ヘブル人への手紙13章 「宿営の外に出て」


アウトライン

1A 兄弟愛 1−6
   1B 思いやり 1−3
   2B 生活の満足 4−6
2A 指導者 7−17
   1B 信仰 7−9
   2B キリストのそしり 10−14
   3B ささげるべきいけにえ 15−17
3A 祈り 18−25
   1B 再会への祈り 18−21
   2B あいさつ 22−25

本文

 ヘブル人への手紙13章を開いてください。ここでのテーマは、「宿営の外に」です。私たちはこれまで、この手紙が書かれている背景となっていた、ユダヤ人信者たちのことを念頭に入れて読んで来ました。今日は、そのハイライトになるような話ですが、彼らが迫害や圧迫の中で、どのようにして生きていかなければいけないのか、その結論となるような言葉が残されています。それが、「宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか」という13節の言葉です。

1A 兄弟愛 1−6
1B 思いやり 1−3
 兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。

 この三つの勧めは、いずれも迫害下の中における勧めです。「兄弟愛をいつも持っている」というのは、迫害の中において、外側で困難があるのだから、兄弟の間でお互いに困難を持ち込まない、という考えがあります。苦しみの中にあって、私たちの間には一体感が増します。そして、互いに熱く愛し合うことをさらに求めます。自分のことを分かち合い、さらに相手に何をしてあげようか、と主にあって考えるようになります。兄弟愛。です。

 そして「旅人をもてなしなさい」とありますが、これも人を愛する行為に他なりません。当時は、巡回伝道者や預言者がいました。彼らは、主に任じられて、教会を建て上げるために奉仕をしていますが、彼らを自分の家に招き迎え入れることは大変な親切でありました。私たちは、自分たちだけの家、自分たちだけの家族、自分だけ、というような、悪い意味の個人主義に陥ってはなりません。主にある者たちは、みな、人との関係を嫌がらないところの愛を持っています。

 ここで面白いのは、「知らずに、御使いをもてなした」とありますが、アブラハムのことを思い出してください。彼は三人の人を家に迎えましたが、彼らは御使いでした。ですから、旅人であるからといってあしらうことをせず、むしろ、主が送ってきてくださった方として、もてなすことが大事なのです。

 そして、「牢にいる人々をもてなす」のですが、これは信仰のゆえに、牢に入れられた人々のことを言っています。「自分たちも肉体を持っているのですから」とありますが、私たちは、牢獄での生活がいかに辛いことであるかを自分にも肉体があるのですから、容易に想像できます。自分が自分の肉体を大事にするように、牢にいる人々も思いやりなさい、という勧めです。この「肉体」という表現で思い出すのは、エペソ書5章に書かれている、夫への勧めです。そこには、「自分のからだのように、妻を愛しなさい。」とあります。夫は妻の必要について鈍感になってしまいますが、自分が大切に養っている自分のからだのことを考えれば、彼女への理解も深まります。これは、牢の中に入っている人に対する態度と同じです。

2B 生活の満足 4−6
 そして次に、クリスチャンが気をつけなければいけない、二つの戒めがあります。結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。

 一つは、不品行や姦淫についての警告です。セックスは、結婚の中のみで祝され、聖なるものとみなされます。婚前交渉、婚外交渉は神の怒りを招きます。私は、先週、長崎に行きました。長崎は、キリシタンが多くいた場所として有名です。戦国時代、江戸時代初期、また明治時代初期における迫害と殉教は、目をみはるものがあります。彼らは、まさにテサロニケ人の信者たちのようであり、苦しみの中にあっても聖霊による喜びがあり、首を切られる直前には、パライソすなわち天国に行くことができるという希望で、その喜びが頂点に達しました。そのような迫害の中で、兄弟たちの愛はますます増し加わってました。

 そして私がある資料館に行ったときに、面白いものを発見しました。小さなむちです。それは、情欲を抑えるために、自分のからだを打つためのむちです。自虐的なように見えますが、しかしパウロは、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。(1コリント9:27)」と言っていますから、これは聖書の教えにかなったことなのです。自分を肉欲にしたがわせない。むしろ、自分のからだを自分に従わせるようにする、ということです。

 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

 寝床を汚してはいけない、という戒めの次は、金銭を愛してはならないという戒めです。ここで大事なのは、「いま持っているもので満足する」ことです。今与えられている給料、今与えられている財産で満足する。それ以上の何かを求めてはいけません。

 金を愛することの一つの要因に、「不安」があります。この先、どのようにして生きればよいか、と思う不安は、私たちの理性を麻痺させて、さらに金集めに駆り立てますが、そこで著者は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」という神の約束を書いています。貧しいときにこそ、主がご臨在が確かに約束されていることを忘れてはいけません。

 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 箴言に「人を恐れると、わなに陥る」という言葉がありますが、ここで引用されている聖書個所は、その反対の約束です。主が助けてくださるから、私は人間を恐れない、とのことです。これは、大切な教訓でしょう。私たちが、神の真理から離れて、この世に妥協してしまうのは、必ず人を恐れる恐れがあるからです。私たち日本人は、とくに、仲間は自分をどのように思っているのだろうか、という恐れが常にあるので、これとの戦いがあります。主が助けてくださる。自分が独りでも、主がともにいてくださる、という確信が、キリストを憎むこの世において、なお主に対して忠実でいられる原動力となります。

2A 指導者 7−17
 次は、指導者に従うことの勧めが書かれています。

1B 信仰 7−9
 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

 この章には、指導者に従うことの勧めが二つあります。この7節と、17節です。教会の指導者が、従うにはあまりにもひどすぎることをやっていることが、しばしば起こっているので、この聖書のことばには拒否感を抱かれる方もおられることでしょう。けれども、やはり、敬虔な指導者は存在するわけで、その指導者の信仰の足跡にならっていくことは、大切です。自分ではどのようにしてキリストに従えばよいかわからないことも、指導者がキリストにしたがったその姿を見て、従うことができます。

 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

 この個所は、前の文に続いています。つまり、キリストにならっている指導者は、キリストがいつまでも変わらないように、その生活に一貫性があるということです。ある時にはこう言い、またある時にはまた違うことを話すような人ではなく、周囲がどんなに変わろうとも、いつまでも変わらず、真実の言葉を話している人ということになります。

 さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。

 指導者に従っていく大切なことの理由は、キリストに従っていくということの他に、間違った教えに迷わされないようにするためです。教会発足時における、大きな信仰上の戦いは、ここに書かれているように食物であったようです。ある食べ物を取ることが霊的に汚れたものとみなされ、ある食べ物を摂取しないことが霊的であるとみなされていたようです。けれども、それは益になりません。

 食物にかぎらず、あらゆる異なる教えが、教会の中にはびこることがありますが、それらの教えが逸脱し、また攻撃する教えは、ここに書かれてあるとおり、「恵み」です。パウロの手紙が、「恵み」のあいさつから始まり、「神の恵みがありますように」としめくくられているように、神の恵みが彼が生きている支えでありました。ですから、神の恵みによって救われ、また神の恵みによって生きていることを私たちが信仰の支柱にしている必要があります。

2B キリストのそしり 10−14
 そして次に、ヘブル書全体を貫いていた、核心的な勧めに入ります。私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。

 ここで書かれている「祭壇」とは、幕屋あるいは神殿における、青銅の祭壇のことです。ユダヤ人信者たちは、イエスが死なれた後もなお行なわれていた神殿礼拝を、まだ続けている人々がたくさんいたようでした。この祭壇において、いくつかの種類のささげものが行なわれます。その一つが、「罪のためのいけにえ」です。このいけにえは、牛や羊をほふるとき、祭壇の上では脂肪の部分だけを焼きます。けれども、その肉の部分をはじめ、脂肪以外の部分をすべて、イスラエル人たちが宿営している、その宿営から出たところの、灰捨て場に運び出さなければいけません。そこで、火で焼きます。これはむろん、罪あるものとされたいけにえが、宿営の外に運ばれることによって、イスラエル人から罪が引き離されたことを、示すためのものです。詳しくお知りになりたい方は、レビ記4章を参照してください。

 そしてさらに、大祭司が年に一度、至聖所に入ってイスラエルの民の罪の贖いをする、ヨム・キプールあるいは贖罪日のときは、罪のためのいけにえがささげられます。大祭司はそのいけにえの血を取って、それを至聖所の中に運んでいき、贖いの蓋のところに振りかけて、神の怒りをなだめます。罪のためのいけにえ、また贖罪日が、ここで書かれていることの背景です。

 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

 私たちはこれまで、ヘブル人への手紙にて、イエスが大祭司として、まことの聖所である天の中に入り、ご自分の血をたずさえていかれたことを学びました。神の御座のところに、十字架で流された血を持っていき、それで、私たちの罪の贖いが完全に行なわれたのです。

 けれども、ここでは、そのイエスさまの肉体が、宿営の外、あるいは門の外に連れて行かれたことを示唆しています。これはいったい、どういうことなのでしょうか?聖書に聖書地図が付いている方は、どうぞその聖書地図をご覧ください。そこに、「新約時代のエルサレム」という題名の地図があると思います。イエスさまが十字架に付けられた場所が記されているかと思います。現在、イエスさまが死なれたであろうと言われている場所が二つあります。一つは、ゴルゴタ、カルバリあるいは聖墳墓教会というところです。ここは、カトリックをはじめ、さまざまキリスト教の教派が管理している、歴史的な教会です。ここが一つ、ゴルゴダではないかと言われている場所です。もう一つは、上の方、「ゴルドンのカルバリ」というのがあります。これは、今から約100年ほど前に、イスラエルの地が英国統治領になっていたとき、ゴルドンという英国兵士が、その岩が、しゃれこうべに似ていたのを見て、その地を買い取ったものです。そこには、聖書の記述ときわめて見ている、園の墓があります。ここはプロテスタント信者の人たちが訪れるところです。

 そしてこの二つの場所は、どちらも、当時のエルサレムの町の外にありました。当時のエルサレムの北側にあった城壁は、第二北城壁であり、ゴードンのカルバリだけでなく、聖墳墓教会も城壁の外側にあります。イエスさまは、エルサレムで十字架刑の宣告を受けられた後、その形の執行のために、エルサレムの外に連れて行かれたのです。したがって、罪のいけにえが、イスラエルの宿営の外でその肉体が焼かれたと同じように、主の肉体は、エルサレムの門の外で引き裂かれました。

 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

 イエスさまがエルサレムの外に連れて行かれるとき、もちろん、はずかしめとそしりを受けられました。「お前がキリストで、救い主なら、その十字架から降りてみろ。」などのののしりを受けられました。そこで著者は今、このそしりをあなたがたも身に負って、宿営の外に出ようではないか、と勧めています。これは、イエスさまがユダヤ人の共同体から疎外されて、エルサレムの町の外に連れていかれたように、ユダヤ人信者たちもユダヤ人の共同体から村八分にされても、キリストのそしりを受けるために甘んじて受けようではないか、ということであります。

 ユダヤ人たちの誘惑は、まさに共同体の中にとどまりたい、ということでした。自分たちがイエス・キリストを救い主であると受け入れることによって、他のユダヤ人たちから除け者にされることを彼らは恐れました。しかしそれでも、神に近づく、いや神に近づくためには、そのようなそしりを受けなければいけないのです。私たちも、この社会において、同じようなそしりを受けます。私たちは人目を気にします。クリスチャンとして生きてゆくならば、お前は日本人ではないというレッテルを貼られます。そのために、キリストによって大胆に神に近づき、神に礼拝をささげることをしないのです。しかし、私たちは宿営の外にでなければいけません。自分が主にある神との深い交わりを保つには、他の人々からそしりを受けても、それは大きな犠牲ではないのです。

 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

 この世のことを考えて、そしりを受けるのであれば、それほど苦痛なことはないでしょう。しかし、自分の故郷がこの地上ではなく、天であり、自分が住む都が、この世のものではなく、天から下りて来るものであることを知るならば、私たちはその苦しみをむしろ喜びをもって受けることができるのです。天のビジョンを持っている人は、キリストの御名のゆえに苦しみを受ければ受けるほど、それを喜ばしく思います。過去のキリシタン殉教を見ても、まだ10歳にも満たない幼い子供たちが、自分の首に刀が振り落とされそうになることを知って、ますます喜び、神に賛美をささげ、その顔は笑顔であったという記録があります。彼らが一様に口にしていた告白は、「パライソ」です。天国のことです。天国に行けることの喜びがありました。

3B ささげるべきいけにえ 15−17
 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。

 ユダヤ人たちは、神殿においていけにえをささげていましたが、クリスチャンたちは、神を賛美することによって、その賛美をいけにえとしてささげることができます。また、善を行なうこと、とくに持ち物を分け与えることも、神に対するささげものです。

 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。

 先ほど説明しましたように、指導者に従わなければいけない、という勧めです。その理由は、彼らが神の前で申し開きしなければいけない存在であり、信者たちの魂の監督をしているから、ということです。クリスチャンたちが苦しんでいるとき、そこには兄弟愛があるだけでなく、秩序があります。指導者がおり、その指導に従っている信徒がいます。自分ひとりで礼拝が守れる、という個人主義的な考え方は、クリスチャンの信仰が試されるときには、何ら通用しない考えです。互いの間にある説明責任の関係が必要となります。

3A 祈り 18−25
 そして、祈ってほしいという勧めです。

1B 再会への祈り 18−21
 私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。

 私たちはとかく、一度祈ればそれでよいと思ってしまいますが、「もっと祈る」ことによって、道が開かれることがあります。祈りを絶やすことをしてはいけません。

 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 私たちはこれまで、大祭司であられるイエス・キリストによって神に近づくことを学びましたが、この13章では、いかに神のみこころを行なうことができるか、良い行ないをすることができるかについて書いてありました。正しい信仰は良い行ないを生み出します。逆に、良い行ないがないところには、それは本当の信仰であると言うことはできません。

2B あいさつ 22−25
 兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。私たちの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼といっしょにあなたがたに会えるでしょう。

 この個所から、私はパウロがヘブル書の著者であると感じています。テモテがいつもいっしょにいた人はパウロだからです。パウロだけでなく、テモテも牢につながれていたことがここから分かります。

 すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。

 パウロと同じように、この手紙も、「恵みがありますように」で締めくくられています。

 迫害や苦難は、この国に生きている私たちには、現実味がわいてこないかもしれません。けれども、実は、私たちが本当にキリストにあって生きようとするならば、とてつもない大きな障壁にぶち当たることでしょう。そして、いつなんどき、再び日本がキリスト者の信仰の自由を抑圧するか分かりません。今からでも、宿営の外に出る準備や訓練をはじめてみようではありませんか!


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