1A イエスを思いなさい 1−6
1B 信仰の使徒 1
2B 忠実な方 2−6
2A 心をかたくなにしてはならない 7−19
1B 荒野での試みの日 7−11
2B 「きょう」と言われている間 12−15
3B 不信仰の心 16−19
本文
ヘブル人への手紙3章を開いてください。ここでのテーマは、「最初の確信」です。
私たちはヘブル人への手紙を学んでいますが、ここでは、イエス・キリストご自身について学んでいます。イエスさまがどのような方であり、またどのような働きをされたかを、はっきりと描かれています。1章2、3節には、「神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれた高い所の大能者の右の座に着かれました。」とあります。私たちはとかく、自分が信じている対象よりも、信じていること自体を大切にしてしまう傾向があります。どれだけ強く信仰をしているか、どれだけ祈っているか、伝道をしているか、など、信じることが大切になってきて、肝心の何を信じているかに関心を寄せないことが、しばしばあるのです。「イエス」という言葉を使っていても、本当に聖書で啓示されているところのイエスさまであるかどうか、怪しいものです。そして、これが当時のユダヤ人たちが、抱えていた問題でした。イエスを約束のメシヤであると彼らは信じましたが、けれども、ユダヤ教の中で生活をし、かつユダヤ教徒たちから迫害を受けていました。そこで、イエスさまに信仰を置くよりも、既存のユダヤ教のほうを大事にする傾向を持っていました。そこでヘブル書の著者は、イエスさまが、ユダヤ教の中で支柱とされているいかなるものよりも、さらにすぐれた方であることを示して、イエス・キリストを信じて、告白することを勧めています。
1章では、イエスさまが神の御子であり、御使いよりもさらにすぐれた御名を相続されたことが書かれていました。2章では、イエスさまが、人としてこの世に来られて、私たちのために死の苦しみを味わったことが書かれていました。人となられたので、私たちを死から救い出し、神の家族の中に導き入れることができます。人となられたので、今私たちが持っている弱さをすべて知っておられ、私たちを助け、とりなすことがおできになります。
1A イエスを思いなさい 1−6
1B 信仰の使徒 1
そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
「天の召しにあずかっている」とありますが、2章にて、私たちが神の子どもとして栄光に導かれることが書かれていました(10節)。そして、ヘブル人への手紙には、ユダヤ教を構成していた地上の幕屋や律法から、読者の目を、天にある聖所や、天のエルサレムへ移しています。12章22節には、「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。(12:22−24)」ですから、ここでヘブル書の著者は、読者たちを「天の召しにあずかっている」と言っています。私たちは、この地上に住んでいますから、地上のことばかりを考えて、天がいかに栄光に富んでいるかを考えないで、キリスト教会の宗教活動を行なっていることが多いです。しかし、私たちは天の召しにあずかっています。
次に、「私たちの告白する信仰」とありますが、信仰というのは、心の中だけで信じているものではなく、口で公に言い表わすものです。「告白」というもともとの意味は、「同意する」ということですが、神が言われていることに同意することが告白です。ヘブル書には、「告白」という言葉が何回が出てきますが、信仰を保つためには、告白、あるいは自分の信仰を明確にさせることは、非常に大切なことです。以前、ある姉妹と話しているときに、不信者の母親と同居していて、仏壇への供え物のご飯を持っていかなければいけないときがあると、言われました。けれども、私は、「どこまでが偶像礼拝で、どこまでがそうでないかを、自分の中ではっきりと線引きをしなければならない。さもなければ、必ず、偶像礼拝を直接的に行なうように押し流されてしまう。」ということを話させていただきました。「心で信じていれば、それでよい。」というのが信仰ではありません。必ず、告白がともないます。
そして、イエスさまのことが、「信仰の使徒」であると呼ばれています。「使徒」のもともとの意味は、「遣わされる者」です。遣わされることによって、一つの使命を果たすときに、その人は「使徒」と呼ばれます。イエスさまは、父なる神から遣わされた方です。そしてその使命は、福音書の中に明確に書かれています。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカ19:10)」と主は言われました。また、こうも言われました。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:44−47)」前章の2章においても、「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(9節)」とあり、主ははっきりとした使命をもって、父なる神から遣わされました。
そして、イエスさまが「大祭司」であるとありますが、2章の終わりに、「あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟と同じようにならなければなりませんでした。(17節)」とありましたが、ヘブル書には、大祭司としてのイエスさまの働きが中心的に書かれています。イエスさまは、昔、使徒として、死なれ、よみがえられ、天に昇られましたが、今は、大祭司として、私たちのために、執り成しをしておられます。
そして3章1節は、「考えなさい」という勧めになっています。ここの言葉は、「よく考える」「沈思する」という意味があります。私たちが告白する信仰の使徒、イエスのことを深く、じっくりと考えなさい。大祭司としてのイエスさまを、よ〜く考えなさい、と勧めているのです。これがとても大事です。私たちは、身の回りのことばかりを考えて、人の目を気にすることにより、信仰から離れてしまうことが起こってしまうからです。けれども、イエスさまがどのような方であり、何を行ない、何を行なってくださっているかをじっくりと考えることにより、私たちは、しっかりと希望の錨を心の中に降ろしていることができるからです。
2B 忠実な方 2−6
モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。
ここから、ユダヤ教の中で、御使いの次に支柱とされている、重要人物が紹介されています。モーセです。私たちは、旧約聖書の学びにおいて、創世記から学び始め、今申命記にいますが、神がモーセを立てて、神の民であるイスラエルを約束の地まで導き入れるようにされた歴史を読んでいます。彼の働きによって、初めて神のことばが書かれたものとなり、その後のイスラエルのすべての土台を据えました。よって、彼は旧約の預言者の中でももっとも偉大な預言者となり、主は、モーセのような、もうひとりの預言者を立てることを約束なさったほどです。(申命記18:18)
そして、モーセの特徴は、神の家であるイスラエル共同体のために「忠実」であったことです。彼が、すぐれて目覚しいことを行なったから、彼が偉大なのではなく、どのような時にも、いつも忠実に、イスラエルの民を世話して、イスラエルに主なる神を示しつづけたことです。ミリヤムが、モーセが異邦人と結婚していることで、咎めたときに、主はミリヤムにこう言われました。「しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。(民数記12:7)」モーセは、真実を尽くして神の家を治めていました。
そして、イエスさまも同じように、父なる神に対して忠実な方であられます。イエスさまは、どのような時にも、御父がお語りになったことを語られ、御父が行なわれることを行ない、ご自分で御父から離れて単独の行動を取られることは、一切ありませんでした。したがって、イエスさまは、「わたしを見たものは、父を見たのです。」ということがおできになったのです。黙示録にて、白い馬に乗られた再臨のイエスさまが、「忠実また真実(19:11)」と呼ばれています。忠実で真実な方がそばにいてくださることは、本当に心強いです。哀歌には、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。(3:22)」とあります。もし主が、たった一日でも、私たちに恵みとあわれみを施されなければ、私たちはたちまちにして滅ぼされてしまうのです。哀歌にはつづけて、「それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。(3:23−24)」とあります。イエスさまが朝ごとに、その真実、あるいは忠実さを示してくださいます。テモテへの手紙には、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。(2テモテ2:13)」と書いてあります。
家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
モーセもイエスさまも忠実であられましたが、しかし、イエスさまはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふわさしいとされました。ヘブル書の初めには、預言者とイエスさまが比べられていました。神は、昔、預言者をとおしてお語りになりましたが、終わりの時は御子によって語られた、とあります。預言者のはたらきは、すぐれたものですが、父なる神ご自身を人のかたちによって現わす御子は、預言者よりも、さらにすぐれたことを語っておられます。そして、1章4節から、御使いと比べられていました。御使いはその主権と支配においてすぐれた存在ですが、イエスさまは神の独り子であり、御使いよりすぐれた方です。そしてここでは、モーセよりもすぐれておられることが書かれています。
家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。
イエスさまとモーセの違いは、イエスさまは創造主であるのに対して、モーセは被造物の一つであることです。イエスさまは、神の家を含めて、すべてのものを造られました。しかし、モーセは、イスラエルの共同体の一部であり、神の家の一部であります。
モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
モーセは「しもべ」と呼ばれていました。また、彼が示されたことによって、幕屋が立てられました。その幕屋は、後に語られる天の聖所をあかしするためでした。幕屋が天の模型であることは、ヘブル書をさらに読み進めると出てきます。
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
モーセは神のしもべでしたが、キリストは神の独り子です。独り子として、神の家の上におられ、上から治めておられます。
そして、確信と、希望による誇りを持ち続けることが書かれています。この「確信」という言葉は、ヘブル書のほかの個所で、「大胆」とも訳されています。もともとの意味は、無罪であることを確信している被告人が、自分の無罪を罪意識をまったく持たずに弁明する、というものです。恥じ入ることなく、はっきりと確信をもって話すことであり、私たちが、キリストについて、はっきりとした希望を持つ必要があります。これを終わりまでしっかりと持ち続けなさい、とヘブル書の著者は勧めているのです。
2A 心をかたくなにしてはならない 7−19
けれども、ユダヤ人の人たちは、救いについての神のみことばを聞いていたのにも関わらず、既存のユダヤ教の中に戻ろうとした、という問題がありました。そこで、ヘブル書の著者は、2章前半に引き続き再び、彼らが不信仰に陥らないように警告と戒めを与えています。
1B 荒野での試みの日 7−11
ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
著者は今、彼らの先祖たちが、どのような道を歩んだかを思い出させています。イスラエルの民が神の不思議と力あるわざによって、エジプトから出ることができました。荒野の旅をしましたが、そこで彼らは数多くの、神のしるしを見ました。にも関わらず、イスラエルの民は神を試して、神を信じませんでした。そのために、彼らは荒野で40年間さまよわなければいけないという結果を招きました。カデシュ・バルネアのことを思い出してください。シナイ山から約束の地までたった11日の道のりであるはずだったのに、40年間もさまよいつづけ、ヨシュアとカレブを除く20歳以上のすべての者が荒野で死ななければいけませんでした。つまり、一世代が、神のしるしを見ながら、滅んでしまった歴史をイスラエルの民は持っています。
そして、ヘブル書が書かれたときに生きていたユダヤ人たちも、同じように危機的な状況の中にいました。彼らは、キリストが地上に来られて、死者の中からよみがえられた、という世代いたのです。彼らも同じように、神のみわざを自分たちの目で見ていたのです。けれども、多くのユダヤ人がこのことを受け入れませんでした。そこで主は、何度か、ユダヤ人のその世代を「悪い時代」と呼ばれました(マタイ16:4)。また使徒ペテロも、悔い改めるユダヤ人たちに、「この曲がった時代から救われなさい。(使徒2:40)」と勧めています。そして、その時代は、紀元70年にて、ローマがエルサレムを破壊して、ユダヤ人が大量に虐殺されて、捕え移され、世界中に散っていくことになりました。したがって、出エジプトの時のイスラエルと、似たような状況の中に、当時のユダヤ人はいたのです。
2B 「きょう」と言われている間 12−15
兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
イスラエルの民が、その当時、持っていた問題は、「不信仰」でした。神は、ご自分のことばを語るモーセに、数々のしるしをともなわせました。そうすることによって、イスラエルの民が、モーセが語る言葉が神からのものであり、神がモーセとともにおられることを知ることができるためでした。これは、当時のユダヤ人たちも同じです。2章3、4節に、救いについてのことばは、初め主によって語られて、次に使徒たちによって語られ、それから、神がしるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、あかしされた、とあります。また聖霊がそれぞれに分け与えられることにより、個人的にも、救いのことばがあかしされました。ですから状況は同じでした。けれども、昔、イスラエルの民は、目に見えないその神を、目に見えないからという理由で、「のどが渇いた。私たちは死にそうだ。」と言って、主がそこにおられるかどうかを試しました。
私たちがここで知らなければいけないのは、生ける神と出会うためには、必ず「信仰」が必要である、ということです。目で見ていなくとも、その言葉を信じて受け入れることがなければ、どのようなしるしを見たとしても、決して受け入れません。当時のパリサイ人、律法学者がそうでした。また、黙示録においては、神の怒りが地上にくだり、明らかに神がおられるのがあかしされているのに、人々は悔い改めることなく、むしろ神をののしっている姿が描かれています(9:20−21など)。私たちは、神のことばを信仰をもって聞くことによって、そこで生ける神との交わりをすることができます。ですから、ここで、悪い不信仰の心になると、生ける神から離れてしまうという警告がなされているのです。
「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
「きょう」という言葉が、ここでは大切です。ローマ人への手紙10章17節には、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と書いてあります。神のみことばを行なう、というよりも、信頼をもって聞くことが大切です。そのことばは「声」であり、私たちはそのときを逃せば、またいつか聞くことができることはないからです。いつか、ためて神の御声を聞くことはできません。ためれば、それはもはや、生ける神の声ではなくなります。
そこで、著者は、「日々互いに励まし合いなさい」と勧めています。私たちは頭では理解していても、実際に物事を、主が望んでおられるように行なうことはなかなかできないものです。自分では信じているつもりでも、実は心がいつのまにか離れていて、実際には不信仰になっていることが、しばしばあります。「私は個人的にイエスさまを礼拝しているから、教会に行かなくても、他のクリスチャンと交わらなくても大丈夫。」ということを考えていたら、そこでその人は惑わされていることになります。私たちは、毎週、いや日々互いに励ましあうことによって、主の御声を聞いていく務めがあるのです。キリストにこそ希望がある。キリストにあって、救いがある。イエスさまは神の御子であり、私たちを神の家族の中に導き入れられた。クリスチャンの何気ない一言や、信仰のことばが、私たちを励まし、その励ましによって希望を保っていることができます。
そして「罪の惑わし」とありますが、今説明しましたように、罪は、自分は大丈夫だと思わせてしまう魔力があります。本当は不信仰になっているのに、自分は信仰を持っている、いや教会に通っている人々よりも、実はもっと霊的なのだ、と過信することさえあります。ああ、なんと人は自分を惑わす存在なのでしょうか!罪によって、人は自分のありのままの姿に対して盲目になり、御霊に属する事柄について、無感覚になってしまうのです。
もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
ユダヤ人の信者たちが、行なわなければいけないことは、実に単純でした。それは、初めに救いのことばを聞いて、それを信じたときに与えられた確信を、そのまましっかり保っていくことです。そうすれば、死ぬときに、あるいは、キリストが再び戻って来られるときに、自分がキリストにあずかる者となります。これはユダヤ人だけではなく、クリスチャン全般に通じる原則です。いろいろな問題があり、自分はどうすればよいのか、と思います。そして、「あれをしなければいけない」「これをしなければいけない」とあせったり、またそのような教えが教会の中に入ってきます。しかし、私たちがしなければいけないことは、多くはありません。いや一つであると、主はかつて言われました。ただ最初の確信をしっかり保っていることです。私たちは、これから何かを行なわなければいけないのではなく、すでに持っているものを保持することに重点を置かなければいけません。
「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
「心をかたくなにしてはならない」とありますが、この「かたくな」という言葉は、文字通りかたくなってしまうことです。例えば、自分の指にペンだこができている人が多いかと思います。ペンをずっと持っていたので、その指先の部分がかたくなって、そこをペンで突き刺しても痛くないほど硬くなっている人がいると思います。これが、心の中で起こっているのが、「心をかたくなにする」ということです。きょうにしか与えられない、神の御声をその人が、不信仰によって聞き入れないとします。そうすると、その人はそのままの状態でいることはできず、心がかたくなにされていきます。これを繰り返していると、心はほんとうにかたくなになり、無感覚になり、自分に起こっていることに対して、何も感じることができなくなってしまいます。信じることができなくなる、という状態に陥ってしまいます。だから、不信仰の心のなることがないように気をつけて、また日々励ましあっていく必要があるのです。
3B 不信仰の心 16−19
聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
「わたしの安息にはいらせない」というのは、約束の地にはいることを意味していました。彼らは神によって、アブラハムが住んでいた土地を所有するように約束されており、その土地に入れば、安住することができます。自分の働きを終えて、主が祝福される祝福の中で、食べることができました。汗を流しながら土地を耕す必要はなかったのです。けれども、そこに入ることはできませんでした。それは不信仰のためであり、神が語っておられたのに、それを信仰をもって聞かなかったためです。そのために荒野で滅ぼされましたが、キリストが来られた今は、荒野ではなく、永遠の地獄の中で投げ込まれるという滅びに至ります。4章では、この「安息」について、さらに深い洞察を著者が与えています。
ですから、私たちに必要なのは、主イエス・キリストを深く思うことです。この方がどのような方であるか、またどのような働きをされたのかを、沈思することです。「なんだ、そんなこと分かっている。」と思い始めたときに、私たちはすでに、押し流され始めています。まず主を思うことです。そして、「きょう」という日に励ましあうことです。私たちは独りでは、決して立つことができません。しかし、互いに励ましあうことによって、神の御声を聞き、そこで最初の確信を保っていることができます。
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