても妥協できないという姿勢によってのみ、クリスチャンがクリスチャンとして生きていくことができるのです。


2A 父の懲らしめ 5−11
1B 子への愛 5−8
1C 主が愛される者 5−6
 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

 主の懲らしめについての教えです。私たちが、自分の生活や人生がうまくいかなくなり、それで神に対して疑いを持ち、罪の生活に戻っていくときに、主は、ご自分のもとに私たちを引き寄せるために、いろいろなことを行なってくださいます。例えば、自分の仕事がうまくいかなくなる。これまでの人間関係がなにかおかしくなった。その他もろもろ、「何かがおかしい。どうしたのだろうか。」と思わせるような出来事を起こすようにされます。そうすることによって、今自分が、主から逃げようとしていることを気づかせて、罪によって自分が滅んでしまうことに気づかせようとされます。

 このように、懲らしめは、私たちが神を忘れているときに、呼び起こすようなかたちで現われることもありますが、また、実際に罪を犯した後、その罪から来る結果を経験することがあります。それによって、自分がその罪を嫌い、その罪を憎むようになります。その罪によって自分が本当にみじめになって、こんな生活はいやだと思うほどでなければ、その罪を二度と犯したくないと思うでしょう。ダビデのことを思い出してください。彼は姦淫の罪と殺人の罪を犯しましたが、彼はそれを告白したので、すぐに罪が赦されました。しかしバテシェバとの間にできた子は死に、その後ダビデの息子たちの間で問題が起こり、殺人が起こりました。ついに息子の一人アブシャロムが父ダビデに反抗しました。彼はダビデの妻とそばめを、みなの前ではずかしめたのですが、このようにして、ダビデは自分が行なったこと姦淫と殺人の罪が、いかにひどいものかを身にしみて経験しました。ダビデはそれ以降、二度と同じ罪を繰り返しませんでした。これが主からの懲らしめです。

 「主はその愛する者を懲らしめる」とありました。私はクリスチャンになってしばらくして、この個所を読んだときに、深い安堵を得たことを覚えています。主は私たちを愛するから、懲らしめるのであって、もし私たちが懲らしめられないのであれば、それは愛されていない証拠なのです。自分が訓練を受けて、懲らしめられるのは、御父から流れる深い愛の現われです。私は、このみことばに出くわすまで、何か懲らしめのような出来事に会うたびに、「神は自分をあまり好かれていないのではないか。」と思いました。いや、私たちは、神は根本的に私たちを愛して、受け入れておられることを信じなければいけません。受け入れているからこそ、神は私たちを懲らしめられるのであって、私たちを引き離すためではないのです。このことが分かったときに、私は、この後クリスチャン生活においていかなる大変なことが起こっても、私を決して否むことのない神にすがることができると思いました。それが神からの厳しい取り扱いかもしれません。けれども、それは愛から出てくる取り扱いです。私たちは恐れ退かず、主に再び近づくことができるのです。

2C ほんとうの子 7−8
 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

 父が子をしつけるのと同じように、神は私たちを懲らしめ、訓練を施されます。私たちは、このことの意味が、現在、あまり理解できないかもしれません。父親が子をたたいて、しつけるようなことがないからです。旧約において、両親に公然と反抗した場合、その子は石打の刑です。それだけ、子が親に従わなければならないのが、聖書の教えです。そして、もししつけを行なっていなければ、それはその父は子を子と思っていないと同じことである、と書かれています。私たちは、親子の関係について、また愛について、その意味を真剣に問い直さなければいけない時代に生きています。

2B 父への服従 9−11
1C 尊敬 9
 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

 懲らしめられるときに、子どもはそれでも父を憎まずに、むしろ尊敬して、父に従います。「頑固親父」と呼びながら、厳しくしつけられた子は父のことを尊敬します。ですから、なおさらのこと、霊の父である神に対して、私たちは尊敬し、服従して生きます。私たちは、とくに、教育を受けている人々は、とかく人から言いつけられて動くのが嫌いです。命令されるには、その理由付けが必要です。けれども、私たちは、主からの訓練を受けることによって、とにかく主が言われるのであれば、それに従っていくという、服従の心が与えられます。

2C 結ばれる実 10−11
 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

 肉の父親は、自分が怒りたいときに怒るときもありますね。自分がむかついたらしかるときがあります。けれども、父なる神は違います。父なる神は、私たちの益のために懲らしめてくださいます。そして、その目的は「聖め」です。罪から離れることです。懲らしめられることによって、「もうこりごり!うんざりだ!」という思いが与えられます。そして、聖さの中に歩むことができます。

 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 ここに書かれているのは、言い換えれば「成熟する」ことです。神は、目の前にあることの解決を与えるよりも、じっくりと時間をかけて、私たちに問題に取り組ませて、そしてそれを耐え忍ぶことによって、良い実が結ばれるようにすることを行なわれます。人格形成には時間がかかるのと同じように、霊的形成にも時間がかかります。「夫婦の仲を良くする方法」などという本でテクニックを学ぶよりは、本当にみことばに真剣に取り組んで、祈りによって、自分のたましいが砕かれていくことのこそのほうが、主にあって円熟した夫婦へと変えられます。これは、自分の深い部分を探られる、本当に辛い作業でもありますが、それでも、そこから現われ出る実は、ここに書かれてあるように、「平安な義の実」であります。

3A まっすぐな道 12−17
1B 筋力 12−13
 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。

 ここで話されているのは、霊的に私たちが無力になってしまっていることです。弱った手と衰えたひざ、とありますが、私たちが入院して、いっさい手やひざを動かすことがなかったら、どんどん衰えていきます。同じように、私たちも、霊的に主からの訓練を受けなければ、また信仰による競走、マラソンを走っていなければ、霊的な筋肉が衰えてしまいます。だから、いままっすぐにしなさい。

 そして「いやされるためです」とあります。私たちが心に傷を受けているときに、主からの懲らしめは、傷どころかむしろ、深いいやしが与えられます。「あなたは大丈夫だよ。」と偽りの慰めを与えているかぎりは傷はさらに深くなりますが、本当に神から取り扱いを受けたときに、真のいやしが訪れます。

2B 平和の追求 14−17
1C 聖さ 14
 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

 私たちが重荷を負って、疲れてくるときに、その心は苦みが特徴的になります。今まで信じていたのに裏切られたような思いがあります。そこで、周りの人々にもそれが及び、人々との関係において、私たちは平和な関係を持てなくなります。そのことに対する対処がここに書かれています。「平和を追い求めなさい」とあります。また、それは苦みという汚れた思いが取り除かれることなので、聖められることを追い求めることでもあります。そして、「聖くなければ、だれも主を見ることができません。」とありますが、イエスさまが、山上の垂訓においてお語りになったことですね。「きよい者は、神を見る」というところです。

2C 心の監督 15−17
 そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、

 私たちは、自分のためだけでなく、周りの人々のためにも、心を監督している必要があります。苦みが心の中にあるときに、それはその人をむしばむどころか、全体の雰囲気にも及び、多くの人が汚れされることとなります。ですから、気をつけなければいけません。

 また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

 重荷のあるときは、苦みだけでなく、不品行も行なってしまうかもしれません。その例として、エサウが挙げられています。彼は、長子の権利を、今おなかがすいているからと言って、たった一杯のスープと引き換えに投げ捨ててしまいました。今の楽しみのために、永遠のいのちを退けることをしてしまったのです。

 そしてエサウは、後でイサクに祝福をくださいと願ったけれども、彼は自分が行なったことが間違っていたとは思っていませんでした。ただ祝福がもらえないことを悲しんでいるだけでした。これが、後悔と悔い改めの違いです。悔い改めは、自分が罪を犯した、と認めます。そして、罪を捨てます。そのため、罪の責めから解放されることができます。後悔は、いつまでも自分がしたことを悔いますが、それを変えようとはしません。

 このようにして、私たちが、信仰の歩みをしているときに、じっくりと我慢する、あるいは忍耐することがどのように必要であるか、知ることができました。私たちの心は、しだいにかたくなってきます。自分の思い通りにならないこと、つまずきになるようなこと、その他のさまざまなマイナス要因が重なって、神のみことばに対し疑いがはいり、そして重荷がふえ、罪を犯すようになります。そして、神は、私たちを引き戻されるために懲らしめを与えられますが、その時に悲しんでそれを受けるのであれば私たちはいやしを受けて、またリフレッシュされた信仰でもって歩むことができます。もしそうでなければ、苦みの中で生きるようになり、エサウのように後悔する人生となってしまいます。私たちは、いつでも立ち戻ることができます。そして、罪と重荷をかなぐり捨てて、競走に戻ってくることができます。


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